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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第四章 アラビアのルキリウス
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第四章 -14



 14



 八月九日、アルトラを出発して一週間、そしてマルシアバなる岩上の都市を包囲して三日目にして、ローマ軍は早くも水不足に陥った。荷獣に運ばせてきたささやかな水袋たちが、なぜかそろって中身を失ってしまった。突然破れたり、縛り口がゆるんで蒸発してしまったりということが、立て続けに起こった。しかもよりによって大型の水袋ばかりがだめになり、残りは兵たち個人が携えている小型の水筒のみという現状になった。

「おお、なんという不運か、ローマ軍ばかり!」

 ナバテア人の長シュライオスが、大仰に嘆くのだった。

「この険しい道のりのうえ、もう半年も使い続けた水袋だ。傷んでも仕方がない! 我らナバテア製の袋はまだしかと頑丈でいるので、もちろんだ、分けて差し上げよう。……とはいえ、量に限りはあるが──」

「心配ご無用!」

 ルキリウスが大声で割り込んだ。

「先程、アルトラの守備隊から報告がありましてね。地下水を掘り当てたそうです。あそこの近くで、ここから一日行程の場所だとか」

「本当か、ルキリウス!」

 アエリウスがぱっと顔を輝かせた。テントの中で、一瞬前まで頭を抱えて突っ伏していたのだが。

 希望にすがるのが早すぎる。

「ええ、ええ」

 ルキリウスはくり返しうなずいた。それから傍らに立つ二十歳の若者の肩を叩いた。

「このマルクス・ポンペイウスがやってくれましたよ。ついさっきここまで知らせに来てくれました。ぼくのクラウディア号をかっ飛ばして」

「すまない。君のラクダがいちばん元気そうだったから」

 ポンペイウスが言った。第二十二軍団ディオタリアーナの軍団副官の一人で、育ちの良さがにじみ出る容貌をしている。属州アジア出身で、父親が大ポンペイウスと親交があったために、その名を頂戴した。

「それはどこにあるんだ?」

 シュライオスが威圧的な口調で訊いてきたが、ルキリウスは気づかないふりをして、ポンペイウスと顔を見合わせた。

「アルトラ方面だからここの南西でしょ?」

「いや、もっと北。ここの真西に近い」

 ポンペイウスが答えた。

「どこって言われても困るよね。そもそもここはぼくらの未知の土地なんだから」

 と、とぼけ顔で皮肉ってから、ルキリウスはアエリウスに言った。

「ぼくを行かせてください。とにかくポンペイウスに案内してもらって、今夜じゅうにそこに着きます。それであとは、アルトラ守備隊の皆でここまで運んできますよ」

 シュライオスが腰を浮かせた。「我々も行こう」

「いや、結構」ルキリウスは即座に言った。「ナバテア人の皆さんは水にお困りではないんですから。これはローマ軍の問題ですから」

「しかし水は大事だ!」シュライオスは怒鳴りつけるように言った。「それに補給もな。アルトラの守備隊をすべて駆り出す気か? あそこの食糧をいつでも使えるよう確保しておく計画だったろう!」

 食糧もなにも、このマルシアバまで本隊が進軍するにあたって可能な限り持ち出した後だ。現地の守備隊の腹をなんとか黙らせておけるくらいしか、もう残っていない。数日で次の実りが得られるわけもない。

 シュライオスもそのことはわかっているはずだ。

「大丈夫です。井戸掘りと水渡しには、せいぜいあの大隊の半分いれば十分。あとぼくのために、一百人隊だけ貸していただければ」

 ルキリウスはあえて言った。アルトラの守備隊は一個大隊の四百八十人であるが、定員割れしているため、もう数十人少ない。さらにそれを半分にするとなれば、二百二十人強だ。ルキリウスの連れる百人隊とは、実際は八十人が定員であるので、合わせて三百人。

「それにせっかく包囲している戦力を極力減らすべきじゃない。そうでしょう?」

「そのとおりだ」アエリウスは釣り込まれるようにうなずいた。「任せてもよいか、ルキリウス?」

「はい」

「やった! 水だ! 水が手に入るんだ!」

 テントの外ではしゃぎ声がした。

「大騒ぎするんじゃないよ、イッキウス」

 出入り口から顔を出し、ルキリウスは警告した。この男は第三軍団キレナイカの軍団副官であるので、ルキリウスの同僚だ。詩人ホラティウスの友人であるそうだが、国家ローマの軍団副官という職の人選について、ルキリウスは疑問を抱かざるを得ない。自分も含めて。

「まだその井戸でどれくらいの水が汲めるかわからないんだ。無暗に期待を振りまかないでくれよ。手持ちの水をまず大事にするよう、軍団兵には伝えるんだ」

「並んで水袋を手渡ししよう!」これは名案だろうとばかりに、イッキウスは叫んだ。「ローマの消防隊みたいに! おい、ロングス! 我々も行くぞ! その井戸はどこだ?」

「あのねぇ……」アエリウスのテントを出て、ルキリウスはイッキウスを捕まえに行った。背中には、シュライオスの視線を痛いほど感じていた。

「聞こえなかったのか? 包囲の戦力を減らしちゃだめだ」

 なにが包囲か。始めて三日でする側が音を上げる包囲など聞いたことがない。しかもたかだか一万人足らずで、仮にも王都である都市を囲むというのだから。

 マルシアバにはラマニタイ族なる人々の王宮があるらしいが、畑に囲まれた山肌以外、辺りは真夏の暑さで緑も枯れているような土地だ。なぜここを包囲するのか。せめてもう少し麓が肥沃である町ではだめなのか。これではどちらが先に消耗するか、火を見るよりも明らかではないか。

 これもまたシュライオスの進言だ。マルシアバを落とし、王都の富を手に入れ、さらに香料生産地の秘密も聞き出せるはずだ、と。

 しかしマルシアバの王宮に籠る人々は、どうも包囲されていることに無頓着であるようだ。気づいてさえいないかもしれない。なにしろローマ軍が包囲網を形成するそぶりを見せても、兵の一人も差し向けなければ、威嚇の一つも投げてこない。この「幸福のアラビア」のほかの集落と同様、マルシアバはマルシアバだけで事足りているのだ。穀物もたっぷり収穫され、水も十分に蓄えているに違いない。見ればわかる。山肌だけは緑豊かだ。けれどもローマ軍はあそこまで登って行けそうにない。

 シュライオスもそれはわかっているはずだ。ずっと北にあるが、ナバテア人の王都ペトラも、聞くところによれば、巨大な岩の上に築かれている。辺り一帯が不毛な砂地であるのに、住民は王都内に少ない水を蓄えて、自給自足を成り立たせている。行政の長が外に出る一方、王は都から一歩も外に出ないそうだが、出る必要がないのだ。香料貿易で、富は勝手に集まってくる。砂地のぽつんと真ん中にあるので、余所者もあえて攻撃して落とそうとは思わない。むしろ外に出たほうが、王には身の危険があるのだ。

 まさにこの「幸福のアラビア」のあり方とそっくりではないか。

「だいたい徒歩で並ぶのは無理があるし、危険だよ。ここをどこだと思っているのさ。敵地だよ? まぁ、ナバテア人のラクダ隊なら良かろうけど」

 イッキウスの頭を抱え込みながら、ルキリウスは声を張った。それから彼の耳にささやいた。

「それより君にはもっとうまい話がある。ねえ、君は一攫千金を狙ってわざわざこの遠征に加わったんだろ?」

 その夜、ルキリウスはポンペイウスと一百人隊を連れて、本営を離れた。約千人に跡をつけられるとは、気づかずにいるのが至難の業だったが、いかにものんきにラクダを駆った。

 東の空が白み始めるころ、石を積み上げて囲った井戸の前まで来た。

「おおっ」ルキリウスは中を覗き込んだ。「こりゃ良かった! 当分なんとかなりそうだね」

「すでに汲み出して積んである」

 必要以上に声を張りながら、ポンペイウスが近くの岩陰を示した。岩そのものと見まがうように、膨れた水袋が並べられていた。

「もう運ぼうか?」

「勘弁してくれよ。夜通し歩いたんだから」ルキリウスは大きくため息をついた。「少し休もう。ところで守備隊のみんなは?」

「あそこで仮眠を取っている」

 ポンペイウスは今度は岩壁を示した。そこにマントをかぶった軍団兵らが横たわり、さながら特大の芋虫に見えた。太陽が昇っても、しばらくは日陰でいられる場所だ。

「彼らも夜遅くまで井戸掘りをしていたんだ。その成果がこれだ」ポンペイウスはもう一度水袋へうなずいた。「じゃあ、我々も休むとしよう」

「いや、ここでは嫌だな」

 ルキリウスは反対した。

「ここは涸れ谷でしょ。また水があふれてきたらどうするの?」

「もう何日も雨は降っていないぞ」

「それでも、ぼくは嫌だ。忘れたのかい、レウケ村を出て早々の、あの恐怖体験を」ルキリウスは身震いした。「ここで仮眠を取れる君の仲間の気が知れない」

 アルトラの守備隊は南からこの涸れ谷に入った。ならば自分はもう少し北に引き返し、もっと高所に上って、そこで木陰でも探す。そこまでなら水は来ないだろうし、万一賊が現れた時に気がつけるだろうから。陽が昇ったら、水袋をぼくたちのところまで運んでくれたまえ。そう、消防隊式に受け継ぐの。うん、あとはよろしく、ポンペイウス──。そう、やけに大声で説明した後、ルキリウスは百人隊を連れて来た道を戻った。千の影が、慌てた様子で道を開けたが、また気づかないふりをした。

 まもなく、太陽が東の空に姿を現しはじめた。すると井戸の周りを複数の影が取り囲んだ。足音をひそめていたのだが、二千本もの足で地面を踏めば、地鳴りが轟く程度には静かでなくなる。

 けれども軍団兵のだれ一人目を覚まさなかった。

「見えないぞ!」

 井戸を覗き込んで、だれかが言った。

「とにかく水袋をすべてぶちまけろ!」

 命じる声は、シュライオスのそれに間違いなかった。

「あそこの軍団兵どももだ。始末してしまえ!」

 ナバテア人らが一斉に水袋と特大芋虫に剣を突き立てた。しかし噴き出したのは、水でもなければ、赤や緑の体液でもなかった。ただ白い砂がこぼれ出ただけだ。

 シュライオスが眼を剥いた。「なっ……これはっ?」

「はーい、そこまで」

 ルキリウスが言った。涸れ谷の北側から、百人隊を背に姿を現した。

「みんな、見たかな?」

「見ました!」百人隊が答えた。

 ルキリウスは頭を上向けた。「ポンペイウス?」

「見たぞ!」

 彼とその守備隊が答えた。ポンペイウスの体は岩陰から涸れ谷の上へ、縄で引き上げられていった。

「よぉーし」ルキリウスの声は醒めていた。「んじゃ、君らの十人、ぼくらの十人、予定通り全速力で本営に向かうように。ぼくのクラウディア号を使うことを許可する」

「これはなんの真似だ、ローマ人!」

 シュライオスが激高した様子で振り向いてきた。

「なんでもなにも」ルキリウスはうんざりとまぶたを下げた。「ようやくシュライオス大将軍御一行の尻尾をつかんだので、総督に報告に行こうってことだよ。今や現行犯。証人多数。ここまでしないと、総督は信じてくれないからね。もう少し早く実行できたらよかったよ、このくらいでひっかかってくれるなら。それにしてもイッキウスになんて言われたか見当もつかないけど、本当に千人丸々で来てくれるとはね。ありがたいやら悲しいやら……」

「馬鹿にしおって!」シュライオスは息巻いた。

「馬鹿にしてくれたのはどっちだよ?」ルキリウスは言い返した。「お人好し総督に取り入って、散々ローマ軍を振りまわして。シュライオス、あんたの悪巧みのせいで、いったい何人の軍団兵がひどい目に遭ったかな? 命まで落としたかな? そんなにぼくらを弱らせたかった? だったら最初から協力を断ってくれればよかった」

「いまいましいローマ人めが!」シュライオスは真っ赤になっていた。「覇者であるからと、自らの傲慢さに気づきもせん! カエサル・アウグストゥスの要請を断れるものか! 我々のせいではない。貴様らローマ人が強欲であるから遠征を強行したのだろうが!」

「話を持ちかけたのは、あんたらのほうからだって聞いたけど?」

「ローマがもっと香料を寄越せ、そのうえ安くもしろとうるさいからだ!」

「ああ、そうかい」ルキリウスはため息をついた。「きっとそうなんだろう。一理はあるんだろう。けどだったらさ、せめて自分らはこの幸福のアラビアのことをなにもわかりませんって、白状してくれたらよかった。ちょっとは知っていたとしても、謙虚にとぼけてくれたらよかったんだ。かの偉大なソクラテスの哲学は、さすがに聞いたことあるよね? 無知の知ってやつ」

「うるさいわ! 小賢しい若造め!」

「結局あんたはなにがしたかったのさ?」

 相対しながらルキリウスは、少しばかり自分の度胸に呆れていた。相手は仮にも一国の王代理だ。少し前の自分なら、ただその権威を前に恐れ戦き、言い争うどころかひと言も声を発せられなかったはずだ。

 コルネリウス・ガルスこそが、ルキリウス・ロングスを鍛えてくれた。そしてはるか彼方のティベリウス・ネロの存在が、行動力も与えてくれたのだ。

「ローマからこの土地の富を守りたかった? 違うよね? だったら彼ら相手に戦闘なんかさせないはずだよね。あんたはローマ軍だけじゃない。この土地の色々な部族を弱らせたかったんだ。ローマ軍の護衛つきで、この『幸福のアラビア』を偵察して、なんなら王国をいくつか潰して、あわよくばナバテアの支配域を広げたかった。でもマルシアバとか、ほかの町のあんなたたずまいを見て、これは無理だと思ったんじゃない? さっさと香料の産地だけ確保して、後であらためてこっそり来ればいいかとか、考え直したんじゃない? というわけでローマ軍は、もう用済みということで」

「思い上がったローマ人め!」特段的を外した箇所はなかったらしい。シュライオスはますます真っ赤になった。「世界じゅうを内戦で荒らしておいて、自分たちは無敵だと思い込んでいる。決して敗北しない? 必ず思いどおりにする? 笑わせるな、この様で!」

「東方諸国に言われたくないなぁ。ローマが来なければ、いつまでも互いに戦争をして、庶民に迷惑をかけてきたくせに。それで結局ローマを頼ってきたくせに」

「我らナバテアは違う! お前たちを必要としない!」シュライオスは声を張り上げた。「ユダヤ人どもと一緒にするな! ここは我らの土地だ! 我らの富だ! ローマ人に搾取させん!」

「聞いたかい?」ルキリウスは背後の百人隊に言った。長話ができて幸いだ。総督の下へ走った仲間のために、少しでも時間を稼ぎたい。「我らの土地、我らの富だってさ。ここはナバテア人のものでも、ローマのものでもないよ。ああ、わかってる。わかってるよ。ぼくらはお互い様だ。どっちもこの土地を探検に来た末、お宝を巡って仲間割れを始めたわけだ。まったく武装強盗となにが違うのかな……?」

 ルキリウスは首を振った。

「皆殺しにしてやる」シュライオスが片刃の件を抜いた。「お前らは三百人? 五百人? かまうものか!」

「安心しろ、三百人もいない」

 ルキリウスは首をすくめた。

「総督へ報告に走ったから。あと、守備隊の半分は、別の道を通って本営に補給を届ける手筈だ。……いや、まがりなりにも少しは供給しないと、ぼくが虚偽報告で罰を受けかねないからなんだけど。みんなをがっかりさせてしまうからなんだけど。あんたらが水袋を全部だめにしたせいで。まぁ、全部じゃなくて、半分くらいはあらかじめ土に埋めておいたんだけど。イッキウスのやつはちゃんと掘り出してくれたんだろうか……」

「皆殺しだ」シュライオスは切っ先を突き出してきた。「そしてアエリウスくらい言いくるめてやる」

「それは無理だよ。わかっているはずだ」

「ならば、ローマ軍をここへ置き去りにしてやる!」

「結構」ルキリウスはうなずいた。「でもだれかは帰り着くさ。ローマまで。そうしたらいずれ、ナバテアは終わりだ。マルクス・アグリッパが来るぞ」

「黙れ! おしゃべりな餓鬼め!」

「投降しなよ、シュライオス」さして熱意を込めずに、ルキリウスは勧めた。「そうすればナバテアの滅亡だけはまぬかれる」

「ふざけるな! 滅びるのはローマ軍だ!」シュライオスは勢い込んで宣言した。「我らとて丸々全員で来たわけではない! 私になにかあれば、同胞がアエリウスを殺すだろう! それにラマニタイ族だけではない。サバイオイ族、カッタバネイス族、それにハドラマウト族が、一斉に山を下りてきてローマ軍をつぶす! 我らはすでに使者を送っている」

 おっと、それは初耳だ。考えてもみなかった。しかしそれは追いつめられたシュライオスのはったりではないのか。山を下りてくることによる利点が、各部族にあるとは思えない。

 そう思いたいだけか。たとえそうだとしても、今ルキリウス・ロングスにできるのはこの程度だ。シュライオスの悪巧みを暴く。あとは総督アエリウスとローマ軍に委ねるしかない。

「死ね、ローマ人!」

「ぼくはそんなこと言わないよ、シュライオス」

 戦闘開始の号令だったはずの声を、ルキリウスはさらりと流した。向かってくるところのナバテア人が止まった。

 ルキリウスは右手を高く上げた。

「あんたにはまだ選ぶ道がある。ぼくらだって千人も殺したくない」

 すると雷のような音が立て続けに聞こえた。念のため見上げて、結局ルキリウスはあわあわと退いた。狙ったところにぴったりなんて落ちないのだ。

 とはいえ、守備隊が数十人がかりで動かした大岩は、涸れ谷の北側を半分ほど塞いだ。

 激しい粉塵に、ルキリウスはせき込みながら、またシュライオスらの前に姿を見せた。

「こっちへ来るかい?」ルキリウスは訊いた。すでに剣を抜いていて、その先で涸れ谷の南側を差した。「それともあっちへ逃げるかい? 後者をお勧めするよ。もう総督のところへは間に合わないと思うけど」

「皆殺しにしてやると言ったはずだ」

 シュライオスがひるんだのは、岩が落ちた一時のみだった。結局北側を封鎖できず、失敗した小細工に見えただろう。

「かかれ、同胞たち!」

「わかってないねぇ」

 ルキリウスは顔を上げた。その目に冷たく鋭い光が宿るのが、ナバテア人らに見えただろうか。

「ぼくらはちょっとだけ、畏れ多くもスパルタ王レオニダスの真似事をしてみるつもりなのに」

 ルキリウスは岩の隣に立った。傍らには、百人隊の腕利き二人が並んだ。

 あとは残りの全員で、この三人の援護をするように伝えていた。百人隊は手槍を投げ、長槍を突き出し、さらに矢も放った。そしてルキリウスたち三人が斬り倒した敵を即後ろへ引きずっていった。三人の邪魔にならないようにするためだが、これがいちばん目まぐるしい役割になった。シュライオスの顔がしだいに茫然自失の相を帯びていったが、ルキリウスはさして気にしていられなかった。次から次へ切りもなく押し寄せてくるナバテア人を、次から次へと一撃で貫き、後始末を後衛に任せていった。

 シュライオスはあんぐりと口を開けていた。南から逃げる道さえ忘れてしまったようだが、実のところそちらもあまり有望ではなかった。守備隊が涸れ谷の上に並び、矢を放ち石を落とし、脱出を阻止していた。後ろにまわり込まれないよう用心さえするならば、敵を多少逃がしてもかまわないとルキリウスは打ち合わせていたのだが、彼らもまたいい加減頭に来ていた。ナバテア人の案内に翻弄され、一夏一冬病気にされ、何度も山をまたがされ、砂漠で蒸し上げられ、挙句アルトラに置き去りにされたのだ。その鬱憤を晴らす時が来た。

 この大岩の先に出たなら、北側はさほど谷間の傾斜がきつくない。たかが八十人足らずだ。シュライオスが突破できると踏んだのも当然だ。

 しかしルキリウスとあと二人の軍団兵が、たちまち倒れ伏す同胞の山を築き、すぐさま後方へ蹴り出していく。この涸れ谷を抜け出す唯一の方法を教えている。

 斬り捨てられること。無駄におしゃべりな若造の手にかかり、骸になること。

「交代」

 それでも体力がないのは、教師バルバトゥスよりお墨付きだったので、ルキリウスはいったん退いた。代わりの腕利き一人を置き、大岩にもたれて休息した。残る水筒の中身を一気飲みする。日陰にならないのが残念だ。太陽はまだ東の空をまだ上昇している。

「ルキリウス、君は本当にとんでもないな!」

 マルクス・ポンペイウスが涸れ谷の斜面を滑り降りてきた。

「強すぎる。一騎当千とはまさに君のことだ。いったいどうしたらこんな凄腕になるんだ?」

「運じゃないかな」口元をぬぐいながら、ルキリウスはぼやくように言った。「ここにいていいのかい、ポンペイウス? ……まったく気軽に呼ぶのがはばかられるほどの大層な名前をもらうんじゃないよ」

「父はテオファネスという」ポンペイウスは微笑んだ。「でもローマ人と違って、我々は父親の名前をそのまま頂戴しないからな。おい、前から思っていたがな、ローマ人はもっと名前というものを真剣に考えるべきだぞ」

「おっしゃるとおり」ルキリウスはそう言うしかなかった。長男には父親と同じ名前をつけ、娘には全員同じ名前を与えて平然としているのがローマ人だ。

 マルクス・ポンペイウスは話のわかる男だった。この一年半余りで信頼を置くことができたので、しばらく前から打ち合わせてきた。今日のこの機会を、なんとか作り出せるように。

 ポンペイウスだけではない。第二十二軍団ディオタリアーナは、全員ローマ人以上にローマ人だった。本国を一度も踏んだことがないのに、彼らはローマのために軍務に服した。真面目で、質素で、軍規を遵守し、過酷な行軍に耐え続けた。国家の新しい血として強くなった男たちだ。始めはその存在に疑いの目を向けていたことに、ルキリウスは今や心から詫びるばかりだった。

 腕利きの一人が手傷を負った。ルキリウスは立ち上がり、前線に戻ろうとした。だれ一人死なせたくなかった。

「私も行く」

 ポンペイウスも進み出たが、ルキリウスは剣をつかんだ右手で制した。

「だめだ、ポンペイウス。君になにかあったら一大事だ。アジア名門の跡継ぎだぞ」

「……ルキリウス、わかっているよ」

 ポンペイウスは泣きそうな顔になった。

「世界が違う。私程度の腕では君に並べない。けれども、それじゃ立つ瀬がないじゃないか。私のほうが年上なのに」

「援護してくれよ」ルキリウスは微笑みを返した。「ぼくだって死にたくはない」

 負傷者を後ろへまわし、ルキリウスは再び最前線に立った。その剣が、陽光を跳ね返して一閃するたび、ナバテア人が倒れ伏していく。

「なんなんだ、お前は!」シュライオスはわめいていた。「いったいなんだ? 化け物か!」

 彼の周りを囲む同胞もどんどん減っていった。武器を捨て、南から逃げたか、投降した者が少なからずいた。結局行政の長は、王ではないという理由で見捨てられていくのだった。

「人聞きの悪いことを言わないでおくれよ」

 ルキリウスは大岩の横を離れた。決着の時だ。踏み込んで、駆け抜けて、残り八人ばかりを次々斬り伏せながら、シュライオスに迫った。

「みんなの援護のおかげだ。あと、あんたらが勝手にひるんでいるだけだ。ローマ軍に」

 シュライオスが悲鳴を上げた。彼はまともに剣を振るえなかった。震える両手の中にかろうじて収めていただけだ。それをルキリウスの剣に弾き飛ばされるより早く、彼はその場にへたり込んでいた。

 ルキリウスはシュライオスの鼻先に剣を突きつけた。残るナバテア人すべての動きが、これで止まった。

「私を殺すのか?」

 歯をがたがた鳴らしながら、シュライオスが訊いた。

「……殺さないよ」ルキリウスは低い声で言った。「だってあんたを殺したら、だれがこのひどい旅の責任をかぶってくれるのさ?」

 そしてため息を呑み込んだ。そう、結局のところシュライオスを信用して協力者に選んだのは、総督アエリウスでありローマ人だ。最後には国家の第一人者カエサル・アウグストゥスが始末をつけなければならないことだ。元老院と市民にどう説明するのだろう。二年もかけながら、都市の一つも支配下に置けず、領土を少しも広げられなかった。香料の産地もまだ見つからないままだ。帰ってくるなと言われかねない。せめてシュライオスを手土産にするしかないではないか。

 それでこの遠征に区切りをつけられる。きっとそうなる。

 もうだれもこの土地で命を落とさなくていいのだ。

「ルキリウス!」

 ポンペイウスの声がした。ほか多数の声も聞こえた。ルキリウスははっとなって辺りを警戒した。狙われたとしたらすでに時遅しではあったが、援護をかいくぐって、だれかが死角から攻撃してくるのだろうか。どこから? 右か左か後ろか、それとも上か──。

 違った。下だ。足元が不意に冷たくなった。ぎょっとした時にはすでに足首まで水に浸かっていた。

 あ然と涸れ谷の南を見やる。音もなく水がだくだくと押し寄せてきている。

 ああ、もう──と、ルキリウスは胸中で毒づく。こうなる可能性は考慮していたが、それでも地の利を活かして戦うにはこの場所が最適だった。もう何日も雨が降っていなかったじゃないか。ここの南はアルトラだ。降雨があったなら守備隊が気づいたはずだから、もっと上流でよほど大量の雨が降ったということだ。どうしてあと少しだけ待ってくれなかったんだ。

 神々の業に文句を言っても始まらない。すでに百人隊は退避行動に移っていた。ナバテア人らも懸命に逃げ惑っていた。シュライオスさえ、ルキリウスを押しのけてあわあわと水の上を這っていく。助けてくれと叫び、百人隊の腕の中に飛び込まんとする。

 そのシュライオスを取り押さえながら、ポンペイウスが叫んでいた。

「早く! ルキリウス!」

 わかっていた。わかっていたのだが、ルキリウスは思うように戻れなかった。水に足を取られる。その下で地面はたちまち泥と化す。体重をかければ、まるで沼であったことが思い出されたように沈んでいく。ふくらはぎまで水に浸かったが、足裏は地中でもがくばかりだ。

「ルキリウス!」

 焦るな、焦るな──。泥から足を引っ張り出しながら、ルキリウスはなんとか進む。最悪、このまま水に浸かればいいのだ。どうせ北へ流れていくのだ。黙って浮いていればいい。浮けばの話だが。

 足だけではない。体全体が思うように動かないのだ。そんなはずはないのに、首から下がたっぷり泥で固められたように重い。

 無理が祟ったのだ。体力がもう尽きようとしているのだ。

 どうしてだよ? ついさっきまで戦えていたのに──。

 だからバルバトゥス先生に言われたんだ。お前には体力がない。力を誇るな。おのれの力に頼る生き方をすれば、いずれ戦いで死ぬ羽目になる、と。

 この一年半、体力面は前よりましになったと思っていた。しかし夜通し行軍した後に最前線で敵を斬り続けるとは、それを真夏の太陽の下で行おうとは、先のことをなにも考えていないと非難されて当たり前だ。

 けれどもほかにどうしたらよかったんだ?

 もうだれも死なせたくないなら、自分が戦うしかないではないか。それがいちばん確実にできることではないか。

 それが、過信であるのだ。一面ではそして、不信とも言えた。

 顔面を水に叩きつけ、ルキリウスは倒れ伏した。

「ルキリウス!」

 いいからもう行ってくれ、ポンペイウス。

 ルキリウスは歯噛みしていた。

 ぼくは泳げる。なんとかする。

 ルキリウスはよろめきながら立ち上がった。全身ずぶ濡れで、水は膝まで来ていた。歩くにせよ泳ぐにせよ、上手いこと大岩の脇を抜けられるかはわからない。それでもあがくしかない。ようやく剣を鞘に収める。これがいちばんの重みで、そもそも暑さのために甲冑は身に着けていなかった。ただあとは、背中に負った木筒が気がかりだ。一見これも鞘に見えるのだが、ティベリウスへの手紙の束を収めていた。これまで水に浸かってほしくない。砂漠で白骨化するよりもまずい。

 背後の水流は、いつのまにか轟音に近い音を立てはじめていた。大岩を見つめるルキリウスの視界がかすんだ。再び、今度は膝を折って、水に沈む。

 少なくとも水は嫌というほど飲めるわけだ──。

 轟音に交じって、水をかき分けるような音が近づいてきた。とたんに大きな影に覆われたので、ルキリウスがぽかんと目線を上げると、そこにやけに精悍な顔つきをしたラクダがいた。

「……おお、ティベリウス!」ルキリウスは笑い出した。「我が友! 助けに来てくれたんだね!」

 ラクダとはここまで主思いの生き物だったのか。それともポンペイウスがけしかけてくれたのか。もう腕さえ上げられそうになかったが、最後の力を振り絞って、ルキリウスはクラウディア号の首元にしがみついた。

 ラクダが駆け出した。どこをどう走ったのか、ルキリウスはまったく見ていなかった。頭をラクダの首筋に押しつけて上げず、もうまぶたも開けていられなかった。振り落とされなかったのが奇跡で、意識を保っているだけで精一杯だ。






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