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第一章 -8

 


 8



 翌日は、一日じゅう雨が降った。一年を通して少雨であるローマでは雨水は貴重であるが、生活上の不都合も生じる。午前中から暗いので、勉学をするのに明かりが必要になる。貧しい家庭ならば、これがまず負担だ。また商売をしている者は、客足が鈍るうえに品物を濡らしてしまう。人々はあらゆるものを屋内にしまい込もうとするが、そんなときに限って思いがけない雨漏りに気づくものだ。

 一日二日であればまだいいのだが、雨が長引くと、ティベリス川が氾濫することがある。さらに悪いことには下水道が逆流する。あちこちの公衆便所が水に流したはずのものを押し戻してくる。世界の中心は目も当てられない姿になる。

 幸いこの春の雨は、そこまでひどいことにはならずに済みそうだ。アポロン神殿に通う学者の一人が、そのように空模様を見通し、友人たちの同意を得ていた。

 この日もティベリウスはアポロン神殿に来ていた。勉学のためではなく、屋外の競技場が使えないので、とりあえず上に屋根のある広い場所を求めたのである。それなのにドルーススは、神殿のまわりを、アントニアとプトレマイオスを連れて駆けまわっていた。最初はアントニア好みのカエルやカタツムリを探していた様子だったのに、いつしか泥を握って球をつくり、ぶつけ合っていた。ユルスとヘリオスが制止しようとしたが、たちまちそろって的にされた。兄二人は叫んだが、怒声とも笑い声とも判然としなかった。結局泥まみれで走りまわる年下たちに加わっていった。

 ティベリウスはマルケルスやほかの友人たちと、あまり場所を取らない運動をしていた。屋根の下には、アウグストゥスが元老院議員も収容できるようにと整えた議場があった。彼らはここで腕立て伏せをしたり、腹筋を鍛えたり、両足を揃えて階段を飛び上がるなどした。それぞれ回数や速度を競ったので、ドルーススたちほどではないにせよ盛り上がった。

「やあ、こんにちは」

 声をかけられたとき、ティベリウスは腕力比べ勝ち抜き戦の順番待ちをしているところだった。振り返ると、そこに詩人ホラティウスがいた。

「こんにちは……」

 少し面喰らいながら、ティベリウスは挨拶を返した。ホラティウスをマエケナス邸以外で見かけたことがなかったからで、そのうえ彼がネロ家の兄より弟を気に入っていることを知っていた。ティベリウスでは、この詩人の「もてなし」に子どもらしい無邪気な反応を返せないからだ。

 ホラティウスは継父より一つ年上の三十七歳と聞いている。陽気で人好きのする、少し腹の出はじめた小柄な男だった。

 無論のこと、ホラティウスは大人には大人の対応をする。二人は少しばかり礼儀正しい雑談をした。最近のティベリウスの成人式のことや、昨日ここでヴェルギリウスに初めて出会ったことなど。

「そう、そのことを、夕べヴェルギリウスから聞いたんだがね」ホラティウスはにっこりとティベリウスに笑いかけた。「今日も一緒にいるのかな、ルキリウス・ロングスという少年は?」

「……今日は来ておりません」

 ティベリウスは、これがホラティウスが自分に話しかけてきた本題らしいと気づいた。

「彼になにか用ですか?」

「用というか……」ホラティウスの笑みが、いく分悲しげになったように見えた。「ちょっと話をしてみたくてね」

「どうして?」

「彼のお父上をね、知っていると思うんだよ」

 それで、ティベリウスはどういうことか思い至った。けれどもルキリウスにこの話を通すべきか考えあぐんでいるうちに、ふと別の男二人が近づいてくるのに気づいた。

 たぶん見たことがない二人だ。どちらもホラティウスより少し若く、三十代前半に見える。

「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」ホラティウスが紹介してくれた。「こちらはルキウス・ムレナとファンニウス・カエピオだ。ムレナ、カエピオ、こちらはクラウディウス・ネロ家の若き当主殿だよ」

 ムレナの名前は知っていた。ローマの古い家柄だ。このルキウスは茶髪を撫でつけた、真面目で意志の強そうな男に見えた。

 カエピオのほうは、ローマでまったく聞かない名前ではないが、未知の男だ。がっしりとしたムレナより、骨ばった体つきに見える。波打った黒髪の奥で、同じく黒々とした大きい目が底光りしていて、なんだか不気味だ。なにを生業にしている男なのだろう。

「ムレナはわかるね? これからのローマを担う、良き家柄の好青年だよ。ネロ、君と同じように」

「ネロ家の若者と並べられるのは恐れ入る。ローマで貴族クラウディウスの栄光を知らぬ者はおらぬのだから。まして君は、かの第一人者アウグストゥスの継息子である」

 ホラティウスの言葉に、ムレナが滑らかにつけ加えたが、ティベリウスはつい眉根を寄せてしまった。年下であるので最低限の礼儀以上のものは別にいらないのだが、それにしてもムレナの口ぶりにはどこか棘があった。

 ホラティウスは、気にする様子もなく陽気に続けた。

「カエピオのほうは、売り出し中の若き天文学者というところかな。もちろん、彼のお父上は政務面での出世も望んでいるがね」

 紹介を受けても、カエピオはなにも言わなかった。ただティベリウスへ、にたりと唇を歪めて笑みを大きくしてきただけだ。

 ティベリウスは背筋がぞくりとするのを感じた。

 恐怖だろうか。否。これはきっと嫌悪だ。そのはずだ。

 やっと会えたな。まるでそう言われてでもいるようだった。

「二人とも、テレンティアの親衛隊なんだよ。今日は彼女への贈り物を用意しにね。我らが詩と、あとはカエサルがエジプトから持ち込んだとされる、美の秘薬の調合書などがあれば──」

 固まるティベリウスに、ホラティウスは片目を閉じてささやいた。

 どうしてこんな印象を持ってしまうのだろう。きっと気のせいだ。それにしても今初めて会った相手だ。マルケルスのような素直で心の綺麗な少年なら、こんなことは考えないだろう。せめてもう少し話してから、相手の人となりを判断するだろう。

 ただ、そもそも知人であるホラティウスからして、本当のことを言っているように聞こえない。テレンティアのために来た?

 三人とも、ルキリウスを探していたのではないのか?

「ティベリウス!」

 マルケルスが呼んでいた。

「ティベリウス! 出番だよ! 相手はアシニウス・ガルスだよ!」

「勝ったら、ピソとの決勝戦。……大人げなくない?」

 コッケイウス・ネルヴァが、ルキウス・ピソをにらんでいた。ピソはいつもと変わらず涼しい顔をしていた。

「あっ!」

 マルケルスがようやくホラティウスたちに気づいた。ホラティウスはマルケルスのこともお気に入りなので、ティベリウス越しににっこりして手を振った。マルケルスがやってきたので、入れ替わりにティベリウスは壇上に向かった。元老院会議が行われるならば、執政官が立つべき場所だ。

 アシニウス・ガルスはアシニウス・ポリオの息子で、ティベリウスより一つ年下だ。その横で、六つも年上のピソが、手加減なんて無粋なことは一切しないとばかりに悠然と構えていたが、そこでティベリウスの表情に気づいた。

「ティベリウス、どうかしたのか?」

 表情は変えなかったが、ピソの声は真剣だった。

「なんでもない……と思う」





 翌日は、ほぼ丸一日を競技会の準備に費やさなければならなかった。ついに明日だ。朝から剣闘士試合、それに演劇が予定されていた。ティベリウスはその両方の最終確認をしなければならなかった。継父やアグリッパやメッサラが大いに助けてくれたが、なにしろ初めてのことなので、わからないことだらけだ。なにがどのように進んで、どんな形で終われば成功になり、失敗になるのだろう。明日が終われば、少しはわかるようになるのだろうか。

 演劇の予行練習を見終えたあと、陽も沈みかけの頃に、ティベリウスはカエサル邸に戻った。浴室に入ると、ドルーススもついてきたが、温浴にしろ蒸気浴にしろ、長くじっとしておれない性質なので、ひとしきり声を反響させながら兄に話しまくったあと、素っ裸で外へ出ていってしまった。ティベリウスはようやく一人静かな時間を持った。

 風呂好きのローマ人ではあるが、自宅に浴室がない家がほとんどだ。多くが小銭を手に、午後から夕方にかけて大衆浴場に出かける。民営の小さい施設が多いが、最近アグリッパが一大浴場の建設に取りかかっている。市民のだれもが熱い湯船、蒸気浴、それに冷水プールを楽しめるようにしたいとのことだ。

 けれどもパラティーノの丘に居を構えるような裕福な家ならば別だ。ひととおりの入浴設備をこしらえている。それでも継父の家は、かろうじてあるにはあるという具合で、湯船と、ごく狭苦しい蒸気浴室、あとはマッサージ部屋に寝台が二台ばかりあるのみで、冷水は各自水道から好きなように浴びるなり、かぶるなりする。

 ティベリウスが湯船でついうとうとしていると、明るい呼び声がした。マルケルスで、いそいそと湯につかってきた。ティベリウスは危ないところだった。溺れるかのぼせるかしていたかもしれない。

「ティベリウス、お疲れさま。いよいよ明日だね」

「うん……」

 ティベリウスは湯船の縁に座った。マルケルスはにこにこしていた。

「大丈夫だよ。ぼくも前に主催したけど、なんとかなった。ティベリウスならきっと上手くいく」

「ああ。ありがとう」

 言ってから、ティベリウスはつい右手で頭を支えた。やはり少しのぼせてしまったのかもしれない。

「……そういえば、ぼくが帰ってきた時間でも、マルケッラたちがまだ忙しくしていたな」

「そう?」マルケルスはとぼけてみせたが、にやにやしていた。

「君の誕生日が近いから」

「ふふ」

「新しいトゥニカを……別々に作ったら毎日君がどれを着てくれるかで喧嘩になるから、共同で刺繡することにしたんだってな」

「うふふ」

「ユリアも頑張っていた。裾の部分の刺繡を担当するって」

「うんうん」

「オクタヴィア様は新しいトーガを用意してくださると」

「うれしいな」

「ぼくは……どうすればいい?」濡れた前髪越しに、ティベリウスはマルケルスを見た。「なにか欲しいものがあるか?」

「去年と同じ!」マルケルスは輝く顔で言った。

「……そう言うと思った」

 ティベリウスも微笑み返した。

 マルケルスの誕生日には、腕輪などの装飾品を贈ったこともあったのだが、昨年の誕生日から、マルケルスの望みは形のないものになっていた。それは、ティベリウスと二人で過ごす一日だ。エジプトまでの従軍を終えて帰国して以来、二人はお互いに弟や妹に四六時中囲まれている日々だった。友人も常に伴っていた。最初にこの望みを聞いたとき、ティベリウスは驚いたが、マルケルスはたまにはティベリウスを独り占めさせてほしいと言うのだった。ティベリウスにはその一日とは別に、もっとマルケルスとゆっくり過ごす時間を作らなければと顧みる機会にもなった。マルケルスとはきっと生涯手を組んで歩く相棒だ。彼を守ることこそが、ティベリウスに求められる役目だ。

 マルケルスが湯船に満足するまでのあいだに、二人はその「特別な一日」をいつどのように過ごすか打ち合わせた。なかなかカエサル邸での午前の勉学時間を二人だけ静かに……とはいかないので、午後の肉体鍛錬から「一日」を始め、夜はどこかに泊まり、翌日の昼までその場所で過ごすのはどうだろう。そのどこかとは、郊外の別荘か、あるいはだれか知人や解放奴隷の家を当たってみようか。マルケルスの誕生日の後の日取りで。

「急がないよ。ヴィプサーニアとのお散歩が終わってからでも大丈夫だよ」

 またにやにやしながら、マルケルスが請け合った。ティベリウスは、君までからかうのかとぼやいた。そうじゃないとマルケルスは首を振った。

「ならば君こそ、ユリアを連れてどこかに出かけてみたらいい」

「そうなんだけど……どうしたらいいかわかんなくって」マルケルスは気恥ずかしそうに言った。「だからティベリウスに教えてほしい」

 教えるもなにも──ティベリウスは途方に暮れる心地がした。なんでもかんでもティベリウスがよく知っているわけではない。それに同じ婚約者でも、六歳のヴィプサーニアと十一歳のユリアではきっと違うだろう。ティベリウスはほぼ子守りをする考えでいるのだ。

 けれども実際、マルケルスがユリアをどこかに連れ出したいとしても、決して簡単なことではないのだろう。まず人目がある。若者の中では、ローマで最も有名な組み合わせだ。たとえ婚約者同士という公認の仲であっても、なにを噂されるかわからない。それに妹たちもやきもきするに違いない。継父とオクタヴィアも心配するかもしれない。

 神君カエサルの言葉にもあるが、上に立つ者ほど自由が制限されるのだ。

「えいえいえい、えいえいえい」

 風呂上がりに、マルケルスがマッサージしてくれると言うので、ティベリウスは係の奴隷を下がらせた。そもそも普段マッサージをさせることなどまずないのだが、マルケルスが楽しそうにしていたので、任せることにした。マルケルスはティベリウスの背中や腰を押したり、ふざけて叩いたりくすぐったり、筋肉のつき具合を賛嘆したりした。

「どうしたらこんなに均整のとれた体になるの?」マルケルスは知りたがった。「でももうこれ以上たくましくならなくていいよ。これからはぼくがティベリウスを守るからね。強くなるからね」

 マルケルスはエジプトから帰って以来、よくこの宣言をするようになった。ティベリウスは申し訳なく思っていた。それほどに心配をかけたということだ。

「君は強くなったよ、マルケルス」ティベリウスが教えた。「強くて、美しい」

 実際、このごろのマルケルスは武芸の腕前を上げていた。肉体の美しさにも磨きがかかり、外でも家でも、多くの人々が賞賛を惜しまなかった。まさに若者の理想の体現であると。内面の美しさがその輝きの裏づけとなっていることは疑いない。

 ティベリウスが今度は役割を代わると申し出た時、マルケルスはとたんにひるんで、逃げだしそうになった。半ば本気に見えた。

「ティベリウスってば、前にぼくの成人祝いのとき、片手でリンゴを握りつぶしたでしょ!」

「あれはわりと熟した果実だったぞ」

「そういう問題じゃないでしょ!」

「大丈夫。手加減する」

「当たり前でしょ!」

 二人は笑い合った。





 競技会が終わって翌日の夕方、ティベリウスは奴隷一人を伴い、アヴェンティーノの丘のロングス家を訪ねた。ルキリウスは自室前の柱にもたれて、ティベリウスを待っていた。だれかの詩集らしき巻物を掲げ、いく分疲れたような顔で笑いかけてきた。

 家は、アトリウム兼中庭であるちょっとした広場を、それぞれの部屋が囲んでいる造りだが、ほとんど剝き出しの地面で、見る者の目を楽しませるような草木はない。今は葡萄酒やオリーブ油を入れたアンフォラや、ほかのなんらかの商品を詰めているらしい木箱が並んでいる。しかしこれらもこの敷地に長居するわけではなく、このローマ市内でなければ、世界のどこかへたちまち運ばれていく。

 けれどもこの実用主義の「中庭」に、彩りを与えている思いがけないものがある。壁一面に描かれた、ルキリウスの母親の手になる絵である。木箱の山に遮られていなければ、思わず息を止めて見入ってしまう壮大な景色だった。母リヴィアが奴隷たちを習いに通わせたくなるのもうなずけてしまう。

 そのときのルキリウスの母は恐縮しきりで、気の毒になるほどだった。今までだれにも目に留められたことのない、つまらない落書きだと言い張った。夫が長く留守にしているあいだ、家にいなければ地中海のどこかを義父の船の上で過ごす日々だった。ほかになにもやることがなかったから、手なぐさみに始めたことだ、と。

 この家の壁画の主題は、その地中海の神秘だろう。珍しい青い染料をふんだんに使い、母なる雄大な海を切り取っていた。ポセイドンの化身らしい半人半魚の巨大生物、麗しきニンフのテティス、ほかに人間が実際に見たことのある生き物たちが、とても可愛らしく描かれている。小さな魚の群れは、色とりどりで春の花畑さながら、今にも見るもののそばまで泳いきて、共に戯れて、また彼方へ軽快に去っていきそうだ。果てしない水の世界だ。まるで実際に海の中を探検してきたかのようだ。

 アントニアやヴィプサーニアを連れてきたら喜びそうだが、ティベリウスはまだこの秘密を明かしていない。母リヴィアには、ティベリウスが一時期あまりに頻繁にこの家に通っていたので、事情を説明せざるを得なくなったが。母の壁画の趣味は、海よりむしろ陸に、波しぶきより花と木の実に、魚たちよりも小鳥や小動物たちにあるのだが、ルキリウスの母ほどの腕前を目にしては、もうかまわないらしい。

 ティベリウスは本当のところは話さずに済ませたかったのだが、そうもいかなかった。それまでつき合ってきた友人たちは、家柄のはっきりした元老院階級の子息たちばかりで、母にいちいち説明する必要もなかった。しかしルキリウスはそうではない。毎日どこへ行くのか、もう何度泊まりにいくのかと訊かれれば、リヴィアの息子でなくても説明しなければならない。ティベリウスはロングス家の家業と、ルキリウスの父親が何者であるか、手短にでも話さなければならなかった。

 二年前の夏、リヴィアはオクタヴィアとともに、この家を訪れた。オクタヴィアは、亡父アントニウスに最期まで従った親友の妻に、感謝を伝えずにはおれなかった。リヴィアはリヴィアで、息子が自分で見つけた騎士階級の友人を吟味したかったのだろう。夫アウグストゥスがそうであるように、いずれ有力な騎士階級の仲間は必要であるのだ。ロングス家はどうか。そして吟味するまでもなく、壁の海に目を奪われた。

 二婦人との交流が始まると、ルキリウスの母は恐縮のあまり寝込んでしまったのだが、今は落ち着いた。リヴィアは彼女に何度か再婚を進めたが、今に至るまでフラウヴィアは寡婦のままで暮らしている。無理をしなくてよいと、オクタヴィアが言ってくれたらしい。

 ティベリウスは今でもフラウヴィアには申し訳ないと思っているが、今夜も泊めてもらうつもりだ。彼女にリヴィアからの贈り物が入った籠を渡すと、あとはまっすぐルキリウスのところへ行った。

 ルキリウスは立ち上がるところだった。自室外側の壁画では、紺碧の海上で白いしぶきを上げ、三頭のイルカが楽しげに並び飛んでいた。彼のお気に入りだ。きっと家族の三頭なのだろう。

 別の籠に、ティベリウスは例によって競技会後の宴で振舞われた料理の残り物を詰めていた。それを抱えて、ルキリウスと彼の部屋にこもった。

 あとは愚痴ばかり聞かせる時間となった。

「人生初めての競技会で、早速嫌いになっちゃったの?」

 挽肉詰めのパンをかじりながら、ルキリウスは半笑い顔で訊いた。

「元からあまり好きじゃなかった。剣闘士試合が。なんで市民を楽しませるために殺し合いをさせなきゃいけないんだ?」

「殺すところまでやる必要はないんでしょ? 決着がついたと思ったら、主催者判断で止めることができる」

「ああ。だからぼくもそうした。判断を求められた試合は全部な。そうしたら、次第に観客たちが文句を言いはじめた。それだけならまだしも、当の剣闘士のほうからも文句が出はじめたんだ。ぼくは全部無視した」

 ルキリウスはけたけた笑った。

「傲岸不遜のティベリウス・ネロ。他人の期待なんておかまいなしだ」

「全部終わったあとも、あれは良くないと言われたんだ。カエサルと母上と家の者たちから。どうしてだ? いったいなにが楽しいんだ? そんなに殺し合いが見たいなら、軍役に志願して、戦争に行けばいいんだ」

 ティベリウスは苛々とパンをむしった。

 ギリシア人が競い合うような運動や馬術や戦車競走なら、ティベリウスは好きだ。武芸を競い合うのも、良いことだと思う。だが強くなるためでもなく、美を追求するためでもなく、国家を守るためでもないのに、なぜ殺し合いをするのか。古来より主催者たちは、剣闘士の血と引き換えに、自身への支持を得てきた。市民の気を引いて、結果的にはそれが政治の安定につながると考えられてさえいる。しかし上に立つものとは、そんな残酷な興奮と気晴らしよりも、実力と実績で、平穏を守るものではないのか。市民も市民で、なぜもっとほかの楽しみを自分で見つけられないのか。ほんの半世紀前には、その剣闘士たちに反乱を起こされたことがあるのだ。

 剣闘士たちも、多くが奴隷で、不運な身の上だと思うが、一部には剣闘士試合を開催しないと怒り出す者がいる。殺し合いを途中で止められると、悔しがる者もいる。

「彼らだって、それで食べているわけだからね」ルキリウスはティベリウスをなだめるように言った。「だれだって、自分は死にたくはないけど、活躍の場だって奪われたくないのさ。他人を犠牲にしてでもね。命のやり取りをしたくて、そんでご婦人方にモテたくて、わざわざ剣闘士になる市民だっているんだから」

「ほかの楽しみはないのか?」ティベリウスはくり返した。「ぼくは競技会前の準備で、剣闘士の訓練所にも出かけた。そのときぼくと話したうちの二人は、試合中に重傷を負って、もう動かなくなっていた。きっと助からないんだろうな……」

 継父の軍に従って、戦場を見た後であるからなおさらだった。国家防衛のために、もしも戦争が必要悪であり、かつなお絶対悪であるならば、戦場以外での殺し合いはしてはならないのだ。奪われた命は決して帰ってこない。あんな残酷を、市民たちは本気で観たいと思うのか。自身は決して同じ目に遭うことがないと思えるのか。他人の苦痛を見て、なんとも思わないのか。

「人間だけじゃないぞ。野獣もだ。訓練場に、檻に入れられた野獣たちも収容されていた。ぼくは餌を与えてみたが、どの獣も飢えて、狭い場所で動けなくて、弱っていた。いくらなんでもむごい。あんなひどい環境はない。動物たちがいったいぼくらになにをしたんだ? 人間はいつから動物を奴隷にしていいなんてことを決めたんだ? エジプトやトラキアから無理やり連れてこられて、ただ楽しみのために殺される。ぼくは実際に見てきたからわかるが、エジプト人は──たぶんトラキア人も、その動物たちにこのうえない敬意を払っているのに。あの動物たちは、食べられるという形での生命への貢献もできない。試合に引き出されたら最後、全部ただ死ぬしかない。もしくは、人間を生きながらに食らうしかない……」

 ティベリウスの怒りはなかなか収まらなかった。こういう現実を見せつけられると、ローマ市民を嫌いになってしまいそうだ。自分も含め、すべての人間を呪ってしまいたくなる。

「ぼくは君の言うとおりだと思う」ルキリウスは苦笑めいた顔でうなずいた。「でも君は、ローマでは変人、もしくは馬鹿正直者ってことになるだろうね」

 二人はいつしかルキリウスの寝台に並んで横たわっていた。そうして寝入るまで、いつまでも話し込むのだった。ティベリウスはこのごろになって気づいていたが、こういう場合は、たわ言ばかりおしゃべりなはずのルキリウスのほうが、聞き役になることが多かった。

「ぼくの叔父貴が、演劇のほうを観に行ったってさ」枕に笑い顔の半分を埋めながら、ルキリウスがしゃべった。「お気に入りの女優が出演するから。んで、君は主催者なのに、劇場のほうには姿も見せなかったらしいね」

 ティベリウスは斜め上の壁を見た。「予行練習は見た。どんなものを上演するかは知ってる」

 ルキリウスはティベリウスの腹を軽く叩いた。「君ね。こっちのほうは言い訳できないよ。急におなかでも痛くしたって言う? ただ単純に興味がないから来なかったんでしょ?」

「三回も四回も観る必要なんてない。そんな時間があるなら、星空を眺めながら計算練習でもしていたほうがましだ」

「どうしてさ? 君は文学好きなほうでしょうが。神話とかさ、あのクソややこしい人物関係の、ごく無名の脇役や些末な設定を、無駄なくらい覚えているくせに」

「それはギリシアの創作だ」

「ローマの文学には興味ない? ラテン文学はまだまだ次元が低いですか、ギリシアかぶれの貴族様?」

「なんでだれかが演じる必要があるんだ?」ティベリウスは思わず上体を起こして訴えていた。「詩でも演劇でも、自分で読んで楽しめばいいじゃないか。頭の中に思い描くだけで十分だ。なぜだれか知らない人間に代わってほしいんだ? 自分の想像をそっとしておかないんだ?」

「みんなと一緒に泣いたり笑ったりしたい。感動を共有したいんだよ。君はそういう気持ちになったことがないの? なにか美しいものを見たとき、だれかとこれを分かち合いたいって思うとか」

「ある。でもそれは、みんなとじゃなくていい」

「好きな人とだけ。んで、その美を分かる人とだけ分かち合いたい。老若男女雑多な庶民どもに美のなにが分かるんだ、とか考えてるんだろ?」

「みんな同時に分かち合う必要なんてないだろ」ティベリウスは再び寝台に倒れ込んだ。「自分の心は自分だけのものだ。感動する時宜は、精神の成熟と幸運の巡りあわせで、その人間に最もふさわしい時に訪れるんだ。だからそれを分かち合えたら、奇跡なんだ。どうしてそれがすべての人間と同時にできるなんて思うんだ?」

「演劇はそれを目指してるんじゃないの? 残念ながら、今回集まった役者たちは、演技がいまいちだったのかな?」

「彼らになにがわかるんだ? だいたい詩の解釈が浅すぎるんだ。そのくせ自分が目立つことしか考えていない」

「君が演出家になるべきだ」ルキリウスはすかさず指摘した。「主催者なんだからさ。まずはもっと上手い役者さんでも探してみなよ。何度か劇場に行けば、これぞという名人に会えるかもしれない」

「そんな人はいない。まして喜劇なら──」

「君ねぇ、ほんと白ける観客だよねぇ。いっそ君を大笑いさせてくれる役者に大金を払うとでも知らせてみなよ。ぼくも見たい。腹を抱えて笑い死にしかけている君が見たい。ぼくを楽しませるために、そういう企画を実現させておくれよ」

「なんでだ。嫌だ。ぼくはもう剣闘士試合も演劇も主催しないからな」

「ドルーススの成人祝いのときはどうするのさ?」

「ドルーススが好きにやればいい」

「偏屈家父長」上掛けの下で、ルキリウスはティベリウスの足を蹴っ飛ばした。「クソ真面目。殺し合いが嫌い。雑多で軽薄で残酷な民衆も嫌い。誇り高すぎて、人が演技する意味も見出せない。いったい今後どうやって、君を知らない人たちに好かれるつもり?」

「大事なのはぼくが好きかどうかだ。違うか?」

「ああ、もう、ああ、もう──」ルキリウスはくしゃくしゃと枕を抱え込んだ。「君みたいな鼻持ちならない高慢ちき貴族は、ぼくが今枕で窒息させてやるんだ。そのほうが市民のため、国家のためだ。将来、どんなに冷酷非情な為政者になることかって。本当に、マルケルスがいるからいいようなものの──」

 ルキリウスは枕をティベリウスへ押しやってきた。

 マルケルスのような、人に好かれ、かつ人の期待に応えようと頑張る人間がそばにいるからこそ、ティベリウスの不遜な振る舞いが許される。実のところどれだけ彼に助けられているか、これからも助けられる見通しか、少し考えてみるがいい。きっとそう言いたいのだろう。

 ティベリウスは背筋と首筋を反らし、適当に枕をかわした。それからルキリウスの指を砕かんとばかりに、顎を枕に落とした。

 すると覗いたルキリウスの顔つきが、やけに暗かった。

「ねぇ、ティベリウス……」

「どうした?」

「ぼくは……どうしたら、君……」

 そこで、彼は固まった。たちまち目と口をまんまるに開き、赤面までしはじめた。

「いかんいかん! ぼくとしたことが、とち狂って、恥のあまりタルペイヤの崖から飛び下りるべき過ちを犯すところだった! 家訓違反だ! 家父長権による処刑だ! ティベリウス、どうか今すぐこの枕でぼくを殺してくれ!」

 言いながら、むしろその枕でティベリウスを滅多やたらに叩いてきた。早く忘れろとばかりに。

「馬鹿言え」ティベリウスは両腕をかざして防御した。「どうしてとち狂うんだ? なにかあったのか? お前こそ、昨日今日とどこでなにをしていたんだ?」

「なにもしていない。いつもどおり勉学して肉体鍛錬していただけだよ。いつも、どおり……」

 言葉が尻すぼみになり、動きがのろくなり、やがて静かになった。見ると、うっすら汗をかいて、髪も服もぐしゃぐしゃになっていた。弱った笑みを浮かべ、ルキリウスは天井を仰いだ。

「君と同じように、計算練習をしながら、星空を眺めていた。ねぇ、ティベリウス、どうして人は、どうやったって手の届かないあの輝きに、恋焦がれるんだろうね」

 ユリアやほかの女たちのことは言えない。ティベリウスもルキリウスも、終わりの見えない駄弁をして夜を明かすことがあるのだ。







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