第五章 -5
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その後は、二人で首都の各所を歩いてまわった。マルケルスの仕事の見学だ。アグリッパが手掛けていた事業は、今やすべて造営官マルケルスに引き継がれる形になっていた。またそれとは別に、マルケルスもまた自分独自の新しい仕事を始めていた。神殿の建設、劇場と道路の改修工事、チルコ・マッシモの貴賓席の造設、見世物の開催──。
最後には、もう一度中央広場に戻って来た。
「もうすぐここに日除けを張るんだ」
マルケルスは両腕を大きく広げた。
「とても綺麗な布で、広場全体を覆う。これから日差しが強くなるから、みんながしのぎやすくなるんじゃないかって」
「良い考えだな」
ティベリウスはうなずいた。
「それから、来て! こっちに来て!」
マルケルスがティベリウスの手を引く。
「今日もちょっとした見世物を企画したんだ。一緒に観ようよ!」
「剣闘士試合じゃないだろうな?」
「違うよ。なんだと思う?」
「珍しい動物の披露目?」
「ちがーう!」マルケルスはにっこりする。「わからなくて当然。ぼくが初めて企画したんだから」
「美女の競技会は勘弁だぞ」
「だから違うってば。ほら、見て」
マルケルスはティベリウスを連れて、バジリカ・ユリアの階段に上がった。気づけば、市民たちの大勢も同じように、広場の縁に寄って人垣を作っている。これからなにかが始まるらしい。
するとロストラと呼ばれる演壇脇から、美しく着飾った男女が現れた。数えたら二十組もいた。演壇上には、楽器を携えた一団が並び立った。
奏でられる笛の音色に合わせて、男女が手を取り合って舞った。市民たちがたちまち手拍子を始めた。やんややんやと歓声を上げ、男女を冷やかすなどした。
「踊り子さんじゃないんだよ。みんな騎士階級の名士とご婦人なんだよ」
マルケルスはうれしそうに話すのだった。
「こういうのが良いと思うんだ。剣闘士試合とか、野獣狩りよりずっと。みんな仲良くできて。市民も喜んでくれて。結婚されてる夫婦もいらっしゃるけど、こういう機会に素敵な出会いに恵まれて、幸せな縁になったら最高じゃない?」
ティベリウスがぽかんと眺めていたのは、くるりくるりとまわったり飛んだりしている、ルキリウス・ロングスとコルネリア・ガッラの一組だった。
「いや、お恥ずかしいかぎりで」
ティベリウスが弁明を聞いたのは、翌日の午前、オスティアへ戻る道すがらだった。街道脇の墓石に並んで尻を乗せ、ルキリウスは目を泳がせていた。ティベリウスはじっとりとにらみ続けた。
「……で?」
ルキリウスはため息をついた。
「病み上がりのところへ申し訳なかったけれど、ドルーススに取り次いでもらって、ぼくらはカエサルと面会した。平身低頭お詫び申し上げたよ。コルネリアは複雑だっただろうけど」
ルキリウス・ロングスの罪とは、元老院によりカエサル・アウグストゥスのものと定められた亡きガルスの『遺産』に、無断で手を出したこととなる。競売沙汰になり、必死になって逃げ出したコルネリア・ガッラの意思は、この罪に関係がない。ルキリウスは財産横領、悪くすれば強姦の罪も負わされかねなかった。
そのうえ子どもまで生まれたのだから、もう言い逃れもできない。しかも軍務に帯同させたうえでの事態だ。退役まで結婚は許されないが、軍団兵が休暇中に現地の女と親しくなることはある。しかしルキリウスは軍団副官という高い身分だった。そのうえ他人の『所有物』だ。
それでもごまかしようは、まだあった。赤子は一時、養子に出すことも考えられた。しかしエジプトで祖父ロングスが、家父長としてひ孫を認知してしまった。
そうでなくともルキリウスの中では、アラビアから生きて帰ったなら責任を取るという意思もあったのだろう。ただ彼は迷っていた。そしてこの決断には、コルネリアの意思も無視できなかった。赤子をエジプトに残して、二人はローマに帰るか。コルネリアもエジプトに残るか。赤子と三人でローマ本土に帰り、首都には近づかず隠れるように暮らすか。それともすべてを公にするか。
ルキリウスとコルネリアは、最後の選択肢を採ると決めた。コルネリアは自身の憎しみに近い複雑な胸中を封印し、アウグストゥスに頭を下げることにした。
彼女はルキリウスのために、アウグストゥスの前へ進み出ることにしたのだろう。そして自分のためでもあった。エジプトで平穏に暮らす道もあったのに、彼女はルキリウスと離れたくなかったのだ。
ティベリウスは知っていた。ガルスがこの世を去って、もう三年が過ぎた。以来、ルキリウスはずっとコルネリアとの結婚を迷っていた。否、こんなことになる前から、自分には無理だと決めてかかっていた。
確かにルキリウスは若かった。あの時点で十五歳だった。しかし若さだけが、彼の躊躇の原因だっただろうか。
自分にはコルネリアを幸せにし得ない。そう頑なに信じているように見えた。
今は十八歳になった。軍団副官としても実績も積んだ。しかしなお彼の根底には、その信念が沈んでいるようだ。
「十四年……せいぜい十八年だ。女の子ってのは」ここ数ヶ月、ルキリウスはぶつぶつと独り言ちていた。「あとはどっかの良い男の嫁になる。ぼくの役目はそれを助けること!」
ルキリウスがコルネリアもその娘も幸せにできないと信じている原因が、ひょっとして自分にあるのだろうかと、ティベリウスは考えた。どうしてだ。ティベリウスは、望むような幸せな家庭を、ルキリウスに持ってほしかった。確かにずっと自分の隣にいてほしいと言った。家を空ける日も多くなるに違いない。しかしそれはローマを担う男たちにはよくあることだ。コルネリアがそれを辛いと思うなら仕方がないが、彼女は強い意志の持ち主のようだ。ルキリウスの妻としてならば耐えられよう。子どもも授かったのだから。
十年近く昔──初めて会ったころからだが、ティベリウスはなんとなく、ルキリウスが一生結婚しないとすでに決めている男に見えていた。
──友人の役に立つべからず。
だれとも深く関わり合いにならない。そういう意志を頑なに持ち続けていた気がする。
それは彼が、愛する人のためにだれよりも深く傷を負ってきたからにほかならない。自分の傷だけでなく、相手の傷も引き受けて、相手のために怒って、泣く。実態はそういう男だ。
この三年は、彼にとって想像だにしなかった出来事の連続だったろう。そしてそれらを乗り越えて、確かに彼は変わった。
しかし根本のところでなお、彼は自信を持っていないように見えた。
いずれ愛する人たちをどん底に突き落とす。そう信じ込んでいるように。暗澹たる未来が見えているように。
ティベリウスはルキリウスを不幸にしたくなかった。自分への犠牲も強いたくなかった。万一、たとえ彼の想像するような運命の非情がいつか来ても、手放しはしない。共に乗り越えてみせる。
だから、彼のことには時間をかけるつもりでいた。
いずれルキリウスは──本人の中で、まるで一時的であるかのように──コルネリアとその娘を家族とする覚悟を固めたのだった。あとはアウグストゥスに許されるか否かだ。
アウグストゥスは面白くなくも思っただろう。だが子どもを隠しておけばいくらでもごまかせたことを、わざわざ出頭してきたのには呆れ返りつつ、感心もしたのではないか。それでも結婚させてほしいとまで願われるのは、厚顔無恥だった。
コルネリアの身分がはっきりしない。それが問題だった。正式の結婚から生まれたガルスの娘であれば、ロングス家と騎士階級同士、釣り合わなくはなかっただろう。
ルキリウスは、最悪奴隷としてコルネリアを買い取らせてほしいと、言わなければならないなら、言うつもりでいたそうだ。
けれどもアウグストゥスは、今やルキリウスのことを少し知っていた。そもそも継子の友人で、家に出入りしていた。この三年のことを、ケラドゥスがまず報告した。アラビアとエジプトでの奮戦ぶりは、アエリウス総督以下ほかの軍人からも伝えられた。
そして詩人ヴェルギリウスが、コルネリアが無事帰ったならば自分もローマに戻ると伝えてきたそうだ。ルキリウスとの結婚を祝福したく、若い二人が心配とおっしゃるなら、恐れながらこの私に後見役を務めさせていただければ幸い──そこまで申し出てくれたらしい。
ルキリウスもこれには恐縮していた。
「ありがたいけど、ヴェルギリウス殿を引っ張り出すような形にしたくなかった。もう三年経ったけど、あの人はまだガルスの死から立ち直っていない。それでも無理をして、ローマに出てくるって言ってくれたんだよ。詩作の再開をカエサルと市民に約束した。……そんなふうに見られるのも同然だと知っていたんだろうに」
しかしヴェルギリウスにしてみれば、せめて亡き親友のため、コルネリアのため、これくらいはしてやりたいと思わずにはいられなかったのだろう。
「んで、結局、今度のマルケルス主催の踊りの会に出場してほしい。それで許す。結婚としよう、となったわけ」
「心配して損をした気分だ」
「うん、ぼくとしても、コルネリアがすごく楽しんでくれてよかったと思ってるよ。カエサルへの思うところも、もう捨てるみたいだし」
それは、きっとアウグストゥスにとっても朗報だろう。たかが娘一人、しかし愛する人の仇を取らんと狙ってくる人間は、少ないに越したことはない。それに恨みは連鎖し、また利用されるものでもある。結局その一事で、アウグストゥスはこの二人の結婚を許可したのかもしれない。
継父はティベリウスと話したときと同じ処遇を与えた。コルネリアはアポロン神殿に勤めることになった。ヴェルギリウスの助手であり司書官、そして女神官として。考えてみれば、ヴェスタの巫女はともかく、ローマでは神官はごく当たり前に既婚者や結婚経験のある者が務めている。神殿の管理人という意味では、問題ないのだろう。
つい先程まで、オスティアに向かう二騎を、コルネリアはパラティーノの高台から、笑顔で手を振りながら見送っていたところだ。一方、アヴェンティーノのロングス家には、ルキリウスの母が再婚相手とともに戻り来て、嫁が勤めに出ているあいだ、嬉々として孫の面倒を見ているそうだ。ロングス家はこれで良かったのだろう。長男がエジプトで没して以来、ようやく雲間から日差しが降り注いだような雰囲気だ。
ルキリウスは、それでも当たり前にティベリウスについてオスティアに戻った。仕事の再開だ。
六月下旬、小麦の収穫が始まった。ドルーススが庭でもぎたてのキュウリをおいしそうに食べる傍ら、ティベリウスは注意深く港を見守った。穀物船はおおむね順調に入港していた。
そんな中、不思議な知らせが届いた。アウグストゥスがふと首都を出たという。どこへ行くつもりなのか、だれもなにも聞かされていなかった。夜更け、継父はひっそりと東へ向かったという。
月末、継父はアルバ山にいた。はるかなる伝説で、トロイヤを落ちのびたアエネイスの子イウールスが建設した都市があったとされる。ユリウス一門発祥の聖地だ。
アウグストゥスはそこで、執政官を辞任した。