第五章 -6
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元老院、市民ともに仰天した。十九歳の若さで初めて就任して以来二十年間で、アウグストゥスは十一度も執政官を務めてきた。それを辞任したうえで、今後は自身の立候補を見送ると宣言した。共和政の伝統に乗っ取り、執政官二人ともを選挙で決めていこう、と。
これを聞いた元老院は割れんばかりの歓喜の声を上げたという。共和政の完全復活だと躍り上がる議員さえいた。国政の最高位を、アウグストゥスは元老院に返した。なんと謙虚なことか、寛大なことか。本当のところ彼こそが、共和政体をだれよりも愛していたローマ人だったのだ、と。
市民に制止されまいと、ローマ市域の外で辞任したことが、さらにまして好意的に受け止められた。そして補欠執政官の中から選ばれた人物が、ルキウス・セスティウスであったこともまた共和政支持者を狂喜させたのだった。彼もまた同僚グネウス・ピソと同じく、ブルートゥス支持者だった。フィリッピの戦いに加わったばかりではない。敗北後にはブルートゥスの葬送歌を作り、ローマで詠み上げたほどの熱烈な共和政主義者だった。つまりアウグストゥスは、執政官二人ともを、ブルートゥスに味方をした後に許された、自身の反対派とされる人たちにして、満足していることになる。
元老院にも市民にも、この寛大さと謙虚さはもはや神の域、崇めるしかないほどの尊いものに見えただろう。
アウグストゥスがローマに戻ると、元老院は歓呼で出迎えた。感謝のあまり涙ぐんでいる者も少なからずいたという。
なにか、なにか、できることはないか? あなたの国家への偉大な貢献に、我々はなにか報いることができないのか?
いつしか議員たちは、そう懇願していたという。
アウグストゥスはそこで、とても控えめな様子で口を開いたそうだ。
「あなたがたのお気持ちをとてもありがたく思う。では、誠に僭越ではあるが、私に一年期限で護民官特権を認めてくださるだろうか」
護民官特権? そんなものでいいのか!
議員たちの反応は、そのようであったという。
護民官とは、もう四百七十年以上も昔、貴族に対して平民を守らんために創設された公職である。平民の代表となるため、肉体の不可侵、政策立案の権利、そして拒否権の行使が保障される。
ユリウス氏の養子となったアウグストゥスは、すでに平民ではない。したがって護民官の特権を認めてほしいと申し出た。
元老院は、この特権を即座に認めた。一年期限ではあるが、要請があれば年次更新されるものとした。
七月、ティベリウスはそんな継父に呼び出され、ローマに帰った。継父はもう執政官ではない。護民官特権を持つ、元老院と市民の第一人者であるだけだ。そういうことになった。
元老院はともかく、市民の中にはこの動きを不安に思う者が少なからずいた。アウグストゥスほどの人が官職にいないローマとは何事か。ずっと執政官でいてほしい。いっそ終身独裁官になってほしい。先代カエサルのように。そう声を上げる者もいた。
この様子を伺いながら、ティベリウスは市域へ入った。これからローマは変わっていくのだろうか。
しかしなにが変わったかと訊かれたら、なにも変わっていない。少なくとも今のところは。そんな気がする日々だった。
継父の元気そうな顔を見た時、ティベリウスは改めて心底ほっとした。
「もうすっかり大丈夫だ。暑くなってきて参るが」
カエサル家の執務室で、継父は腕に力を込める仕草をしてみせた。
「親愛なるヴァッロと再会するのは、もう少し先になりそうだ。お前は聞いたか? ヴァッロのお父上は養子を取ることにしたそうだ。高齢だし、テレンティアのほかにもう子どもがいないからな。ムレナをテレンティウス氏に迎え入れるそうだ」
「ルキウス・ムレナですか?」
「ああ、このあいだ東方での軍務から帰ってきたところだ。お前も会ったことがあるよな?」
アウグストゥスは教え、それから目をしばたたいた。
「どうかしたか?」
「いいえ」
ティベリウスはきっと表情を曇らせたのだろう。ムレナはカエピオの友人だ。そしてカエピオよりも政治に主体的で、共和政主義者で、それはいいのだが、以前にルキリウスを拉致した張本人である。カエピオはただ占いで人の心を弄んでいるだけかもしれないが、ムレナはルキリウスをおそらく本気で利用しようとした。父親がブルートゥスの友人で、その身代わりになったという理由で。
しかしこの養子縁組は、ティベリウスの関わるところではない。ヴァッロの父親は、娘の夫であるマエケナスの周辺から、適当と思う男を選んだのだろう。プロクレイウスならば最適だっただろうが、彼には彼の守るべき家があった。
この話は前置きで、アウグストゥスは本題に入った。継子と向かい合って長椅子に座し、切り出した。ティベリウスに新たな任務を任せたいというのだ。オスティアでの職は当然解任となる。それでティベリウスは衝撃を受けた。
「私の仕事が行き届かなかったですか? 力不足ゆえ、任務を続けさせられないとのご判断ですか?」
「違う、違う。そうではない」
継父は苦笑したが、すぐに真面目な顔になって否定した。
「お前はよくやってくれた。正直、期待していた以上の立派な働きぶりだった。お前が十八歳だということを、私はいつも忘れているくらいだよ。おかげで今夏はたっぷり小麦が届きそうじゃないか」
「ですが、あの仕事はまだ十分ではありません」ティベリウスは訴えた。「このままでは近々また供給不足になります。早ければ今冬……きっと来年にも、また同じことのくり返しか、もっと悪いことになるかもしれません」
「それもわかっている。だがお前のせいではない」
アウグストゥスはうなずいた。
「お前の報告から、私も考えていたのだ。目先の小麦ばかりでなく、この問題は根本的な解決を要するとな。たとえば、無料の小麦配給を永久に廃止するとか……」
継父はそこで深々とため息をついた。
「そんなことをしたら、私は市民の投石で殺されるのだろうな。この制度があるから、ローマ人は自国で穀物作りをしなくていいと思うようになったのに。それで足りないという噂が流れるや否や、無暗に買い占めをするようになったのに。……という愚痴はともかく、穀物の生産から輸送の過程に、いくつか問題がある。とくにシチリアからの運搬は、なんとしても改善しなければならない。そしてそれを行うには、穀物供給官の権限では限界がある」
「……私では若輩だということですか?」
ティベリウスはうめいた。シチリアとの手紙のやり取りで、なんとなく、自分が若いからと侮られていることを感じていた。腹立たしかったが、相手方にしてみれば、十八歳の財務官など馬鹿にされたものだと考えたのだろう。
「それもあるが」アウグストゥスは今度は笑いをこぼした。「お前を直に見たら『若輩』などと思わないんだろうがな。これぞ『長老』よ、なんという貫禄か、とひれ伏しそうだな」
しばし笑いこけるアウグストゥスを、ティベリウスは途方に暮れて眺めていた。
「……だがともかく、それだけではない」アウグストゥスは姿勢を直した。「お前が若いのは事実だ。でもそれとは別に、法的な問題なんだ。この問題を解決するには、財務官権限では足りない。執政官級の権限が必要だ」
それは、そのとおりだ。アグリッパが東方へ去って二月が過ぎるが、彼と同程度の権力を行使できなければ、穀物問題は永遠に落ちつかない。
しかし事はオスティアとシチリアのあいだで起こる。アグリッパのように、隠棲した一私人と見せかけて、あれこれ動きまわることができない。そしてアウグストゥス自身は執政官を辞任している。どうしたらいいのか。今の執政官であるピソとセスティウスに委ねるのか。
いずれ継父は、これ以上ティベリウスをオスティアに留めておく気はないとのことだった。抜本的な施策を今考えているところで、元老院からの意見も求めるという。依然として消化不良のように気持ちが晴れないティベリウスだが、継父はまたなだめるのだった。良い仕事をした。今夏どころか年内いっぱい供給は心配なさそうだから、と。
そしてティベリウスは、残る半年の新しい任務に出かけた。