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第五章 -10



 10



 九月、取り締まり戦線は、次第に南へと下がっていった。継父が南部の疑わしい農場を洗い出したと言うので、中間報告がてら、ティベリウスは一度ローマに戻った。

「背後に気をつけるんだよ」

 一緒に戻ったのだが、ルキリウスは警告するのだった。

「君は有力者の農場をいくつも潰したんだ」

「潰していない。今後は人さらいをしない所有者に任せるというだけだ」

「それでも君は、彼らから土地を取り上げたんだ」

 ルキリウスは苛立ちがちに言い直した。

「所有者なのに、未だしらばっくれてる議員や騎士もいる。『私は知らない。奴隷頭が勝手にやったことだ』ってね。中には、カエサルが君をけしかけて、自分の反対派を粛正してるんだとまで言い張る輩もいるんじゃないかな」

「なんだ、それは。ふざけている。今まで取り締まった連中は、全員悪辣な人さらいだったぞ」

「とにかく気をつけること!」

 ティベリウスがカエサル家の門をくぐるのを見届けてから、ルキリウスは自宅へ帰っていった。たぶんその前に、アポロン神殿の妻のところへ行くのだろう。

 継父は笑顔で迎えてくれた。九月の誕生日が近づけば、毎年鼻と喉を痛めて辛そうにしているのだが、四月のあの重篤と比べれば、こんなに健やかな姿はないと見えるほどだった。

「上首尾だな」

 継父は満足げにうなずいてくれた。

「怪我無く帰ってくれてなによりだ。首都にいる元所有者らはいずれこちらで処罰するから、心配するな。証拠は揃っているからな。この調子で南部も頼むぞ」

「はい」

「とはいえ、此度は少し休んでいったらどうだ?」

 背もたれに身を預けて、継父は力を抜いた。ティベリウスは逆に背筋を伸ばしたところだった。

「ですが一刻も早く取り締まらないと。また証拠隠滅に奴隷を生き埋めにしようなどと考える悪人が──」

「わかっている。わかっているが」継父は苦笑してうなずいた。「お前は頑丈すぎる。たまには疲れたそぶりくらい見せろ」

「疲れてはおりません」

「もうすぐ私の誕生日だぞ。四十歳になるのだ」継父は思い出させた。「マルケルスもせっかく盛大な祭典を準備しているというのに。我が甥を少しねぎらってやってくれ。お前が元気を余らせているなら」





 それで、ティベリウスはこの日を入れて三日間の休みを取ることにした。一日目はネロ家に戻り、留守にしていたあいだ出来事をプロレウスから聞いた。対応が必要な用事をこなしていると、ドルーススがやってきて、財務官隊の話を知りたがった。一緒に来たくてならないらしいが、マルケルスの手伝いがある。十五歳にふさわしい日々の勉学もある。それに今やアントニアが十三歳になった。目を離したうちに結婚されたらどうするのかと、兄や継父から指摘された話を、健気にも真に受けている様子だった。

「いや、ティベリウス、兄より先に結婚させるわけにはいかないだろう?」と継父はおどけた感じで言うのだった。

「私はかまいませんが」

「いやいや、よく考えろ。お前はあのやんちゃ夫婦と同じ家で暮らすことになるんだぞ」

 言われてみれば、確かに、とティベリウスは思い至った。継父がドルーススとアントニアの婚約を表明していないのは、単に面白がっているからで、結婚させないでいるのは、二人ともまだ若すぎるためだ。しかし実現すれば、ネロ家には家父長より早く弟夫婦が誕生することになる。自身の結婚生活のなんたるかもわからないのに、ティベリウスはあの二人を監督下に置かなければならないのだろうか。

 せっかくドルーススは母方の名前を貰っているのだ。家がもう一軒必要かもしれないと、ティベリウスはこのとき初めて考えた。

 しかしドルーススとアントニアだけで一軒家に暮らせと言うのも、それはそれで恐ろしい気がする。

 夕方には、ヴィプサーニアが義母マルケッラに連れられて現れた。いつもと変わりなくにこにこしている婚約者だったが、父アグリッパの不在を、ティベリウスはなぐさめんとした。

「大丈夫です!」

 と、ヴィプサーニアは元気よく声を張った。

「ヴィプサーニア、お父様がそれを聞いたらきっと泣いちゃうわよ。お前はお父ちゃんがいらないのか~~って」

 マルケッラが笑いながら指摘すると、ヴィプサーニアはおろおろと首をあっちへこっちへあさってへ振った。ティベリウスもそれを見て吹き出した。袋から守り石を取り出し、ヴィプサーニアに染め直しを頼んだ。

 夕食は、カエサル家で家族と共にした。もちろんマルケルスも母と妻とアントニア姉妹を連れてきた。けれどもマルケッラ姉妹もユルスとヘリオスとプトレマイオスも家を出たので、このごろ家の中が寂しい、とマルケルスは言った。一方、オクタヴィアは子育てがひと段落したので、いく分ほっとしている──と思いきや、末のアントニア一人で男児五人分くらいの世話が焼けるとこぼすのだった。

 翌日は、早々とカエサル家の浴室に入り、継父とマルケルスと並んでマッサージを受けた。マルケルスは終始はしゃぎがちにとめどなく話したので、体をくつろがせることができたかはわからない。とにかく継父とともに、楽しそうではあった。

 夜には、ネロ家に友人たちを呼び、お互いの近況報告という名目で宴を開いた。当然マルクスなどは得意げに「イタリア誘拐撲滅団」の活躍を大仰に語り聞かせ、ネルヴァにしょっちゅう訂正されていた。

「飛び越えてない。君は振り落とされたんだ。下が肥溜めで幸いだったよ」

 ルキウス・ピソは二十五歳で、財務官に当選していた。首都で国庫を管理するという、昔ながらのこれぞ財務官という任務をこなしているところだった。

「金の流れを覚えることで、ようやく国家の全体像が見えると思ってる。こっそり懐に入れない自制心も身につくしな」

 レントゥルスは妻が懐妊したそうだ。順調であれば、来年早々には父親になる。ファビウスは引き続き弁護に引っ張りだこで、合間に詩作にも勤しんでいるようだ。グネウス・ピソは執政官となった父親から、この機を逃さずに学んでいる最中だという。

 ルキリウスは結局また顔を出さなかったが、翌日の午前、ティベリウスがマルケルスと外出すると、さりげなく後ろにいた。妻コルネリアも一緒で、共に腕を組んで歩き、ティベリウスに話しかける気はなさそうだった。

 ティベリウスは一昨日の警告を覚えていた。それで、マルケルスに誘われたときはちょっと困ったのだ。今自分と一緒にいるのは危険かもしれない、と。

 しかし二人には家の奴隷が一人ずつ従う。ルキリウスも気を利かせたらしく、素知らぬ体の財務官隊の面々まで辺りにちらほら見える。

 なにより、マルケルスの厚意を受けたかった。祭典は四日後に迫るが、ティベリウスはこの日の夕方には仕事に戻ることにしていた。それでマルケルスは、せめてひと足早く、ティベリウスに祭典の雰囲気を味わってほしいというのだ。

 マルケルスが主催する「ローマ人の祭典」は九月二十四日、アウグストゥスの誕生日の翌日から、三日間にわたって開催される。凱旋式のような歴然とした名目はない。しかし祭りとは、人々をいつだってうきうきさせる。

 病を乗り越えたアウグストゥスの、四十歳の誕生日を祝う。ローマ覇権下のいかなる場所でも戦争が起こっていない、平和な時代の到来を祝う。名目はそれで十分だ。

 ルキリウスもすでに聞いただろうか。エジプトでは総督ペトロニウスがすでにシュエネ、エレファンティネ、そしてフィラエを奪回し、エチオピアまで進軍した。ローマの勝利は決定的となり、メロエ側が降伏を求めてきているとのことだ。

 疫病もまた夏には鳴りを潜めた。冬にはまた襲ってくるかもしれないが、人々はそれに備えて豊かな実りの秋を満喫するつもりだ。

 先を行くマルケルスは、この首都の雰囲気がうれしいのだろう、にこにこと笑顔が絶えず、満身が輝いて見えた。しかしその奥で、いく分疲れているような気配が見えたのは、ティベリウスの気のせいだったろうか。

 そうでもないのだろう。叔父のため、ローマ市民のため、マルケルスはこの一年、日々懸命に造営官の仕事を担ってきた。叔父が重篤となったときは、自らも心身を衰弱させた。そして安堵する間もなくまた忙しくし、もうじきその頑張りが頂を迎える。気を張って当然だ。

 アグリッパ不在の首都で、マルケルスは本当によくやっていた。ティベリウスは首都の外にいたが、だれかがマルケルスに不平をこぼすのを聞いたことがなかった。実際はそうではなかったのかもしれない。けれども市民の大半が、マルケルスを讃え、応援している。どれほど賢明な統治をしようと、上に立つ以上は批判者を抱えずにおれない叔父、その人を上まわるほどの愛を一身に受けているのかもしれない。

 ──若くて美しいマルケルス。未来への希望に満ちた少年よ。

 喜ばしいことだろう。しかしそれは、一方で多大な圧力でもあるのかもしれない。きっとティベリウスには想像が及ばないほど重い。

 しかし人々は、思い思いの期待を彼へ乗せるのだ。将来が明るい、その見通しがあるからこそできることだ。彼の叔父がもたらしたところの平和は、今この首都を見る限り、確かに無上の現実だ。ローマはこれほど希望に満ちた日々を、もう百年余りも忘れていた。あるいは、建国以来の平和なのではないか。

 長い内乱は終わった。地中海世界において、ローマの覇権は安定した。ヴェルギリウスの予言は実現するのだろう。新しい世紀の到来だ。

 ローマによる平和。永遠であれと望む繁栄。

 その象徴として、彼は生まれた。

 マルクス・クラウディウス・マルケルス。その名とともに、新しく平和な時代が始まる。

「ティベリウス! ティベリウス!」

 揺さぶられて、ティベリウスははたと我に返った。

「寝ないで! 寝ないで! もうっ、これからがいいところなのに!」

 マルケルスが苦笑していた。ポンペイウス劇場で、本番前の通し稽古を見せてくれていたところだ。観客席には、演出関係者を除けば、マルケルスとティベリウスの二人しかいなかった。

「……悪かった」

「む~っ、ティベリウスを大笑いさせたくって喜劇にしたのに~~っ」マルケルスは、今度は膨れ面を作った。「どうやったらティベリウスは笑うの?」

「いや、笑うぞ」ティベリウスは実際に笑っていた。「君の豊かな表情が好きだ。昔から」

「ぼくを馬鹿にしてるなぁ? いつまでも五歳だと思ってるなぁ?」

 それは二人が初めて出会った年齢だ。

「すまない」ティベリウスはますます破顔した。「馬鹿にしてはいない。可愛らしいとは思うが」

「やっぱり馬鹿にしてるんだぁ。ぼくのほうが、まだ年上なんだぞぉ!」

「わかってる」

「わかってなぁいっ」マルケルスはぷりぷりしてみせる。「ティベリウスが笑うまで今日は帰らないから! 笑うまでぼくが台本を書き換えるから!」

 その膨れた頬をティベリウスが両手で挟むと、マルケルスはぷはっと吹き出した。満面の笑みが、代わって現れた。

 結局マルケルスは、ティベリウスをくすぐるという手っ取り早い方策を取った。二人は身をよじって笑い合いながら、劇場をあとにした。

 タウルス円形闘技場には、見世物用の珍しい動物が運び込まれていた。ワニにカバ、キリンまでいる。獅子は野獣狩り用だろう。剣闘士たちも準備に余念がない。

 チルコ・マッシモでは戦車競走が開催されるとのことだ。一方フラミニア競技場では、若者たちの体育や馬術競技が行われるという。

「思い出すなぁ」

 フラミニア競技場の回廊を歩きながら、マルケルスはしみじみと言った。

「トロイヤ競技祭。君とぼくで、年少組の組長を決めるために、一騎打ちをした」

「ああ、そうだったな……」

「ねぇ、ティベリウス」

「なんだ?」

「ふふっ、なんでもな~い」

 くすくす笑いながら、マルケルスは先へ行ってしまう。ティベリウスは苦笑しながらゆっくりと追いかける。

 あれから十年だ。二人は変わらず一緒にいた。

 けれどもこれからしばしの別れだ。陽が傾きはじめた。ティベリウスはそろそろ首都を発たねばならない。

 二人は中央広場へ入った。行き道も見たが、見事な天幕が一面に張られていた。マルケルスが市民のために手配したものだ。夏のあいだ、強烈な日差しから中央広場を守っていた。九月になった今も、市民に大好評だ。白と紫の厚手の布が交互に張られ、見た目も美しい。明かりを奪いすぎない白と、確かな清涼を与えてくれる濃い紫の並びが巧みだ。「ローマ人の祭典」が終わるまでは、このまま張っておくそうだ。

 二人はカエサル神殿の前へ来た。マルケルスはティベリウスのために、神君カエサルの霊へ祈ってくれた。ティベリウスが元気で帰ってきますように。任務が無事遂行されますように。

 ティベリウスもまた、残りの任期、全力を尽くすことを誓った。見守ってくださいと願った。

 一瞬、この神像を置いたというアントニウスの顔が頭をよぎってしまったが。

『祖国の貢献者、父に』

 マルケルスは、かつては彼の継父だったアントニウスが、亡き神君を父親のように敬う気持ちから置いたのだと思うと、いつか言っていた。

「ティベリウス、どうしても行っちゃうの?」

 神殿をあとにした二人は、パラティーノの丘に沿って歩いた。ティベリウスはそのままアッピア街道に乗ることにしていた。

「ああ、財務官の任務だからな」

「ピソみたく市内での仕事だったらよかったのに」

「カエサルの任命だからな」

「ぼくも一緒に行きたかった」

「君は争いごとが嫌いだろう」

「そうだけど」

「本気を出せば強いのだがな」ティベリウスはにやりと笑いかけた。「ヒスパニアで私に迫る敵を、槍で貫いた。忘れていないぞ。マルケルスの『黄金の右腕』 私はまだあの多大な借りを返していない」

「なに言ってるの。ティベリウスはその何倍もぼくを助けてくれたのに」

 マルケルスもまた微笑んだが、なんとなく泣き顔のようにも見えた。そして両腕を伸びをするように大きく振った。

「あーあ、かなわないなぁ、ティベリウスには」

「どうしたんだ? アグリッパに負けたくないと意気込んでいた君が」

「ティベリウスはぼくを近づける気もないでしょ」

 その言葉に、ティベリウスは内心どきりとした。それもまた見透かしていたのか、マルケルスはそっと笑みを深めた。

「ぼくを守るためには、ぼくよりも強くて当たり前。ティベリウスはいつもそう考えてる」

 そのとおりだった。ティベリウスはいつだってマルケルスの数歩先、否、百歩も先を行かなければと考えていた。それこそが自分の役目、そして誇りであるからだ。

 だが、マルケルスを讃えたのは欺瞞ではない。

 腕を振りながら、マルケルスは先を歩いていった。ティベリウスには、その背中が少しばかり小さく見えた。

「叔父上もそれがわかっているんだ。だからいつも君をぼくにつける。色々君に先に体験させるし、君のほうに難しい仕事を任せる。叔父上は……君のことをだれよりも評価しているんだよ」

「マルケルス」

 ティベリウスは大股で歩き、マルケルスの腕をそっとつかんだ。ほとんど泣いている笑顔。ティベリウスはかまわず、まるで平然と笑いかけた。

「それを言うなら、君だって私のことを知っているはずだぞ。もう何年のつき合いだ? 私が祭り嫌いで庶民軽侮、傲岸不遜のいけ好かない貴族だということを、わかっているだろう?」

「……自分でそれ言っちゃうの?」

「君は私にないものをたくさん持っている」

 マルケルスのきらめく茶色の瞳。その一対をまっすぐに見つめて、ティベリウスは言った。

「もちろん、カエサルもご存じだ。だから我々を共に置く。完璧はないんだ、マルケルス。我々は二人で一人。どちらが欠けても成り立たない。お互いを補いながら、懸命にカエサル・アウグストゥスに近づかんとする。違うか?」

 マルケルスもまたティベリウスの目をじっと見つめていた。やがて真心からの輝きが、その満面に満ちていった。

 やはり太陽のようだ。昔と変わらず。

 太陽は今、パラティーノの丘の端に隠れようとしていた。ありがとう、ここでいい、とティベリウスはマルケルスに言った。二人は互いの頬に接吻をした。その先の道を、ティベリウスは一人歩き出した。

 アッピア街道で財務官隊が待っている。ネロ家の奴隷もいて、ティベリウスの馬と旅装を整えているはずだ。ルキリウスもたった今、足早に後ろを横切っていった。コルネリアの手を引いていたので、彼女をアヴェンティーノの家に送り届けてから合流するつもりだろう。いちばん遅くなるのは彼であるようだ。置いていこうか。

「ティベリウス」

 呼び止められて、ティベリウスは振り返った。マルケルスがやはりいて、少し寂しそうに微笑んでいた。パラティーノの丘の階段を数段上がっている。ティベリウスをできるだけ長く見送ろうと考えてくれているようだ。

 長い影が斜めに伸びていた。ティベリウスは彼を見上げた。赤みを帯びはじめた陽光が、十九歳の姿を照らしていた。

「元気でね。帰ってきてね」

「ああ、君も無理するなよ」






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