第五章 -9
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八月も半ばを過ぎた。ティベリウスたちは次の農場に向かっていた。
この日の視察予定地は、ある元老院議員の所有とされていた。裕福ゆえ規模も大きい。そのため奴隷が多数働いているが、近隣からは人さらいが行われているという苦情がたびたび寄せられていた。事実であれば、正されなければならない。抵抗された場合、これまでの取り締まりの中で最も荒れる事態になりそうだ。
ティベリウスはいつもの倍の兵を集めた。これでも相手側の労働従事者数の半分にも満たない。
「急ぐぞ」
ティベリウスは馬にまたがった。
「もう我々の噂が届いているはずだ。なんらかの証拠隠滅を画策している可能性がある」
「待った、ティベりん」
マルクスが馬首を並べてきた。
「なんだ、マルクス?」
「ぼくらの正義の証を用意した」
「……なんだ、これは?」
マルクスが差し出したのは、色違いの帯四本だった。
「鉢巻だよ。はい、ティベりんには青」
「……どうして?」
「君、青が好きだろ」
「いや、そういう意味でなく」
「なんかカッコいいじゃないか。汗止めにもなる」
手のひらに置かれた青い帯を、ティベリウスは疑わしく見つめた。「普通、こういうものは隊で色を揃えるものではないのか?」
「いや、これはぼくら四人の目印で、象徴だから」
「なんの象徴だ?」
「正義の英雄かな。いや、もっと具体的に、イタリア誘拐撲滅団の四本柱かな。うん、それがいい。そうしよう」
「……いや、やっぱり色が違う意味がわからないが」
「ティベりん、染料は高いんだよ。ちなみに青がいちばん貴重だから。ぼくのは黄色。ネルヴァのは紫で、ルキリウスのは赤。どっちも超高級なテュロスの紅紫染めとは関係ないから安心しろ」
「なんでぼくが赤なの!」
ルキリウスが抗議する。紅紫染めとは違っても、赤とはやはり将軍格の象徴であるからだ。
「君の頭に黄色は映えないじゃないか」この賢明さを察しろとばかりに、マルクスは鼻を鳴らす。「ぼくの頭なら映える。それに実際赤よりもずっと目立つ。紫がいちばん目立たないけど、ネルヴァはそのほうがいいだろ? 敵に狙われにくいだろうから」
「これを巻かないほうが狙われないと思うんだけど……」とネルヴァがまっとうなうめきをこぼす。
「いいから巻け! 今日がぼくらイタリア四支柱の誕生日だぞ!」
「さっきより主題が大きくなってる!」
「おおっ、主題と言えば、ぼくらの主題歌も作ろうと思っているところだ!」
非難めいた指摘をするルキリウスへ、マルクスは輝く顔を返した。
「父上のところの詩人に頼もうかとも考えたんだけどさ、やっぱりここは教養高いメッサラ家の嫡男として、このぼく自ら創作を──」
「ネロ、大変です!」
そこへストラボが急ぎ馬を駆ってきた。件の大農場へ偵察に送っていたのだった。
「我々の視察を察知した主が、奴隷数百人を生き埋めにしようとしています! 畑に大穴を掘らせて──」
「なに本当にとんでもなく大変なこと言ってんの?」ルキリウスが思わずとわめく。
ティベリウスが結局鉢巻を締めることにしたのは、いったん自分の気持ちを落ち着けるためだった。
「行くぞ!」
イタリア誘拐撲滅団、もとい財務官隊が田舎道を駆け抜けた。
思えば痛快な日々だったと、ルキリウスは笑みをこぼさずにはいられない。
彼らは間一髪間に合った。ティベリウスは馬脚が穴にはまってよろめいたマルクスをひっつかんで飛び、そのまま戦闘に移った。あとは青と黄色の鉢巻が縦横無尽に走って翻るのを、ルキリウスはただネルヴァと二人眺めているだけでよかった。
「あの二人は確かローマの由緒正しき貴族氏のご嫡男だよね?」一応ネルヴァに確かめる。「なんであんな猛牛みたいに戦うのかな?」
「ティベリウスはもちろんだけど、マルクスも腕は立つよ。性格はあんなんだけど」
ネルヴァはいつも毒舌だった。
「あれで昔から、ティベリウスに負けたくないって努力してた。お父上がティベリウスにずっと目をかけておられるから。『ティベリウスはなにをしても優秀なのに、うちの息子ときたら──』ってよく言われて。まぁ、親というのは、人前では我が子を謙遜するものなんだろうけど」
そうなのかもしれない。父は知らないが、ルキリウスの母はそうだった。まして相手がリヴィアやオクタヴィアでは、いくら謙遜してもしきれずに消え入りたいと思ったに違いない。
「でもあの二人、仲は良いよね?」
ルキリウスはまた確かめた。これは嫉妬じゃないと、自分に言い訳しながら。
あの二人が最も古い幼なじみであることは知っていた。
ネルヴァはうなずいた。「ティベリウスが大人だというか、もうあきらめているのかな。マルクスもマルクスで、そんなに長く不機嫌でいられる男じゃないから。生まれついてのお調子者さ。それでいてやっぱり生粋の貴族同士、通じるなにかがあるんだと思う。比べられるのが辛くて、一時はマルケルスのほうと仲良くしたがったこともあったけど、なんだかんだ、ティベリウスが好きなんだよ」
それでもこのネルヴァも、貴族氏ではないが、元老院階級の出だ。ルキリウスよりは二人の貴族的精神というものを理解しているのだろう。
ルキリウスはやはり少し寂しく思った。ティベリウスの精神に張る根の大事な一筋を、いつまでも理解し得ないのではないか、と。
まぁ、今となっては気にしていないが。
「それにしても、今回の任務はまさに適材適所だよね」
生き埋め用の穴から奴隷たちを引っ張り出しながら、ネルヴァはいつぞやのルキリウスと同じ言葉を口にした。
「首都は今いちだんと華やかになった。カエサルとアグリッパ殿が色々こしらえたためでもあるけど、マルケルスが頑張っているんだ。建物を修復しながら、綺麗な布の幕をかけたり、この時期らしくお花を飾ったりして、あのよくなじんだ混沌が隠れてしまっているくらいだよ。見世物もよく目を引く。騎士と婦人の踊りなんて、昔じゃ考えられなかった」
「そ、そう……」
かく言うネルヴァだって、十九年しか生きていないはずなのだが。
「そういうことを、ティベリウスができたと思う?」
問いかけて、ネルヴァはすぐに自分で首を振った。
「無理なんだよ。本人にも苦痛でしかないんだよ。見世物自体まず嫌いだし、周りをきらびやかにするとか、立派な建物を捧げて誇るとか、向いてないんだ。興味もないと思う。今あるものの修復工事とかだったら、力を尽くすだろうけどさ。質実に、実用で国家に貢献すること。それがアッピウス・クラウディウス以来の一門の誇りだ。市民に笑顔で手を振るとか、愛想良くへりくだるとか、人気を取るっていうのがだめなんだ。場合によっては死んだほうがましって見なすくらいに」
ネルヴァもティベリウスへの見解を同じくしていた。ルキリウスは初めて気づいたようなふりをして話を合わせた。
「それじゃあ選挙に当選もできないじゃん。幸いにして貴族だからなんとかなってきたんだろうけど」
「あまりなっていないよ。ネロ家はとりわけ誇り高いからね。かのガイウス・ネロ以来、同門のプルケル家に後れを取っていたのもそのせいだ」
「手厳しいね、ネルヴァ家のマルクス」
「だからネロ家の男は、実力で認められるしかない」
老奴隷の手を取って、ネルヴァは思いきり引っ張り上げた。
「ぼくはそんなティベリウスが好きだよ。もう少し愛されることに興味を持ってほしいけど」
それは、ルキリウスも同感だった。
「穀物供給も人さらいの取り締まりも、ティベリウス向きの仕事だ。地味だけど、市民に貢献できる。実力勝負ができる。優しくて素直で、いつも笑顔でいられるマルケルスも、ぼくは好きだ。あれはあれで芯の強さが必要なのもわかる。でもカエサルは、二人に適した仕事を割り振ったと思う」
「そうだね」
「まぁ、ティベリウスはもしかしたら遠ざけられたのかもしれないけど」
ネルヴァは大きくひと息こぼした。例の鉢巻のおかげで、汗はぬぐわなくて済んだようだ。
「つまり、アグリッパ殿みたいに?」
「うん。来月首都で大きな祭典があるでしょ。マルケルス主催の」
ネルヴァは次の奴隷へ手を伸ばした。
「その準備で、ローマはきらびやかさの坂を駆け上って、いよいよ頂に達するところだ。それが幕を閉じたら、いよいよマルケルスはカエサル・アウグストゥスの後継者に指名されるのかもね」
ルキリウスはティベリウスから、アグリッパが実際になにをしに東方へ去ったのか聞いていた。けれどもそういう見方がされていたことは事実だし、大半の人が同じ推測したということは、そういう道筋に乗っていくことになるのだろう。
運命とは、時にだれにとっても思いがけない道筋を出現させる。ルキリウスはそれをすでに知っていたはずであるのに。
「おい、ネルヴァ! 危ないぞ!」
マルクスが叫んだ。大穴から奴隷たちを助け出しているネルヴァの周りへ、斧を振りかざした男たちが集まりだしたのだ。戦闘が終わるまで奴隷たちは穴に留めておいたほうがよかったのかもしれないが、財務官隊に蹴散らされた人さらいどもが一人また一人と落ちたり飛び込んだりして、そうもいかなくなったのだった。
「大丈夫だ」
マルクスの背中を狙う鎌を、ティベリウスの剣が跳ね飛ばした。
「君は目の前に集中しろ!」
「ああっ、くそっ、そこどけよ!」
マルクスが屈強な男二人を相手に立ちまわる。ティベリウスも加勢する。
兵力はほとんど後方に残していなかった。畑で戦うのでなければ、逃亡する農場主の追跡にまわしていた。
だが問題はない。
「ネルヴァ、ちょっとだけ目を閉じていてくれるとありがたいんだけど」
ルキリウスの声が聞こえた。
オマージュと申すのもおこがましいのですが、T、M、N、T(……あれっ?)
もうLLで二つ並べたLを逆さにしてくっつけよう。
主題歌は……もう決まっておりますわね!(ごめんなさい)(長年のファンなんです)