第五章 -4
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それから一週間が過ぎた。ティベリウスは内心張り詰めた思いで、オスティアでの仕事を続けていた。幸いにして、悪い知らせは届かなかった。
継父の容体は快方に向かっているという。あれからまた様々に手が尽くされたのだろう。アントニウス・ムーサという医者が、温浴と水浴を交互にさせるという、聞いたかぎりはとんでもない治療を継父に施したそうだが、とにかく今、継父は寝台に座って食事をとれるほどに快復したという。そうなるとまた無理をして、寝所に仕事を持ち込んでいるのかもしれない。
さらに一週間が過ぎると、継父はゆっくり歩けるほどに力を取り戻した。ドルーススが、一緒に中庭を散歩してきたとのことで、大喜びで兄に報告に来た。今やローマじゅうが、悲痛な快復の祈りを感謝の祈りに変え、歓喜に湧いているという。神々の神殿も、街角の祠も、春の花々で満ち満ちた。市民たちはそこかしこで宴を開き、アウグストゥスの快復を祝している。
それで葡萄酒はともかく、パンがまた足りなくなったらしい。小麦はどうなっている? ティベリウスのところへは、そのような問い合わせが各所から寄せられるのだった。ティベリウスはつい苦笑するしかなかった。オスティアでも神々への感謝の犠牲獣を捧げ、市民に振舞った。一方、穀物の手配も、血眼にならない程度に拍車をかけねばならなかった。今年の収穫まで、早くともあと二ヶ月はかかる。
ティベリウスはそれからまた数週間、仕事に勤しんだ。途中、ルキリウスがなにやら悲壮な顔つきをして、少しのあいだ首都に戻ると言った。腕の中には元気な黒髪の赤ん坊がいて、ルキリウスの髪の毛を好き放題に引っ張ったりしゃぶったりしていた。
ティベリウスはドルーススをルキリウスにつけてやった。それからまた一週間ほど経って、マルケルスから手紙が届いた。もうすぐ自分の誕生日なので、一緒に過ごしてほしい。話したいこともあるから、と。
ティベリウスは少し困った。その気になれば日帰りできる距離ではあるが、今はルキリウスもドルーススもおらず、留守を任せられる者がいない。
ところがそこへ、アグリッパがひょっこりと現れた。家族を連れず、一人で。
「二、三日ですよね、坊ちゃん? そういうことなら、このアグリッパにお任せあれ」
「いえ、アグリッパ……」
まず執政官級どころか、ローマ第一人者の次席のような立場の人に、そう簡単に留守番など頼めない。
けれどもそれ以前に、アグリッパはどうしてここへ来たのだろう。少し前と違い、娘ヴィプサーニアのために暇を取ったようには見えない。港では、彼の奴隷たちが馬車から船へ、なにやら荷物を運び入れている。
「どこかへ行かれるのですか? まさか、戦が?」
「いや、戦ではないよ。そう急いでもいない」
アグリッパはいつもの陽気な彼に戻っていた。右手の中にあの指輪はもうなかった。
「実はしばらく東方へ行くことになった。君たちの願いが神々に届き、カエサルも元気になった。おかげで心置きなく出かけられるよ」
アグリッパはオスティアから一度ミセーノ軍港に立ち寄り、それからイタリア半島を迂回するそうだ。ギリシアへ渡るだけなら、アッピア街道を進み、ブリンディジから船に乗ったほうが近いのだが、彼の目的地はその向こう側だった。長い航海に耐える、頑丈な船が必要なのだろう。
ティベリウスがオスティアに戻り次第、アグリッパははるか東方へ発つ。しばらく戻ってこないつもりらしい。この任務が終わってからでかまわないので、娘たちをよろしく頼む。もちろん、カエサルのことも──彼はティベリウスにそう願った。
彼はティベリウスに、東方へ向かう目的も教えてくれた。王家が途絶えたガラティアの混乱収拾、黒海の向こうのボスポロス王国との同盟確立、ヘロデ王の統べるユダヤの視察、各所での道路や水道の整備──ティベリウスの往復を待っていられないほどに、仕事が山積みに聞こえた。
「坊ちゃんはカッパドキア王の弁護をなさったね? あの一件にも表れていたが、東方諸国とローマとの同盟を強めておくことが、パルティアとアルメニアへの対策になるんだ」
確かにその仕事とは、国家の東の防衛線に関わる重大事だ。東の大国パルティアに、ローマはクラッスス、アントニウスと立て続けに敗北を喫している。アルメニアも親パルティアに傾いている。文化の近似ゆえに仕方がない面もあるが、ローマはシリアやアジア、そしてギリシア世界を守る責務がある。先に挙げた諸国が、パルティアの圧力を受けてゆらぐことを阻止しなければならない。最悪の場合、アジアが戦争沙汰になる。
恐縮するティベリウスをなだめてから、アグリッパは人差し指を唇の前に掲げた。
「このことは市民には話しておりません。法律を定めて、公に仕事を遂行するわけではないので」
ティベリウスを数日待つことはできるが、元老院に諮っている時間はないというわけだ。アグリッパはこれから各属州や同盟国をまたぐ。いちいち元老院に承諾を得ていては、交渉が滞るし、上手くいくものもいかなくなる恐れがある。
それでもアウグストゥスならば事実上の全権委任がなされているので問題ないのだろうが、病から回復したばかりの第一人者を駆り出すわけにもいかない。そして第一人者の代理になり得るのは、今世界でアグリッパだけだ。
話を理解したティベリウスは、大急ぎで首都に戻った。ところが市内に入ってみたら、思いもかけない噂が広まっていた。アウグストゥスと仲違いした末、アグリッパが首都を出て行ってしまったというのだ。
根も葉もない話ではなかった。原因は、アウグストゥスが体調回復後初めて元老院議場に入った日に遡る。
継父はそこで、自身の遺言状を読み上げようとしたそうだ。いったいどういう意図だったのか。議員らは大慌てでアウグストゥスを制したというが、それも当然だ。遺言状とはローマ人にとって私事中の私事だ。何者にも束縛されてはならないし、存命中に公にするなど考えられない。かつてアウグストゥスは、ヴェスタの巫女に預けられていたアントニウスの遺言状を強引に持ち出し、猛批判を受けたことがある。
しかし議員らは、結局途中まではアウグストゥスの遺言を聞いたらしい。書いた本人が聞いてほしがったのだから仕方なかったのだろう。それで彼らが知った唯一のことは、アウグストゥスがまだ後継者を決めていなかったことだ。
すなわちマルケルスを養子にすると、遺言状にまだ明記していなかった。
議員たちは驚愕したという。元老院議事録から知った市民らも同様だった。アウグストゥスが甥を愛し、ひと際目をかけていることをだれもが知っていた。先ごろは実際、甥のための特権を元老院に認めさせたのだ。ティベリウスもろともではあったが、継子との特権に差をつけることで、マルケルスこそ若者の第一人者であり、自身の跡継ぎであると知らしめた。そうではなかったのか?
先代カエサルは、凶刃に倒れた年、まだ十八歳だった当時のアウグストゥスの名を、すでに遺言状に記していた。今のマルケルスと同じ年齢だ。それなのにアウグストゥス自身は、未だマルケルスの名を書き込んでいなかったとは。
おそらくこれは、アウグストゥスへの権力集中を警戒する一部議員たちへの配慮だったのだろう。マルケルスの身を守るためでもあったのだろう。
けれどもこれを聞いて面白くなかったのは、当のマルケルスだった。叔父の全快を涙して喜んだ、その矢先の衝撃だったに違いない。叔父はまだ自分を認めてくれていなかった。それどころかいよいよ危ないというあの日、カエサル家の指輪を託したのはアグリッパであったのだ。現在アウグストゥスは、自身になにかあった場合、アグリッパにすべてを任せるつもりでいる。
そういうことではない。マルケルス、君はまだ若いというだけだ──そう慰める者もたくさんいた。だがアウグストゥス自身が十八歳時点で後継者に指名されていたのだから、その言い分は通用しない。
先代とて、まさか首都ローマで裏切り者の手にかかろうとは思っていなかっただろう。こんなに早く任せることになろうとはと、きっと天上で心配もしたことだろう。
十八歳ですべてを託され、その後の内乱を勝ち抜いたアウグストゥスこそ抜きん出た人であるのだ。だからこそ今、市民はアウグストゥスにのみ抜きん出た立場を認めている。
だからマルケルス、君が今気を落とす必要はない。叔父の一人娘を娶ったのだ。そしてだれより叔父に愛されていることもわかっているはずだ。後継者は君だ。焦らなくていいんだ──。
ティベリウスもまた、自身の言葉で直接マルケルスをなぐさめる必要があった。継父には顔を出し、任務を空けてきたことを詫びたのだが、アウグストゥスは苦笑してうなずいてきた。「頼んだぞ」と。
ずいぶん元気になって見えた。本当によかった。
ティベリウスはマルケルスを連れて、パラティーノの丘を下った。君が手掛けている仕事を見せてほしいと言って。
そんな二人を見守る市民たちの考えはこうだった。遺言状の一件で気を悪くした甥をなだめるため、アウグストゥスはアグリッパを東方へ追いやった。邪魔者がいなくなり、いよいよ甥を思いきり引き立ててやれるというわけだ。いや、違う。若い甥ばかり優遇するアウグストゥスに愛想を尽かし、アグリッパのほうが腹を立てて出て行ったのだ。彼がもう引退すると息巻いていたのを見たやつがいる、と。
ティベリウスはマルケルスをじっと観察していた。彼とてアグリッパが東方へ行った真の目的を知らないわけではないだろう。ただかの人に対して、対抗心のようなものを燃やしていたのは、以前からだった。今回の一件で、それが危機感に近いものに変わり、さらに強まった。
なにより叔父に遺言状で後継者指名されていなかった。その事実が非常にこたえたように見えた。
「もっと頑張らなくちゃ」顔を合わせてから、マルケルスはもう何度もそう口にするのだった。ひどく思いつめた顔を覗かせて。「叔父上に認めてもらうために、もっともっと成果を出さないと」
「マルケルス」ティベリウスはなんだか心配になってきた。「あまり気負うな。なぜカエサルがあの遺言状を公開したと思う? 君を守るためだ。世の中には嫉妬深い人間がいるからな」
「それでも今回みたいに叔父上が大変な状況になった時、ぼくには後を任せられない。そうお考えだってことじゃないか」
「マルケルス、君はまだ十八歳だぞ。それに、簡単に君を養子にはできない。『ローマの剣』であったクラウディウス・マルケルス家の後継がいなくなってしまう。だからたぶん……君とユリアに息子が生まれてから対応しようとお考えなのだと思う」
「ぼくを? それとも息子を養子にするの?」
「……どっちにしたって、カエサルの後を継ぐのは君だ」少し苦しさを覚えながら、ティベリウスは言った。「カエサル、君、その息子──こう続けば安泰だろう。どちらの家も」
「でも今は、アグリッパに譲られてしまう」
「それは……そうなるだろう」
仕方がないという言葉は、使いたくなかった。ティベリウスは心からアグリッパを尊敬していた。この度は奇跡によって救われたが、継父にもしものことがあったなら、アグリッパ以外のだれを頼れるというのか。
マルケルスは今や本当に怒っていた。継父がアグリッパを東方に遠ざけたという噂が信憑性を帯びるのも、無理ないと思わせる。実際に継父は、ティベリウスにマルケルスをなだめてほしがった。
正直ティベリウスにとっても、遺言状の中身は意外だった。継父にはすでに迷いはないと思っていたからだ。
しかし現状、十八歳に任せるには心もとないと考えるのもまたもっともだ。マルケルスの能力や人柄や、自身の愛情の問題ではない。若すぎる。もしもティベリウスがマルケルスの立場だったら、どうだろう。国事の右も左もまだわからないではないか。穀物供給の仕事ですでに手こずっているところではないか。今継父にいなくなられて、なにができよう。
つくづく継父とは偉大な人だ。十八歳から現在まで、国の中心に立ち続けたのだ。
幸いにして、継父は病から快復した。しばらくは猶予が与えられる。マルケルスにとってもティベリウスにとっても。
そうなるとマルケルスのするべき第一の仕事とは、首都の整備などよりもまず、ユリアと仲睦まじく過ごすという一事に集約されてしまいそうだ。孫が三人ほど元気に育てば、アウグストゥスも安心するのだろう。
なかなかそう思いどおりにはいかないものなのだろうが。アウグストゥスだって、実の息子を授かることがなかったのだから。
いずれ猶予は猶予だ。だれにとっても。
「ティベリウス」
中央広場に入り、カエサル神殿の前に来た時、マルケルスは両拳を握りしめた。神君カエサルの像を振り仰いだ。
「ぼくはアグリッパに負けたくない」
「マルケルス……」
ティベリウスはここでようやく、マルケルスの意志の固さを知った。
アウグストゥスにとっての第一位になりたい。認められたい。先代がアウグストゥスを認めたように。すべてを託したように。
マルケルスは、アウグストゥスをアウグストゥスでいさせている精神の真実を、きっと知っているのだろう。
「……わかった。君の気持ちは」
ティベリウスはマルケルスへうなずいた。それから右手を差し伸べた。
「でも、やっぱりそう思い詰めるな。まだ時間があるんだ。それに、私もいる」
「ティベリウスは?」
マルケルスは疑っているらしかった。少し拗ねたような顔になった。
「ティベリウスはぼくを助けてくれる?」
「とっくにそう約束したはずだぞ」
「アグリッパに味方しない?」
「マルケルス──」
ティベリウスは苦笑するしかない。まずアグリッパは敵ではない。
「だってティベリウスはアグリッパの義理の息子になるんじゃないか。いつも仲が良いし」
「私は君の味方だ」
そしてアグリッパと対立させもしない。もしも二人が並び立つ日が来たら、ティベリウスは二人ともを助ける存在になりたいと思う。
継父が長く健勝でいることこそ最も望ましいのだが。病に対してはなにもできなかったが、それ以外のあらゆる苦難から、ティベリウスは継父を守れる存在になりたい。
二度と重い病に苦しまないように、できるだけ心身の負担を減らす。それほどの役目を果たせればと願うのは、運命に対して傲慢であるだろうか。
いずれその思いは、マルケルスと同じであるはずだ。
「君をずっと守るよ」
それを聞くと、マルケルスはティベリウスと手を重ねた。けれどもまだ不満そうな顔を作っている。たぶん戯れている。
「でもティベリウスは、このごろあんまりぼくのそばにいてくれない」
「それは悪いと思っている」ティベリウスは苦笑を深める。「しかしカエサルとアグリッパだって、何ヶ月も顔を合わせないことがあるぞ。世界の統治のために、それが必要な役目であるからだ。でも今は、君の誕生日を祝うためにここにいるのだがな」
ティベリウスはマルケルスを引き寄せ、その額に接吻をした。
「十九歳、おめでとう。また私より年上になったな」
マルケルスの顔が太陽のように輝いた。