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第五章 -14



 14



 その後、ティベリウスはユルスを結局ネロ家へ連れていくことにした。先の奴隷に松明と水瓶を持たせ、ぐったりとしたユルスに肩を貸して歩いた。

 ところが、カエサル家の前を通りかかると、門の前に母とドルーススがいた。

「どこへ行ったのかと思いましたよ。プロレウスはあなたがまだ帰っていないと言うものだから」

 小さくため息をついた母が、どういうわけか、まるで今にも崩れ落ちそうに、ティベリウスには見えた。

 ドルーススもまたほっとしたような顔をしていた。いずれ二人とも、垂れてぴくりとも動かないユルスを見て、事情は察したのだろう。

「今夜はこちらに泊りなさい」母がカエサル家を示して言った。

「ですが──」

「頼みます」

 めったにない、母から息子への率直な懇願だった。

 ティベリウスが断ろうとしたのは、継父の顔、ないし胸中を想像したからだろうか。

 なんでお前が生きていて、マルケルスが死んだのか。

 そんなことはわからない。少なくともティベリウスは、バイアエからずっと継父の顔をまともに見ることができていない。

 怖いのだ。

 ティベリウスはそんな自分を恥じた。ユルスほど直面する勇気もない。マルケルスを悼むそばで、我が心を守ろうとしている。

 ティベリウスは結局母の願いに従った。ユルスを客室に寝かせ、自分はドルーススと、かつて暮らしていた部屋で休むことにした。

 上手く寝つけなかった。ユルスの言うとおり、もっと酒でも飲めばよかったと思った。今からでもそうしようか。そんなことを考えながら、それでもいくらかはまどろんだのだろう。なぜなら辛抱し難く部屋の外へ出た時、空は明らみ始めていた。

 部屋番の奴隷以外、人気はなかった。すでに十一月である。風はないが、肌に纏わりつくような冷たい空気が立ち込めている。柱廊に出てみれば、うっすらとした霧の中で、庭がしおれている。

 マルケルスのいない世界。もう半月になる。

 本当にもうどこにもいないのだろうか。これからオクタヴィアの家に出向けば、彼が驚きながら出迎えてくれる。あるいは、もう少しここで待っていれば、いつものようににこにこと現れる。叔父に挨拶をするために。ティベリウスと勉学をするために。

 そんな想像にずっと浸っていたかった。昨日までのことはなにもかも嘘で、変わらない日常が今日も始まるのだ、と。

 結局ティベリウスも、現実から逃げていたくてたまらなかった。

 しかしカエサル家の祭壇からは、特別に強い香りが漂ってくる。いつもより多くの大きな蝋燭が、靄の向こうで揺れている。

 マルケルスを弔うために。

 ところが、そのすぐ傍らに、よく目を凝らせば黒い人影らしきものが見えた。一人ではない。四人いる。小さな明かりの粒も霞んでいる。

 いったいなんだろう。

 ティベリウスは静かに祭壇へ向かって歩いていった。すると耳が、かすかな話し声を捉えた。

 近づいてもほとんど聞き取れなかった。だがその一部は、継父の声だとわかった。ほかの声は、ラテン語でもギリシア語でもないようだ。

 ティベリウスは祭壇の右手に立った。向こう側で、継父が三人の男といた。継父は火鉢の前に座っている。一人は案内の奴隷で、今は継父を守るように控えている。さらに一人が継父の前にひざまずき、外国語でなにかを話している。なかなかに立派な、異国風の身なりだ。東方諸国の衣装ではないだろうか。

 ティベリウスの推測は、最後の男がだれだかわかったとき、確信に変わった。継父と異国人のあいだに立ち、通訳をしているように見える。だがただ今ひざまずいている異国人は、彼のためにここへ来たのではないか。

 アルメニアの王子ティグラネス。三十代で、もう七年のあいだこのカエサル家で暮らしている。

 するとあの異国人もアルメニア人なのだろう。おそらくは使者だ。

「このような時に申し訳ありません、カエサル」

 ティグラネスが一度ならずそう詫びるのが聞こえた。だが彼自身は興奮していなくもないように見えた。

 かの国の人々は、いよいよティグラネスを王位に就けたくなったのだろうか。現王はアルタクセスであるが、パルティア王の支援で王座を手に入れた男だ。ローマとしては決して好ましくはない状況だが、迂闊に介入できないまま年月が過ぎていた。今日までは。

 おそらくは東方におけるアグリッパの動きが、この使者をローマへ届けたに違いない。

 そして継父は、このような時であっても、第一人者としての責務を忘れていなかった。

 きっと死ぬまで忘れられないのだろう。

 その覚悟も、当の昔に固めていた。

 終始穏やかに、継父は使者の話に耳を傾け、また言葉をかけてもいた。

 会見が終わると、奴隷に案内され、二人の異国人はその場をあとにした。ティグラネスはうれしそうに使者の肩を叩いていた。「よく来てくれた、本当に」母語でそう労っていたのだろう。

 アウグストゥスは長く息を吐いたように見えた。それからぶるりと身を震わせた。急ぎトーガをかき寄せて、火鉢にすがらんとした。

「カエサル、おはようございます」

 声をかけるや否や、ティベリウスは継父のそばへ寄った。ぽかんと見上げてきた継父へ、「失礼」と断ってから、自身のマントをかけた。

「おはよう、ティベリウス」

 やつれて見えたが、継父は微笑んだ。ティベリウスのマントをいそいそとかき抱いた。

「いつからいた? ティグラネスを見たか?」

「はい」

「あれはアルメニアの使者だ」アウグストゥスはうなずいて教えた。「とはいえティグラネスを王にと願う国民は、まだ少数派だろうな。だが我々が動くべき時が近づいている。そのことを考えている」

「はい」

「……お前は眠れたか、ティベリウス?」継父は火鉢へ、寂しげに目を落とすのだった。「あったかいな、お前は、いつも……」

「カエサル」纏わりつく冷気を吹き飛ばすように、ティベリウスは声に力を込めた。「私は今日より任務に戻ります」

「ああ、頼んだぞ」





 パラティーノの丘を下り、アッピア街道へ歩いていく。カエリウス丘から朝日が顔を出し、世界をまばゆく照らし出す。

 美しい世界だった。胸が苦しいほどに。

 呼ぶ声が聞こえた気がした。けれどもティベリウスは振り返らない。振り返らなければ、きっと彼がそこにいる。あの太陽のような笑顔で見送ってくれている。そして帰りを待っていてくれる。

 ──ティベリウス、元気でね。帰ってきてね。

 ああ、わかっているよ、マルケルス。

 こみ上げるものを懸命にこらえながら、ティベリウスはずんずんと歩む。チルコ・マッシモを通り過ぎ、アッピア街道に乗る。すると街道脇の墓石の一つに、尻を乗せて退屈そうにしている男がいる。馬二頭に適当に野草をはませている。

「待ちくたびれたんだけど」

 ルキリウスが言った。

 輝く朝日の下、二騎がアッピア街道を飛ぶように駆けていく。それからかなり遅れて、もう二騎がどたどたと大慌ての体で追いかけていく。黄色と紫の帯が翻る。

 残す地域は、イタリアの最南部だ。メッシーナ海峡を臨むところまで行かねばならない。

 真冬が訪れる前に。この年が終わる前に。

 イタリア半島の平穏を仕上げる。その時はもうすぐそこだ。





《日付は十一月九日》


親愛なる我が婿、ティベリウス・ネロ

 昨日、マルクス・マルケルス殿の悲しい知らせを聞いた。君の胸中の悲痛はいかばかりか。

 ティベリウス、君には家族も友人もいる。しかしこの私もまた、君がどういう男であるか、いく分かは承知しているつもりだと言わせていただく。

 これまでも辛い思いに耐える君を見たことがあった。そのたびに私はなにもできない自分を恨めしく思ったが、君という男は常に黙して耐え抜いた。

 黙するしかなかった。たとえそうだったとしても。

 私の可愛い坊ちゃん、君は昔からそうだった。堅忍不抜の青い炎。その比類なく気高い精神でもって、おのれがおのれであることを忘れなかった。

 クラウディウス一門の血と誇り。しかしそれだけではない。君を君にしているもの。君の揺らがぬ強さの根源。それを私は知っている。どうしてだか、言うまでもないよな。

 だからティベリウス、私に言わせてくれ。言われるまでもないと、君が思うのを承知の上で。

 ティベリウス・ネロ、君は負けてはならない。運命の非情に屈してはならない。

 またもそばにいられずに申し訳ない。だが知ってほしい。ほかのことはなにも心配いらない。私に任せてくれ。

 カエサルを頼む。彼には君が必要である。

 君は倒れてはならない。









(第六章へ続く)

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