第四章 -20
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ロングス家の船は、第一急流を下り得た複数の筏を蹴散らした。船上にいた軍団兵二百人が、メロエ人を寄せつけなかった。あと少しで基地に接岸できそうだったが、それより早くローマ側の筏が次々と乗り入れた。避難民の一部から、馬やラクダと引き換えにもらったものだ。
到着した者から続々と、シュエネ守備隊に加勢した。基地の南門がやはり破られ、地上が乱戦状態だった。マルクス・ポンペイウスが懸命に声を張り、自分たちの到着を知らしめていた。まずは戦場の秩序を回復しなければならない。態勢を立て直し、敵を押し返しながら籠城に持ち込まなければならない。
三百人加わって、千八百人だ。メロエ人が絶え間なく南門からなだれ込んでくる。
もう基地の完全回復はあきらめるしかないと、ルキリウスたちは思い知った。南半分はすでにメロエ人の手に落ちたとするしかない。残り一角を死守し、立てこもる作戦に切り替えるべきだ。
今更全員で退却することはできなかった。いかなる規模であれ、それは覇者ローマの敗北だ。マルクス・アントニウスが東の大国パルティアから敗走して以来の不名誉だ。カエサル領エジプトへの責任放棄でもある。そしてなにより、ロングス家の船と筏だけでは全員を連れ出し得ない。
しかし辺りでは、武器も防具も持たない人々が逃げ惑っていた。基地で働く非戦闘員か、避難してきたシュエネ市民か、そうでなければ──。
「こっちだ!」ルキリウスもまた大声を張り上げた。剣を振り腕をまわし、必死に身振りした。「もうすぐ輸送船が来る! 一般市民は避難しろ!」
「ルキリウス!」
駆け寄ってきたのは、ペルペレス一家だった。全力で走ることができないのは、夫婦ともにそれぞれ幼子を二人ずつ抱えているからだ。すぐ傍らには、トラシュルスとレオニダスが手をつないで寄り添っていた。
ルキリウスは声を詰まらせた。なんとも知れない思いに胸がいっぱいになり、動けなくなった。
トラシュルスは十歳、レオニダスは六歳になった。ペルペレスの腕の中にいる二子は、以前にまとめて子守りをしたことがある女児と男児だ。そしてラオディケの腕の中にいるのが、最近生まれたという双子の女児だ。
「……すみません!」ルキリウスは謝ることしかできなかった。「ぼくのせいで、こんなことになって──」
「馬鹿言え。お前のせいなもんか」ペルペレスは素っ頓狂と言っていい声を上げるのだった。「来てくれて助かった! 俺たちのことはもう大丈夫だから、早く行ってやれ!」
ペルペレスは二児を抱いたまま横を通っていった。次にトラシュルスとレオニダスが来て、そろってルキリウスに飛びついた。二人の額にそれぞれ接吻をして、ルキリウスは彼らを後ろへ押し出した。
顔を上げると、ラオディケがにやりと笑って立っていた。両腕にはそれぞれ黒髪と金髪の赤子を抱いていた。
ルキリウスは赤子らごと、ラオディケを抱きしめた。
「…………ありがとう」
鼻水をすすりながら、なんとか声を絞り出した。
「なんとこっちなのよ」
おどけるように、ラオディケが黒髪のほうの赤子を少し持ち上げた。涙で視野が霞んでいたが、ルキリウスはほんの一瞬でも見ようとした。
「……母親に似てよかった」
「早く行っておあげなさいよ」
「うん」
ラオディケらが去ると、ルキリウスは剣を握りしめながらおもむろに前進した。空いた左拳で顔をぬぐった。
背後からは歓声に似た声がとどろく。叔父の船が到着したのだろう。軍団兵二百人が、船の護衛を残してさらに投入される。
「ルキリウス、死なないで!」トラシュルスの声が聞こえる。
「おにいちゃん、みんなやっつけちゃえ!」レオニダスの声も届く。
ああ、もちろんだ。
ルキリウスは左拳を下げた。その両眼は再び──否、かつてないほど鋭く澄んだ光を帯びる。
低い声が地を這う。乱戦の粉塵を押し伏せるように、静かに進む。すでに敵が気づいて迫り来る。
ああ、死なない。ぼくはまだ死ぬわけにはいかない。守り抜いてみせる!
次の瞬間、獣の咆哮がとどろいた。天頂の陽光──。それにまがう輝きの去り際、メロエ人の体が次々と地に伏せった
金色の豹が戦場を駆け抜けた。
南門を破られ、ローマ側は押されていたが、まだ絶望ではなかった。秩序ある軍団兵はやはり強い。メロエ人の武具は洗練されておらず、防具もかろうじて皮張りの盾のみ、あとはほぼ裸だった。まして彼らは頂に王がいようと、思い思いに戦い、陣形などは考えてもいない様子だ。ローマがここで踏ん張れば、一進一退ぐらいまでには立て直せるかもしれない。その隙に基地の一角だけは確保する。船着き場もあと少しのあいだだけでも死守する。非戦闘員を逃がし、できなければ共に立てこもることになる。
劣勢ではあるが、ローマ守備隊は奮戦していた。五百人の援軍が来たことが、彼らの士気を高めていた。今や全員が自分のやるべきことを知っていた。
金色の影が、またもメロエ人を一人打ち倒した。さらにもう一人、二人──。乱戦の片隅が、壁が築かれるように整えられた。だが金色は止まらない。また別の乱戦地へ飛んでいく。
そこがまさに目的地だった。すでに非戦闘員はいないように見えたが、実際はそうであるはずの者たちの固まりが、頑強に抵抗を試みていた。
コルネリア・ガッラがメロエ人一人を剣で退けたところだった。その隣ではマカロンが、槍で敵を寄せつけまいとしていた。呆れたことに祖父までが、片刃の長剣を振りまわしている最中だった。コルネリアとマカロンにあわあわとかばわれているように見えたが。
「おのれ貴様らなど、シチリアの海賊どもに比べれば蟻も同然!」
そこへ屈強なメロエ人が近づいてきた。以前にも見た覚えがあるし、数々の貴石をあしらった華やかな首飾りからもわかる。女王の息子の一人だ。テリテカスだかアクラカマニだが、とにかく太くはなくしなやかであるほうだ。将軍格の一人であるのだろう。
コルネリアは退かなかった。戦う気で集中し、ルキリウスに気づいてさえいないようだ。アクラカマニ仮に対し、剣を構えた。
自分より圧倒的強者に相対する恐怖というものを、コルネリアは備えていないのだろうか。女という存在は、大なり小なり、男どもにそうした恐怖を感じる経験をしながら生きてきたのではないのか。
男にも勝る強気か、無知ゆえの無謀か、うぬぼれか。
そうでなければ守る者の存在が、彼女に恐怖を忘れさせるのだろうか。
脇に置かせているのだろう、きっと。
「祖父さん」極めて平淡に、ルキリウスは声をかけた。「叔父さんの船が来ているから、そろそろ乗ってもらえないかな?」
けれどもその声は、味方の動きをすべて止めた。
「ル──」
無論、アクラカマニには関係ない。彼は斧を振りかざして、コルネリアを狙った。
振り下ろされる間際、ルキリウスの剣に力を殺された。
「ルキリウス!」
ルキリウスはそのまま斧を受け流した。アクラカマニが大きく釣り合いを失ってよろめくあいだ、追撃をせず、左腕でコルネリアをかばいながら距離を取った。
「ごめんよ、コルネリア」
敵を見据えたまま、ルキリウスは言った。
「こんなことに巻き込むつもりはなかったんだけど──」
コルネリアに抱きつかれ、ルキリウスもまた釣り合いを失った。敵に襲われたらどうするつもりか。
「よかった……帰ってきた……」
ルキリウスの肩に頭を押しつけ、コルネリアは涙ぐんでいた。
「もう会えないんじゃないかと思った……」
「コルネリア……」
彼女が顔を上げた瞬間、ルキリウスは戦士の顔つきを保てなくなった。コルネリアもまたもう戦士の面差しをしていなかった。ただの可愛い少女の顔だ。
へらりと、ルキリウスは泣き笑いのような顔を返すのだった。
「勇敢なるコルネリア・ガッラ、たった三年で戦闘の最前線に立つまでになるなんてな……」
自分が情けなくてルキリウスはそう言ったのだが、コルネリアは首を振り、美しい涙の粒を飛ばした。
もう何度もこんな顔ばかりさせてきた気がした。
「ごめんなさい、ルキリウス! あたしたちのために無理をして来たんでしょ!」
「君が謝らないでおくれよ、コルネリア。無事でいてくれて、ぼくは今人生最高にほっとしている。ペルペレスたちにもみんな……さっき会った……」
コルネリアの大きな瞳がなにかを問いかけていた。ルキリウスはそっと微笑んだ。彼女と唇を重ね、すぐに離れた。
「さあ、行って」
ああ、本当に、また会えてよかった。
「あとは任せて」
「あたしも一緒に戦う!」
ルキリウスは一瞬目を閉じた。「祖父さん、マカロン殿」
がっしりした手と骨ばった手が、コルネリアの腕をつかんだ。
「コルネリア」マカロンが息を切らしがちに言った。「行こう。これ以上我々がいては足手まといだ」
「いやよ!」
「君はもう一人ではないんだ! 生き延びねばならない!」
コルネリアはまたも泣きながら引きずられていくのだった。これが三度目だ。アレクサンドリアとレウケ村、そして今。
「コルネリア!」
しかしルキリウスは、今度こそその声に応える。
「心配するな! ぼくは必ず生きて戻る! だからみんなの避難を、頼んだよ!」
背後のコルネリアの気配が、ひたと静まる気配がした。
ルキリウスはすでにアクラカマニへ向き直っていた。また気遣ってくれたのだろう。マルクス・ポンペイウスが果敢にもそのしなやかな敵へ挑んでいくのだった。お前の相手は私で十分。そうギリシア語で吠えながら。
「孫よ」
ポンペイウスを制そうとして、ルキリウスはなおも居残る八十歳の声に止められた。
「儂も下がろう。だがお前が戻るまで船を出すつもりはない。覚えておけ」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
ルキリウスは左手で頭を抱えた。ポンペイウスがアクラカマニに吹っ飛ばされたところだった。だが獲物は無骨な斧だ。甲冑をまとっていて幸いだった。骨にひびくらいは入っただろうが。
「ぼくはおそらく、どっかその辺の建物内に籠城する。これから来るローマ軍本隊の邪魔になるから、さっさと出ていくんだよ」
「お前が死ねば、ロングス家は断絶だ」
「よく言うよ。自分たちはインドまで旅に出ておいて。叔父さんの子どもを養子に貰えばいいでしょ」
「お前しかいない。ロングス家の名を歴史に残す男は」
そんなことを言っているから父は──祖父の長男は、戦禍の中で死を迎えたのだ。しかし祖父もそれはわかっていた。長年に渡ってずっと、内心で自分を責め続けていたのだ。
だれのせいでもなかったのに。
「死ぬな」だから祖父が本当に言いたいことは、これだけだ。「生きろ。なにがなんでも」
わかっているよ。
うなずくが早いか、ルキリウスは駆け出した。ポンペイウスにとどめを刺さんとするアクラカマニ。その黒光りする肌めがけ、飛びかかる勢いのまま剣を振り下ろす。
わかっている。生き延びてみせる。少なくとも今死ぬわけにはいかない。その先になにが待ち受けていようと──。
アクラカマニは察知し、ルキリウスの一撃をかわした。だがそれでよかった。ルキリウスの間を置かない連撃が、相手に態勢を立て直す隙を与えず、たちまちにして押しやった。メロエ人の只中に。彼らは慌てた様子で退いた。
「金色の豹……」
声はポンペイウスのそれだ。茫然としながら、恐れおののいているようにも聞こえた。
「黄金のスフィンクス……」
「寝ぼけてないで、ポンペイウス」
とどめにアクラカマニの肩を突いて、部下二人ばかりごと地面に倒した。すでに太腿を傷つけているので、もう動けないはずだ。彼の足首を踏み、なお敵へ油断なく目を向けながら、ルキリウスは同僚へ言った。
「動けるなら君も船へ行け。だれか、彼を連れていけ!」
「ルキリウス──」
そこへ猛り狂うような咆哮が響き渡った。メロエ人もローマ人も、ルキリウスを含めて全員がすくみ上った。獲物を狩りに出る豹のそれではない。もっと高く、力強く、生けるものすべてをひれ伏させる圧があった。
いったいなにか。見ればわかる。メロエ人たちが一斉に振り向いたからだ。ほんの瞬間の注視の後、彼らはそろって頭を伏せた。見ることは無礼であり、畏れ多いとばかりに。
南門。続く基地本棟。その露台に、ずっしりと巨大な姿が現れた。忘れもしないそのクジラの頭のような腰まわり。大木のような四肢──。
メロエ女王──カンダケ・アマニレナス。すでに本棟を制圧したが、息子の一人を負かされたことに怒りを露わにしているのだろう。世界最強の女が吠えていた。
「あれが女王か?」
軍団兵の一人があっけに取られたように口を開いた。
「あれが女だと? 伝説の巨人だろ」別の軍団兵もまたつぶやいたが、呆れているようだ。
「おのれ我らの拠点を乗っ取りおってからに……」百人隊長の一人がうめいた。
「でもあいつを倒せば──」その部下が意気込んだ。「あいつを倒せば、メロエ人どもは総崩れだ!」
しかし続く二度目の、さらに荒々しい咆哮に、その部下は目眩を起こしたようだ。痺れたように硬直した後、へなへなと地面に崩れた。
アクラカマニを押さえたまま、ルキリウスはその巨体を見上げていた。すると──隻眼であるのにとんでもない視力だが──女王アマニレナスもまたルキリウスに気づいた。
「オ前カ……!」
もはや怒っているのではない。彼女は笑ったのだ。二年前に自らがこてんぱんにのした剣闘士を覚えていた。
「面白イ。来ルガイイ、ローマ人トヤラ」
その傍らにはアキンダ、それにテリテカス仮という、残る王子二人の姿もあった。
彼らの号令とともに、本棟はメロエ人の群れを吐き出した。せっかく制圧したのだから、そのままそこでゆっくりくつろいでいてくれればよかった。
女王がルキリウスとの再戦を、勝手に受けて立つことに決めた結果だ。これはルキリウスが引き起こした事態だ。奇跡的に落ち着きはじめた戦況が、また乱戦に逆戻りだ。それどころか、今度こそローマ軍はメロエ勢に粉砕されそうだ。
そうはさせなかった。自分が引き起こした事態であるならば、自分で責任を取ればいい。ルキリウスはメロエ勢に負けじと飛びかかっていった。ただ一撃、斬って、斬って、斬り捨てながら前へ、前へ進んだ。
「ルキリウス、だめだ!」
ポンペイウスの叫びが聞こえた。
「無茶だ! 行くな!」
そうはいかない。すでに横をすり抜け、何人ものメロエ兵があふれ出ている。ポンペイウスは人の心配をしている場合ではない。この連中をだれ一人、船着き場へ流すわけにはいかない。せめてまだもう少し時間を稼がなければならない。北西の一角を無事確保するまで。
何人かの軍団兵が並んで続いてきた。けれども一人、一人と遅れ、離れて消え、本棟内に突入したとき、ルキリウスはただ一人になっていた。
実のところはただ、砦内に一人閉じ込められたのだった。
退路である出入口は、もはやメロエ兵に塞がれていた。だがルキリウスはかまわなかった。まるで吸い寄せられるように、砦の奥へ、奥へ、上へ、上へと進んでいった。カンダケさえ倒せばいい。それだけを覚えていた。
二年前のあの日、彼女をひるまずに倒し得ていたら、今このようなことにはならなかっただろうか。
激しい立ちまわりをくり広げながら、ほとんど無傷で、一人、また一人と一撃の下に沈めていく。
だがルキリウスは忘れていた。自分がひ弱でちっぽけなルキリウス・ロングスであることを。体力がないので、その埋め合わせに覚えた剣術であったことを。
いよいよ腕が上がらず、足も重たくなったとき、ようやくにして女王アマニレナスが立ちはだかった。広い廊下の真ん中で、彼女は相変わらず笑っていた。息巻く息子たちを制し、ルキリウスが力を取り戻すのを待つ構えさえみせた。そうしてくれたところで、すぐに体力が戻るわけがないのだが。
女王が剣を抜き、おもむろに進み出る。ルキリウスも構えようとする。だがやはり腕が上がらない。指にすら力が入らず、もう剣を握っていることさえ覚束ない。
いよいよようやく、ルキリウスは頭から冷水を浴びせられる心地がした。
なにをしている。
ぼくはなにをしている──。
いつぞやと同じように、女王は自慢の大剣を振りかざした。
ルキリウスが基地の本棟に吸い込まれていく様を、マカロンは激しい焦燥でもって眺めているしかなかった。とうとう姿が見えなくなったときは、絶望という漆黒に視界を奪われた。
黒く艶めく軍勢ばかり群がっているからではあるまい。
この光景が、コルネリアに見えなくてよかった。彼女はたった今、ロングス老人を支えながら船梯子を上っていったところだ。ラオディケと子どもたちが、なお明るい声を上げて迎えていた。
「おい、マカロンの旦那!」
ペルペレスが呼ばわっていた。
「あとはあんただけだぞ! 急げ!」
違う。マカロンはルキリウス・ロングスをも連れて引き上げたかった。彼は十分に働いた。もう撤退してもいいはずだ。
しかし今この瞬間、その望みは絶たれた。共に船出することばかりではない。生きてまた会うことさえ不可能事になった。
だれがあの砦からルキリウスを連れ出し得るというのか。軍団兵らでさえ、すっかり阻まれて手出しできずにいるではないか。それでもマカロンもまた戦場に取って返すべきか。いかに無力であれ、このままルキリウスが一人死にゆくのを、むざむざと放置するというのか。
命を救ってくれた。そしてまだ長い未来があったはずの、十八歳の若者だった……。
「あそこに、ルキリウス・ロングスがいるのか?」
声は、後ろから聞こえた。初めて聞いたのだが、その瞬間、マカロンは体の芯を打たれたように動けなくなった。
横を通り過ぎていく背中は、その目にとても大きく映った。