第四章 -16
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ぐったりとラクダの背に負われたルキリウスが、ローマ軍本営に帰り着いたのは八月十二日のことだった。分かれた仲間数人が、もしや死んでいるのではないかと考えて駆け寄ってきた。息をしているとわかったので、そのまま手綱を引いて歩いてくれた。傍らにもはや水流はなく、死んだような涸れ谷に戻っていた。
すでにマルクス・ポンペイウスが帰営し、シュライオスを総督アエリウスに突き出していた。ほか多数の証人もいて、こうなるとアエリウスもとうとう欺かれていた事実を認めざるを得なくなった。
「おおっ、ルキリウス!」
こんな調子の声を、何度聞いただろう。
「無事で良かった! 君とポンペイウスの手柄だ! よくやってくれた!」
「全然無事に見えませんよ!」
慌てた様子で、ポンペイウスが的確な指摘をしてくれた。
「早く休ませないと死んでしまう!」
ルキリウスにはしゃべる気力もなかった。泥水が乾いてばりばりと硬くなった衣服がまずひどい様だ。頭からは絶えず砂が零れ落ちた。
それでも目立った怪我はしていなかった。軍団兵の何人かは、雨の夜にルキリウスの悲鳴らしきもの聞いたと主張したが、ともかく外傷はなかった。
貴重な水を桶に七杯も浴びることを許された。豆に羊肉にナツメヤシといった食事も与えられた。あとはできるだけ涼しい日陰で伏せっているしかなかった。
「大丈夫なのか? 具合が悪いか?」ポンペイウスが訊いた。
「……疲れただけだよ」
「なにかあったのか?」
「なにも覚えていない……」
ようやく言葉を発せたルキリウスにとって、今はそれが真実だった。頭の奥がぼやけているように、考えが及ばなかった。なんであれ、思い出そうとするのに、命をすり減らすほどの労力を要求されそうだ。
ルキリウスはその日陰で仮眠を取った。とぼとぼとした足音がいくつも重なって、しぶしぶ目を開けたときには、マルシアバ包囲が終わったところだった。たった六日間居座り続けたことを、包囲と呼べるのならばだが。引き上げるローマ軍は、当然意気消沈していた。
シュライオスの裏切りが発覚した以上、マルシアバを包囲する意味を見出せないためだった。できればシュライオス云々に関わらず、無意味であることに気づいてほしかった。もしも奇跡的に落とし得たとしてどうしようか。食糧があるだろうか。交易で蓄えた宝があるだろうか。いよいよ香料の生産地にたどり着けるだろうか。路頭に迷っているも同然の一万人には、あまりにも高い壁でしかなかった。
しかし実のところまったくの無意味だったわけでもない。マルシアバ内の住民は、おそらく包囲されていることにさえ気づかずに暮らしていただろうが、たまたま都を留守にしていた何人かが、ひょっこりと戻ってきた。麓にたむろする大勢を見て、いったい何事かと思ったに違いない。連れのロバ共々あ然とたたずんでいたそうだ。
彼らのほとんどが農夫で、自分たちの言葉以外を解さなかった。ところが一人、交易に従事する者がいて、ユダヤ人を通訳にしてなんとか話を聞くことができた。彼はロバの背に、貴重な香料を無頓着に積んでいた。
「アッチ、アッチ」
その地元商人は東を差した。
「アッチ、来タ。コレ、採ル」
「やりましたぜ、総督! 見つけましたぜ!」
イッキウスが総督のテントに駆け込んできたのは、包囲を終えた翌々日だった。
「乳香の産地をついに突き止めました! ここからほんの二日の距離です!」
しかしそれを迎えるアエリウスの顔は、なんとも渋かった。ルキリウスも似たような顔をした。
シュライオスの悪事を暴く作戦において、ルキリウスはイッキウスに複数の用事を頼んだ。一つ、可能な限りすべてのナバテア人が追ってくるように仕向けること。シュライオスも来ればなお良し。二つ、地中に埋めた残りの水袋を掘り出すこと。三つ、ナバテア人の監視が減った隙に、香料の道を探し出すこと。マルシアバの住民に聞いてみるのが良い。ここに王都を築いたのは、交易上好都合だからであるはずで、近くにきっと香料の産地ないし交易路があるはずだ。
イッキウスは抜け目ない男だ。富が絡めばなおさらだ。三つすべての用事をやり遂げた。気分はすでに香料農場の経営者だったろう。
問題はローマ軍に、その産地を確保するだけの余力がすでにないことだった。余力どころか余裕もなくなっていた。
「我らのところにナバテア人が逃げてきたが、どうすればいいか? 彼らは諸君らがこの土地を征服しに来たと主張しているが、事実か?」
そのような言伝てを授かった使者が、立て続けにローマ軍営を訪れた。差し向けたのはサバイオイ族の王、そしてカッタバネイス族の王で、どちらもマルシアバから二日行程ほど北上した場所に王都を有しているという。
シュライオスはやはりはったりを言っていた。しかし二王からの問い合わせ、それに包囲を受けているところのマルシアバ王の考えも考慮すると、ローマ軍がこの土地に居続けることは危険だった。一万人で三王国と相対するなど正気の沙汰ではない。一刻も早く立ち退かなければ、シュライオスのはったりは現実と化す。
けれどもやはり、この近くに香料の道があることに間違いない。「誤解であるならばよい。客人として歓待したい」
サバイオイ王とカッタバネイス王が招いてきたので、アエリウスはローマ兵とユダヤ兵からなる五人二組を選抜して、二王都へ送ることにした。ポンペイウスもサバイオイの王都マリアバへ行くことになった。ルキリウスも危ないところだったが、体が弱っているという理由でまぬかれた。体が一つしかないという理由で、総督アエリウスも自ら赴くことはしなかった。
今生の別れと思って、ルキリウスはポンペイウスを見送った。
こうなれば当然、あとは二王都からの使者の後をついていけば、必然彼らの交易路に乗ることができるというわけだ。
イッキウスが独自の探索行から戻ったのが、ローマ軍がようやく正しい道の上に乗ったと確信した当日だった。すでにアエリウスは三王国に伝えていた。
「目的を果たしたので、我々はこれよりただちに故国へ帰る。諸君らの土地を荒らすつもりはない」
ポンペイウスたちは、この二日後に無事帰ってきた。この客人らに、サバイオイ王とカッタバネイス王、どちらも鷹揚に大量の補給を持たせてくれた。なんの腹の足しにもならない乳香、没薬、肉桂、それに金銀エメラルドまで添えて。
内心の屈辱感を隠しながら、ローマ全軍は帰路に着いた。
長い長い復路であることを全員が知っていたが、ついに念願の交易路に乗ったのだ。もはや一本道である。無駄に山を越え砂漠を右往左往した往路と比べれば、飛ぶように進むとは言い過ぎか。けれども格段に楽に感じる道のりだった。
八月の太陽の下、相変わらずラクダの上でへたばっているルキリウスへ、ポンペイウスは興奮気味に語り聞かせた。マリアバ王宮がいかに金銀であふれていたか。象牙や貴石に彩られていたか。山のような香料を燃やして平然としていたか。イッキウスは名残惜しげに何度も背後を振り返りながら、なぐさめにともらった指輪のエメラルドを、大事そうに撫でていた。子どもの目のような、とんでもない大きさの緑に見えた。
九日後には、ネグラナのオアシスまで戻った。さらにその三日後には、「七つの水場」と呼ばれる、言葉どおりの豊かで平穏な休息地に至った。
この隊商路を、ナバテア人は最後までローマ人に隠し通した。隠し通されるほうが問題だったと、ルキリウスは思うしかなかった。
この道をまっすぐ北へ行けば、ナバテア人の王都ペトラに着く。さらには地中海に出られる。一方、南へどこまでも行けば、香料産地に至るという。あとほんの二、三日の行程だったというのに、ローマ軍は引き返すしかなかった。
けれどもアエリウスにしてみれば、まったくの不服というわけでもないようだ。まず学者として、彼はローマ人未踏の地を冒険できた。帰ってからマカロンと卓を並べ、執筆がはかどるに違いない。香料産地の実在と、そのおおよその位置も確認できた。現地諸国の構成も概観した。交易路も見つけた。惜しむらくば、マリアバの王宮に実際に入ってみたかったことだろうが、総督という立場と身の安全を考慮して、断念することにした。
遠征そのものは成功とは決して言えない。けれども生け捕りにしたシュライオスがいる。彼をアウグストゥスと元老院に差し出せば良い。
自分が見かねて行動を起こしたのではあるが、ルキリウスはなんだかシュライオスが気の毒にさえ思われてきた。そもそもが大義を欠き、戦力の少なすぎた遠征だった。上手くやろうにもやりようがなかっただろう。アラビア探索が実のところの目的だったのであれば、それは確かに達成された。あとは全責任をシュライオスとナバテア人に押しつければよいわけだ。
まあ、実際、シュライオスがローマ全軍を行き倒れさせかねない悪事を働いたのは事実ではあるが。
それとも違うのか? ただただ無能な案内人だっただけか──?
ああ、もう。ああ、もう。
だれにとは言わないが、なんだか上手いことしてやられたような気分になるルキリウスだった。
二年を費やした「幸福のアラビア」遠征は、こうして終わりを迎えようとしていた。だれもが散々苦労したし、犠牲も出した。
ルキリウス・ロングスにとって、徒労であった二年だろうか。そこのところをよく検討したいのだが、なにしろ暑い。当面なにも考えられそうにない……。
ティベリウスに手紙を書こうにも、もう紙が尽きてしまっていた。
──「幸福のアラビア」とはローマ人の夢だ。どこにもない。現地の人々が幸福なら、ぼくらはもうほうっておくべきじゃないかな。
エジプトに帰ったら、そう書き出すつもりだ。