第五章 -7
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「親愛なるティベリウス・ネロ」ルキリウスが知りたがった。「どうしてこんなことになってるのかな?」
剣の柄に手をかけながら、ティベリウスは答えた。「抜き打ち調査を好まない人間が、世の中には多いらしいな」
「好まない人間しかいないよね?」ルキリウスは嘆いた。「もう学習しようよ。三回目だよ」
しかも三回目にして、傍目にはいちばんまずい事態になっていた。とある倉庫の中で、ティベリウスとルキリウスは剣や斧や鎌を振りかざした男どもに取り囲まれていた。二人だけで。
一回目と二回目はまだよかった。財務官付きの兵なる仲間たちが一緒だった。ところが、さほど離れていない場所である。三回目となると、噂が先に届いていたらしい。農場主はさも無害で協力的な態度を取って、若い財務官とそのお付きの者一人を巧みに誘導した。どうぞどうぞ、好きなだけご視察なさってください。なにも後ろ暗いところはございません。我が家の奴隷たちは、あちらの畑で仕事をしております。宿舎はこちらです。大事にしております。かまいませんので、気の済むまでお調べください。おおっ、そういえば財務官殿にぜひお見せしたいものが。はい、実はこの春、我が家のロバがなんと三つ子を産みまして──。
そして、この状態である。まぁ、きっとこうなるのだろうな、とティベリウスも思っていたのだが、ルキリウスは不服であるようだった。当然だろう。
しかしおかげで動かぬ証拠へ案内された。ロバの三つ子どころではない。その五倍ほどの数の年端も行かない子どもらが、倉庫の隅に固まっていた。鎖でつながれおり、どう見てもこの農場の家族ではなかった。
ローマでは奴隷は主の所有物だ。自分の農場で働かせることは、法律違反でもなんでもない。
しかしこの子どもらは、この農場主の所有するところのものではなかった。近隣から無理矢理、あるいは言葉巧みにさらわれて、不当に奴隷とされた者たちである。そして劣悪な環境下で、強制労働をさせられているところだ。
こうした悪辣な農場、牧場がローマ本土にはびこっているとのことだった。ティベリウスの新たな任務とは、そのような悪人を取り締まることだ。そして不当に留置された者らを救い出すことだ。
昨年、アオスタに滞在中、継父はこの現状を耳にしたそうだ。家族や友人をさらわれた者たちが、憎しみを訴えてきたそうだ。あれは農場ではない、奴隷の強制収容所だ、と。
ローマより北でその疑いのある場所を、継父はあらかた調べ上げていた。南は現在調査が行われているところだという。
新たな任務を聞くや否や、ティベリウスは奮い立った。オスティアでの消化不良感をほとんど忘れたほどだ。ただちに執務室を引き払い、北へ馬を駆った。命令書を出すだけの穀物供給の職とは違う。これぞやりがいある仕事だと思った。少なくとも結果がすぐに見えるはずだ。その場で人を救えるのだから。
しかし人を救うよりまず先に待ち構えていたのは、農場主側の抵抗だった。一回目二回目、いずれの抜き打ち視察でも、結局戦闘沙汰になった。ティベリウスはこれを想定していた。以前ヒスパニアで、アグリッパと鉱山を視察した時も騒動になったからだ。
継父もまた、それに備えてどこからか兵力を用意していた。
「えっと、この人らはだれかな?」
最初、ルキリウスは戸惑いがちにそう首をかしげたのだが、ティベリウスも正直同じ疑問を抱いていた。とりあえず継父の答えをくり返した。
「本土には軍がいない。各都市に警察がいるのみだ。これは本土全体の防衛のために整えているところの者たちだ。形になって、まだ日が浅い。一緒に経験を積むように」
ティベリウスが一度に連れ歩いたのは百人前後だが、この「本土防衛隊」はあちこちで準備していた。奴隷収容所を一つずつ潰しながら、彼らを各地に配置していく。継父はその役目もティベリウスに任せた。二度と収容所が復活しないための見張りにもなるから、と。
ティベリウスは言われたとおり、この新しい部下たちを率いて北部各地をまわった。一回目二回目は、それで事は収まった。
そして三回目となると、相手方も悪知恵を働かせることにしたようだ。頭である若造財務官さえ始末すれば、この集団を追い払えると考えたらしい。そもそもこいつらはなんだ? なぜ善良なローマ市民に兵が向かってくるのだ? ふざけるな、盗賊どもめ!
ティベリウスとルキリウスは、そういう台詞をもう何度も聞いた。善良なローマ市民ではないから法の裁きを受けねばならないのだとは、言っても聞こうとしない。
囚われの奴隷たちは、子どもが多かったが、成人年齢を過ぎた男女もいた。家出をした者、長男でないゆえに軍役へ追いやられて逃げ出した者、そしてただ道を歩いていた者──事情は様々だが、いずれも正当に入手された奴隷でないことが問題だ。そしてなんであれ、劣悪な環境で酷使されてはならなかった。彼らはそろって体に鞭の跡を負っていた。焼き印を押されている者も多かった。
ティベリウスのはりきりは、すでに怒りに変わっていた。それを露わにしないのは、そうしたところでだれも救えないし、悪人も改心しないと感じているからだ。ただ粛々と取り締まり、二度と同じことをさせなくする。それこそが任務だ。
そして三回目、ルキリウスだけがティベリウスの静かなる怒りの発散に付き合わされていた。もうすぐ静かでもなくなる。
「ひとまず連中は私を狙ってくるはずだ」
剣を抜きながら、ティベリウスはルキリウスにささやいた。
「その隙に、お前は子どもらの安全を確保してほしい。少しのあいだだ。すぐにストラボが追いついてくる」
ストラボとは「本土防衛隊」の隊長の一人で、二十代半ばだ。こういうこともあろうかと、ティベリウスが事前に言い含めて置いた男だ。だまされているふりをして、やつらが尻尾を出したところを捕らえるのだ、と。
人さらいどもが鬨の声を上げた。
「背後にも気をつけろよ!」
ティベリウスはそう言い置いて、人さらいどもの中へ飛び込んでいった。
「親愛なるティベリウス・ネロ」
と、ルキリウスはひっそりつぶやいた。
エジプトから帰って以来の実戦だった。正直に言えば、ルキリウスはうれしかったのだ。ティベリウスが隣に並ばせてくれた。十四歳の日では叶わなかっただろう。だからあの三年は無駄ではなかった。そう思えた。
しかしせっかく背中を守って戦えると思ったら、ティベリウスときたら一人でさっさと突進してしまった。まぁ、仕事を与えられたことがまず光栄ではあった。ご丁寧にルキリウスの心配ばかりして。ルキリウスもわかっていた。囚われに見えようと、主人に忠実な奴隷もいる。かばったつもりが背中をぶすりとやられかねない。
おかげでルキリウスは自分の心配だけしていればよかった。大はりきりで連中を蹴散らすティベリウスを横目に。
これでいいのだろう。役に立たず、足を引っ張らず。だからこそ同じ場所にいることが叶う。
けど、それにしても──とルキリウスは半ば呆れたものだ。
ねぇ、君はぼくの歯止めになるんじゃなかったっけ? あの時から思っていたけどさ、あべこべだよねぇ? ぼくが君の歯止めになるのが本来だよねぇ?
とはいえ、ルキリウスがしゃしゃり出るまでもなさそうではあった。
「こん畜生めが!」
農場主は怒りながら震えていた。身内か人さらい仲間が次々ティベリウスの足下に伏せっていくからだ。
「くそ生意気な役人めが! だれが本土の貴重な穀物を作ってやったと思っている! この苦労知らずの恩知らずどもめが!」
「まともな農場がほとんどだ」ティベリウスが沈着に知らせた。「だがお前のところは違う。かどわかした者を無理矢理働かせて作った麦は、品質も最悪だ。これをローマ人に食べさせろというのか?」
「侮辱するな! てめえに食わせる麦はねぇ!」
言いながら農場主はじりじりと後退した。残るすべての仲間たちも同様で、やがて彼らはそろってルキリウスを取り囲んだ。色々な刃先を突き出した。
ルキリウスは体の右半分をその敵たちに向け、左半分を囚われの子どもたちへ向けていた。それぞれの手には抜身のグラディウス、そして鞘。
「こいつらを殺すぞ!」
悪党はティベリウスを脅した。剣先だけを後ろへ伸ばし、ルキリウスを見てはいなかった。
「皆殺しにして、全部てめえがやったことにしてやる! そうされたくなきゃ、大人しく降参し──」
ティベリウスとルキリウスは同時に動くところだった。だがその時だ。
落雷のような音は、槌を叩きつけたためだろう。倉庫の扉が破られた。
ティベリウスとルキリウスには想定内だった。今だ──。
「ティベりーーんっっ! 助けに来たよーーっっ!」
ただその声に関しては想定外だったので、二人はそろって足をもつれさせた。
幸い敵のほうもあ然としてくれた。
「このゲルマニア最精鋭軍団の前副官マルクス・ヴァレリウス・メッサラが来たからには、もう安心だ!」
マルクスの横では、コッケイウス・ネルヴァが申し訳なさげに立っていた。ストラボもまた似たような様子で、槌を地面に置いた。
とりあえず気を取り直し、ティベリウスは残りの敵を掃討した。