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第五章 -13



 13



 遺骨は、女家族に拾われるのがローマの慣例だ。母と妹たちにはあまりにも無情な現実が続いた。それもようやく終わったが、彼らのマルケルスはもう二度と帰ってこない。

 一人で旅立たせるのが、あまりに忍びなかったのだろう。三年前に築かれたアウグストゥスの霊廟──あの広い内部にただ一人眠らせておくのも不憫でならなかったのだろう。オクタヴィアは我が息子の墓碑に、自らの名前も刻んだ。

 私も一緒に逝く。あの子を一人にはしない。

 憔悴しきった姿でそうくり返す母を、娘たちが懸命に引き留めていた。

 アウグストゥスもまた、まさかあの霊廟に最初に入ることになるのが、第一位の後継者である最愛の甥になろうとは、想像だにしていなかっただろう。

 ティベリウスは、霊廟の前に建立されたマルケルスの石像を眺めた。どういうわけかこの像や、あちこちに残されたそれのほうが、あの永遠に眠るマルケルスよりマルケルスであると感じられた。優れた芸術とは、命に限りなく近いものを作品に宿らせることができる。

 しかしそれはやはり命ではない。ティベリウスにしゃべりかけてもこなければ、笑顔で駆け寄っても来ない。触れてもただ冷たくて固い。

 マルケルスはもうどこにもいない。二度と彼に会うことはない。

 残された者は、なぐさめであれなんであれ、故人と共に生きることができる。故人を記憶に留め、思い出と共に生き、時には傍らにいることを思い描いて、笑いかけたりする。そして、自分も死ぬまでのわずかなあいだの別れだとさえ、希望を持つことができる。

 しかしそうしたものを求めるには、まだだれにとっても早すぎた。死したという事実、それを受け止めなければ、感じることができないのだ。なぐさめも希望も、故人の魂も。

 遺骨を霊廟に残し、家族は静かに家路に着く。その姿を眺め、市民らはまた涙をぬぐう。

 けれども今、彼らは必死でなぐさめを求めんとした。この悲劇になんらかの理由を見つけなければ、この先の未来を安心して歩めないとばかりに。

「気の毒にな、マルケルス。まるで叔父上の身代わりになったようじゃないか。病を代わって差し上げたのだ。彼のほうが若いのに」

「神々の嫉妬が、いつかアウグストゥスに向けられるのではないかと、私は以前から恐れていた。ほら、やっぱりこうなった」

「なにが『ほら』だ。勝手なことを言いなさんな。死んだのはマルケルスだ。叔父のとばっちりだって言うのか?」

「神々の嫉妬ではなく、もっと身近な人間による嫉妬かもしれんぞ」

「なるほど。同じクラウディウスでも、貴族のほうの息子たちはぴんぴんしてるものね。アグリッパの隠遁の件もある。マルケルスばかり引き立てられるのが気に食わなくて、案外息子のために、リヴィアが一服──」

「──っ!」

「ドルースス!」

 拳を振り上げて市民の群れに向かいかけたドルーススを、ティベリウスが止めた。弟の腕を固くつかんで、そのまま歩き続けた。

 ドルーススの涙は怒りに変わっていた。

「なんでだよ! 兄上──」

 しかし兄の横顔を見た瞬間、ドルーススの勢いは消え失せた。彼の腕にかけられた力も、へし折るほど凄まじかったに違いない。

「言いたいやつには、言わせておけ」

 夜、オクタヴィアの家を出て、ティベリウスは一人自邸に戻ろうとした。ドルーススはアントニアのために、もうしばし留まるという。

「ネロ……」

 門をくぐり抜けたところで、すぐに声をかけられた。松明をかざした男奴隷で、ネロ家の者ではないが、見覚えがなくはない。

 彼は困り顔をしていた。事情を聞くと、ティベリウスはすぐに彼の案内を受けた。パラティーノの丘の南東。ほんの二月足らず前、マルケルスがティベリウスを見送ってくれた場所がすぐ下にある。

 頂に立つ柱に、寄りかかっている人影があった。ティベリウスは近づいていった。

「酒を持ってきたか?」

 人影は尋ね、空の水筒らしきものを力なく振った。

 ティベリウスはそれに答えなかった。「ユルス」

 すると人影は振り返った。奴隷の持つ松明が、かろうじて彼のうつろな笑みを照らした。

「来たか」ユルスは言い、それから奴隷へ文句を言った。「おい、アンフォラごと持ってこいと言ったはずだぞ。なにをやってるんだよ? ぼくとこいつじゃ、一本丸ごとでも足りないんだからな」

「もうだいぶ飲んでいるんだろう?」

 ティベリウスは彼の横に立った。ユルスは赤く濁った眼でにらみ上げてきた。

「それがどうした? こういう日に飲まないで、いつ飲むっていうんだ? ぼくらはもう大人だぞ。飲んで、飲んで、つぶれるまで飲みまくる。明日のことなんてかまいやしない。それが特権だろ?」

「ヘリオスとプトレマイオスはどうした?」

「先に帰らせたよ。ぼくもこれから飛んで帰るところだ」

 もう一滴も中身が残っていないだろう水筒を、ユルスは干さんとして首を仰向けた。「畜生」

「水を持ってきてくれ」ティベリウスは後ろの奴隷に言った。

「なに言ってんだ。酒だって言ったろ」

「水だ」

 主人とティベリウスの命令のどちらに従うかはわからないが、奴隷はひとまずこの場を立ち去った。ティベリウスはユルスの隣に腰を下ろした。四本の足が下り坂に並んだ。

 やけに数多の星々が、夜空を埋めていた。

「我が父上がどうして大酒飲みだったかわかったよ」空の水筒を振りながら、ユルスは星空を皮肉な笑みで見上げた。「飲まなきゃやってられなかったからだ。毎日毎日、不条理な現実の連続。見たくもない。聞きたくもない。酒だけが救いだったんだ」

「ユルス……」ティベリウスもまた夜空を眺めた。「気持ちはわかるが、体を大事にしろ」

「お前こそ、痩せ我慢するな」ユルスは鼻を鳴らした。「飲めよ。なにもかも忘れるまで。ああ、かわいそうにな、アンテュルス兄さん。あの人はまだ酒も飲めない年だったよな。でも今頃マルケルスが来たんで、さぞ喜んでるだろうな」

「ユルス」

「どっちも哀れなもんだよ!」ユルスは両脚を丘に叩きつけた。「気持ちはわかるって? ああ、そうだろうな、『マルケルスのついで』よ。お前がたぶんぼくの気持ちをいちばんわかるよな? だったら、今ぼくが考えていることだってわかっているはずだ」

「ユルス」

「体を大事にしろだなんて、よくも言えたな」

「ユルス、やめろ──」

「ぼくが死ねばよかった!」

 ユルスが夜空へ吐き出した。

「みんなそう思ってる。なんでマルケルスなんだ。こっちの継子じゃないんだ」

「やめろ」

「かわいそうなオクタヴィア!」ユルスは頭を押さえた。「ただ一人の息子を奪われて。裏切りの夫の子まで育ててきた報いがこれか」

「ユルス──」

「ぼくが死ねばよかったのに……」声が歪んだ。ぽたぽたと雫のこぼれる音がかすかに聞こえた。「そうすればお母様は、こんなに悲しまずに済んだ。どうしてぼくじゃなかったんだ……。お母様は……これからどんな気持ちで生きていったらいいんだよ」

「ユルス──」

「死んだほうがましだろうな、お母様は! 今が耐えがたいのに、これからこの継息子を見るたびに運命を恨まなきゃいけない。どうしてあの子が死んで、ユルスが生きているの? ああ、どうして、どうして──」

「違う、ユルス!」ティベリウスは怒鳴った。「それは違うぞ!」

「なんだよ! お前だって同じことを考えているくせに!」

 ユルスはかまわずティベリウスに食ってかかった。

「『どうしてマルケルスなんだ? 継子ときたら二人とも残っているのに。ああ、神々よ! 大叔父カエサルよ! どうしてマルケルスで、ティベリウスじゃなかったのか!』」

「やめろ!」

 ティベリウスは鋭く叫んだ。そして目を閉じた。

「……永遠にそう思われながら生きていくんだろうな、ぼくたちは……」

 ユルスも垂れさがるように、力無くなった。その肩を、ティベリウスが抱き寄せたのが先だったか。ユルスがもたれかかるのが先だったか。

「ぼくが死ねばよかったんだ……」

 ユルスはティベリウスの喪服を濡らしていった。

「なぁ……ぼくはあの泣き虫の甘ったれが好きじゃなかった。好きじゃなかったが、弟だと思ってはいた……。こんなのは、いくらなんでもあんまりだろ! あんないいやつが……まだ十九歳なのにっ……」

 目を閉じたまま、ティベリウスはユルスの背中を強くさすった。ユルスは激しく震え、泣きじゃくった。

「代わってやりたいよ……。本気だぞ。お母様とあいつのために、ぼくは代わってやりたい。でないと、もうぼくは……二度とお母様に会いたくない。会えるもんか。なぁ、お前は耐えられるのかよ? もう『ついで』じゃない。『代わり損ない』……そんな人生に」

 ティベリウスはじっと目を瞑っていた。ユルスの体の熱、濡れるトーガの感触、それらに懸命にすがりついていたのかもしれない。

 代わり損ない。

 少なくともユルスは、代わることができていた。ティベリウスの分まで泣いてくれていた。

 そしてユルスも、ティベリウスにしか吐き出せなかったのだろう。

「ぼくが死ねばよかった……」

 止めても、なだめても、彼は何度もくり返した。

「ぼくが……」






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