第五章 -11
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九月二十三日、アウグストゥスの四十回目の誕生日、全ローマの都市が祝福に湧く中、財務官隊はアッピア街道を離れ、取り締まりを再開していた。この辺りは葡萄やオリーブ畑が多い。その品質は広い世界とも渡り合えるほどだったが、そうかと言って奴隷の不正取得を許しておくわけにはいかなかった。面積は小麦畑と比べれば広くはないが、裕福な農地が多かった。そうであれば奴隷をしかるべきところから購入するなり、給金を払って雇い入れるなりすればよいのだが、金の使いどころを誤る吝嗇の金持ちという者がいる。今はちょうど収穫期だ。なにがなんでも人手を集めようとして、不正が明るみに出やすい。財務官隊は農場の実りを横取りするつもりはない。ただ、冬が来る前にさらわれた者たちを家に帰してやらねばならない。
果樹園の取り締まり自体は、さして苦労はなかった。一度蜂の群れをけしかけられはしたが、任務は順調に進んだ。むしろ善良な農場主に頼まれ、なぜか熊退治や猪狩りに出かけた時のほうが、辛抱が要った。冬を前に、獣たちはアペニン山脈から下りてくるらしい。
そうかと思いきや、収穫物を狙った人間の仕業である場合も発覚した。財務官隊は盗賊の探索にも人員を割いた。
首都からは「ローマ人の祭典」が華やかな成功で幕を下ろしたとの話が届いた。マルケルスは市民の大喝采を浴び、笑顔で応えたそうだ。
祭典の最終日、彼の叔父アウグストゥスは、この六年後に「世紀の大祭」を開くと発表した。昔から百年に一度、不定期ながら行われてきた祭事だ。
きっとその中心にもこの二人がいる。そのときこそ正式に継がれると決まるのだろう。叔父から甥へ、まさに輝く国が、世界が──。
首都のドルーススから手紙が届いた。輝きの中心にいたマルケルスへ悔しさをにじませつつ、剣闘士試合や野獣狩りの興奮、体育競技の優勝者の神業、戦車競走の大迫力などを兄に伝えんとして、ペンが暴れていた。
ナバテア人のシュライオスが処刑された。そのような知らせも書かれていた。テントの中で、ティベリウスはルキリウスに手紙を見せた。
ルキリウスはため息をついた。「これでアラビアでのあの様を、なかったことにできるのかな?」
「どうだろうな。ともかく彼らの使う隊商路は見つけ出したのだ。カエサルはレウケ村に税関を置くことを考えているらしい」
「必要ある? コプトスと、あとあの『香料の道』の北果てにでも置いておけば十分じゃない?」
「レウケ村くらいには、ローマ人の跡を残しておかねばなるまい」
ティベリウスがそう言うと、ルキリウスはまた深いため息をついた。
「シュライオスのために、ぼくは馬鹿高い香料でも焚こうかな。猪の一頭でも犠牲に捧げて」
「ネロ、大変です!」
ストラボがテントに飛び込んできた。
「牧場主が自棄を起こしまして、柵を開け、腹を空かせた牛どもをけしかけております! 今見張り台が激しく揺れているところで──」
「あそこにはマルクスとネルヴァがいたよね!」
ルキリウスは飛び上がった。ティベリウスも立ち上がった。
シュライオスへの犠牲は、気前よく牡牛となりそうだ。
果樹園の抵抗が大人しめである一方、牧場を調べんとすると、このようになかなかに過激な抵抗に遭った。アペニン山麓の放牧地には、かつて山岳民族だった人々の名残がある。それどころか山中には、未だに山賊まがいの所業を働いている連中も巣くうという話だ。
ティベリウスは連れ歩く財務官隊の人数を増強した。ほんの三百年足らず前までは、このあたりでまだイタリア半島の覇権を巡る激闘がくり広げられていた。そのことを思えば、格段に平和な世の中になった。
もう奴隷としてさらわれる心配なく道を歩けるほど、安寧秩序を確立する時だ。
この二日後、ドルーススからまた手紙が届いた。祭典終了後、マルケルスが寝込んだというのだ。きっと緊張が解け、疲れが一気に出たのだろう。ゆっくり休めるといいが。
ティベリウスたちは再びアッピア街道に乗り、アペニン山脈を越えた。アドリア海に面した半島東部の農場をまわりながら、山賊の根城にも目を光らせた。
十月になった。ティベリウスたちは悪徳牧場主を相手に、ほとんど騎兵戦を展開していた。自身が育て上げた馬たちを駆り、だれのおかげで騎士が騎士でいられるのか、戦車競走を楽しめているのかと息巻く牧場主軍だったが、馬よりもずっと痩せ細って見える奴隷たちが問題だった。牧場主を取り押さえ、元捕虜たちに秋の実りをたっぷり与えてから、各自の故郷に送り届けた。
十月一日の元老院会議に、マルケルスは出席したそうだ。その後は叔父とともにサエプタ・ユリアに赴いたという。来年の政務官選挙が始まった。叔父と甥は、自分たちが支持する候補者の陣営へ応援に駆けつけたのだ。
レントゥルスが財務官に立候補するはずだ。ピソやファビウスが援護するはずなので、たぶん大丈夫だろう。
ティベリウスたちは、いよいよ中央アペニンに巣くう集団に狙いを定めた。牧場を隠れ蓑にした、事実上の山賊団だ。ヒスパニアでカンタブリ族を相手にした経験を活かす時だ。ずっと小規模ではあるが、やるべきことは同じだ。
ドルーススから手紙が届いた。マルケルスの具合が良くない。ひょっとしたら例の流行り病かもしれない。そう書かれていた。
ティベリウスはこの時ようやく心配を強くした。流行り病? 収まったのではなかったのか? まだ十月だ。もう次の流行が始まったのか? しかもマルケルスが──。
「いやいやいや」同じ手紙を見て、マルクスはしきりに首を振った。「大丈夫だろ。マルケルスはちょっと疲れただけだ。それにぼくらと同じ、元気溌剌の十九歳だぞ。病なんかに負けるもんか」
「でもマルケルスは、昔から体が弱いところがあったよね。年に一、二度は熱を出して寝込んだり」ネルヴァが不安げに思い出させる。
「でもカエサルほどじゃないだろ」マルクスはいく分ぎこちない笑みを作る。「カエサルでさえ流行り病から復活したんだ。マルケルスがそれより重篤になるわけがない」
しかしその次に届いたのは、マルケルスがアントニウス・ムーサの治療を受けることになったとの知らせだった。この四月、死の瀬戸際まで追い込まれたアウグストゥスを治癒したとして、今や首都に黄金像が立てられている医者だ。
つまりマルケルスは、あの時の叔父ほど症状が重いということだ。
「そんな馬鹿な……」
マルクスが漏らした言葉は、ティベリウスの心境とまったく同じだった。
「なんでよりによってマルケルスが? ……うん、きっと早めの治療を施すって話だよな? そうだよな……?」
「どうする?」ルキリウスはティベリウスに尋ねた。「君は首都に戻ったほうがいいじゃないか? ここはストラボとぼくでなんとかするよ」
「……それはできない」考えたが、ティベリウスは首を振った。「財務官権限を持っているのは私だ。私でなければ取り締まれない。攻撃命令も下せない」
山地に賊を追い込んでいるところだ。ここで隊を止めれば連中を取り逃がす。囚われ人も救出できない。無用な犠牲も出かねない。
「なら、早く片づけようぜ!」あえてのように、マルクスは意気込んだ。「マルケルスはきっと大丈夫だ! おいしいオリーブの実をたっぷり見舞いに持っていってあげよう」
継父からはなんの指示も来なかった。マルケルスの身を案じているばかりなのかもしれないが、なにより任務を続行せよとの意味であるはずだ。戻るべき状況であれば、そう命じるはずだ。
それからまた日が経ち、奴隷たちをあらかた救出し、いよいよ賊の最後の根城へ総攻撃をかけるのみとなった。ドルーススからまた知らせが届いた。
十月十五日の元老院会議に、マルケルスは出席できなかった。今家族は、彼を輿に乗せて、カンパーニア地方へ移動しているところだという。バイアエの別荘で、彼を温泉に浸からせて癒そうという考えだ。ムーサ医師が提案したらしい。
「移動させられるくらいには、マルケルスは大丈夫だってことだよね」
ネルヴァでさえ、事態をより明るい視点から見たがった。ティベリウスも無理矢理のようにほっとした。重病人を二百キロも南へ移せるはずがない。マルケルスは持ち直したのだ。
カンパーニアならば、山を西へ下りればもうそこにある。この作戦が終わったらバイアエへ直行しよう。
マルケルスは、きっと少し困った笑顔で待っている。
そう決めて、ティベリウスは攻撃命令を下した。財務官隊六百人が、山肌を駆け上がった。
根城はたちまち崩れ落ちた。逃げ出した賊は、西へ山を越えた。一人も逃さないように、ティベリウスは兵を散らし、網を張った。それを引き絞りながら、地の利を確保し、賊を麓の牧草地へ追いやった。そこであらかじめ待機していたストラボの部隊四百人が挟み撃ちをして、作戦は完了となった。
その夜、ティベリウスは後始末に専心していた。奴隷たちはすでに故郷への帰途に着かせた。あとは新たに捕虜とした賊の処遇だ。土地の引継ぎもあった。
財務官隊の皆は、仕事が終わった者から順にたき火を囲んでいた。イタリア中部の取り締まりはこれで終わりとなり、あとは最南部を残すのみだ。経験が浅いとされたこの「本土防衛隊」も、ここまでの任務で自信をつけたようだ。作戦の成功を祝し、肉を食らい、葡萄酒を干し、肩を叩き合って騒いでいた。
彼らを労うという名目で、マルクスもまた祝杯に酔っていた。戦闘中弓を撃ち続けたネルヴァは、腕が痛い、指が動かないと嘆いていた。彼へルキリウスが、熱々の串焼きを差し出していた。
「君ね、弓ってのはいちばん怪力が使う武器なんだよ。あんなぴんと張った弦を引き絞れるものかい? しかも連射しなきゃならない。そりゃ疲れる」
篝火の傍らで、ティベリウスは立ったままストラボの差し出した書類に目を通していた。元奴隷たちの名簿で、無事に身の振り方が決まった者には印がつけられていた。すべてに印がつくと、ティベリウスはその書類にネロ家の印章を押し当てた。
馬の足音が近づいてきたが、ティベリウスは顔を上げなかった。部下のだれかが元奴隷の見送りから戻ったのだろうと思った。こんな夜更けまで苦労をかけたものだ。
「兄上……」
しかしそれは部下ではなかった。ドルーススだ。
一人だった。ティベリウスは弟の顔を見た。
篝火の輪がかろうじて届いたそれを、見たくなかったと思ったのは人生で初めてだ。
「マルケルスが、死んだ……」