第四章 -15
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気がつけば、それなりの高台にいた。ゆるやかな傾斜の下で、涸れ谷だったものが濁流と化していた。
ルキリウスが目を開けたのは、首筋に冷たい感触を覚えたからだ。ぽたぽたと雨粒が、とうとうこのあたりにも降り落ちてきた。
ラクダからずり落ち、地面にへたり込む。見渡すが、人気はない。気配はする感じもあるが、こちらに気づいてはいないのだろう。だれもが泡を食って谷を上ったはずだ。高台にいた守備隊は大丈夫だろうが、百人隊は全員無事でいるだろうか。ポンペイウスは──。
すると谷を挟んで対岸に、同じようにへたり込んでいる人影を複数見つけた。百人隊か。ナバテア人かもしれない。とにかく生きてはいる。ルキリウスにも気づいて、手を振ってくる。
ルキリウスも左手を上げて応えた。右手は剣を振りすぎたせいか、もう動こうとしなかったからだ。それでも微笑んだ。向こうからは見えなかっただろうが。
雨足が強まってきた。どっちにしろルキリウスは、しばらくこの場を動けそうになかった。なんとか這って、斜面のくぼみに体を横たえた。丸まれば、なんとか雨粒を避けていられそうだ。まず背中の木筒をくぼみの最奥に押し込んだ。
けれどもルキリウスは、結局手足を投げ出して仰向けになった。体を丸める力もなかったからだが、大きく口を開けて、雨水を迎え入れた。おいしいと思った。さっきの泥水で妥協しなくてよかった。
元の場所では、クラウディア号もまたどっしりとうずくまっていた。そのまま雨をしのぐ決意を固めたようだ。
大口を開けたまま、ルキリウスはいったい何ヶ月ぶりであろう、曇天の空を眺めていた。
遠くに雷鳴が聞こえる。けれどもさすがにここへ落ちてくるなんてことはないだろう。いくらなんでもそれではユピテル神の残酷が過ぎる。運命が無情すぎる。
雨粒に殴られながら、泥になぶられながら、ルキリウスはまぶたを閉じた。あとは当分どこも動かせそうになかった。
真夏でも凍死する人間がいると聞いたことがある。衰弱死に近いのだろうが、冷えのために体を動けなくするのだろう。きっとそもそも疲労困憊していたのだろう。
ルキリウスはここで死ぬつもりはなかった。少なくとも無傷ではいるのだ。ただちょっと疲れただけだ。少し休んだら、また動く。忠実なるクラウディア号もいることだし、きっと本営まで帰れるだろう。対岸にいる仲間たちと合流しながら。
十一歳のティベリウス・ネロでさえ、たった一人ファイユーム地方からアレクサンドリアまで帰ったのだ。だからこのくらいどうってことはない。あれからもう六年だ。ルキリウス・ロングスは十七歳だ。いるのはアラビアの最果てではあるが、マルシアバの本営まで帰ればいいだけの話だ。あとはローマ軍と一緒に、ただ帰ればいい。レウケ村まで、アレクサンドリアまで、そしてローマまで──。
だが、本当に帰っていいのか?
──ルキリウス、
最後に届いたティベリウスの手紙は、痛切な色を帯びていた。彼らしくもなく。
──もういい。帰ってこい。私はお前に伝えていないことがあるのだ。六年前、お前の父上から受け取った言葉だ。私は、すぐにお前に伝えるべきだったのに、できなかった。だがこのままではいられない。許されない。帰ってきてくれ。
わかっているよ、親愛なる我が友。
ルキリウスはそっと胸中で語りかける。
あの父さんが君に伝えて、ぼくには伝えられなかったこと。だいたいこんな感じだろう。
──私は、友と生きて幸せだった。
──お前も良き友に恵まれて、幸福な生涯を送りますように。
これを君が言えるか、ぼくに? 大激怒して君をぶん殴ったぼくに。実のところまだ君を許していなかったぼくに。
父さんは、まさかぼくが目をつけた友が君だったなんて、知らなかっただろう。ティベリウス、余計な荷物を背負わせてすまなかったね。
わかっているんだ、ティベリウス。そばにいなくても、世界の果てにかけ離れても、ぼくには君の声が聞こえる。
君はどうなんだい、ティベリウス? ぼくの声が聞こえているのかい?
……まぁ、あれだけ手紙を書いたんだけどさ、果たして意味はあったんだろうか。
不思議なもんで、今になってようやく、ぼくは父さんの声が聞こえる気がするよ。ずっと聞こうと思えば聞こえただろうに、ぼくのほうがずっと無視を決め込んでいたみたいだ。強情に。
これからはずっとそばにいるってさ。
雫が一筋、ルキリウスの目尻を伝って、雨水に紛れた。
ティベリウス、ぼくにはコルネリウス・ガルスの声も聞こえる。彼だってできることなら死にたくなかった。けれども彼の中では、ほかにもうどうしようもなくなってしまったんだ。でもコルネリアには生きていてほしかった。もうなにもしてあげられなくて、どんなにか無念だったろうと思う。自分は死ぬくせに、どんなに身勝手なことかもわかっていたと思う。それでも彼女にはまだ生きてほしかった。幸せになってくれと願っていたんだ。
それは、ヴェルギリウス殿にだってそうだ。自分がどんなに世界に絶望しようと、ガルスは願わずにはいられなかった。友よ、幸いであれ。存分に生きて、存分に歌え。君にならできる。運命の非情を乗り越えて、世界の輝きを見いだし得る。この世界に、我らローマ人の永遠の美を築き上げてくれ──。
今だって、ガルスは信じている。永遠に信じている。ヴェルギリウス殿がまた立ち上がることを。彼が至高の詩を書き上げることを。
ヴェルギリウス殿に、この声は聞こえないんだろうか。コルネリアには聞こえていたんだろうか。
ぼくは六年も、八年も、父さんの声が聞こえなかった。聞こえたけども拒絶したんだ。受け入れたくても、受け入れられなかったんだ。
辛くて、悲しくて、こんな現実を認めたくなくて──。
ああ、ティベリウス、やっぱり身勝手だよなぁ、先に死ぬ人らは。結局好きに生きて、好きに死ぬくせに──死にたくなくとも、従容と我が道を果てるくせに──残された人たちにもこう言うんだ。
好きに生きて、生き抜け。幸いであれ、我が愛する者よ。
たとえ私がいない世界でも。
ティベリウス、ぼくの声が聞こえるかい? こんな世界の果てにいて、もういないも同然の存在になったけど、ぼくの声を聞いてくれるのかい?
ねえ、ねえ、ティベリウス──。
──彼は君のために死ぬ。
悪霊の声が聞こえる。
──より正確には、君のためにその魂を滅ぼす。そしてもう二度と元には戻らない。
嘘だ。
──思いのほか長く、君は彼と一緒にいられるだろう。けれどもそれが仇になる。このうえもなく無慈悲に、彼は深手を負う。君を失ったがために。
悪霊は──あの似非占い師は、ルキリウスにそう予言したのだ。
──それまで、どれほど多く、どんなに深い悲しみも、彼は耐えた。強靭な精神の持ち主だ。大抵の運命はこらえた。並外れた非情にさえ、黙して耐え続けた。だが彼は、君を失うことにだけは耐えられなかった!
そんなはずはない。
──なぜなら彼の長い苦しみ、途方もない悲痛、それは君がいたからこそ、どうにか乗り越えられたものだったからだ。君がいなければ、彼はもっと早く、運命の残酷に身を任せていられただろうに。これほどの苦痛を経る前に滅べていただろうに。
たわ言だ、でたらめだ、妄言だ。
──ルキリウス・ロングス、君は死ぬ。最も死にたくない時に、君は死ぬ。君の最愛の友が最も必要としているときに、最大の悲痛に打ちのめされるときに、よりにもよってこの世にいない。彼のそばにいることが叶わない。君が彼の魂を砕くのだ。
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
曇天へ、絶叫が轟いた。
──君は止められない! なぐさめることもできない! 彼の途方もない孤独を! 苦しみを! 絶望を! 肝心な時に!
嘘だ、嘘だ、嘘だ、あり得ない!
──砕けた魂は、もう二度とこの世界を愛せない。憎んで憎んで憎み続ける。その生きながらの怨念が、たちまちにしてローマを覆いつくす。世界は暗黒に沈む。人々は暴君に泣きながらひれ伏す。彼を憎み、彼もまた憎み返す。絶え間ない血の雨で報復する。もうだれの声も、彼には届かない!
黙れ! 黙れ、カエピオ! お前の声など聞くものか! お前になにが見通せるものか!
──そして彼はこう言うのだ。「死ぬほどの苦しみ」
そんなことがわかるはずがない。わかるはずがないんだ。
未来から来ただって? だからなんだ? お前にティベリウスのなにがわかるんだ?
「ルキリウス、あいつになにをされた?」
なにもされていない! 本当だよ、ティベリウス。ぼくはなにもされていないし、言われてもいない! 忘れた。全部忘れた。いちいち覚えているわけがないじゃないか、あんなたわ言の群れ。酔わされていたんだ。酒だかにおいだかに。
だったら、この言葉の群れはなんだ?
つまり……これはぼくの声なのか? ぼくが見ている未来なのか?
「教えたよな、ルキリウス・ロングス?」
違う。やっぱりやつが言ったんだ。
「すなわち君は、ヴェルギリウスではない、と」
──そうだ、君はヴェルギリウスではなくガルスのほうだ。先に死ぬ側の友だ。さあ、ヴェルギリウスを見ろ! よく見てみろ! あれが君の友の未来だ! 否、彼のその苦悶ときたら、なおこの比ではないぞ──。
「うあああっ、ああっ、あああああぁぁぁぁあああああああっっっ」
あの美しい魂が、滅ぶと言うのだ。友のために。長く一緒にいればいるほど、心を通わせれば通わせるほど、愛すれば愛するほど、彼を打ちのめすというのだ。そして、最も肝心な時にそばにいられないというのだ。
そんな馬鹿な話があるか。信じられると言うのか。
ティベリウスが世界を憎んでしまう。永遠に。そんなこと、あってはならない。
──スキピオ・アフリカヌス。
黙れ! 黙るんだよ、カエピオ!
──ぼくは父さんのようにはならない!
なれないんだってさ。先に死ぬんだってさ、いちばん大事な時に。この大馬鹿野郎!
大馬鹿野郎!
運命だって? そんなもの、この曇り空みたいに先が見えないものじゃないのか? 先が見えないだけで、もうとっくに決まっている? 変えようのない? 神話の時代から、英雄たちがそうであるように?
なあ、運命とやら。知っているか。ぼくは英雄じゃない!
でもティベリウスは……ティベリウスは英雄になる男だ。
ぼくはもう、彼のそばにいてはいけない。だから運命とやら、頼むから今ここで滅ぼしてくれ。今ならまだ間に合う──。
馬鹿を言え! 馬鹿を言えよ!
運命なんてありはしない! そんなもの、だれが決めるんだ! 神々か? 少なくともカエピオじゃない! 未来の人間でもない! 今のこのぼくでもない!
これは運命じゃない。呪いというんだ。悪霊に惑わされて、自分が自分にかけた呪いだ。
そうだよね、ティベリウス……。
とめどない涙は、零れ落ちる間もなくたちまち雨水に溶けて消えていく。咆哮もまた激しい雨音に呑まれていく。
ルキリウスは力尽きるまで泣いた。頭が真っ白になり、なにもわからなくなるまで天に怒鳴り続けた。
やがて夜が来た。雨も止んだ。ルキリウスもまた静かになって、ぴくりとも動かなくなった。
そして朝はまた訪れた。陽が昇り、燦然と輝き、雲一つない青空が世界に広がる。けれどもルキリウスは起きない。太陽がその日陰を奪っても、なお頑強に眠ろうとする。二度と目覚めるつもりはないとばかりに。運命の思いどおりにはならないとばかりに。
ルキリウス・ロングスを世界に引き戻したのは、太陽ではなかった。目覚めたのではない。鼻をくすぐられたのだ。妙なにおいに。
高価な香料のそれではない。もっとかすかで、なじみがあった。だがこんなところに存在するはずがない。もう忘れかけていた。
ルキリウスはようやくまぶたを開けた。陽のまぶしさにすぐ伏せた。それでもその強さが煩わしいので、頭を横向け、もう一度こじ開けた。
緑の世界が、そこに広がっていた。
ルキリウスは目をまんまるに剥いた。ぽかんと口も開けた。一瞬後には、勢いよく上体を起こしていた。
見渡す限りの緑だった。そんなはずはない。くぼみがある。手紙を入れた木筒もある。ルキリウスは少しも動いていない。同じ場所にいるはずだ。
それなのに世界は、一瞬にして様変わりしていた。芽吹いたばかりの緑たちが、その青い芳香を発散させ、命あることを知らしめていた。明るく、強く、屈託なく。果てもない青空に誇るように。
生きている。我らは生きている。お前の下で。
黄色や桃色の花さえちらほらと見えた。
昨日までここは涸れ谷だった。乾いた岩だらけの土地だったはずだ。この緑たちは、一日にして突然命を授かったのか。それともじっと隠れていたのか。こんな固くて乾いた、生命の気配もない谷間で。どれくらい眠っていたんだ。次に降る雨を信じて。
見ろ。ちゃんと見ろ。
我らは死んでいない。また何度でも目を覚ます。お前に会いに来る。
そしてもう一度手を伸ばす。はるかなるお前へ。永遠の青空へ。
そう無謀にはりきって見える一面の草原を、ルキリウスはあっけに取られて眺めていた。
こんなにも愚かで、無邪気で、決してめげない緑たちを、初めて見た。だが気づかなかっただけで、彼らはいつだってそうであるのかもしれない。与えられた命を、ただ精一杯生きているだけだ。
輝く緑。みずみずしい命。永遠がなんだと言わんばかりの、ひとときの美。だがここは太陽が強すぎる。大半が、明日を待たずにしぼんでしまうのだろう。枯れ果ててまた、なにもない大地に戻るのだろう。
かわいそうに、早速クラウディア号にはまれている草さえある。
けれどもこれらは、また次の雨の後に蘇るのだろう。翌年も、そのまた翌年も、十年後も、百年後も芽吹くのだろう。たとえほんの数日の命でも、そのわずかな輝きのために、辛抱強く眠り続けるのだろう。
必ず蘇ると知っているから。命とは否応なく与えられ、与えられたからには挑み続ける。相手は世界であるのに、その愛を疑わない。痛めつけられて枯れても、またしぶとく手を伸ばす。
一瞬の輝きのために。世界を愛し、世界に愛されて、共に笑うために。
これは奇跡だよ、ティベリウス。
ルキリウスは目を細めた。
君にも見せたかった。一緒に見たかった。……ああ、だから君は、ぼくなんかに一緒に来いと言ったのか。
世界の果てに。
ティベリウス、とうとうぼくも世界の果てに来た。
引き返すべきだったのか。今からでも遅くはないか。
ティベリウス、ぼくにはわからない。この果てになにがあるのか。ぼくらの運命がどうとか。
でもぼくは、もう一度君と同じ世界が見たい。
どうせほんの一瞬なんだ。もう少しだけ、ほんのちょっとだけ希望を持って、この忌々しい運命に身を委ねてはいけないだろうか。
ねえ、ティベリウス、
ぼくの声が聞こえてほしいよ──。