第五章 -8
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「いやぁ、ひどいなぁ、ティベりん、せっかく無事に帰ってきたぼくらを放っておくだなんて~」
その夜は、皆でたき火を囲んだ。肉をくべ、シチューを煮、木の実を割って葡萄酒に添えた。
件の農場の後始末は、明日には終わる見通しだ。解放された奴隷たちへ、故郷に帰すなどの身の振り方を図らっているところだ。
マルクスは上機嫌だった。だれよりも食べて飲んでいた。本人の中ではティベリウスの絶体絶命の窮地に駆けつけたことになっているらしかった。
ティベリウスは杯をすすった。「いつ帰ってきたんだ?」
「四月だよ! 知らなかったの?」
「カエサルがご病気だったんでな」
「ああ、ぼくらも一時はどうなることかと思ったよ」マルクスはうんうんとうなずいた。「ぼくらは北から帰る道すがらだったんだけどさ、どの町も村も異様な雰囲気だったよ。みんな祭壇をこしらえて、ひれ伏しているのさ。『カエサル・アウグストゥスに神々のご加護を~!』もう葬式みたいな悲痛なあり様だったよ」
「マルクスってば」ネルヴァが眉をしかめた。それからティベリウスへ言った。「ぼくらが帰り着いたときには、カエサルも快方に向かわれているという話になっていた。そのとおりになって、ほっとしたよ」
「ティベりんはさぁ、君がオスティアにいるなんてしばらく知らなかったし、ちょくちょく帰ってきてたんなら、なんでぼくん家に顔を出さないの? なに? パラティーノの家は焼けたから、もうめんどくさくなった? 図星か? 図星だなー!」
すでに酒がまわっているらしく、マルクスはティベリウスの首を締め上げんとした。ティベリウスは払いのけようとして、あわや彼をたき火の中に押しやるところだった。ネルヴァとルキリウスが即手を貸し、なんとか落ち着いた。
「なぜここへ来たんだ?」マルクスの首元を引き戻しながら、ティベリウスは訊いた。「北から帰ったばかりなのに、とんぼ返りも同然だろう」
「君は何? あのくそ暑い八月のローマで暇をしてろと?」マルクスは仰天だとばかりに目を丸くした。「君が北で素敵な避暑をしているのに?」
「避暑ではない!」
「疫病まだ収まらずのローマにいろと?」
「だいぶ下火になったけどね。次の冬が心配だけど」
ネルヴァが杯をすすりながら言う。中身は牛乳だ。
「マルケルスの手伝いをしていればよかった。そうでなくとも、彼が色々と楽しい見世物を開催しているのではなかったか?」
ティベリウスは指摘した。ドルーススを置いてきたのもその名目で、しばらくはマルケルスの手伝いをしながら、アントニアと過ごすように勧めた。彼女も兄ユルスや姉たちが家を出たので、少しさみしいだろうからというのが、一応ドルーススのための理由だ。あのおてんばは気にしていないだろうが。
それでもそのうちここへ現れるかもしれない。実のところは喧嘩沙汰になること確実の任務に、ドルーススを連れ歩きたくなかっただけだ。大暴れ馬を御して行くに等しいからだ。
現れたのは、別の暴れ馬とその御者だったが。
「はあん? マルケッラも結婚! 姉のアントニアも挙式間近! こんな状態の首都にいて、ぼくになんの楽しみが?」
マルクスの失恋の傷は癒えていないらしかった。酒のせいだろうが、また涙目になっていた。
ため息交じりにティベリウスが背中を叩いてやると、マルクスは抱きついてきて、おいおい泣いた。左腕はぶんぶん振りまわしていた。
「ぼくにも発散させろよ、ティベリウス! ゲルマニアで鍛えたこの腕前を、悪党どもに見せつけてやるからな! ……ところでさっき救出した奴隷たちの中に、ちょっと可愛い子がいたな。こげ茶色の髪の。ぼくが買っていいかな?」
「だめだ。一度親元に送り返す」
「この堅物め!」マルクスはティベリウスの胸を叩いた。「もうあこがれのゲルマニア人と同じ体になってるぞ! いい加減禁欲はやめろ!」
「だれがあこがれるのか!」
「……やっぱりみんなそう思ってるんだ」ルキリウスがつぶやいた。
「まぁ、マルクスもあこがれていたけど」ネルヴァもまたつぶやくように言う。「ゲルマニアの男だけじゃないよ。蛮族じみた見た目を少し整えたら、女人もすごく綺麗になってさ。きらめく金髪で、肌が白くて瞳が美しくて……ほとんど全員ぼくらより大きかったんだけど」
「そう……」
ルキリウスが白目になるのを、ティベリウスは見た。エジプトやアラビアにも美しい女人はいただろうが、すべてをあのカンダケの偉容が押しのけるのだろう。
「カエサルとアントニウスだって、一緒に女遊びをしてまわったって話じゃないか」
マルクスは訴えたが、リヴィアを母に持つ男には複雑な話だった。真偽のほどは不明だが。
「なら、ぼくらだっていいじゃないかぁ! つき合えよ~~?」
「ゲルマニアはどうだった?」
マルクスをそのまま膝上で寝かしつけることにして、ティベリウスはネルヴァに訊いた。ネルヴァは首をすくめた。
「作戦は順調に進んだ。復讐は果たせたし、基地の増強も進んだから、ライン川の防衛はしばらく大丈夫だと思う。ぼく個人としては二度と行きたくないけど」
それからしばしティベリウスはゲルマニアの話を聞いた。話したのはもっぱらネルヴァで、マルクスはティベリウスの膝上でいびきをかいていた。その上を、虫たちが横切り、赤々と燃える火の中に次から次へと飛び込んでいくのだった。夏の盛りももうすぐ終わりだ。北部の夜更けは、こうしていなければ少し肌寒いくらいだった。
「ヴィニキウス将軍は優れた指揮を執られた」ネルヴァは話した。「食事にも困らなかったよ。小麦も持ち込んだけど、ゲルマニアの森には鹿とか猪とか、野獣がいっぱいいてさ。どれもこれもものすごく大きいんだ。野牛を見たときは、ぼくらもう死んだと思ったな。魚もだよ。ヴィニキウス将軍御自ら川に入られて、とんでもない大きさの魚を抱えて戻ってこられた。『戦士たちよ、ゲルマニア人があれほど大柄であるのは、皆がこれほどの肉身を日々腹に収めておるからだ。諸君らも負けずにたらふく食べたまえ』 以来、将軍は『ゲルマニアの熊』と──」
「ルキリウス・ロングス! 君はぼくにつき合ってくれるか!」
だしぬけにマルクスが飛び起き、ルキリウスに迫った。
「……あいにくぼくはもう所帯持ちで……」
「なんだとぉ? 詳しく聞かせろ!」
マルクスが絡む相手を変えたので、ティベリウスはそのまま地面に仰向けに寝そべった。
「星が綺麗だ」
ネルヴァも並んで夜空を見上げた。
マルクスとルキリウスの騒ぎを除けば、平穏な夜だった。仕事終わりに、友人と、満ち足りたひとときだ。
こんな日が永遠に続かないことなどは考えてもみなかった。