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第五章 -3



 3



 首都の雰囲気は異様だった。あらゆる神殿で香を焚いた祈祷が行われていた。街角でもそこかしこで市民がぬかずき、天へ祈りを捧げているのだった。「どうかカエサル・アウグストゥスをお救いください! 我らが第一人者を奪わないでください!」「どうかご回復を! 我らがインペラトール!」

 そうした悲痛な叫びの中を、ティベリウスとドルーススは急ぎ走った。嘘だと思いたかった。しかしローマじゅうの嘆きぶりが、いよいよと差し迫った事態を教えてきた。

 継父が冥府へ旅立つ間際にいる。

「三十九歳か。早いよな……」

 すでにあきらめ出している市民の声も聞こえてくる。

「でもまぁ、元々病弱な人だったからな。むしろここまで生き長らえたのが奇跡みたいなもんだろう」

 ティベリウスはまだ信じたくなかった。年明けよりも継父の体調は落ち着いていたはずだった。ティベリウスの報告書に返事も寄越した。暖かくなりはじめた今になって、どうしてまた悪化するのか。流行り病は若きヴァッロの命を奪った。しかし継父はなんとか乗り越えたのではなかったのか。

 季節の変わり目に体調を崩すとは、継父にとって毎年のことだ。今回はそれが流行り病の猛威と重なったため、人々が過剰に反応している──。

 ティベリウスはそう思いたかった。しかしカエサル家の門をくぐったとき、その期待ははかなく打ち砕かれた。

 外の悲痛な祈祷の連呼とは一転、カエサル家は夜の墓場のように静まり返っていた。

 嘘だ。

 ティベリウスは体の震えを止められなくなっていた。吹き出した汗はたちまち冷えて、背骨を凍りつかせんとした。アトリウムから中庭に出るのだが、足がまるで宙を漂っているような錯覚を覚える。

 ティベリウスとドルーススは継父の寝室に向かう。途中、家の祭壇の下にうずくまっている人影に気づく。マルケルスだ。声をかけようとして、ティベリウスは思いとどまる。マルケルスもまたぴくりとも動かない。一晩じゅう──あるいはもっとずっと長いあいだ、必死で祈りを捧げていたのだろうことが察せられる。それで疲れ果てたのか、それともまさか、打ちのめされたのか──。

 ティベリウスもまたひととき動けなくなった。

 奴隷たちが疲れのにじむ顔で神妙にしていた。泣いている者もいたが、途方に暮れたように、ひどく不安げにしている者がほとんどだ。つまり継父はまだ持ちこたえている。

 しかし継父の寝室、その前にじっと座っているアグリッパ、彼が顔を上げたその時、ティベリウスはとうとう一縷の望みも手放すしかなくなった。

 継父は──カエサル・アグストゥスはもうだめであるのだ。

 そんなことがあっていいのか。

「よかった……」アグリッパがおもむろに立ち上がった。笑顔を見せないこの人を見ることなど、これまであっただろうか。

 アグリッパが寝室の中へ伺いを立てた。彼が振り返ってうなずいたので、兄弟は中へ入ろうとした。

「坊ちゃん」

 アグリッパがティベリウスを呼び止める。見ると、彼は右手のひらを上向ける。

「これは私がお預かりすることになった」

 アグリッパの手のひらには、指輪が置かれていた。それはカエサル家の印章だ。ティベリウスもよく知っている。スフィンクスがあしらわれ、手紙には必ずこの印が押されてくる。つい最近も……。

「……嘘だ」

 ティベリウスはついに声に出した。アグリッパがカエサル家の印章を預けられたことに対してではない。継父が死ぬ。その現実を否認したかった。

 アグリッパがティベリウスの肩に手を置いた。そのままそっと押されて、ティベリウスは寝室に入った。

 継父は寝台で目を閉じていた。ぐったりとしていているが、顔色は普段よりむしろ濃い。高熱に冒されているのだろう。額には汗の粒が浮いている。

「カエサル! 嫌だ、嘘だろ……」ドルーススがすがりついていた。「死なないで! 死なないでください、カエサル!」

 継父の反応はなかった。まぶたも開かなかった。ドルーススの後ろで、ティベリウスは茫然とたたずむばかりだった。

 寝台の向こう側に、母リヴィアがやつれた様子で座っていた。

 背後で扉が閉まる音が、かろうじて聞こえた。部屋には四人だけになった。

 どうしてもこの現実を認めたくなかったのだろうか。ティベリウスは眼前に昔の光景を思い浮かべた。九年前、ミセーノにあるカエサル家の別荘で、この四人は幸福なひとときを過ごした。その前年に、ティベリウスとドルーススは実父を亡くしていた。継父はドルーススを抱き、リヴィアと二人ティベリウスを挟んで座り、画家に肖像画を描かせた。

「私たちは家族だ。その証を、ここにとどめておきたい」

 家族。

 それが今、終わろうとしている。

 ──嫌だ。

 頼む、やめてくれ──。

「カエサル?」

 ドルーススがはっとなった。継父のまぶたがわずかに開く。

「……ドルースス?」

 ひどく細いかすれ声が言った。それでも継父は、うつろな灰色の目をドルーススに据え、かすかに笑ったのだ。

「……可愛いお前よ……」継父は言った。「すっかり重くなりおって……」

 ドルーススは慌てて寝台から飛びのいた。

「行くな、ドルースス……」継父はなお笑いかけていた。「こっちへ来て、接吻しておくれ……」

 ドルーススが言われたとおりにすると、その頬に、継父のか細い指が触れた。

「兄弟仲良くな……。兄上の言うことをよく聞くように……」

 ドルーススの目に涙があふれた。めったに泣かない少年だ。

「ティベリウス」継父はその兄の姿も探した。

「……はい」

 ティベリウスがそばへひざまずくと、継父は最後の力を振り絞るように、懸命に頭を動かしてきた。ティベリウスはすぐに継父の額に自分のそれを当てた。

 なんて熱いのか。

「……マルケルスを、頼む」

 継父の熱い息が、ティベリウスの耳に残った。





 この数日が峠だろうと医者は言ったそうだ。しかしこの高熱状態に打つ手なしとは、ティベリウスにはあまりにも歯痒かった。すでにローマじゅうの名医が呼ばれたそうだ。薬も、流行り病に冒された市民に効果があったらしきものが選ばれ、継父に与えられたという。しかし今は、もう明日をも知れない容体だ。

 ティベリウスはまだあきらめられなかった。ルキリウスが、薬ではなく滋養の粉だと言って送りつけてきた袋を握りしめ、この夜は継父の寝室に詰めることにした。その前に、かつて自分の寝室だった部屋に、どうにかマルケルスを寝かしつけてきた。

「ヴェヌス様、お願いです! どうか、どうか、我が叔父カエサル・アウグストゥスをお助けください!」

 彼はひたすらに、叔父の傍らと祭壇を行き来するのだった。

「どうしてもとおっしゃるなら、ぼくの命を代わりにお取りください!」

 女神ヴェヌスはカエサル家の先祖とされる。遠くトロイヤの地からユリウスの血を守りつないできた。

 カエサル・アウグストゥスに息子はいない。ユリアがいるが、ローマでは娘が家を継ぐことはない。そうなるとここで継父が旅立てば、養子を取っていないかぎり、ユリウス・カエサル家は途絶えることになる。

 先代にも息子がいなかった。彼はその遺言状で、当時の若きアウグストゥスを養子とした。

 ティベリウスは祭壇へ行き、マルケルスの隣にひざまずいた。マルケルスはすぐにティベリウスにしがみつき、長いあいだ泣いた。どうして、どうして叔父上が──。こんなのひどすぎるよ、ティベリウス!

 そのあいだ、ティベリウスはマルケルスの肩を抱いていた。そしてそのまま寝室まで運んでいった。

「嫌だ! ぼくは叔父上のおそばにいる! 快復されるまでずっとお祈りする!」

「マルケルス!」ティベリウスは強い口調で言った。「いい加減に休め! 君まで倒れたらどうするつもりだ!」

「かまわないよ! それで叔父上が助かるなら──」

「そんなことがわかるものか! いいか、マルケルス、気をしっかり持て! 君はカエサル・アウグストゥスのただ一人の甥なんだぞ!」

「叔父上がいなくなるなんて、ぼくには耐えられない!」

 それでも無理矢理横たえて、抱きしめて、なんとか眠らせた。

 次は母だ。

 深夜になっても、母はアウグストゥスに付きっきりでいた。

「母上、今夜は私がカエサルといます。お休みください」

「母の心配は無用です」母は毅然と言うのだった。「昼まではオクタヴィアがいてくれました。ですからさして消耗していません」

 そうは見えなかった。見えなかったが、そう見せたい気持ちはよくわかった。母は誇り高い人だ。そばの奴隷たちにさえ弱音を吐けない性質だ。

 ティベリウスは目を閉じた。「母上──」

「私はカエサル・アウグストゥスの妻です。私のいないうちに、この人が旅立ってしまったら──」

 母はそこで、口元を手で覆った。寝室に一つしかない灯火は、母の充血した両眼の中で昂然と立っていた。

 母もまた、泣かない人だ。ティベリウスが最後に見た母の涙は、実父ネロの遺体を焼く炎の前で消えた。

「母上」ティベリウスは母へ歩み寄った。「母上──」

 身をかがめて、しかと抱きしめた。

 こんなに小柄だったのだろうか、母とは。

 このような状況ではあったが、最近の反抗めいた自分の態度を思い、ティベリウスは申し訳なさがこみ上げてきた。胸中で母に詫びた。

 母もまたティベリウスを抱きしめ返した。息子の肩に顔をうずめ、しばらく小刻みに震えていた。

「母上」ティベリウスは静かに言った。「信じましょう。次に母上がお目覚めになるときまで、カエサルは必ず持ちこたえます。もしもの時は、お呼びしますから──」

 ティベリウスは母の背中を叩いた。母はゆっくりと体を離し、それから息子をまじまじと見た。

「ティベリウス」母のひんやりした手が、頬にふれた。「あなたが──」

 母は、結局その先を言わなかった。ただひどく年老いたように見える顔に、ささやかな微笑みを浮かべた。

「……わかりました。今夜はあなたに任せます。頼みましたよ……」

 母をすぐ隣の寝室に送り届けた後、ティベリウスは母のいた椅子に腰を下ろした。すぐ傍らでは継父が、やや額に皺を寄せて眠っていた。ティベリウスは目を凝らしてその呼吸を見守った。手を握りかけて、やめた。高熱が、その手先から少しでも放たれて去ることを願ったためだ。

 長い夜、ティベリウスはじっと寝ずの番を続けた。何を考えていたかと言えば、なにも考えていなかったと思う。悪い想像は散々巡らせた。もうたくさんだ。今はただ、生きて呼吸をしている継父のそばにいられる。それが幸せだと感じられた。

 すなわち継父も、熱はあるもののよく眠っていたのだ。ひどく苦しそうにしていたなら、ティベリウスも穏やかでいられなかっただろう。

「ティベリウス?」

 消え入るような継父の声を聞いたのは、夜の終わり際だったと思う。

「お前か……?」ゆっくりとまぶたを開き、継父がティベリウスを見とめる。そしてすぐに細める。「どうりで静かなわけだ」

「すみません」

「いや、いいんだ。皆に嘆かれるのも、ありがたいのだが、意外と消耗するものでな。ようやくゆっくりと眠れた気がする。ドルーススは……? あれからどれくらい経った?」

「まだ夜明け前です」

「そうか。それでも私にしてはよく眠ったぞ。普段から夜に何度も目を覚ますのでな。そのたびに、リヴィアがいつも信じられなかった。まったく起きる気配もないので」

 そう小さく笑うと、継父は身じろぎをした。

「水をもらえるか?」

「はい」

 水瓶に手を伸ばしながら、ティベリウスは気が遠くなるほどにほっと胸をなで下ろしていた。継父の意識ははっきりしている。しかと話すことができている。持ち直した。カエサルは持ち直したのだ!

 しかし水を飲ませるべく抱えた体は、相変わらずひどく熱かった。そうであるのに水を口に含むたび、ぶるりと震えるのだった。ティベリウスは継父の求めるがままに、杯を口元へ寄せた。しかし再び横たえた時には、ほとんど後悔していた。

 まるですっかり力尽きたように、継父はまたぐったりとなった。目を開けていることももうできないようだ。

「……私も……もう起きないのかもな」

 継父のつぶやきは、灯火の輪の届かない天井の闇へ吸われていくようだった。

「……思えば、案外長らえたものだと思う。今年で、四十だぞ? あのヴァッロでさえ、逝ってしまったのだ。私が耐えられるとは、思い上がりだったな」

 継父は笑おうとしているようだった。だが落胆しているように見えた。

 継父はすでに自分が没した場合の用意を終えていた。ここ数日で、具合が悪化した。いよいよ容体が危機的になったのは昨夜だったという。夜が明けると、継父はアグリッパ、同僚執政官、法務官、自身の補佐委員に任じている元老院議員、それに騎士階級の名士まで家に呼んだ。彼らの前で、継父はアグリッパにカエサル家の印章を、そして同僚執政官であるグネウス・ピソには国家歳入の記録と実務に関わる名簿類を渡した。ピソはあっけに取られていたそうだ。彼はフィリッピの戦いにブルートゥス側で参戦したほどの共和政支持者だった。アウグストゥスは反対派に国事を一切託したも同然に見えた。

 そうして残されたわずかな時間は、家族や友人との会見に使われた。きっと最後の別れを覚悟していた。

 けれどもそうしているうちに、残るわずかな体力もすり減らせていったのだろう。

「カエサル」

 ティベリウスは呼びかけた。しかしまぶたを閉じたきり、継父はもう反応しない。たまらず、ティベリウスは継父の手を握る。脈ばかりでない、その高熱さえ、今や消えないでほしいと願ってしまう。まだ生きている証だ。

「……カエサル!」

 だれより無念なのは継父だ。それはわかっている。

「約束したではないですか。あなたを守れる男になると」

 十年前のあの日、ティベリウスはこの人に誓った。

「それなのに、私はまだ未熟だ。穀物供給の仕事もまだ見通せない。どうしてですか。待っていてくれるとおっしゃったではないですか。私も皆も……力不足で……このままではあなたの成したことをすべて無に帰してしまう……」

 ティベリウスは悔しかった。十年経った。継父はその倍の年月を闘ってきた。ユリウス・カエサルから託された世界を受け継がんとして。

 それが今ここで終わってしまうというのか。

「あなたがいちばんよくご存じでしょう、カエサル。ここで死んではなりません」

 結局自分もまた、継父の安息を妨げてしまうのだ。けれども死なせてはならない。絶対にここで終わらせてはならない。継父こそ世界の未来だ。ローマそのものだ。

 そして、このティベリウス・ネロのすべてだ。

 また長い沈黙の時間が流れた。細い窓の向こう側が、かすかに明らんできただろうか。しかしまだ鶏の鳴き声も、小鳥のさえずりも聞こえない。

「ティベリウス」

 聞こえたのは、まだ確かに継父の声だ。

「……穀物はどんな具合なんだ? なにが問題だ?」

 ティベリウスはいささかあっけに取られて言葉を失くした。

 継父は目を閉じたままだった。

「聞かせなさい。寝物語と思うから。お前が思うところを」

 それで、ティベリウスは話した。ここ三ヶ月間のオスティアでの任務で、思うところを。なるべく継父の負担にならないように、淡々と、簡潔に。報告書にはすでに書いたことであるから。

 けれども目下の仕事に関して、思うところは日々積み重なり、また深まっていた。ティベリウスはいつしか夢中になって話した。かすかな呼吸音以外、継父は一切の反応を寄越さなかったが、それでかまわなかった。重篤の現実を忘れていられた。穀物輸入における問題点、改善の余地、自分がやってみたいと思うこと、反省点、認められたら良いのにと思う権限──。

 鶏の鳴き声も聞きそびれた。気づけば夜は明けていた。

 扉が叩かれる音で、ティベリウスははっと我に返った。まどろんでいたに違いない。扉口にマルケルスとオクタヴィアが現れ、慌てて椅子から立ち上がったのだ。

 なんという様か。一方的に話した挙句に居眠りとは。

 継父は目を閉じたままだが、呼吸はしていた。額に寄った皺が消え、心なしか穏やかな顔に見えた。

 マルケルス、オクタヴィア母子と交替し、ティベリウスは寝室を出ようとする。胸中は諸々の後悔で穏やかでない。なにもできなかったばかりか、継父のなけなしの力を奪ってしまったのではないか。

「ティベリウス」

 呼び止められる。力がなくはない声。振り向くと、継父が目を開けてこちらを見つめている。

「お前はもうオスティアに戻りなさい。任務を空けておいてはいけない。市民の食がかかっているのだから」






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