第四章 -19
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並んでラクダを猛然と南下させながら、ルキリウスはポンペイウスともめた。
「君たちまで来る必要はない!」
舌を噛んだらどうするつもりか。それでもラクダを止めるわけにはいかず、ルキリウスはポンペイウスに怒鳴り続けていた。
「正気か? 総督と合流しろ! 彼らに引き返してもらうのが先だ!」
「それについてはもう伝令を送っただろ!」ポンペイウスは退かなかった。「総督はいずれ駆けつけるさ。だが今襲われているのは我らが軍団兵だ。捕らわれたのはこの国の民だ。見過ごせるものか!」
「正気かよ?」ルキリウスは信じられなかった。「相手は三万だぞ? いいか、ぼくは軍団副官として行くんじゃない! 家族と恩人を助けに行くんだ! 完全に私情だし、任務違反と見なされても仕方ない。罰を受けるぞ、生きて帰れたらな!」
そう言い聞かせているのに、ポンペイウスどころかほかの軍団兵らも、ラクダや馬を駆ってあとをついてくるのだった。そうでない者は、叔父の乗るロングス家の船を動かし、なんとか国境へ急がんとしていた。シュエネの軍団基地ならば、急流の手前だ。近づけないことはない。
だがせいぜい五百人だ。残りは急報を知る前にコプトスへ送り出してしまった。全員そうしてしまえばよかったとルキリウスは悔やんでいた。叔父に気づくのも、急報を受け取るのも、そのあとでよかったのだ。
エチオピア勢を率いるのは、あのカンダケ──女王アマニレナスだという。女王はローマ軍がアラビアへ遠征している隙をつくことにした。国境に残されていたのは三個大隊およそ千五百人だ。あの蛮勇にしてみれば、ひと捻りであると考えたのだろう。ローマとは何者か、未だにわかっていないに違いないが、とにかく国境で関税という名の貢納を要求してくる連中が気に食わなかったのだろう。確かに今こそ好機だった。今ならばローマ人を一掃できる。メロエの強さを知らしめ、支配域を広げられる。
そのように目論んだに違いなかった。
叔父の船を別とすれば、川面は下流へ向かう小舟や筏であふれていた。どれもこれもいっぱいに人間を積んで、そのすべてがフィラエとエレファンティネ両島、そしてシュエネからの避難民だ。
だが伝令によれば、一般市民への虐殺は起こっていないらしい。不幸中の幸いだが、メロエ人にしてみればそれは不要であるのだ。フィラエ、エレファンティネ両島は国境であり、交易の中継地であるので、エジプトとメロエ両国民が混じり合って暮らしている。シュエネも同様だ。避難民に追撃はなされないだろう。メロエはただ支配者に取って代わりたいだけだ。
しかしローマ人だけは別だ。見分けられるかぎり、彼らが殺そうとする対象はローマ人であろうし、捕虜にされたのもきっとローマ人だろう。とりあえず肌の白い人々を連れていったかもしれないが。
したがって三万人は、ローマ軍基地のみを全力で潰しにくる。
こうしてアラビア遠征よりはるかにまずい事態が起こっていたのだが、まだシュエネが陥落したとの伝令は来ていなかった。軍団基地が持ちこたえているのだろう。
しかしそこへ五百人が駆けつけたところで、いったいなにができるのだろう。三万対二千だ。むしろいたずらに命を落としかねない。
そう主張しているのに、ポンペイウスも軍団兵らの大半も、聞く耳を持たなかった。同胞の危機を救うのは当然だ。そしてルキリウス・ロングスを一人で敵地へ向かわせることも拒否した。
「ぼくはメロエ人と戦うつもりはないんだぞ!」
ルキリウスはあらん限りの力で叫ぶのだった。
「家族と恩人のそばに行くだけだ! 君らはなにもわかっていない!」
そうだ。コルネリアたちはルキリウスのためにシュエネの軍団基地へ向かった。それならばまだその中にいるはずだ。残念ながら、アポロノス・ポリスまで逃げてきた避難民の中に、彼女らの顔はなかった。未だにナイルに目をやっているが、それらしき姿は見つからない。
もうじき避難民ばかりでなく、メロエ人の姿も確認することになるはずだ。ここまで彼らを見ないで済んでいるのは急流のおかげだろう。それは第一急流と呼ばれ、シュエネとフィラエ島のあいだに存在する。古来、目の上のたんこぶのように、エジプトとエチオピア間の交易を妨げてきた。お互いそこからはやむを得ず陸路に変えるほどだ。したがってメロエ人三万も、ほとんどが陸上にいるはずだ。フィラエ、エレファンティネ両島を落としたときは筏を使っただろうが、シュエネはナイルの東岸にある。
しかし筏で急流下りができないことはないのだ。したがってルキリウスは、叔父に同行しないで引き返すように言ったのだが、どいつもこいつも我が耳をむしり取ったらしかった。未開人の筏ごときにロングス家の船が負けるはずはなく、祖父たちを乗せて引き上げてみせると意気込んだ。
ルキリウスはそこまでできるとは考えていなかった。本当に三万人であるなら、シュエネの基地はすっかり包囲されているはずだ。ロングス家の船ごときが近づけやしないだろう。逆にメロエ人に乗っ取られてしまうだろう。彼らとて、いくつもの急流を越えて乗り込んできたのだ。
現状がどうあれ、ルキリウスはなんとかして軍団基地内に入る考えでいた。せめてコルネリアや祖父のそばにいたい。脱出できるものならしたいが、二人に加え、マカロン、ペルペレスとラオディケ、レオニダスら子ども五人、さらにトラシュルスまでいて、大事な存在は総勢十一人にもなる。守りきれるというのか。ルキリウス・ロングスとはそこまで楽観的でうぬぼれ屋であったか。
だが、なんとしてもそばに駆けつけなければならない。皆ルキリウスのために来てくれたのだから。
そもそもすでに手遅れかもしれない。今この瞬間にもローマ軍基地はメロエ人に蹂躙されているかもしれない。
それならば、どうする? 彼らの仇討ちとして、ルキリウスはメロエ人を、力尽きるまで殺しまくるのか?
冗談ではなかった。考えるだに正気を奪われそうだ。嫌だ! やめてくれ! 無事でいてくれなければ困る! お願いだ、お願いだからみんな無事でいてくれ! 間に合ってくれ──。
まったく馬鹿な話だと思った。少なくとも自分はとんでもない愚か者だとルキリウスは見なすしかなかった。
──結局好きに生きて、好きに死ぬしかないならば、家族も友も持つべきではない。
そんな信念に縛られていながら、気づけば家族も友も増えていた。そして、その信念が呪いであることに気づきはじめた矢先、すべてを失う恐怖におののいているのだ。
ちっぽけな我が身を頼りに、ルキリウスにはなにができる? 剣闘士になって、軍団副官にもなって、さらにアラビアで作戦行動もやりおおせて、いい気になっているのか? あれほど教師バルバトゥスに言われたのに、結局我が力に頼るのか? そこまでうぬぼれたか?
だがほかになにを頼む? まだ間に合う、なにかができる、そうと信じなければ、守れない恐怖に我を保てなくなってしまう。
失おうとしているものが大きすぎる。父のときとは違う。自分の手の届くところで、自分のために、大事な人たちを傷つけられようとしている。
だから死んでも行かなければならない。我が命と引き換えにしてでも守らなければならない。
おのれの命さえ捧げればなんでも叶う。それもまた底抜けのうぬぼれであったとしても。
「ルキリウス、君一人で抱えるな!」
すぐ後ろで、ポンペイウスの懸命な声が聞こえる。
「我々は友だ! 同胞だ! 君は一人じゃないんだ!」
わかっている。自分一人でどうにもできる事態じゃない。わかってはいるのだ。けれども軍団兵たちだって、仲間の危機を捨て置けず、なにかできることがあるはずだと信じてシュエネに向かうのではないか。
ポンペイウスのような馬鹿野郎は、ただルキリウスのために食らいついてくるのだが。頭の良い男だから、総督の救援隊を待つことが最善であることくらい、わからないわけはないのだから。
わかっている。なにもかもわかっている。
どいつもこいつも救いようのない大馬鹿野郎ばっかりだ!
朝日の下、シュエネの砦が砂塵の彼方に霞みながら見えてきた。状況を確認するため、ルキリウスはさすがにラクダをいったん止めた。
シュエネの街並みは揺れていた。そして怒号のような、大勢の声が聞こえてきた。
シュエネはまだ持ちこたえていた。砦に群がる無数の日に焼けた人型。だが包囲が整っているようには見えない。それにしては粉塵が激しすぎる。騒がしすぎる。
おそらくはだが、たった今基地内に敵が侵入しているのだ。どこかの門を総攻撃で破られたのか、あるいは避難する市民を締め出し難く、封鎖が遅れたのか。
いずれ、今まさに戦闘の真っ最中である。そのように見えた。
この光景を前に、ルキリウスはこのうえもない焦燥に駆られた。もはや一刻の猶予もない。ただ手をこまねいて見ているか、玉砕覚悟で突撃するしかない。後者の場合、ルキリウス以外の全員が道連れであり、焼け石に水でしかない。それがわかっていても。
「どうする?」背後で軍団兵のだれかが言った。「二千対三万、勝ち目はあるか?」
そんなものあるわけがない。ここで救援隊を待つべきだ。ルキリウス以外は。
「ええいっ、そもそもなんでほかの連中はアレクサンドリアに帰ったのだ? どこだって国境に軍団を張りつけておくべきだろうが! アラビアから戻ったら、即座に」
そのとおりだ。まったくそのとおりであるが、今言っても始まらない。アエリウスにしてみれば、長いアラビア遠征から生還した戦士たちを、何不自由ない大都市で労わってやりたかったのだろう。その善意が今、国家防衛における非常事態を招いているとしても。
「カンダケの首を取るんだ」別のだれかが言った。「それから王子の首も。そうすりゃきっと敵は総崩れだ。退却するかもしれん」
そう上手くいくものか。百歩譲ってカンダケを倒し得たとして、三万人いることに変わりはない。都合の良い夢だ。
だいたい相手はあのアマニレナスである。彼女を見たことがないからそんなことが言えるのだ。王子だって、ルキリウスの覚えている限り、屈強なのが三人もいる。王女だって、あの日は観客席にいたが、怪物級の強さを秘めているかもしれない。最強の女から生まれてきたのだから。
かつて自分を徹底的に負かした相手に挑む絶望もまた、ルキリウスはよくよく知っている。身に染みている。だがそれでも行くしかない。行かねばならない。
「ルキリウス! 聞こえないのか、ルキリウス!」
ポンペイウスが耳元で怒鳴る。彼はラクダから飛び降り、剣先でたちまち地面をえぐる。
「伝令から聞いた。これは基地の見取り図だ! あと一日二日でいい。ここで持ちこたえるべきだ。そうすれば総督が引き返してくる」
確かにそのとおりだ。それでも一万対三万ではあるが、勝負にはなるだろう。総督の手腕次第にせよ。
メロエ人はシュエネ市民を無視し、たった今ローマ軍基地に総攻撃を仕掛けている。だがなんのための基地であり砦か。千五百人であれ、上手く立てこもりさえすれば、あと数日ならなんとかしのげるのではないか。むしろそれ以外に術がない。
幸いにして、アラビア遠征は終わっていた。救援は必ず来る。そしていずれはメロエ人を潰走させる。二個軍団どころではない。必要となれば何個軍団でも投入するだろう。この事態を覇者ローマが許しておくわけがない。
そうであるならば、今ルキリウスたちにできることは一つだった。
「……了解」
冷汗の伝う顎を、ルキリウスはかろうじてうなずかせた。目線を下の大雑把な見取り図へ注いでいた。それから自身の剣を抜いて、その先も下向けた。
「ぼくらはこれから突入する。敵を驚かせ、基地の外へ追い出せたら最良。そうでなければ北西の一角、ここに籠城する。ぼくらはこれからその助けに向かう」
軍団兵大勢がうなずいた。それからポンペイウスが言った。「だが我々はどこから基地へ入る? 我々を迎え入れるために門を開けるわけにはいかないぞ」
「川から行くしかないね」