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第五章 -2



 2



 ティベリウスが訃報を聞いたのは、首都ではなかった。首都の外港であるオスティアで仕事を始めたところだった。葬儀に出席するため、ティベリウスは二日間任地を離れた。

 馬に乗れば一日、徒歩ならば二日の距離だ。街道は四六時中混雑している。主に船丸ごとを陸から引っ張り、ティベリス川を遡行せんとしているためだ。このようにするか、さもなくばいっそ陸を人手や荷獣で運ぶかしなければ、船荷を首都に運び入れることができない。船自体も、大海原用のそれをナポリ湾内のポッツォーリなどに置き、河川用のそれに乗り換えてからオスティアに向かう場合がほとんどだ。ナポリ湾の時点で陸路を運ぶほうがましと判断される場合も多々ある。

 世界の首都の外港であるのだが、オスティアがさほど誇れる港でないことは、ローマ人にも自覚がある。言い訳をすれば、建国以来長いあいだ農耕に重きを置く社会だったので、立派な港を設ける必要性を感じることなく過ごしてきたのだ。ギリシア人やカルタゴ人のような海上交易を得意とする民族であれば、おそらくローマを首都にしなかっただろう。ナポリに拠点を置いて、そのままイタリアの中心地としただろう。

 ローマが世界の覇者となって以来年々増していく混雑を、オスティアはどうにかこうにか受け入れている。輸入品を山と積んで、海上で入港待ちしている船など日常茶飯事だ。ローマ人もまたいつしかこの不便には慣れてしまった。

 少なからぬローマ人が、今も農耕社会の伝統の中で生きている。その保守的性向は、海上交易を生業とすることを、元老院階級に禁じていることに表れている。さほど旅好きでもなく海好きでもなく、本国内の暮らしで事足りるのだろう。

 しかし今、ティベリウスが任された仕事が生じているのは、このローマ人的性向に遠因があった。

 ティベリウスがオスティアに戻ると、ルキリウスが待っていた。留守のあいだ、仕事の代行を任せていた。二人はティベリウスに与えられた執務室に入った。窓からは混沌状態の港が一望できるが、残念ながらすばらしい眺めとは言えない。渋滞にじれったくもなる。一方で、今にも船同士が衝突するかとはらはらしてしまう。まだ一月であるので、これでも空いているほうではあるのだが。

「辛い葬式だったろうね」

 窓に尻を乗せて、ルキリウスがつぶやくように言った。ローマでは、たまに芸人楽人が練り歩く陽気な葬式も行われるのだが、それは寿命を尽くしたと見なされる人物の見送りに限られるだろう。三十六歳の執政官の死とは、とても易々と受け止め得るものではない。

 ティベリウスはうなずいた。

「お父上が気の毒だった。テレンティアも、ずっと泣いていて見ていられないほどだった」

 ヒスパニアで活躍し、アルプスでは凱旋式級の戦果を挙げ、いよいよ若くして執政官になった矢先だ。息子に先立たれた父親の胸中はいかばかりか。妹のテレンティアもまた、最愛にして最も誇らしい実兄の死を受け入れられないでいた。ヴァッロを重用していた、アウグストゥスやマエケナスもひどく気落ちしていた。マエケナスは特に、自分の後継者として目をかけていたように見えた。ラテン文学の保護者、そして第一人者の顧問として。

「首都の様子はどうだった?」

「当たり前だが、市民の恐慌が増した。だが流行り病のためばかりではない。ヴァッロ将軍に対しては、サラッシ族の呪いではないかと騒ぎ立てる者もいた」

「まぁ、人間は迷信深いからね。無理もないかな」とルキリウスは首をすくめるのだった。「ヴァッロ殿はたまったもんじゃないと思うけどさ、残された人たちはなんかしら理由をつけないと心をなだめられないんだよ。三十六歳の死だなんて」

「ああ、そうなんだろうな…」

 ティベリウスにとっても、ヴァッロの死は決して小さくはない衝撃だ。ヒスパニアで共に戦ったばかりだ。昨年の帰国祝いの宴では、変わりなく元気に見えた。むしろ将軍として功績を残し、アオスタも建設し、その自信がいちだんと美貌を際立たせたように見えた。執政官にも選ばれて、いよいよこれからという時だった。

 ヴァッロは一昨年、アルプスのサラッシ族を壊滅させた。その件を呪いだとするなら、ヴァッロ一人に帰せられるものではない。かの部族とローマには短くはない因縁があった。サラッシ族が金鉱を見つけ、それをドゥリア川で洗い出したのが始まりで、下流の農耕民が、川が干上がってしまったとローマに苦情を訴えた。ローマに金鉱を取り上げられると、サラッシ族はアルプスの通行人に水を売って暮らすようになった。しかし強欲なローマの徴税請負人に虐げられ、盗賊行為に走り、結果ローマと戦争になった。それが十年ほど前の話だ。ヴァッロがサラッシ族を壊滅させたのは、その年の彼らの反抗が原因だが、彼らの側にしてみれば、ローマこそ彼らから生業を奪った悪人だろう。

 継父は徴税請負人の横暴をなくす制度を作った。二度とこのような不和を起こしてはならないと、ティベリウスは考える。

 この件を呪いと叫ぶのは、亡きヴァッロに不敬だろう。彼の死に耐えるのは辛いことだが、せめて彼の功績をこの世に永く留められるよう、市民は努めなければならない。アルプスとアオスタが平和であるように。生き残りのサラッシ族を、これ以上痛めつけることなく、国家の一部としていけるように。

 ヴァッロの後任に、補欠執政官からグネウス・カルプルニウス・ピソが選ばれた。グネウスの父親で、六十代に入っている。

 ティベリウスはオスティアでの仕事を再開した。とはいえまったく容易くはない仕事で、正直に言えば、右も左もわからなかった。貿易商の家に生まれたルキリウスのほうが、まだしも状況を理解しているようだった。当人は日々、ドルーススにもみくしゃにされているのだったが。

「十四歳だって? 嘘だろ!」

 ドルーススの体格は、十八歳のルキリウスと変わらないほどになっていた。なおも成長を続ける体で、三年ぶりに帰って来た「変なヤツ」を、喜びいっぱい、三年前とまったく変わらないやり方で歓迎するのだった。

「ティベリウス! 助けてよ、ティベリウス!」

 ティベリウスはルキリウスを見捨てて仕事に集中した。しかし集中すればするほど、窮屈な感を抱くばかりだった。

 これは仕事というばかりではない。国家公務だった。昨年の帰国の折、継父は凱旋式の栄誉を辞退したのだが、軍団副官として戦った甥と継子には、報奨を求めたのだった。マルケルスには前法務官格で元老院議員になる権利と、慣例より十年早く執政官になる権利、ティベリウスには各公職に通常より五年早く就任する権利が、結果元老院に認められた。

 かつては各公職に法定年齢が定められていた。財務官が三十歳、執政官は四十二歳からというように。ところが内乱の一世紀と呼ばれる時代のさなか、法定年齢を飛び越す者が現れた。十九歳で初めて執政官になり、その後十一度も同じ職を務めるアウグストゥスがまず異例であるのだが、それより前、かの大ポンペイウスが財務官、法務官という順序を飛び越えて、法定年齢未満の執政官になった。

 現在、アウグストゥスは財務官の年齢を二十五歳に引き下げ、定員を十名としている。執政官に至っては、もう法定年齢がいくつなのか不明だ。亡きヴァッロも三十六歳で、もしそれを基準とするならば、マルケルスは二十六歳、ティベリウスは三十一歳で執政官に就任することになる。しかしヴァッロより若い執政官も、近年アウグストゥス、アグリッパ以外にいる。

 これらの権利は、ほかの軍団副官らには授与されていない。つまり若い二人への報奨というよりは、アウグストゥスの後継者である立場を明示するための特権であるのだろう。そしてアウグストゥスは、マルケルスとティベリウスのあいだに明確な差を設けた。ほかのだれよりも早く最上の権利を、マルケルスに与えるとした。

 凱旋式を辞退した代わりとはいえ、継父は思いきった行動に出たものだ。

「マルケルスのついで」

 と、ユルスがティベリウスにぼそりと言った。彼は昔からこのように評する。

「さすがにリヴィアにも配慮したか」

 そうささやき合う市民もいた。

 当の若い二人は、ただただあっけに取られていた。何年前就任にせよ何にせよ、そのような特権が与えられようとは思ってもみなかったのだ。

 さらに年明けには、それぞれに早速の公務が与えられた。マルケルスには首都ローマで造営官の仕事、そしてティベリウスには財務官としてオスティアでの穀物供給の仕事。

 結局、法廷年齢二十五歳の五年前どころではない。今冬に十九歳としても六年前に、ティベリウスは財務官として公職を務めることになった。

 しかし穀物供給とは本来造営官の仕事であるから、マルケルスとティベリウスの仕事の内実は同じであるとも言えた。造営官は法定年齢のある公職ではないが、おおむね財務官と法務官のあいだに想定される。アウグストゥスは甥に財務官という地位を与えることなく、造営官、法務官、そして執政官としていくつもりなのだろう。否、前法務官格なのだから、法務官をも飛び越している。アウグストゥス自身も法務官は経ていない。

「君は堅実な道を任されたね」とルキリウスは言うのだった。「いいんじゃない? 適材適所ってやつで。いや、むしろ大抜擢なんだけどさ、君向きの仕事を頂戴したと思う」

「マルケルスばっかり目立つぞ」とドルーススはむくれてみせる。

 造営官マルケルスの仕事とは、首都の美観整備と見世物の企画、運営になる。前者はアグリッパが担ってきた公共建造物の奉献や水道建設と重なる。かつては治安を維持する仕事も担われたが、現在はアウグストゥスに任命された首都長官がその仕事を継いでいる。十八歳のマルケルスに悪人の取り締まりまで任されることはないだろう。

 ルキリウスはティベリウスを無造作に指差して、ドルーススに訊く。

「君、チルコ・マッシモの貴賓席から、笑顔で市民に手を振る兄上が想像できるかい?」

「できないぞ。それは兄上じゃないぞ」

 ドルーススも認める。昨年は彼の成人式に合わせ、兄は競技会を主催したのだったが。

 ルキリウスはうなずく。「そう、君の兄上という男はね、『人気取り』ということができないの。なにしろ愛想笑いの一つもできないんだからね。嫌々しぶしぶなんとか臨席はするが……って気持ちが傍目に丸わかり」

「聞こえているぞ」

 とティベリウスは知らせたが、ルキリウスの言うことが真実である自覚はある。だから市民から傲岸貴族だと言われるのもわかる。しかしその気質は、代々クラウディウス・ネロ家に継がれてきたもので、当代のティベリウスに始まったことではない。

 ルキリウスはなおも続けた。「ドルースス、君だって嘘笑いができる男じゃないよね。でもあの兄との違いは、軽蔑せずに色々なことを面白がれること、それから人が大好きで、すぐに心を開けっ広げにして突進できることかな。……まあ、ともかく、そうなると愛想笑いも心からの笑顔も惜しまないのがマルケルスになるわけで、カエサルもさすが人を見る目が確かでいらっしゃるし、ご自身の後継者としてまずなにを重視すべきかもよくお考えで──」

「うるさいぞ、ルキリウス」

 ティベリウスはクッションを一つ投げつけてやった。

「兄上とぼくじゃだめなのか……」

 クッションにめり込んだルキリウスの顔へ、ドルーススは悔しそうにうめくのだった。

「ドルースス、あくまでカエサル・アウグストゥスの後継者がマルケルスなんであって、君とティベリウスはすごく必要な存在なんだよ。カエサルにだって、アグリッパ殿とマエケナス殿がいるんだから。一人で国家の責務を担えるのかい?」

「無理だ」

 ドルーススでさえ、即座に言った。彼とて、このごろのアウグストゥスの体調を心配しているのだ。ましてヴァッロの訃報があったばかりだ。継父には無理をしないでほしかった。

 そして兄とともに西方世界を歩いた今、継父にもしものことがあったらローマはどうなるのかという状況にも、想像が及ぶようになったのだろう。担う仕事、手掛けている仕事が多く、そして大きすぎる。世界の安定を一手に引き受けている存在であるのだ、彼らの継父とは。

 休息はしても、仕事を完全に止めることなどできない。生きている限り。ドルーススもそれを感じ取っているのだろう。

 しかし彼が気に入らないのは、おそらく輝くマルケルスの陰になりそうな見通しだ。

「でもやっぱり目立つのはマルケルスばかりだぞ。……なんだか今、ぼくたちは首都から追い出された気がしてきたぞ」

「馬鹿なことを言うな、ドルースス」

 結局話に加わってしまうティベリウスだった。

「わかる人にだけわかればいい。君の兄上はそういう考え方なんだよ。人生一貫して」ルキリウスの口調はなにかあきらめに似たものを帯びていた。ため息もついた。「もうちょっと融通を利かせてほしいもんだと思うけどね。虚栄心とか持ってほしいよね」

「うん」

「うるさい」

「でもまぁ、いいんじゃない? 今は首都にいないほうが。いくら風邪さえ引いたことがない君たち兄弟でも、流行り病にかからないとは限らないからね」

 ルキリウスの話は置くとして、アウグストゥスはやはり今、マルケルスを自身の後継者として、さらに市民に印象づけんとしているのだろう。ちょうど各地の戦争がひと段落し、平和になった時宜だ。今年じゅうに大規模な祭典を、マルケルスの主催で行う予定でいるそうだ。まずは市民に認知され、愛されること。そもそも生来優しい性格の甥だが、だからこそその美点をここぞと強調したいのだろう。それに能力もある。その点もいずれ明らかにできると、叔父として信じているに違いない。

 ティベリウスもマルケルスの長所をよく知っている。ただ気になるのは、アウグストゥスがやや急いでいるように感じられることだ。ティベリウスもろともだが、十八歳の若者に公務を託した。将来の特権も付与した。後継者として強く、市民に知らしめようとしていた。

 継父自身も先代カエサルの後継者として、十八歳で指名を受けた。だがそれは先代が突然の凶刃に倒れたからで、思いがけず早まった継承だった。

 まるで自分がいつ死んでも大丈夫なように準備をしている。それは考えすぎだろうか。ヴァッロの早逝のために、不吉な向きに考えすぎてしまっているのだろうか。そうに違いない。縁起でもない。

 ティベリウスは一度大きく首を振った。

 オスティアの仕事を任せてくれたとき、継父は悪くない調子だった。家でじっと体を休ませている限り、これ以上悪化はしないはずだ。

 ティベリウスは今度は一人大きくうなずいた。ルキリウスとドルーススが怪訝な顔をしてきたが、答えなかった。

 ティベリウスだって虚栄心とか自己顕示欲がないわけではない。あると自覚する。ただ虚飾は恥だと思うし、それより優先したい精神の誇りがある。それに表し方が違う。目立たなくてかまわない。実地や実務で能力を発揮し、結果を出したうえで認められることを望む。

 実力でなければ意味がない。自分にとっても、国家にとっても。

 そういう意味では、このオスティアでの仕事は実務的だった。主食である穀物の供給とは、国家の最重要責務の一つと考えられる。

 だから、継父に任せられた時はとてもうれしかった。大事な穀物輸入の仕組みを学べる機会だ。そして市民の腹を満たすという貢献ができる。軍団副官として軍団兵と司令官のあいだに立ち、配給の手順を覚えた経験がきっと生かされるはずだ。

 けれども今、早速壁にぶつかろうとしていた。

「ティベリウス、あのさぁ、君はちょっと大きく考えすぎなんじゃないの?」ルキリウスはそう意見した。「とりあえずの小麦だけ確保しておけばいいんだよ。君の在任中だけさ。実際に飢え死にする市民を出さなきゃいい。暴動が起こる手前でも、ぎりぎり起こさなきゃ万々歳だ。根本的に改善しようなんて考えなくていいと思う」

 はりきるティベリウスに関わらず、世界はまだ真冬だ。渋滞ばかりのオスティア港とはいえ、そうそう穀物輸送船は来ない。

 ローマでは、貧しい市民のために穀物の無料配給がある。だから理論上、飢える市民は出ない。ましてローマは年々豊かになっている。世界じゅうからあらゆる品を輸入できる経済力があるはずだ。

 そうであるのに近ごろは、主食である小麦の不足感が蔓延しているのだった。無料配給を受ける市民が増え、そうなると配給用の小麦が尽きてしまうのではないか。それを耳にした富裕者が買い占めをしているのではないか。それで価格が上がり、本来小麦を買う余裕のある者も買えなくなってしまうのではないか。そのような思いから悪循環が始まり、実のところ首都では市民が不満の声を上げているところだった。すでに昨年の段階から、暴動手前になる様子も見られた。例年にない流行り病の広がりが、その不安に輪をかけていた。きちんと食べて体力をつけなければ、治る病も治らないので、市民の恐れは理解できる。

 しかし実のところ、小麦は不足しているわけではないのだ。有り余るほどあるわけではない。だが昨季、不作だったという報告も聞かない。

 したがって、問題であるのは小麦の供給量ではなく、流通の過程にある。あるいは、ローマ社会のあり方自体にある。

「結果、暴動が起こったって君の責任じゃないよ。それこそ首都の長官とか、造営官の役目だろ」

 ルキリウスはそう言うのだが、そうはいかないとティベリウスは考える。マルケルスに余計な負担をかけるわけにはいかない。本当に小麦がないならばまだしも、きちんと十分な量が生産されているのであれば、なんとしても首都まで届けるのが自分の仕事だ。

 しかし財務官ティベリウスに与えられた権限は、今のところこのオスティアの執務室に留まって、あちこちへ小麦の輸送を命じる書状を出すことくらいだ。現地からそれが困難である旨の返事が来れば、その原因を問い質すだけだ。そしてまた手紙で改善を促すのみだ。

 ティベリウスが窮屈感を覚えている原因がここにあった。小麦は世界じゅうで栽培されているが、この二百年余り、ローマがその穀倉庫として当てにしているのはシチリア島である。しかしティベリウスはそこに赴くことができない。この穀物担当官の仕事には、現地の視察が含まれていない。本国と隣接しているが、シチリアは元老院属州であるので総督の管理下にある。

 それでもティベリウスは、現状を知らせるようにと、シチリアじゅうに書状を送った。生産地とその中継都市、そして総督の下へ。それだけでは埒が明かないので、奴隷を派遣した。本当は良くないのだろうが、財務官付き奴隷だけでは足りないので、クラウディウス・ネロ家の奴隷も使った。

 シチリア総督は、事態が切迫していることがわからないのだろうか。ティベリウスの要請に「送る。もうすぐ送るから」と応じるだけで、いっこうに具体的なことを知らせてこなかった。まだ十八歳の若造財務官を生意気だと思っているのか、それとも属州の実情をわかっていないのか、わかっていないのは無能ゆえか、怠慢か──何から何まで埒が明かないことばかりに思えた。

 じれったさの中で、一月二月が過ぎていった。仕事終わりには、ドルーススとルキリウスを伴って運動場で汗を流し、鬱憤を晴らした。

「君たちさぁ……」

 ある日、蒸気浴室のひと隅で、ルキリウスがげんなりとぼやくのだった。

「体力が無限なの? ぼくはアラビアが恋しくなりそうだよ……」

 そう言いながらもルキリウスは、毎日ネロ家兄弟のそばで過ごすのだった。ティベリウスの仕事を手伝いながら、ドルーススの勉学にもつき合った。個人的な食糧事情が改善されたのだろう。痩せぎすだった体に、適度な肉が付きはじめているように見えた。

 ティベリウスはルキリウスの言ったとおり、なんとか当座の小麦をぎりぎり確保して、現状をしのいだ。現地の実態が見えないままだが、使いの奴隷たちが少しずつ戻り来た。

 三月になった。世界が春を迎え、船の往来が活発化した。

 しかし小麦の収穫は夏を待たねばならない。それまでは昨年の収穫分でやりくりするしかなく、ティベリウスはシチリアがだめならばほかの土地に余剰の小麦はないかと探しまわった。属州アフリカ、ヌミディア、ガリア、そしてヒスパニア──最後の土地にはあまり耕作地がなかったと現地を見たうえで知っていたのだが、植民市には多数ローマ人が暮らしている。きっと首都と同じ穀物が育てられ、増産されてもいるはずだ。

 アウグストゥスには定期的に報告を送っていた。この月の初旬には、このような手紙が届いた。

『あまり血眼になって探すな。お前の一生懸命さには感心するが、あまりになりふりかまわなくなると、かえって市民の不安が増すし、世界からも噂されるぞ。『ローマ人は今飢えているらしい』 お前の努力の甲斐あって、首都は今のところ静穏だ。飢えて倒れる者も見ない。少し手をゆるめてもよい』

 それで、ティベリウスは頭を冷やすことができた。そうだ。確かに必死で小麦を買い漁っていては、ますます食糧不足の不安を煽りかねない。価格も上昇するだろう。生産地にも負担をかけるだろう。ここは一度落ち着いて、どっしり構えなければならない。幸い今夏に向けて、シチリアの小麦は順調に育っているという報告を受けていた。ティベリウスにできることは、次の収穫期までに、穀物輸送の過程にある問題をできるだけ見つけて取り除くこと、そして十分な量を速やかに首都へ運び込むことだ。

 相変わらず、現地に行ってこの目で確かめられないのは歯痒い。けれどもようやくティベリウスはこの仕事を覚えつつあった。

 継父も体調を持ち直したようでなによりだ。

「兄上は仕事熱心だな」

 ドルーススはなんだかうれしそうに言った。そして穀物担当官の家の庭で、だれかから貰ってきたらしいキュウリの苗を育てはじめた。彼の人生で初めてのことだ。

「ちょっと早いんじゃないの」とルキリウスは言うのだが、彼も微笑んでいた。「……まぁ、あたたかい春だから、大丈夫かな。ティベリウスの好物だし」

「ぼくはお肉と一緒に、パンに挟んで食べるぞ」

 野菜ばかりでなく穀物も、もっと本土で生産すればよいという話なのだが、ローマが海に乗り出してカルタゴを破り、シチリアを奪取した、ちょうどその頃から本土の穀物生産は急速に衰えていった。戦争には勝った。しかし小麦の質、量ともに、シチリアとアフリカ産のそれに勝つことができなかった。ヴェルギリウスは『牧歌』や『農耕詩』を詠んだ。彼の先達も同胞も、古き良き農村暮らしを讃えた。しかし農耕社会ローマは、もはや過去の記憶になってしまった。苦労して小麦を作るより、それを外国から運んでくる仕事のほうが裕福になれると、少なくない市民が気づいた。ローマがさらにガリアへ、それから東方へと進出するにつれ、ますます輸入依存が強まった。

 それでもオリーブや葡萄は、本国各地で活発に栽培されている。乾物にし難い生鮮食料も作られている。富裕層は自身の別荘に果樹園をこしらえて、余剰分を売りに出している。

 けれども小麦生産は、もうローマ本土から消え去る間際に見えた。国を憂える者は考える。この事態とは、征服地からの穀物が、本国の農民を抑圧した結果だ。これまでに大勢が土地を手放し、職を失った。戦争ばかりしてきた結果、ローマは大切な伝統を失ってしまったのだ、と。

 一面の真実ではあるのだろう。しかしそう批判する者もまた、往々にして自分で農地を耕したことがない人間である。

 農耕社会が過去の栄光となった後も、ローマ人は必要に迫られないかぎり、あまり外へ出ていかない。海運業で財をなした者を、カルタゴ人の真似事とばかりに相変わらず軽蔑し、自分たちは首都に集う。なにか職があろう、才能があればきっと報いられようと信じている。最悪でも飢えることはない。無料配給の小麦がある。どんどん建設されるので水道にも困らない。楽しみもある。剣闘士試合や戦車競走、演劇といった見世物がそこかしこで開催される。

 時にティベリウスは、空しさに似た気持ちを覚える。しかしそういう人々の幸福を守ることこそ、国家を担う者の責務である。大多数の者が、懸命に生きている。自分の仕事が社会に受け入れられる喜びを感じ、日々にささやかな楽しみを見出している。若き財務官が今そうであるように。

 今のティベリウスに大きな現実は変えられない。永遠に変えられない現実のほうが、今後も多いのかもしれない。しかしできることはきっとある。それを学ぶための初公務だ。

 下旬になると、アグリッパが妻子を連れて遊びに来た。首都整備の仕事の半分をマルケルスが引き受けてくれたので、おかげで時間にゆとりができたとのことだった。

 ヴィプサーニアは小麦粉を持参していた。ティベリ様が届けてくださった小麦から挽いたのです、と満面の笑みで見せてきた。それから皆でパン作りをすることになった。ヴィプサーニアに教わりながら、ティベリウスは生地をこねた。人生で初めてのことだった。ドルーススは顔じゅうを粉で真っ白にして、なにやら大笑いしていた。よく見れば、やはりと言うべきか、妹のアントニアがついてきていた。

「ひどい顔だな、アントニア! まるでお化けだ! こんなんでだれがお前を嫁にもらうんだ?」

「ドルーススの顔もおかしいわよ! 鼻の穴に粉が入ってるわよ!」

「へっくしょんっ!」

「こら! 生地に鼻水を入れるな!」

 兄姉が弟妹を叱りつけた。

「お兄様が寂しがっていたわ」マルケッラがティベリウスに知らせるのだった。「会いたいのに、あなたに会えない。いっぱいお話がしたいのにって」

「いつでも会える。すぐ近くにいるのだから」ティベリウスは笑みをこぼして言った。「でも、お互い仕事だからな。わかった。手紙を書くので、君に持ち帰ってほしい」

「お兄様の誕生日には、あなたもお暇を頂戴してね。それくらいはできるんでしょ?」

「ああ、たぶんな」

「やあ、おかえり! ルキリウス!」

 アグリッパはこっそりと隠れていたルキリウスを見逃さなかった。

「君の大活躍を聞いたぞ! あっぱれ、まさに金色の豹と──」

「やめてくださいやめてください、アグリッパ。ぼくは恥ずかしくて死にます。どこのポンペイウスか知りませんが、まずあいつを口封じに紅海に沈めないと──」

「なんだ、なんだ? 豹がどうした?」

「ドルースス、あっちへお行きよ」

 言ったとおりその晩、ティベリウスはマルケルスへの手紙を書き上げた。

『無沙汰していてすまない。五月の誕生日には君に会いに行ければと思うが、君も時間があればこのオスティアに来てみないか? 外国からの船が多く来港している。君とユリアのために、なにか素敵な品が見つかるかもしれない。首都の市民に見つかる前に』

 けれども翌月早々、ティベリウスは血相を変えて首都に戻ることになった。

 アウグストゥスが重篤になったというのだ。






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