第四章 -13
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《日付は七月七日》
親愛なるティベリウス・ネロ
驚いているよ、ティベリウス。ぼくらはとうとう砂漠の果てでオアシスを見つけたんだ。四ヶ月ぶりくらいに緑を見た気がする。それもかなり規模が大きくてさ、ぼくらは天国にいる気分だった。神々を見かけないのが信じられないくらいだ。世界の果てのオアシスでなければ、いったいどこにお住まいだというんだろう?
ネグラナという名前らしい。ほとんどまともな町に見える。この季節だから昼間は暑いけどさ、極端じゃないよ。木陰に入って、水浴びなんかすれば、案外快適にしのげる。夜なんか、暑すぎず寒すぎず、最高だったな。
気づいたらそこそこ高い土地に上がっていたみたいだ。見渡すとさ、相変わらず荒涼として見えるんだけど、南にかけて緑っぽい塊が見える。緑だよ、緑。蜃気楼でなければさ、豆とかナツメヤシをちゃんと育てて収穫しているように見えるんだよ。これを農耕というんだよね、親愛なる友? 文明の証だよね? ティベリウス、ぼくらはいよいよ本当の「幸福のアラビア」に到達するのかもしれないよ。
ところでふと東を見渡せば、あれっ、西を見渡せば、おやっ、確かに砂と岩だらけに見えるけれど、あのへんとかそのへんとか、割合まともな道に見える。ラクダの一団もぞろぞろと進んでいく。
ひょっとしてこのネグラナは、香料の道の中継地点の一つなんじゃないか? ぼくらはきっととんでもない遠回りをして、ここに着いてしまったんじゃないか……?
とにもかくにも、ほっとひと息つけた。いつまでもここにいたい気持ちでいるんだけどさ、総督は明日にはまた出発するって。それでも七日ばかりはゆっくりできたかな。
遠征だからしょうがないんだけどね、ぼくらはこのオアシスに大歓迎で迎えられたわけじゃない。さして元気も残っていないのに、武器を振りかざして突進していったんだ。半ば飢えで凶暴化していたから。ネグラナの人らにしてみたら、ぼくらこそ未開の蛮族の群れだったろう。王はたちまち逃亡して、お互いにさして被害は出さずに済んだけど。
総督が呼んでいる。ようやく遠征らしいことをするみたいだよ、栄光ある覇者ローマ軍は。
《日付は七月十四日》
親愛なるティベリウス・ネロ
あれからぼくらは南へ進軍した。ローマ軍が一日に歩く距離を、無駄なくこなせたと思う。そして今や景色がすっかり様変わりしている。
残念ながら、まだ乳香、没薬の産地は見つけていない。けれどもここはもう砂漠じゃない。岩はあるけど、緑がある。もうじき涸れそうだけど、川もある。
ぼくらは山の麓を歩いているんだけどさ、実のところここもさほど低地ではないみたいなんだよね。耐えがたい暑さでないのは幸いだ。
紅海はもう見えない。まさに神々しか造りようがない、途方もなく巨大な壁みたいな山が、どこまでも続いていて、この土地を囲っている。アルプスほどではないのかもしれない。そう見えるのは、ぼくらもそれなりの高地にいるためかもしれない。紅海の側から見たら、とんでもなく高くそびえ立って見えるんだろう。あちら側と行き来できる隙間があるんだろうか? きっとないんだろうな。そうだったらとっくにこのあたりはエジプト人らに開拓されているはずだから。祖父さんたちがわざわざここをすっ飛ばしてインドまで行って、ぼくらがわざわざナバテア人の土地から歩いて来なきゃいけなかった理由は、全部あの山々にあったわけだ。世界一巨大な、天然の城壁だね。
昨日、ぼくらはついに戦らしい戦をした。涸れかけの川畔で、どこのどなたたちかもよくわからない大勢の戦士たちが、斧を振りかざしながら猛然と突進してきた。一万人ほどだろうって、第三軍団の長が言ってた。ぼくらとほぼ同数だ。いや、ぼくらはクレオパトリスから出航して以来、色々ありすぎて、一万人をもう割っていたんだけど。
でもまともに挑まれたなら、そこは天下のローマ軍だからさ、たちまち相手を潰走させたよ。おおっ、ぼくもいよいよ会戦で陣形の一端を──と少なからずはりきったんだけど、すぐ終わったよ。ローマ軍も鬱憤が溜まっていたしね。しかもオアシスで元気を取り戻せたところだったから。相手にしてみたらとんだ不運というか、八つ当たりだ。まぁ、たぶんネグラナから逃げた王がかき集めた軍勢だったんだろう。
ひと捻りみたいな感じだったけどさ、ティベリウス、ローマ軍はようやくこのアラビアで勝利したよ。でも犠牲無しにとはいかなかった。戦死者が二人。
戦争をしたなら仕方がないことなんだろうか? 十二万人相手に五人しか失わなかったっていうルクルス将軍のあれがまず奇跡で、そもそも殺し合うためにどちらも武器を取るんだから。相手方なんかもっと大勢を亡くしたに違いないんだから。
でもさ、ほんの二人。それでも二人だ。クレオパトリスからレウケ村に渡って、病気に耐えながら一夏一冬を過ごして、それから散々岩と砂漠の上を彷徨って、もう四ヶ月半も苦労をした末、ここでよくわからない連中との戦いで命を落とすなんて。故郷に帰れないなんて。
やりきれないよ。どうしてぼくらはこんなところへ来てしまったんだろう。
このアラビア人らは、ローマの安全を脅かしたわけじゃない。ナバテア人と結託して、香料の価格を法外に釣り上げてはいるんだろう。でも彼らは、たぶんほとんど質素で平穏に暮らしているだけで、荒稼ぎしているのはナバテア人やユダヤ人じゃないのか? いや、別にどこのだれだっていいんだ、金儲けするのは。ローマだってそこに割り込みたいのは同じだ。
でもそれは、こんなところへ来て軍団兵を死なせてまで為すべきことだったんだろうか? 少なくともぼくらは、戦争する相手を間違えているんじゃないか?
ああ、ぼくは甘いんだろうな。散々闘技場で人を手にかけておいて、これだよ。
みんなで一緒に帰りたかった。レウケ村まで。そしてアレクサンドリアまで。
《日付は七月二十三日》
親愛なるティベリウス・ネロ
あれからぼくらはさらに南下した。例の一万の軍勢のあとを追いかけて、アラビアの奥地に踏み込んだんだ。そしたらさ、ティベリウス、とうとう行き止まりが見えてきたよ。半島南の壁だ。山でL字型に囲われているんだよ、このアラビアは。この南の壁の向こう側を、祖父さんたちはインドへ往復していったはずだ。たぶん小さい停泊地くらいはあっただろう。でもアラビアの中まで入り込めそうな道は、たぶんないんだろうな。前にも書いたように、そんなことができたんだったら、とっくの昔にエジプト人やエチオピア人がここを開拓していたはずだ。
この土地は、長いあいだこうして外から守られてきたんだ。西と南を山脈によって、そして北と東を砂漠によって。確かに幸福のアラビアだ。ぼくらにとってじゃない。現地の人々にとってだ。そりゃ、気候は厳しいし水も少ないし、耕作地も狭いけどさ、彼らは彼らなりに、きっと何百年もここで静かに暮らしてきたに違いないんだ。
あちこちが切り立った山ばかりでさ、文明なんてないと思うだろ? なんとここの人ら、山肌に畑を作っているんだよ。いったいどうやってあれを維持して収穫しているんだか見当もつかないけど、巨大な岩の突起にしか見えないものが、緑に覆われているんだよ。ロバがよたよたとそこへ登っていくんだよ。
山の頂上に、かろうじて集落みたいなのが見えるんだ。まったく信じられないことに、こういう突起がいくつもいくつもこの土地にはあるんだ。ティベリウス、君はヒスパニアで山岳民族を相手にしたと言った。山を包囲して、連中を追い込んだと言った。ぼくが今見ているこれと比べてみたいよ。これが山だろうか? 本当に巨大な槍の穂先みたいなんだ。そこに階段みたいに畑を作って、頂上に人が暮らしているみたいなんだ。ゆるいねじ巻きみたいなほっそい道が、かろうじて見えるんだ。
こんなところに住んでいる人たちを征服することなんてできるんだろうか。たぶん彼ら、その気になれば一生あの山の上にいても不自由しないんじゃないかな。でなければあんなところに家々を立てて、畑まで作る意味がわからない。よく書物で天然の要害だの、難攻不落の砦だなどと読むけれど、これらと比べてみてほしい。本当に、そこらじゅうにあるから。どうやってこれを落とすの? そもそも彼らにとって、下界でなにが起こっていようが関係ないんじゃないの?
きっとあそこにこそ神々がおわすんじゃないの?
マカロン殿が言っていたことがある。あの人もこの土地を実際に見たわけじゃないだろうけどさ、アレクサンドロス大王の東征以来、学者のあいだではこう考えられているらしいんだ。アラビアとは三種類の土地がある。すなわち「岩のアラビア」「砂のアラビア」そして「幸福のアラビア」だ。
岩のアラビアは、ここに来るまで散々味わってきた。砂のアラビアにも足を突っ込んで、あわや全滅沙汰だった。ここより東へ行くのは危険なんだってさ。ハドラマウトとかいう国があるそうなんだけど、そこはもう砂のアラビアが迫りくる「死の大地」だって。ユダヤ人が言ってる。
彼ら、結局ローマにそのハドラマウトとかいう土地にある香料の産地を見つけられたくなくて、あえてそんなこと言ってるんじゃないだろうね? いや、砂のアラビアに踏み込んだらどんなことになるか、すでにナバテア人様方が教えてくださったんだけどさ。
彼ら、ここんところは大人しくしているよ。突然まともな案内人になったようにさえ見える。欲を言えばさ、現地人とのあいだに立ってもらって、余計な戦闘を避ける交渉をしてくれるとありがたいんだけど、ここにきて彼らがいちばんはりきっているんだよ。「行きたまえ、ローマ軍! 世界一のその強さを、蛮族どもに見せつけてやれ!」
シュライオスときたら、いつのまにやらすっかりローマ軍の司令官気取りなんだけど、どうしてくれよう。ああ、うん、アエリウス総督の性格がいちばんの原因だ。総督は将軍向きじゃないんだよ。旅人であり、学者なんだよ。コルネリウス・ガルスだったらこうはならなかっただろう。なつかしきあの横暴者は、今頃あの世で地団太踏んでるんじゃないかな。なにをやっておるのだ。だから私に任せよと言ったではないか──。
ところで、このあたりの土地は、もうラクダを連れて歩くには不便になってきた。山道や隘路ばかりでさ。だから軍団兵どもは、ぼくの可愛いクラウディア号をそろそろいただこうかなどと言い出した。野蛮人どもめ。今までどれだけクラウディア号に重い荷物を運ばせて、そのうえ乳まで飲ませてもらったと思っているんだ。だいたい帰りはどうするつもりなんだ? レウケ村までどうやって戻る気でいるんだ?
そう言い聞かせてさ、なんとか思いとどまらせたよ。
なんでまた飢えはじめているんだって? うん、この辺りには緑があるにはある。でも人間が食べられそうなものは少ないんだ。食糧を調達したいなら、もうそれこそあの突起みたいな山頂の集落に向かうしかない。絶対に途中で転落すると思う。
まぁ、あと少しの辛抱で、アスカとかいう市に着くらしい。突然はりきり出したナバテア人曰く、このあいだの王の避難先だってさ。
つまりどこの山頂の集落も、王様すら迎え入れてくれなかったわけだ。
《日付は八月二日》
親愛なるティベリウス・ネロ
よくもまあ、こんなにかさばるだけの紙を持ち歩いていたもんだと思うだろ? クラウディア号のおかげだよ。ところでぼくは、今日でこの愛しのラクダとお別れすることになった。永遠にじゃないよ。ちょっとこの先へ行くにあたって、さすがに連れ歩きにくくなってさ。また戻ってくるよ、必ず。
でもまぁ君への手紙だけは、万が一に備えて、ぼくが肌身離さず持って行こうと考えている。いつか君に届くように。
アスカ市はあっさり陥落した。王はまたも逃亡した。もはや本当に実在しているかも怪しい。
まあ、君がいたヒスパニアみたいに、岩陰に隠れて待ち伏せされないだけ幸いなんだろう。これだけでもさ、相手方の戦闘意欲がうかがえるよね。彼ら、なんでいきなり戦をしなきゃいけないのかって思っているよ。このたかだか一万人弱の群れが、まさかアラビアを征服しに来たとも考えにくい。手当たりしだいに掠奪や虐殺をするわけでもない。かといって話し合いを持ちかけたら、シュライオスとかいう男がやたら喧嘩腰で、聞く耳を持たない。いったいこいつらはどうしたいんだ? 犬とはぐれた羊の群れさながら、ただの集団迷子か?
ぼくらはシュライオス大将軍に率いられ、少しばかり北へ戻って、アルトラという町に入った。戦わずに征服したと言えば聞こえはいいけど、原住民側に反抗する意思がなかったんだよ。遊牧民でね、ローマ軍が近づくや、たちまちどこかへ消えていったよ。
でもここも良いところだ。まず山の頂じゃない。それでもそこそこ高地なので、真夏の最中でもしのぎやすい。穀物があった。ナツメヤシもあった。肝心の水があまりなかったんだけど、まぁ、悪くない。……たぶん、原住民に訊いたら、この町の井戸や貯水設備なんかを教えてくれたんだろうけどな。
とにかく総督は、このアルトラを拠点にするつもりらしい。守備隊を置いて「家」を確保しつつ、これからこの「幸福のアラビア」の探索に出かけようってわけだ。さすがにあるはずなんだ。乳香や没薬やその他諸々の香料が。まだその産地を見つけていないんだけどさ、確かにぼくは、アスカの住民が、まるで薪みたいに肉桂を大量に火にくべているのを見た。ここより外の世界では、目玉の飛び出るような贅沢だ。黄金の寝台を所有しているようなもんだ。その黄金の寝台もさ、ネグラナの王宮殿という名の立派なテントで、見つけたんだよ。重すぎて、どうにもできなかったけど。つまり彼らは、ものすごく豊かな金鉱を持っているのでなければ、香料貿易を通じて、外の世界から金銀を手に入れたに違いないんだ。だから必ず香料の産地はあるんだ。この近くに。
ぼくにとっては正直、香料はどうでもいい。そんなものより水が万倍も貴重だ。シナモンがなんだ? 腹の足しにもならない。
でもここまで来たからにはね、やれるだけのことはやらなければと思うよ。空手で帰れないためもある。ここまでの犠牲を無駄にしたくないためもある。
そもそもぼくらは、征服でなく探索に来たんだから。まさかこんな過酷な大地を、もう五ヶ月余り歩きどおしだなんて想像していなかったけど。
ほんとにさ、単なる旅だったらよかったのにな、ティベリウス。君と二人で、幾多の冒険をこなして、世界の果てでお宝探しだ。
実際さ、この奇妙な土地はすばらしいよ。君と一緒に見たかった。
……ああ、もう朝みたいだ。シュライオス大将軍が呼んでいる。進撃開始だって。もう乗っ取りだよ、乗っ取り。
コルネリウス・ガルスがあの世で激怒しているよ。
そしてティベリウス、君と一緒なら、今頃シュライオスとその側近どもに挑んでいたかもな。
ぼくはもう、やつの馬鹿げた誘導で仲間を失いたくない。そう思う程度には、軍団副官になったみたいだ。
笑えるよね、ついこのあいだまで剣闘士もどきだったこのぼくが、さ……。