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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第四章 アラビアのルキリウス
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第四章 -22



 22



 ロングス家の船はすでに出港していた。無事脱出と相成ったのだが、甲板は混沌としていた。まずロングス老人とその息子が口論していた。「なぜ孫を待たなかったのか」「これ以上もたもたしていたら俺たちも全滅だった」「『俺たちも』とはなんだ。お前は孫が死んだと言っているのか」

 ようやく緊張が解けたのか、ペルペレスの長女と次男は思いきり泣きじゃくっていた。レオニダスは、むっつりと七色の石の首飾りを握りしめたトラシュルスのまわりで、しきりに飛び跳ねていた。悔しくてならない様子だ。さらにそのまわりでは、マルクス・ポンペイウスをはじめ負傷兵が数十人、ぐったりと意気消沈していた。ラクダが一頭、感情の伺えない顔をして伏せっていた。

 コルネリアもまた泣いていた。声を殺して、赤ん坊を抱きしめて。もう一人の赤ん坊を抱き、ラオディケがぴたりと彼女に寄り添っていた。

 このような状況を眺めていたはずなのだが、マカロンはといえば、ただ船尾にぼんやりと座り込んで、まったく違う光景をくり返し見ていた。

 あの背中。

 信じられないくらい大きく見えたが、よく目を凝らしたならばまだ細さの残る線。それは揺らぐことを知らない。これから長く、なにものが降りかかろうと、なお揺らがずすべてを担っていくような背中──。

 ひゅっと空を切る音がした。さながら大理石でできた第一級彫刻のような腕。その手首が翻り、槍がうなったのだ。それは寸前に、マカロンの手の中から継がれた武器だった。

 背中は遠ざかっていった。戦場の粉塵が、まるで一粒残らず道を開けるように散った。

 赤みがかった茶髪だけが、かすかに風になびいていた。

「おい、旦那」

 子どもたちをなだめるのをあきらめたらしい。ペルペレスが疲れた顔をしてそばへ来た。

「あんた、本当に大丈夫か? どっか怪我したんじゃ?」

 マカロンはぼんやりと彼を見上げた。そして不意に、熱烈に、自分が見た光景を説明したいと思った。だがいったいどうすれば伝えられるのだろう。

 あの奇跡を。

 その時届いた悲鳴は、戦場の怒号に紛れて聞こえた。次の太鼓を打ち鳴らすに似た音で、マカロンとペルペレスは振り返った。

 ナイルに噴水が湧いて出た。





 ティベリウスとルキリウスはどちらも泳ぎの心得があったが、そろって胸当てくらいの防具は身に着けたままだった。そのまま流れに浸っていれば、じきに溺れていただろう。メリクの乗った筏が、たちまち二人のもとへ寄り来た。彼はティベリウスの手を借りつつ、ルキリウスをまず引き上げた。

「ネロ、向こう側から上がってください。ひっくり返りかねないので」

 ルキリウスの両脇を抱えて引き、メリクは詫びるように言った。

 ルキリウスがその奇妙さに思い至ったのは、ティベリウスが筏の反対側から一人で上がってきてようやくだった。なおしばらくせき込んで、呼吸を整えなければなにもできなかったが、一方ティベリウスときたら、涼しい顔をして早くも筏にあぐらをかいた。

 メリクはルキリウスをティベリウスに任せると、櫂を手に筏の端に立った。

「……えーっと……」

 どちらへ訊くべきか、ルキリウスは迷った。未だなにも現実とは信じられていなかったが、目を合わせてきたのはティベリウスだった。文句たらたらな気配は残ってはいるが、どうも本気でルキリウスの体の具合を心配しているような色があった。

「ティベリウス」ルキリウスは傍らへ訊いた。「その……君がメリクと知り合いみたいなのは、なんで……?」

 するとメリクが振り返り、二人は困ったような視線を交わすのだった。

 ティベリウスが口を開いた。「ルキリウス、彼はケラドゥスだぞ」

「はいぃ?」

「カエサルの解放奴隷だ。エジプトで任務に当たっていた」

「えぇえ?」

「もうお分かりかと思っていましたよ」

 メリク──ケラドゥスは苦笑するのだった。完璧なラテン語を話して。

「お分かりなわけないよね!」ルキリウスは抗議した。「そりゃ、ただの雑用係じゃないんだろうな、くらいは思っていたけど」

「そんな……ローマですれ違ったことくらいはあったでしょう、ロングス」

「それくらいでわかるわけがないから!」

 ケラドゥスはたっぷりと髭を生やしていたし、肌も褐色だ。たぶん色つきの油も塗っているのだろう。

「君が彼を寄越したのか?」ルキリウスはティベリウスに迫った。

「違う。元々カエサルが彼を派遣していたのだ。ちょうどお前がローマを出たのと同じ時期だったと思う」

「ネロからあなたのことを伺ったのは、あの年が明ける頃でしたね」ケラドゥスが言った。「仕事の傍ら、あなたのことを逐次報告するように、と」

「お前の手紙だとすべてたわ言である可能性があるからな」ティベリウスは恨みがましく言った。「任務のついでだ。ケラドゥスには無理を言った」

 ルキリウスも以前、ティベリウスの口から聞いていた。カエサル・アウグストゥスの解放奴隷ケラドゥスとは、敵地の調査──すなわち密偵を生業としていた。六年前、その任務の最中、ティベリウスに命を救われる事件があった。今回、彼がティベリウスの頼みを引き受けたのは、その恩に報いるためだろう。無論、アウグストゥスには内緒で。

 ルキリウスは頭を押さえた。アレクサンドリアの闘技場で負けた時、ティベリウスがやけに早い反応の手紙を寄越したことがあった。ケラドゥスが即刻報告を送っていたわけだ。

 そして今ここに主の継子が来訪しているのも、彼の手引きがあったからに違いなかった。

 いよいよやっとルキリウスは、今のこの状況が、一連の過去とつながっていることを認識しはじめた。したがって本当に、これは夢幻ではなく現実であるらしかった。

 とどめを刺したのは、ティベリウスの左手が突き出してきた硬貨だった。

『ルキリウス、ぼくはこれから帰る』

「なにがこれから帰るだ。それから半年もお前は逆方向に進み続けた」

 ティベリウスがうなった。硬貨はルキリウスの手のひらに押し置かれた。ルキリウスはそれをじっと眺めた。

 ナイルの川波が筏をわずかにゆらしたが、ルキリウスは手の中の硬貨だけ気にしていればよかった。背後にティベリウスの右腕が突いて置かれ、この瞬間には当たり前のように支えになっていた。

 視野に映る硬貨は、少しずつにじんでいった。

「ルキリウス」改めて耳が、三年ぶりに現実の声を聞く。「なにがお前を世界の果てまで駆り立てたのか、私は知らない。お前が言わないからだ。必要な時間だったのなら、それでいい。でもお前は、いつまでも帰って来なかったではないか。ど壺にはまったように。もう十二分によくやったのに」

 ティベリウスはまだ腹が収まらないらしかった。

「それで、私は考えた。こんなことはお前が一人でいるから起こるのだとな。お前には歯止めが必要だ。そのうえで、どこまでも共に行くことができる友が要るのだ。いいか? お前は一人でアラビアに行くべきではなかった。剣闘士になるのも、紅海をまたぐのも、エチオピアで戦うのも、一人ではならなかった。どうしてお前だけで世界を見るのか」

 筋を違えそうなほどの勢いで、ティベリウスはルキリウスの頭を引き寄せた。しかと自分を見させた。

「私がいるのに。ルキリウス、お前はもう二度とどこへも行くな。ずっと私の隣にいろ。もうなにも心配しなくていい。一人でここまでやれたのだし、これからは常に私がいる。どんな困難も打ち払ってみせる。だから、今からは共に世界を見るぞ。喜びも悲しみも、我々二人のものだ。わかったな?」

「…………」

 激情に任せ、自分がとんでもない発言をしていることに、ティベリウスは少しも気づいていないらしかった。目を大きく見開いてルキリウスは固まっていたのだが、ティベリウスの目ときたら真剣そのもの、大真面目だった。揺らぐ気配もなければ、退く気もなさそうだ。

 けれども、少しはおのれを顧みる心を持っていたらしい。長い沈黙が続くうち、ティベリウスは次第にまばたきを始めた。それから青い瞳を左右に、上下に動かした。そして顎を引き、ほんのり頬を赤らめるのだった。

「……その」ティベリウス・ネロは少しだけうろたえていた。「……すごく恥ずかしいようなことを言ったかもしれないが……ほかに言いようがなくてだな……」

 ルキリウスは吹き出そうとした。思いきりからかってやるつもりだった。なにしろ三年分だ。存分に。

 その意図は刹那に頓挫した。笑みは笑みになりきれず崩れた。ナイルの上で憚る必要はなかった。泣きじゃくりながら、ルキリウスはティベリウスの肩に身を預けた。

「もうどこにも行かないからな!」

 それこそが、長いあいだの望みだった。

「ずっと一緒だ……」

 永遠の願いだ。ルキリウス・ロングスという友は、そのために生きる。

「ああ、そうしろ」

 ティベリウスは屈託もなく受け入れた。

 ナイルの水は筏を洋々と運んだ。ひっそりと黙したまま、太陽のかけらのみを川面に映し留めて、エメラルドは流れていく。帰るべき場所へ送り届けようとばかりに。

 ルキリウスが次に顔を上げたのは、湧き上がる音声を耳に捉えたからだ。見ると、エメラルドの流れの彼方で、なじみある船が並走していた。

 船はほとんど傾いていたに違いない。だれもかれもが左舷に集まり、ちっぽけな筏へ手を振っている。人間ばかりか、ラクダの顔さえも見える。そろってナイルを割らんばかりの歓声を上げている。涙声でもまた名前を呼んでくれている。

 もはや全身の力がすっかり抜けていたが、それでもルキリウスはなんとか右手を上げて応えた。笑みも今度こそ上手くできた。ロングス家の船は、さらにひと際の大音声を轟かせた。

「悪いけど近づけないでくれよ、ケラドゥス」

 ゆっくりと手を振り返しながら、ルキリウスはそう頼むのだった。

「こんな顔、見せられたもんじゃない。なにより、ぼくにはもうあそこに戻る体力がない」

「心配するな」

 答えたのはティベリウスだった。ケラドゥスの足下から、くすんだ青色のマントを引っ張り出した。

「このまま帰る。あまり時間がないからな」

「ネロがこの国にいることが、あちこちにばれたらまずいですからね」とケラドゥスが言う。「それにほら、ご覧なさい」

 ケラドゥスが行く手を指す。見ると、山脈のようなものが川中に出現していて、次第に近づいてくる。

 ローマの艦隊だ。

 山々はたちまち迫り来た。ロングス家の船と筏のあいだに割り込んで、互いの姿を見えなくした。フィラエ島あたりがまるで元の居場所に戻ろうとしているようだった。

 軍船が幾重にもナイルを上っていく。シュエネの基地奪還のため、そしてメロエ人を撃退するため、一万人が新たなる戦場へ向かう。

 二年間苦楽を共にした第三軍団と第二十二軍団が、甲板に控えていた。並んでティベリウスのマントをかぶりながら、ルキリウスはその姿をじっと見守っていた。

「戻ると言うなよ」

 ティベリウスが釘を刺した。

「すでにお前の後任はあれに乗っている。任務放棄にはならない」

「……アエリウス総督で大丈夫だと思う?」

「もうアエリウスではない。ガイウス・ペトロニウスに代わった。アグリッパの推薦で、有能な将軍だと思う。彼に任せておけ」

 ルキリウスは大きなため息をついた。今一度力を抜いて、ティベリウスの半身にもたれる。

 じわりと胸に染みるのは、別れの悲しみか。一方、次第に夢のように感じていく。艦隊が遠ざかるごとに、軍団副官だったルキリウス・ロングスはいなくなり、ただのおしゃべりでひ弱なティベリウス・ネロの友人に戻っていくようだ。

 艦隊が上流へ去った時、ロングス家の船もまた見えなくなっていた。デルタ地域まで、ナイルはただ一本道だが、川面は広大だ。きっとまだ後ろに留まっているのだろう。

 ルキリウスは眠ってしまいそうだった。そうしてかまわなかったのだが、この現実こそ夢だと知らされる可能性もまだあると思って、なんとかこらえていた。

 なにもかもがナイルの夢の彼方に消えてしまいそうだ。次に目を開けたときには、なにが残っているのだろう。

 すると、ティベリウスが喉を整える音が聞こえた。

「お前の大切な女人のことだかな」

 話題は意外だった。ティベリウスの調子もどこかぎこちなかったが、気づかないふりをして話すようだ。

「カエサルに相談した。カエサルも、コルネリウス・ガルスの娘が不幸になることを望んでいない。死ぬほどに嫌がるならば、婚姻も強制しない。それで、やはりヴェルギリウス殿に託すのがよいかという話になった。妻にするのではない。アポロン神殿の図書館で、巫女として、助手を務めてほしい、と。ヴェルギリウス殿がまずほとんどナポリに引きこもっているから、実質館長職を担うことになりそうだが、あのガルスの娘だ。その教養には期待したい、と」

 それで、お前はどう思うかとティベリウスに問われ、ルキリウスはしばし考え込んだ。このうえもなくすばらしい話だが、明確にするべき問題点がいくつかある気がした。

「ねぇ、ティベリウス」ルキリウスは悩ましく口を開いた。「巫女って言ったよね?」

「ああ、言った。アポロンの巫女だ」

「それには任期があるのかな? ヴェスタの巫女みたいに」

「あるかもしれないな。カエサルのお考え次第だが」

 ヴェスタの巫女とは、その起源を王政時代にまで遡り、ローマでは最も特別な神職である。任期は三十年となる。アウグストゥスは自身が奉献した新しい神殿に、同じほどの任期の巫女を置こうと考えるだろうか。考えにくいが、なんらかの制約を設ける可能性はある。それが当の娘を守る役割も果たす。

 ルキリウスはさらにうなった。

「その……巫女というからには、乙女じゃないといけないのかな? ……つまり……そのう……」

 ティベリウスは、しばらくその「乙女」という言葉の意味を失念していたらしい。乙女でない娘がいるのかと言わんばかりの不思議そうなまなざしを、ルキリウスに向けてきた。

 そしてだしぬけに、ようやっと思い至った。

「お前、まさか──」

「やぁやぁ、だってだって──」ルキリウスは言い訳せんとした。「約二年ですよ、ティベリウス。約二年もそばで過ごして、むしろそこはぼくの並外れた自制心のほうをご評価願いたいもの……」

 そこでルキリウスは、ティベリウスの衝撃にのされた顔に気づいた。

「…………まさか、ティベリウス」

 ルキリウスは信じ難かった。

「君は、まだ、なの……?」

 もはや答えは必要なかった。今度こそ思いっきり、ルキリウスは大笑いした。空へ抜けよと容赦しなかった。げたげたと足で筏を鳴らし、ナイルをも震わせた。

「どーりでたくましくなっているわけだよ! ねえ? 『ガリア戦記』にあったとおりだ。ゲルマニア人は、二十歳前に女性を知ったら恥とされる。そうすれば背が伸びて、心身ともに屈強になると信じて、できるだけ長いこと童貞でいる。それが賞賛の対象! わかる? 神君カエサルは十六歳で結婚して、父親になったんだ。『信じ難い、信じ難い』って行間に表れているんだよ。でも、ついに君が真実を証明したわけだ! 我が身で!」

「黙れ!」

「けど君みたいな良い家柄の男なら、だれかの結婚式のたびに素敵な女性が用意されそうだけどね。……まさか君、それもことごとく断ってきたの?」

「うるさい! うるさい!」

「なんて涙ぐましいんだ、ティベリウス!」ルキリウスは友の腰を抱きしめた。腹が痛くて今度こそ死にそうだ。「君ほど貞淑な男は世界にいない! でも、どうするんだい? ヴィプサーニアちゃんと結婚するまで、あと三年? 四年? いったいどこまでたくましくなる気でいるのさ!」

「黙れ、ルキリウス! やっぱりお前はここに沈めていく!」

 二人の若者は筏の端でもみ合った。豊かなナイルの流れが、その一つの影を受け止めていた。









(第五章に続く)


(220417)

ここまでお付き合いありがとうございます。

ここで本作完結でいいんじゃないかとも思ったんですが、まだ続きます。


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