第四章 -12
12
《日付は六月二十日》
親愛なるティベリウス・ネロ
ああ、友よ。ぼくはまだ生きている。ローマ軍も相変わらず広大なる不毛の土地を彷徨っている。
アレタス王の土地を出て、サボス王の土地に入ったらしい。彼らがなにをもって国境を定めているか、ぼくらにはさっぱりわからない。なにしろここは、一面砂漠だ。シュライオス曰く、ここを通過すれば大きなオアシスにたどり着けるそうなんだけど、まずもって道がない。砂の上でもがいているうちに、もう五十日ばかり過ぎてしまった。五十日だよ、ティベリウス。こんなに長いあいだ砂漠で息をしているぼくらは、きっとあのアロエに変身したんだろうね。
日に日に暑さが増してくる。このまま真夏に突入するだなんて恐ろしい。なんとか脱出しないといけない。
世界にはもう砂しかないんじゃないかって思うよ。知らないあいだに君の住む場所も砂に呑まれちゃってさ、もうこの世は滅んでしまったのさ。そんな途方もない心境になる。
空を見上げれば、進むべき方角くらいわかるはずだと思う? 昼間の太陽なんて、もはや人生で最も忌まわしい存在になるところだよ。見上げてられないよ。イカロスの気が知れない。彼はここから飛び立つべきだった。飛んだ直後に墜落だ。しかも砂の上だ。火傷はしても、死にはしない。
夜の星座があるだろうって? 確かに。でもさ、実のところ砂に足を取られてたいして進んでいないもんだから、無能な人間どもの役には立ってくれないよ。とりあえず明日の進む方向だけ決めておくとするだろ。次に目を開けたときには、ちょっとした風が吹いてさ、砂の形がすっかり変わっちゃうんだよ。もうどっちがどっちだかわからなくなるんだよ。
ちょっとどころじゃない風が吹くこともある。砂の嵐だ。いよいよ死ぬかと思った。ローマ軍は砂に埋もれたサソリよろしく、のそのそと懸命にはい出てきた。本物のサソリや毒蛇なんかも一緒に出てきたので、大騒ぎになった。しかし蛇の肉はさ、新鮮な食材としては今このうえもないんだよね。蛇の血もさ、喉を潤してくれるんじゃないかなーという見通しの下、激しい奪い合いが起こっているよ。毒は? 毒はどこへ行ったの? すべての蛇に毒があるわけじゃないけど、大丈夫なの?
ごめん。いつにもましてなにを書いているのかわからなくなってきた。たぶん、ぼくも暑さで頭をやられているんだと思う。
未だローマ軍は、戦闘らしい戦闘をしていない。いっそイチかバチかシュライオスを始末して、ナバテア人千人相手に戦って、あとはひたすらとにかく西へ行きたいよ。
紅海にぶつかったなら、あとは右手方向に向かえばいいわけだよね? どんな暑さと湿気が待ち構えていようが、いつかはレウケ村まで帰れるわけだよね?
いったいどこのほら吹きが、この土地を「幸福のアラビア」だなんて呼んだんだ? 砂と岩しかここまで見ていないんだけど。ぼくはまずそのほら吹きどもの口に、片っ端からグラディウスを突き立ててやりたい。ついでにその生き血ででも喉を潤したい。
おお、飢えると人は凶暴化するらしいけど、どうやら本当みたいだ。でも凶暴化する元気があるだけまだましだ。
ぼくはまだ大丈夫だよ、ティベリウス。ぼくよりひどい状態の人は周りにいっぱいいる。
ほんと、コルネリアを連れてこなくてよかった……。
六月、ティベリウスはドルーススの成人式を執り行った。その後の競技会では、チルコ・マッシモでの戦車競走を開催した。ティベリウスは主催者席で大人しくドルーススと並んで座っていたが、四頭立て戦車では貴顕の若者──ルキウス・ピソとかパウルス・ファビウスまでが手綱を取って、迫力満点のレースを展開していた。本人たちが出たがったのだが、第一人者にばれたら叱られるだろう。
七月、テレンティウス・ヴァッロが首都に帰還した。アオスタ建設の目途が立ったらしい。凱旋式級の勝利と功績だが、第一人者のアウグストゥスが先に辞退しているので、略式のそれも挙行されないという。その代わりにマエケナスが、自邸で盛大な帰還祝いの宴を張るとのことだ。招待されたティベリウスは、マルケルスとともにしぶしぶエスクィリーノの丘へ赴いた。将軍ヴァッロにはヒスパニアで世話になり、尊敬の念を抱いていた。無事の帰還は大いに祝福したかった。ただマエケナス邸に不愉快な記憶があるという理由で、足取りが重かったのだ。
そんな一客人の胸中はさておき、マエケナスはご機嫌で宴を催した。彼の妻テレンティアは、兄ヴァッロに終始しなだれかかって、誇らしげだった。
「お兄様と結婚するわ。この夫とは離婚よ」
その夜十度くらいは宣言した。
ガイウス・アンティスティウス等、西方から帰国した軍人たちも列席していた。ティベリウスは彼ら一人一人に改めて、未熟な軍団副官を導いてくれた感謝を述べてまわった。詩人たちの席へは行かなかったが、彼らも話しかけてこなかった。ヴェルギリウスの姿はなかった。
「ガルスの件で、相変わらずふさぎ込んでいてね」
かの詩人の近況を、プロクレイウスがマルケルスに話していた。
「ナポリの家から出てこない。詩作も頓挫しているらしい。マエケナスやホラティウスがなんとか元気づけようとしているんだけどな、耳を傾けようともしないようだよ。詩人としてのヴェルギリウスはもう蘇らないのかもしれない。それほどにガルスの存在は大きかったんだ。彼の魂の半分だった」
マルケルスはティベリウスを見た。それからまたプロクレイウスへ向き直った。
「ヴェルギリウス殿は、壮大な詩に取り組んでいるところだったと聞きました。ローマの歴史の真髄を込めた、永遠の作品になるって」
「ああ。私は以前にその一端を聞かせてもらった。それだけで胸が震えたものだよ。あれが世に出ないまま消えてしまうことになってはローマ人の……否、人類全体の大損失だ」
プロクレイウスはため息をついた。残念そうなまなざしで、マルケルスを見つめた。
「マルケルス、君のための詩になるだろうにな。以前の作品で、彼は予言していた。偉大なる世紀の始まりに、一人の子どもが生まれるのだと。覚えているか?」
「はい」
「あれは君であるはずだ」
「違います」きっぱりとした否定は、むしろ意気込んでいるようにも聞こえた。「ヴェルギリウス殿がその詩を書かれたとき、ぼくはもう生まれていました」
「それでも」うなずきつつも、プロクレイウスは主張した。「君の名とともに始まるんだ。ローマの新しい時代が。あの詩で謳われていたような、平和で満ち足りた時代が。ローマだけじゃない。この地中海世界すべてを照らす光だ。その輝きは必ずや時代を越える、まさに永遠の美となるはず──」
「しかしまぁ、当の作者が絶望のどん底に落ち込もうとは」
割り込んだのは、飄然とした声だった。黒髪の波打つ人影も、まるで壁から剥がれるように現れた。
「失礼」一応のこと、影は二人に詫びる仕草をした。「私も親愛なるムレナが東方へ軍務に出たのでね、親友を失うとはどういうことか、少しだけ想像がついたのだよ。ヴェルギリウスの場合、永遠に亡くしたのだから、その悲痛は比べ物にならんが」
それからファンニウス・カエピオは、悲痛どころかむしろ可笑しがっているように、話を戻した。
「英雄だとか、黄金時代だとかは、結局人間の見る夢にすぎん。まぁ、好きなだけ見ればいいのだが、その伝え手がまず夢を見られなくなっているとは、まったく救いがない話ではないか。ええ確かに、王から俳優まで、世の中には自分は夢を見ないまま、他人に夢を見せる仕事もありましょう。しかしあの人の問題は、もう見たい世界がどこにもないことだ。自分の心が死し、他人になにも伝えたいことがない。無駄だとわかったからな。怒りも、悲しみも、憎しみも、『お前のそれはいらない』 はい、以上だ。マエケナスも手を焼いているが、第一人者もさぞ困り果てているだろうな。せっかく自身の栄光を、あの人の手で永遠にせんと目論んだのに、まさか自分とガルスの仲違いのせいで、こんな羽目に──」
もうかまわないと思った。カエピオのトーガの首元をつかみ、ティベリウスは宴席の外へ引きずっていった。マルケルスはあ然としているかもしれない。プロクレイウスはいくらなんでも年長者に無礼だろうと眉をひそめているかもしれない。けれどももう我慢がならない。
「そんな口を聞いて、よくもまあこの屋敷にいられるものだな」
カエピオを柱に押さえつけ、ティベリウスはうなるように言った。
「マエケナスは我々を自由にさせてくれるからな」背中が痛いはずだが、そんなそぶりも見せず、カエピオは首をすくめた。「批判も皮肉も風刺も口にできない世界とは、潔癖すぎる。そこには光も影もない。つまらん空虚だけだ。もしかしたら第一人者はそれでよしと思っているのかもしらんが」
「そのふざけた口を閉じろ」
「ティベリウス・ネロ、君こそ信じているのか?」否応なく背筋を伸ばしながら、カエピオは陰気な笑いを浮かべた。「マルケルスこそ新しい時代の象徴であると。カエサル・アウグストゥスがその道を、街道よろしくまっすぐに整えていくのだと」
わずかに余裕ができたのだろうか。息を長く吸うような間を置いて、カエピオは笑みをさらに歪めた。
「君には違う景色が見えていると思っていた。ところで、あの自称友人はどうした? このごろふつと見かけなくなったが」
ティベリウスの指が、またカエピオの首に食い込んだ。
「貴様がアレクサンドリアで彼を脅かした。またしても!」
「おや、知っていたか。でも脅かしたとはまたひどい誤解だ。彼がそう言ったのか? いや、それはまいったな。彼に弁解したいのだが、今どこにいるのかな? ひょっとして、世界の果てかな?」
ぐいと力任せに、ティベリウスはカエピオの首を引き寄せた。
「貴様はルキリウスだけじゃない! ヴェルギリウス殿まで追い込んだんだ!」
「なにを言う。ヴェルギリウスからガルスを奪ったのはローマ市民だ。そして、カエサル・アウグストゥスその人だ。愚かにもローマは自ら手放したのだ。その永遠を」
「カエピオ……」
ティベリウスは奥歯を噛みしめた。だが屈してはならない。どうしてその必要がある? こんな似非占い師のたわ言どおりに展開するものか。だれの行く道であれ、ローマの進む未来であれ──。
ティベリウス・ネロが必ず食い止める。夢でもなんでもない。世界にはまだ光がある。
「我々はお前の言葉になど惑わされない。ルキリウスもヴェルギリウス殿も、運命に屈しはしない」
この手の届くかぎりまで、たぐり寄せてみせる。
「たいした目だな、ティベリウス──」
カエピオは薄ら笑った。その薄暗い瞳は、どこか悲しげにさえ見えた。まるで力を無にするように、彼はティベリウスの手を軽く退けた。
「若い。そして傲慢だ。しかし運命とはな、ちっぽけな人間ごときが逆らうものではない。神話、伝説をよく学びたまえ。運命を乗り越えた英雄がいたか?」
その運命を決めるのはお前ではあるまい。そうティベリウスは言いたかった。どちらが傲慢か。神々でなければ、デルフォイの巫女気取りか、貴様は、と。
言葉にできなかったのは、カエピオが背後に手を振りながら、さっさと宴席のほうへ戻っていったからか。あるいは運命の予言者とは、数々の伝説において、必然のように耳を傾けられずにいる人であることを思い出したからか。
「運命の残酷に打ちのめされて滅ぶ日が、来なければいいのだがな」
彼はそう言い残した。