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第五章 -12



 12



 泡を吹いた馬が、バイアエの邸宅に飛び込んだのは、夜明けの寸前だった。もう遅い? そんなはずはない! ありえない、ありえない! あっていいはずがない!

 馬が止まるより早く飛び下りたティベリウスは、邸内を駆け抜けた。どこへ行くべきかわかっていたわけではない。だが迷わなかった。彼のいるところへなら、どこであろうと引き寄せられるはずだ。

 邸内の何物も見ていなかった。ただ扉がそこにあって、ティベリウスはそれを突き飛ばしただけだ。

 そこは暗がりだった。蝋燭の火がいくつも揺れた。

 ティベリウスはそこで寝台を見た。頭に布を掛けられただれかの体が、その上に横たわっていた。

 とたんにティベリウスの耳は、たくさんの音を拾い上げた。すべてが泣き声だ。すすり泣きなどという程度ではない。泣きわめいている。喉も裂けよと激しく叫んでいる。戻るまでやめないと呼んでいる。

 マルケルス──。

 お兄様──。

 私の愛しい子──。

 しかしティベリウスは、そのすべての音を拒絶した。なぜだ。なぜ彼を呼ばねばならない。馬鹿げている。そんなはずはない、そんなはずはないんだ──。

 それを認めることは、すなわちティベリウスも直面するということだ。

 もうこの世にいないという事実。二度と戻らないという現実。

 マルクス・マルケルスが死んだということ。

 ──嘘だ。

 だれかが否定してくれる。現実はひっくり返る。ティベリウスはそう信じていたかった。それで、感覚の覚束ない手を上げ、寝台で眠る体へ向けた。

 布を持ち上げる。ティベリウスははっと息を呑む。

 マルケルスは確かにそこにいた。だがそれは、マルケルスではなかった。

 ティベリウスは彼の眠る顔を知っていた。毎年、十年以上、傍らで見ることがあった。

 これは、そのどれとも違った。苦痛に歪んでいるわけではない。ただ穏やかに目を閉じている。

 思い出したのは、実父ネロの最期の顔。葬式の日に何度も見たそれは、なにかがおかしかった。父であるが、父でないような気がした。

 今、その違和感の理由を思い知った。

 これはマルケルスだが、ここにもうマルケルスはいない。マルケルスをマルケルスにしていたものがない。消えて無くなっている。

 それが命であったのだ。

 ──マルケルス──。

 ティベリウスの呼び声は、音になることができなかった。

 ──マルケルス、マルケルス、マルケルス。どうしたんだ。どこにいるんだ、マルケルス──。

「お兄様ぁ!」

 とたんにティベリウスの耳朶が震えた。声が、涙が、悲嘆が、激しく頭を打ちつけた。

「お兄様、いやよ! 目を開けて!」

「ああ、マルクス! マルクス!」

「どうして! どうしてお兄様なの!」

「いやぁぁぁっっ、お兄様ぁぁぁっっ!」

 頭がしびれ、目がくらんだ。四肢は消失したように感覚を失くした。腹にはとてつもなく重い塊がのしかかった。

 それでもティベリウスは立ちつくしていた。ほかになにもできなかったからだ。

 目線だけが、虚空を漂った。マルケルスのいない眠り顔を、もう見ていることに耐えられなかったのかもしれない。

 おぼろげに捉えたのは、亡骸の傍ら。明るい髪色をした男女二人が、抱き合ってすすり泣いている。

 カエサル・アウグストゥス。そしてオクタヴィア。二人は顔を上げた。

 重なったのは、オクタヴィアの目線だ。瞳を見た。その瞬間、ティベリウスは部屋を飛び出していた。

 勢いは、すぐにしぼんだ。そのままよろよろと、かろうじて廊下を動き、やがて階段に崩れ落ちた。

 うずくまるように、ティベリウスは頭を抱えて座り込んでいた。体が小刻みに震えるのを止められなかった。

「兄上……」

 気配は、ドルーススのそれだった。兄のあとを追って、とんぼ返りしたらしかった。

 ドルーススはティベリウスの傍らに座った。しばらくそのまま黙し、空が明らんでいくのを当てもなく眺めているようだった。

 やがておもむろに、兄の肩へ腕をまわした。

「マルケルスは頑張ったよ」彼は兄に教えた。「……頑張りすぎたくらいだった。最期は、カエサルに『ごめんなさい』って……」

 ティベリウスは髪の毛ごと両拳を握りしめた。

「ぼくが兄上を呼び戻すって言ったときも、絶対うなずかなくてさ。『いいんだよ。ティベリウスは任務の途中だ』って、笑って……」

 ドルーススが鼻をすすり上げた。

「もっとぼくが助けてあげたらよかったのかなぁ。もっと優しくしてあげればよかったんだよなぁ。あいつだって、アントニアの兄上なんだから。ぼくは……あいつの弟にも、なるつもりだったんだから……」

 言いながらドルーススは、何度も兄の肩を叩いていた。まるでこれは兄の分だというように。兄が吐けない声を代わりに吐いて、ほんのわずかでも楽にしてやりたいというように。

 腹の中の途方もない重み。死という現実。

「まだ十九歳だぞ。早すぎるよなぁ……」

 肩を叩き続け、鼻をすすり続け、ドルーススは兄の代わりに泣いていた。ごくゆっくりと、ティベリウスは顔を上げた。

 明らみ始めた空から、最後の一つ星が消えていくところだった。





 マルケルスの遺体は、家族と共にローマへの帰途に着いた。棺を交代で運んだのは、財務官隊の面々だった。アウグストゥスは徒歩でずっと甥に寄り添っていた。

 ティベリウスとドルーススも従った。その後ろには、泣き腫らした顔のマルクス・メッサラとネルヴァも続いた。ルキリウスは、ストラボらと一緒に棺を持ち上げて歩いた。

 アッピア街道には、訃報を聞きつけた人々が各地から集い来た。道端に並んで泣き伏し、マルケルスの名を呼び、アウグストゥスとオクタヴィアを哀れんだ。

「なんという悲運! なんという運命の非情!」

「なぜオクタヴィアほどの婦人が、ただ一人の息子を亡くさなければならないのか!」

「第一人者よ! よりによって後継者を失うとは! 運命があなたを見捨てたのか!」

「かわいそうに! かわいそうに、マルケルス!」

 一方で、首都はむしろ静まり返っていた。だれもが茫然自失の体でたたずんで、棺が中央広場の演壇に乗せられるのを眺めているばかりだった。信じられなかったのだ。ほんのひと月前、華々しい祭典を成功させた人物が──喝采の只中にいて、彼らに笑顔で手を振っていた少年が、もの言わぬ姿で帰ってこようとは。

 アウグストゥスとオクタヴィアにはかける言葉も見つからないようだった。

 棺の傍らに立ち、アウグストゥスは甥の追悼演説を行った。故人を記憶に留めるため、残された者からの最後の贈り物だ。だが聞きたい者など一人もいなかったに違いない。十九歳の追悼など、どうしてしなければならないのか。これからだ。彼はこれからだった! 追悼演説など何十年も後に、彼の子どもらが行えばよかった。

 聞いていられなかった。ここに至って市民たちは、ようやくすすり泣きを漏らしはじめた。だが大半が、為す術もなく打ちひしがれていたのだ。十九歳の死に。国家ローマで最も輝く未来が約束されていた若者の最期に。新しい世紀の象徴の喪失に。

 演説後、遺体は北のマルスの野に運ばれた。ここでさらに人々は、今までがマルケルス少年の葬式であったこと、そしてもはや最後の別れの間際にいることを思い知らされた。

 別れの時、ティベリウスは一輪の花に、腕輪を添えて棺に置いた。八年前、マルケルスの誕生日に送ったものだ。もう手首にははまらなくなっていたのだが、マルケルスは自室に大切に保管していてくれた。

 ──ティベリウス、これからもぼくのそばにいてね。ずっと、ずっと、一緒だよ。

 こんなに早い別れが来るだなんて思わなかった。いつも傍らにいた。当たり前に一緒だった。これから先も長い月日、共に歩んでいくつもりだった。二人で、ローマを担える男を目指して。

 マルケルス、私は君を、カエサルから託されていたのに──。

 カエサル・アウグストゥスとマルクス・アグリッパのように互いを補い合い、ローマの次代を担っていく。それがアウグストゥス、そしてマルケルス自身の願いだった。ティベリウスもそうなるものと考えていた。

 その夢は、ここについえた。

 組み上げられた薪の上に、少年の棺が置かれる。火がくべられ、しだいに燃え上がっていく。

 妹たちの悲鳴が轟いた。母親は弟に抱かれながら泣き崩れていた。

「こんな……こんなことって……」

 レントゥルスが炎を見上げながらうめく。涙を炎があおっていく。

 ファビウスは引きつけを起こしたように泣いている。グネウス・ピソは運命の女神を恨むような恐ろしい形相で炎をにらみつけている。

「どうしてだ! あいつがなにしたってんだよ!」マルクス・メッサラがなお泣きながら怒る。その背中を押さえながら、ネルヴァも涙にむせている。

 ルキウス・ピソはじっと唇を噛みしめていた。彼は痛ましげにティベリウスを一瞥し、また黙して炎を見守った。

 ドルーススがアントニアを抱きしめた。姉のマルケッラの手をヴィプサーニアが取り、妹のマルケッラには夫プルケルが、姉のアントニアにも婚約者アヘノバルブスが寄り添った。

 ユルス・アントニウスは、弟二人を傍らに、家族から少し離れたところで悄然と立っていた。

 そのそばには、故人の妻であるユリアが、まるでぽかんと立ちつくしていた。

 マルクス・クラウディウス・マルケルスの肉体は、こうして炎の中に消えた。マルケルス自身もまた神々の下へ旅立った。

 享年十九。ローマは第一人者の唯一の血縁男子、そして「ローマの剣」の最後の直系を失った。






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