第四章 -18
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格段に楽になった復路ではあったが、それでも砂漠の道であることに変わりはない。レウケ村に戻り着くまで、ローマ軍はおよそ二ヶ月を要した。実のところ、隊商路をどこまでも北進しているうち、レウケ村を通り過ぎてさらに北のエグラ村まで到達してしまった。十月十日のことだった。
「いったいどこまで行く気ですか!」
南からラクダで駆けてきたのはメリクだった。
「ご無事でなにより! でもこれ以上進んだらペトラまで行っちまいますぜ。気持ちはお察ししやすが、まだ戦争をしようってんですか?」
彼は少し前からレウケ村で一行の帰りを待っていたらしい。そのうちこのエグラ村の存在に気づき、なかなかに悪くなさそうな道にも気づき、ラクダ隊商らしき集団も見つけ、試しに後についていってみたら、半月ほどでナバテア王都に着いたらしい。拍子抜けするくらい楽な道のりだったという。
これでシュライオスがローマ人をだましていたことが明白になった。無論、彼の主張を鵜呑みにしてしまったローマ側の責任でもある。確かめる時間は十分にあったのだから。
アエリウスはシュライオスを罪人としてローマに護送すると決めていた。ローマ軍はレウケ村までゆるりと南下したが、メリクはそれに先行して紅海へ出て、ミュオス・ホルモスへ渡ると言った。対岸に軍の帰還を伝え、その足でアレクサンドリアまで報告に行くという。すでに新総督が官邸に入り、アエリウスの引継ぎを待っているとのことだ。
「お若いの、ご無事でしたか!」
メリクはルキリウスにも声をかけてきた。心底ほっとしたとばかりの様子でいたが、たぶん大袈裟に振舞っているだけだろう。
「日に焼けてたくましくなった、と言ってあげたいところですが、むしろ痩せました?」
「そりゃそうだろうね」ルキリウスはため息をついたが、これにも安堵がこもっていなくはなかった。
メリクが上体を寄せてきた。「ねえ、あっしと一緒に帰りませんか? ひと足早く」
「そうしたい気持ちは山々なんだけどね、これでもまだ一応軍団副官なんだから、一人で抜け出すわけにはいかないよ」
「仮病でも使ったらいいでしょう」メリクは眉をしかめた。「実際仮病に見えない。お疲れに見える」
「大丈夫だよ。あと少しの辛抱なんだから。それより──」
ルキリウスは背負っていた木筒を下ろし、メリクに託した。駄賃だが、アレクサンドリアにはロングス家の家父長八十歳が来ているはずなので、好きなだけふんだくるように言った。ついでに孫の無事も伝えるように、と。
「お若いの、こんだけ大変な遠征を終えてきたのに、あんた、金目のものの一つも頂戴してないんですか? 『幸福のアラビア』に行ってきたのに?」メリクは呆れた。
「なにが幸福だよ。ぼくらは盛大な詐欺に引っかかったようなもんだ」
「総督からの報酬は?」
「帰ってからだろうけど、だいたいぼくは一般兵じゃなく、軍団副官だからね。無料ご奉仕になるんじゃないかな」
「……割に合わなすぎる」メリクは首を振った。「あっしだったら途中で逃げる。せめてさっさと帰る」
「それより君、ぼくのために紙とインクでも持ってきてくれてないの?」
「持ってやしませんよ」
「気が利かなすぎる。雑用のくせに」ルキリウスは犬のようにうなってみせた。「ぼくが新しい手紙を書いたなら、お使い代をもっと稼げるって考えなかったの?」
「お若いの……」ため息をついたあとで、メリクはルキリウスの目をまともに見つめてきた。「紙ばっかり使っていないで、そろそろいい加減、帰って直接会ってやったらどうですか? もう三年でしょ? このティベリオス・なんちゃら殿も、あんたの顔を忘れてる頃じゃないですか?」
ルキリウスはまたうなったが、なにも言わなかった。
「一緒に戻りやしょう」メリクはなおも勧めた。「総督はきっと許可してくれますよ。ねえ、知らないと思いやすが、ミュオス・ホルモスはそこまででかい港じゃない。しかも手前に島がいくつもあって、曲がりくねりながら入らなきゃならない。混雑しやすよ、きっと。この一万人が押し寄せたら」
それでもルキリウスがのらくらと、頑なにうなずかなかったので、メリクもようやくあきらめた。また一段と大きなため息をついてから、彼は告げた。
「あんたが訊かないからこっちから教えますけど、あの勇ましいお嬢さんはミュオス・ホルモスにいますよ。あんたを待ってる。ペルペレスの一家と一緒に」
ルキリウスの息がぴたりと止まった。
「つい先日、あそこの奥さんは双子を出産したみたいで」ラクダとともに踵を返しながら、メリクは言い置いた。「可愛い女の子でしたよ。お若いの、あんたも早く抱いてあげたらいい」
メリクの予期したとおりになった。レウケ村まで戻り、ローマ軍団兵は互いの無事を喜び合った。そして一日でも早くエジプトへ帰らんと、いざ輸送船に乗り込んだところまでは良かった。ところがいよいよ対岸のミュオス・ホルモスを前にしたところで、大渋滞が発生したのだ。ミュオス・ホルモスは整備の行き届いた港ではあったが、一万人のローマ兵を一度に受け入れるには、少しばかり負担がかかりすぎた。ホロホロ鳥でいっぱいの島も、脇によけてはくれなかった。それで、女神ヴェヌスが優雅に岸に上がる光景とは程遠いそれが展開された。
北風が船団を煽りつつあった。このままでは船同士が衝突するか、岩礁に乗り上げるかする事故が起こりそうだった。レウケ村上陸前の災難再びだ。せっかくエジプトが目前であるのに。もうすぐ無事に帰りつけるのに。
「あーっ、もういいっ! もういいよ!」
船首から、ルキリウスはたまりかねて叫んだ。
「みんなまとめて沈没だ! そうなりたくないなら、ぼくらと一緒に、このまま南へ流されてこい! 確かベレニケって港があっただろ? そっちに上陸しよう!」
総督の旗艦はまだ来ていなかった。第二陣か第三陣でレウケ村を発ってくる予定だ。まずすぐには発ってこないほうが賢明と進言するための一隻を、ルキリウスは引き返させた。加えて、自分と一部の船がベレニケに上陸せざるを得ないとも伝えさせた。
ベレニケもまた、インド航路の発着地となっているので、ミュオス・ホルモスに負けず劣らず整った港であるはずだ。そこから隊商路も伸びていて、ナイル川につながると聞いていた。もちろんエジプト領内だ。
南へ流れ去り際、ルキリウスは遅ればせながら思い立った。あわや衝突しかけていた隣の船へ、大慌てで声をかけた。イッキウスが船縁で青い顔をしていた。
「イッキウス! 君もぼくらと来るか?」
「冗談じゃない! なんで文明から遠ざかるんだ? 目と鼻の先だぞ!」
「だったら、なにがなんでもミュオス・ホルモスに上陸しろ!」ルキリウスは命令口調で怒鳴った。「あそこにペルペレスという男の家族がいる。ぼくが無事で、ベレニケに迂回したと伝えてほしい」
「……ひょっとして、あの可愛らしいお嬢ちゃん? あの子がいる?」イッキウスはやはり抜け目なかった。コルネリアを覚えていた。
「おい、彼女に手を出すなよ!」ルキリウスはさらに声を鋭くした。「万一の場合、ぼくが戻り次第、お前を斬り刻むからな!」
本当は頼みたくなかったが、この男なら意地でも死にはしないという確信があった。何人か踏み台にしながら泳いででもミュオス・ホルモスにたどり着くだろう。
それにしても自分の性格とは、この半年ばかりでずいぶん荒くなったみたいだ。そう思い至りながら、ルキリウスはしょんぼりと船縁に座り込んだ。
ベレニケに入港したのは、それから二日後の十月十八日だった。マルクス・ポンペイウスの船含む四隻が同行していた。総員七百人ほどだ。
もう十月も半ばを過ぎたので、交易船の行き来も収まっていた。港は静かなものだ。暑さももうさほど気にならない。むしろこれからは夜の寒さを気にかけなければならない。
少しばかり予定の場所から離れてしまったが、エジプトに無事帰りつけた安堵は戦士たちにとって大きかった。その日はたらふく食べて、快適な寝床でぐっすり眠った。そして翌日には、ゆるりとではあるが、ナイル川を目指して歩き出した。
豊かなナイルの流れとその周辺の緑を見て初めて、本当の意味での安堵を味わえると戦士たちは考えていた。コプトスもそうだが、流域には名高い都市もある。もう飲食の心配をすることもなく、じっくりと疲れを癒せるはずだ。
あと少しばかり寄り添って歩いた後、一行は紅海に別れを告げて、内陸への道へ入った。確かに美しく、想像力をかき立てる海ではあったが、ルキリウスとしてはもう当分お目にかかりたくないと思った。
クラウディア号らのラクダに水を運ばせたが、その必要はなかった。かつてプトレマイオス朝の王が整備したおかげで、砂漠の道といえどもさして苦も無く進めた。各所に宿駅が設けられ、適切な休息を得られた。船荷の往来が収束しているため、隊商路としても空いていた。
ルキリウスたちがナイル川を眼前にしたのは、出発して十日後の二十九日だった。すでに増水期を終えたナイルは徐々に細りはじめていたが、やはり世界一の川だ。たっぷりと流れ、悠然として揺らぐ気配もない。永遠そのもののようだ。戦士たちのだれもが、畏怖であり安堵でもあろうため息を次々こぼした。なお胸がいっぱいなる心地でいただろう。母親と再会を果たしたように、どの顔にも微笑みが浮かんだ。
ルキリウスだけがその例外だった。ナイル川に近づくにつれ、どこか緊張で体を強張らせていた。アラビアにいたときのほうが、ぐったりとでもくつろいでいたようだ。心優しいポンペイウスがそれに気づいた。
「どうしたんだ、ルキリウス? まるでこれから戦闘を開始するみたいな顔をしているぞ」
「そんなことないよ」固い顔つきのまま、ルキリウスは答えた。「でも……そうだな、クラウディア号をどうするか、考えないとな」
本当はローマに連れて帰りたいが、生まれた土地を離れるのは、クラウディア号にとって酷だろう。だれか良い飼い主を見つけなければならない。ポンペイウス、君も故郷に帰るんだよね──?
そのような話をしながら、ルキリウスたちが入ったのは、アポロノス・ポリスの市域だった。隊商路に乗ると、ベレニケから最も近いナイル流域の都になる。コプトスからは百二十キロほど南に離れているが、後はナイルを下っていけばよいだけなのだし、もう苦難はない。
ミュオス・ホルモスで分かれたローマ軍の第一陣は、あれからなんとか上陸できたのなら、おそらく一週間ほど前にコプトスに到着しているだろう。百三十隻の最後だったとしても、総督アエリウスもすでにそこに至ったはずで、アレクサンドリアへの帰途を下りはじめたところだろう。皆帰ったのだ。ルキリウスたち以外。
それでもコプトスにはだれかがいるはずだ。報告に行かねばならないし、自分たちも帰らなければいけない。それで翌日から、ルキリウスは軍団兵らを、小舟に乗せて北へ送り出すことにした。一方、自分のためにはクラウディア号ごと乗せてくれる大きさの船を探した。だめである場合は陸路を行くまでだ。ポンペイウスがそれに同行すると言った。
川のほとりで、しばし船の手配に奔走した。するとなかなかに立派な大型船を見つけ、近づいてみた。ラクダを五、六頭は乗せられそうだ。貸してもらうことができるだろうか。そういうやり方は好きではないが、覇者ローマの威を借りることになるだろうか。
ところでこの船は、どことなく見覚えがある気がした。ついでに言えば、ものすごく見覚えのある旗を立てていた。ヴェスーヴィオ山を描いた、商家の目印だ……。
「ルキリウス?」
やっぱり、叔父だった。
「お前だよな? 探したぞ! こんなところにいるなんて!」
「叔父さん……」
ルキリウスはぽかんとした。次の瞬間には、船梯子をばたばたと駆け上がっていた。
「そりゃ、こっちの台詞だよ! なんでこんなところにいるの?」
「お前を迎えるために、俺たちはコプトスまで来ていたんだぞ」叔父は安堵の吐息交じりに言った。「そしたらローマ軍が帰ってきてな。んで、お前だけがベレニケに迂回して、シュエネに行くことになったと知らされた」
「待って! ちょっと待って!」
ルキリウスは耳を疑った。
「ベレニケまではいい! でもシュエネなんて知らない! どうしてそうなったんだよ?」
「知るかよ」叔父は眉根を寄せた。「イッキウスとかいう男が言ってたんだ。お前はベレニケからシュエネに行く。それから帰ってくるんだろうって」
確かに地図上、ベレニケからはシュエネが西に最短距離にある都市だ。フィラエ島のすぐ北東にあり、エチオピアとの国境に近接するため、ローマの軍団基地もある。だがあくまで直線距離の話で、道が整備されているのはベレニケとこのアポロノス・ポリス間の経路であるのだ。シュエネへの道もあるのだろうが、一般的ではない。
イッキウスはなにを勘違いしたのだろうか。シュエネの軍団基地で、ルキリウスが引き続き勤務を続けるとでも考えたのだろうか。
だが、まあ、いい。まあ、いいんだ。とにかく──。
遅ればせながら、ルキリウスは叔父と抱き合った。お互いをねぎらい、無事を喜んだ。インドとアラビア──お互いに途方もない冒険をやり遂げてきたのだ。
なにか、胸騒ぎがして、感動がこみ上げるのをみぞおちの辺りで抑えられている心地がしたが。
まずもって、その一つだが──。
「叔父さん」ルキリウスは恐る恐る口を開いた。「祖父さんはどこかな? 船室かな?」
「いや、ここにはいないぞ。シュエネに行った」
ルキリウスは頭を抱えて崩れ落ちた。「なんで!」
「あの辺から急流が始まるからな。この船じゃ大破しかねないから、馬車で」
「そうじゃなくって!」
「わかってる」叔父も少しも笑っていなかった。「お前を迎えるためだ。決まっているだろう。それにもう八十歳だからな。できるだけ一緒にいたいんだよ。孫と、それからひ孫──」
「コルネリアが一緒に行ったのか!」嫌な予感どおりだったが、ルキリウスはわめいた。「ペルペレス一家と一緒に? ぼくがシュエネに着くと信じて!」
おそらくほんのわずかの差だった。ルキリウスの行方を聞くや、コルネリアたちはまっしぐらにコプトスへ引き返し、それからシュエネに向かったのだ。おそらくあと二、三日──否一日、ルキリウスが早くアポロノス・ポリスに着いていたら、行き違いにならずに再会できたはずだ。イッキウスはなんてことをしてくれたのか。否、彼女たちが待っているのを知っていながら、どこそこで待ち合わせようとまで伝えなかったルキリウスこそ悪い。自分の中でだけ、てっきりコプトスで合流するものと考えて疑わなかったのだ。
それにしたって、一緒にいやしないのか。マカロンが。地理学者が。
「だから俺がここに残ることにしたんだよ」と、叔父は弁解がちに言うのだった。「あの学者さんが、ベレニケからならこの都市に着くのが普通だろうって。でなきゃ俺はコプトスにいたさ」
「だったらなんで全員でここに留まらなかったの!」
それも決まっていた。軍人であり当事者であるイッキウスの話を無視できなかったからだ。ペルペレス一家が、出迎えついでにシュエネやフィラエを見物してみたがったのかもしれない。いずれ高齢のロングス爺や子だくさんのラオディケを心配し、マカロンはひとまず同行することにした。行き違った場合には、この叔父に任せればよいか、と。
馬鹿みたいな話だった。けれども、まあ、問題はない。問題はないはずだ。これからルキリウスがシュエネまで行けばいいだけの話だ。軍務ゆえにまだ離れられないというのなら、叔父に頼んで使いを送ればいいだけだ。イッキウスよりもまともな使いを。
それで解決するはずだ。それなのにどうして、ルキリウスの胸騒ぎは収まらずにいるのだろう。
おそらくはだが、南の彼方に粉塵が見えるからだ。そうでなければよいのにと願うが、早馬が全速力で飛ばしてくるように見えるからだ。
軍団兵の集まりを見とめたのだろう。その粉塵はたちまちにして大きくなった。
うん、あれは、やはりローマ軍の伝令だ……。
「緊急! 緊急!」
その伝令は声を張り上げた。
「エチオピア人が国境を急襲! 数およそ三万! すでにエレファンティネ、フィラエは陥落! 市民が多数捕虜にされ、アウグストゥスの像とともに連行さる! 敵は現在、シュエネへ攻撃を開始──!」