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第六章 永遠の友 -1

第六章 永遠の友





親愛なるティベリウス

 生きたくとも生きられなかったマルケルスたちを思うと、ぼくは我があの三年間の少なくない部分を反省するしかない。君と共にいられる一日一日に感謝しなければならない。

 そしてその一日を大切に、自分にできるだけのことをしなければならない。

 ティベリウス。

 ぼくにそれができたんだろうか?





 1



 年が明け、ティベリウスは首都に戻った(前二十二年)。財務官としての任務は完了だ。手持無沙汰になったことに気づいたティベリウスは、すぐにでも次の任務がほしいという気持ちだった。

「まぁ、少し休め」

 継父は苦笑しながらティベリウスをなだめた。

 ネロ家に戻ってから、ティベリウスは自分にため息をついた。財務官格で特別任務を与えられはしたが、自分は選挙を経たわけではない。国家公務は本年の担当者らに継がれなければならない。第一人者である継父の仕事ならば手伝えることがあるかもしれないとも考えたが、だからと言って「なにか仕事をください」と押しかけるのは子どもじみている。ティベリウスにできると思うことがあれば継父は声をかけてくれるであろうし、仕事がないならば自分で見つけ出すべきだ。

 結局は、自分が仕事に没頭していたいだけだということに気づいた。悲しみに直面せずにいられる術だ。もしかしたら少なからぬ人間がそのようにして過ごすのかもしれない。どれほどの時間を経るのかはわからないが。

 ティベリウスはネロ家の家父長としての日常をくり返した。去年はほとんど家にいることがなかったので、やることも覚えることも残っていた。朝は伺候に訪れるクリエンテスらとの面会。もう家庭教師は置いていないが、午前の自主研究。ドルーススの勉学も見てやるが、彼は去年などかなり真面目に学んだらしく、もうそろそろ高等教育の段階に入ることができそうだ。午後はドルーススを伴って肉体鍛錬に出かける。そして夕方には、浴場で汗を流してから夕食となる。だれかの家の来客になることもあれば、ネロ家で宴を主宰することもある。とはいえ結局は、継父の家に赴いて食事をする日が半分余りだった気がする。

 二月には、ティベリウスは喪服を脱いでいた。思えば、ティベリウス自身もネロ家のほかの面々も、マルケルスとは血のつながりが一滴もなかった。親族でもないのだ。ドルーススとアントニアの婚約が成立していれば、そうはならなかったが。

 どれほど身近な存在であろうと、公的には家族でも親族でもない。血縁者と同等に喪に服しているわけにもいかない。

 しかしティベリウスは、直面できないほどの痛みでもって思い知るしかない。家族とは公的、法的なものではなく、もっと主観的なものだ、と。

 腹の中の途方もない重みは、今や空洞に似た感覚になっていた。毎日だれかがいない。だれか大切な人がいないのだが、明日には会えるんだろうか。久しぶりになるな……。そんな現実逃避ともつかない意思が、日々ふとよぎる。

 パラティーノの丘は悲しみに沈んでいた。オクタヴィアは家にこもり、公の場には決して姿を見せなかった。その姉に代わるように、日々絶えない弔問客に感謝しながら、アウグストゥスはどこかうつろな顔をしていた。

 一方外では、疫病が昨年を超えるほどの猛威を振るっていた。幼い子どもばかりか若者までが倒れるのを見、もうマルケルスがだれかに毒を盛られたのだと無責任なことを口にする人間がいなくなったほどだ。

 アポロン神殿では、コルネリア・ガッラが人々の世話に忙しくしていた。家がない人や、あったとしても寒さをしのぐ術がない人たちに暖を提供した。これだけならばほかの神殿や公共施設でも行われる救済策だが、疫病患者が現れると、彼女はエジプトから取り寄せたという粉末を与え、たっぷりのお湯とともに飲ませるのだった。効かない人が四割、効いたか、もしくはとにかく死なずに済んだ人が六割だと彼女は言っていた。

「お前たちの子どもは大丈夫なのか?」

 コルネリアの仕事ぶりを見つめながら、ティベリウスはルキリウスに尋ねた。彼は首をすくめた。

「今のところね。元気によちよち歩きまわって、大暴れしている。たぶんコルネリアが相当気をつけてくれているんじゃないかな」

 というのもコルネリアは、女神官の嵩のある帽子ばかりでなく、目より下を布で隠していた。そのためほとんど容貌が窺えず、女であるかさえもわからないほどだった。しかしそのおかげで体内に病が入るのを防いでいるかもしれない。体を清めることにも念入りだという。

 カエサル家とネロ家の奴隷たちが、薪を大量に差し入れたところだった。小麦粥も配ってまわった。

 そのような日々がしばらく続き、やがて春の気配が首都に漂いはじめた。太陽からあたたかい光が降り注ぐにつれ、疫病もまた収束に向かっていった。人々は各神殿に感謝の祈りを捧げに出た。

 その矢先だった。天が急に思い直したとばかりに、今度は大嵐が首都を直撃した。三日三晩続いた荒天で、ローマ七丘の麓はすべて水に浸かった。中央広場を船を漕いで進まねばならなかったほどだ。落雷も激しく、市内各所を損傷した。パンテオンにあるアウグストゥス像がその直撃を受け、槍を落としたという。

 ティベリウスはもはや自分の仕事を見つけるのに困らなかった。友人たちと一緒に、中央広場やスッブラ地区の泥の掻き出しに出かけた。しばらくその泥や廃棄物の置き場と化したので、競技場を元どおり使うようになるまでには二ヶ月近くを要した。アグリッパの技術者隊が、なによりもまず下水道の修復に奔走した。

 そんなさなかに四月に入った。疫病、洪水ときて、次は飢饉の恐怖が首都を襲った。今回は小麦ばかりではなかった。先だっての大嵐は、ローマ本土の広範囲を襲い、あらゆる畑に被害を与えたという。シチリアさえ無事ではなく、小麦畑はどこも壊滅状態。本土への輸送船もことごとく海に沈んだ。そんな真偽不明の噂が飛び交った。

 市民らの不安も当然ではあった。市場が冠水し、食糧庫にも被害が出たのは事実だ。

 しかしシチリアまでどうなったか、正確な情報が入るにはまだ早すぎる時宜だった。たとえ壊滅状態だとしても、今ならばまだ打つ手があるのではないか。いずれ小麦ならば、収穫は六月から八月だ。それに肉もある。魚も獲れる。数ヶ月で成る野菜もあるし、食用になる野草も、水が引いた後の大地で力強く伸びている。

 とはいえ実際に、小麦は足りなくなりつつあった。無料配給が滞っていると、市民らが暴動を起こす寸前にいた。

 ティベリウスは継父に話をしてみた。また、私になにかできることはありませんか、と。今度は継父も、ティベリウスがなにをやりたがっているか、具体的にわかっていたに違いない。しかしまた苦笑を返すのだった。考え込んでもいるようだった。

「お前はもう財務官ではないのだから、今は担当の者に任せておきなさい。優秀な執政官二人が指揮を執る。造営官も財務官もいる」

 継父もまた、今年は執政官ではなかった。護民官特権を有する元老院と市民の第一人者、というだけだ。少なくとも首都にいるあいだの外見には。継父はもうしばらく事態を見守るつもりのようだ。

「お前にとって、穀物供給の手配はすでに我が事なのだろうな」継父が指摘した。

「……出過ぎた態度でした」

「いや、そんなことはない。お前の責任感を、私はうれしく思っているよ」

 ところが、それからわずか数日後、騒動が起こった。その日は執政官の招集で元老院会議が開かれるところだったが、一部市民らが議場を封鎖してしまった。放火するとまで脅した。

 彼らの要求はこうだった。

「災難続きであるのは、アウグストゥスが執政官にいないという不名誉を、国家が許しているからである。元老院はただちに投票を行え! アウグストゥスを『独裁官』に任命せよ!」

 中央広場に集った市民らが、そろって賛同の声を上げた。民会と同じでかまわないと思ったのか、議員らをサエプタ・ユリアまで引きずっていこうとした。

「そうだ! ローマを救えるのはアウグストゥスだけだ!」

 首都長官のタウルスが、警察隊を送って、暴徒らを議場から追い出した。ところが市民らはなお勢い止まず、今度はパラティーノの丘のカエサル家へ押しかけた。

「我らが第一人者アウグストゥスよ! 独裁官にお成りください! 小麦の供給を指揮してください!」

 アウグストゥスは議場に出かける寸前で、騒動を知らされたらしい。元老院議員のトーガを纏ったまま、家の応接間に座っていた。

 アウグストゥスは独裁官就任は辞退した。そのうえで穀物担当官に元老院議員二名を推薦した。彼らは前法務官格であるので、財務官だったティベリウスより権限は増す。そのうえで宴や見世物での贅沢を制限するとの布告を出し、自らがだれより忠実にそれに従った。

 市民らはそれでも安心できなかったのだろう。さらに監察官への就任をアウグストゥスに要請した。元老院議員の選抜も行える監察官の地位は、その点で執政官より上であるとされる。しかしアウグストゥスはこれも辞退した。

 それでも第一人者が要望に直接耳を傾けてくれたがために、市民はいく分静まった。しかしそれも少しのあいだで、やがてイタリアじゅうの農地が疫病と悪天候で耕せないでいるとの話が広がるに及び、首都は恐慌状態に陥った。そして執政官にせよ穀物担当官にせよ、市民を静められるだけの小麦を調達できなかった。

 ティベリウスは事態を苦い顔で見守るしかなかった。悪天候があったとはいえ、今年の収穫とは去年の作付けの結果だ。輸送過程の改善も不十分だったのだ。前担当官として責任を感じた。

「いや、君は半年しか担当してないから」ルキリウスが思い出させた。「昨夏の収穫を無事終えた時点で、君は役目を果たしたの。あとは後任と執政官に任せること。ほら、お食べよ。魚と、あと豆でよければたっぷり入ってるから」

 四月末、いよいよ大暴動かという瀬戸際で、オスティア港に輸送船が複数現れた。沈没しなかったのが不思議なほど大量の小麦が積まれていた。

 アウグストゥスが自領エジプトで手配した食糧であるとのことだった。





「むはーっ! やっぱり焼き立てのパンってのは最高だね!」

 五月初旬の朝、ルキリウスがネロ家で久しぶりに朝食を漁っていた。別にかまわないのだが、せっかくなら奥方にも食べさせたらいいではないかと、ティベリウスは言った。それでルキリウスは籠にパンを山と積んで、自身もむしゃむしゃと食べ続けたままアポロン神殿へ出かけていった。とはいえ騎士階級の家である。小麦にさえこだわらなければ、食に困っていたわけではない。

 それにパンとは生地をこねて、寝かせて、窯で焼かねば出来上がらないので、手間がかかる。粥やシチューにするほうがすぐに腹に収められる。

「むぐ……それにしても、かなり速かったね」

 去り際、ルキリウスはそうつぶやいていた。ティベリウスも意味はわかっていた。

 継父がどの時点で輸送船を手配したのかはわからない。しかし遅くとも先月の初旬であるはずだ。大量に積み込んだうえで、地中海を順風に恵まれ続けて来た。それが可能だったとしても、極めて速い。

 いずれにせよ、市民らの不満はまさに瞬く間に収まった。暴動沙汰はアウグストゥスを讃える声に取って代わった。小麦が満ち足りた喜びのあまり、だれもが気に留めた様子もなかったが、この件は元老院と執政官の無力を示すところとなった。

 マルケルスの誕生日、ティベリウスは再び喪服を纏い、花を携えてアウグストゥス霊廟に出向いた。午前のうちに継父とオクタヴィアの一行が墓参していて、ティベリウスは昼を待った。葬式とか成人式とか、自分の家でなにかがあれば、いつもマルケルスが真っ先に駆けつけてくれたことを思い出していた。

 亡くなってから半年が過ぎた。ティベリウスは未だになにかの間違いであると考えたかったが、マルケルスの無念を思えば、そのように考えては礼を失すると思った。受け止めなければならない。彼の死以上に、彼の思いを。もう直接聞くことができなくなったとしても。

 ティベリウスはドルースス、それにルキリウスとコルネリアを伴っていた。市民らも次々墓参りに訪れた。祭壇にはユバ王の奉納になるきらびやかな燭台に灯がともされていた。訃報を聞いたユバは、昨年暮れ、王妃セレネとともにローマを訪れ、ひとしきり涙にむせていたという。ティベリウスは任務中ゆえ行き違いになったが。

 ティベリウスとドルーススが並んで祭壇に近づくと、女人二人がちょうど故人との語らいを終えたところだった。マルケッラ、それにヴィプサーニア。まだアグリッパは帰ってきていない。二人はクイリナーレの邸宅でひっそり暮らしている。

 ティベリウスはマルケッラの額に接吻をし、その心のなぐさめを願った。生まれたときから当たり前に一緒にいた、最愛の兄を失くしたのだ。悲しみは底知れず、マルケッラは絶え間なく目元をぬぐっていた。

 ところが、その傍らのヴィプサーニアを見た時、ティベリウスはほとんど退くほどに驚いた。ヴィプサーニアの目は、瞳がわからないほどに充血していた。まぶたは腫れ、鼻も腫れて皮が剥け、痛ましいなどという形容ではとても足りない顔をしていた。

「どうしたんだ、ヴィプサーニア?」

 墓前ではあるが、ティベリウスは思わず尋ねていた。

「大丈夫です。わたしはなんともありません」

 普段と変わらない元気な声を努めているらしかったが、どう見ても異様だった。マルケルスの早逝を悼むのは自然であるとしても、ヴィプサーニアは彼の身内ではなく、あまり話したこともなかったはずだ。義母マルケッラを思いやっているにしても、その彼女の程度を超えるほどに泣き腫らすとは、理解し難かった。なにか余程のことがあったのか? もしやだれかにいじめられたのか──?

 しかし顔つきにはひどく強情の色もあった。それ以上尋ねることもできず、ティベリウスはマルケッラの手を引きながらまるで敢然と去る婚約者を、ぽかんと眺めていることしかできなかった。

 ドルーススもルキリウスも、ヴィプサーニアの異常には気づいたらしい。コルネリアはルキリウスに尋ねていた。

「あの子はだれ?」

「ティベリウスの婚約者だよ。アグリッパ殿の長女」

 それで後日、マルケッラがパラティーノの実家を訪ねた時宜に、コルネリアはヴィプサーニアをアポロン神殿に誘い出した。事情を聞き出してくれたらしい。その日のうちに、ティベリウスはアポロン神殿に呼び出された。もちろんルキリウスも一緒だ。

 コルネリアは階上で待ち構えていた。目下の覆いを外し、腕組みをして立っている。

「……まずい。なんだか知らないけど、ものすごく怒ってる」

 ルキリウスはそうささやいて、ティベリウスの後ろに隠れた。これが夫の行動だろうか。

「あの子は気の毒よ」

 開口一番、コルネリアはそう告げてティベリウスに迫った。

「あなた、なんとかしてあげられないの?」

「なにがあった?」

 ティベリウスも心穏やかではなかった。だれかがヴィプサーニアを傷つけているのだとしたら。

 コルネリアはいったんため息をついた。

「身近な人には話せなかったわけよ。でもあなた、本当になにも気づいてなかったの?」

 彼女が十一歳の少女から聞き出した話はこうだった。マルケルスが亡くなり、だれもが悲しみに沈んでいる。一方で、市民たちは残された寡婦ユリアの行く末について憶測し合っている。第一人者の一人娘は、まだ十六歳だ。夫の子を宿すことなく死に分かれてしまった。だがアウグストゥスは必ず娘に次の配偶者をめあわせるはずだ。そして自身の孫を抱くことを願うはずだ。実の息子を授からず、甥にも先立たれてしまった。しかしアウグストゥスには、まだ決して小さくはない希望が残っている。

 問題はその夫がだれになるかだ。その夫こそ、第一人者の孫の父親であり、事実上アウグストゥスの後を継ぐ男ではないのか。少なくとも孫が成長するまでの後見人として欠かせない存在だろう。昨年の病もある。第一人者とていつまで健勝でいられるかわからない。

 そうなると次の夫候補、その筆頭はだれだ? 甥の傍らに常にいた継息子。マルケルス亡き今、彼ではいけない理由があるか。まずもってリヴィアが夫に願わないはずがあろうか。

 ティベリウスとユリアの結婚。それはリヴィアにとって最上であり、アウグストゥスにとっても決して悪くはない結論であるはずだ。

 そうささやく市民の声が、無情にもヴィプサーニアの耳に届いた。

 彼女が嘆いたのは、ティベリウスと結婚できなくなるという見通しではない。否、それもあったが、彼女を苦しめているのは、だれもがマルケルスの死に耐えている中で、そのような気持ちを抱いてしまった、汚い我が心だという。

「わたしは自分のことばかりです、神官様。わたしはマルケルス様を悼むより、ティベリ様のことを……いえ、ティベリ様をお慕いするわたしの心だけを考えているのです。一人だけ別のことで悲しんでいるのです。だから、わたしは最低です。わたしにマルケッラ母様をおなぐさめする資格はありません。アントニアに合わせるお顔もないし、ユリア様を、気遣うどころか……これは……この気持ちは……。旦那様を亡くされたばかりの人に対して、なんと卑劣なことでしょう。どうかわたしを罰してください。アポロン様にお願いしてください──」

 コルネリアの腕の中で、ヴィプサーニアは長いあいだ泣きじゃくっていたという。ティベリウスは茫然となった。

 正直、あれから今まで、その考えが一度も頭をよぎらなかったといえば嘘になる。ユリアの次の夫──その筆頭とまではいかずとも、候補には入る。そうまったく思い至らなかったわけではない。

 しかしヴィプサーニアがそこまで思いつめていたとは知らなかった。

 そうなれば、私はどうなる?

 ティベリウスは今すぐヴィプサーニアを追かけたかった。しかしどんな言葉をかけてあげられよう。

 ヴィプサーニア、君がそのことで自分をそこまで責めていたならば、私はどうなるというのか。今の今まで事態から目を逸らし続けていたこの私は。

 ここでティベリウスが思い知ったのもまた、ヴィプサーニアの痛み以上に自分の本心だった。

 ヴィプサーニアこそ伴侶だ。彼女以外、考えたこともなかった。もう十年以上婚約関係にありながら、ようやく実感した。

 これは愛なのだろうか。

「なんとかならないの?」

 コルネリアは苛々と詰め寄ってきた。

「あたしにはあの子の気持ちがよくわかる。大好きな人と結ばれないなら、いっそ死んだほうがましと思って生きてきたわ。ティベリウス・ネロ、あなたはあたしに最愛の伴侶を与えてくれた人。分け与えてくれたと言ったほうが適切かもしれないけど。そのあなたと婚約者が引き裂かれそうなのを、あたしたちは黙って見ているしかないの?」

 その言葉を聞きながら、ルキリウスは赤面しきりで複雑な表情をしていた。

「コルネリア……」最愛の妻に、彼はなんとか言った。「まだユリアの次の夫がティベリウスになると決まったわけじゃない。そもそもカエサルは、その件でまだだれにもなにも言っていない。そうでしょ、ティベリウス?」

 ティベリウスもまたなんとかうなずいた。そのとおりであったからだ。継父がユリアの夫候補に悩んでいる様子はなくはなかった。けれどもそのことをだれかに相談したという噂もなければ、リヴィアとそれを話題にしている姿も見たことがなかった。

 アグリッパが不在の今、継父がもしもこの件で相談を持ちかけているとしたら、おそらくマエケナスだろう。

 ローマでは家父長が没した場合、忌明けは十ヶ月後となる。アウグストゥスはそれを待って、ユリアの次の身の振り方を公にするのかもしれない。

 いずれ現状、継父がなにも話さない以上、ティベリウスからヴィプサーニアに言えることはなにもなかった。しかしあと四ヶ月も彼女が自責の念で苦しむとしたら、あまりに気の毒だ。

 結局コルネリアに頼むしかなかった。引き続きヴィプサーニアに会い、話を聞いて、罪悪感をできるだけ取り除いてあげてほしいと。

 コルネリアはむっつりとうなずいた。

「やってみるわ。あなたへの恩返しのつもりで。でも、いいわね? これからなにがあっても、あなたはあの子と結婚するのよ!」

「……気の強い妻ですまない」

 帰り道、ルキリウスはこっそりとティベリウスに詫びた。

「そんな簡単な話じゃないってことは、わかってると思うんだけど」

「いや」ティベリウスは言った。「彼女の言うとおりだ」






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