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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第四章 アラビアのルキリウス
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第四章 -11



 11



《日付は四月二十七日》


親愛なるティベリウス・ネロ

 この手紙をもう君に出す当てはないのはわかっているんだけど、ぼくの心のなぐさめとして、引き続き書かせてもらうよ。肌身離さず持ち歩くから、万が一、万が一だけど、ぼくがもう二度とローマに帰らないことになって、この土地で白い骨になったとしても、これらを抱いていくからさ、いつか君が見つけてくれるんじゃないかって、期待する。

 もちろん、ぼくはこんなところで死ぬつもりはない。目下死にそうだけど。生きながらにしてミイラになりそうだけど。

 行軍を再開してから、もうじき二ヶ月になる。二ヶ月もぶっ通しで歩いていたら、いくらヒスパニアの二倍は長い土地だろうと、もう果てまで達したと思うだろ? たぶんだよ? たぶんだけど、実のところアラビアはヒスパニアの十倍長かったか、そうでなければ同じところをぐるぐるまわっているだけだ。

 いや、ひどい。クレオパトリスからレウケ村まで海を渡ったときもひどかったけど、まったく同じことが一年ぶりに陸上でも起こっている。紅海は初めてだったとはいえ、ぼくはまだ海に関してはいくらか知識があった。でもこのアラビアという土地にはまったくない。それはアエリウス総督にしたって、ローマ軍団だって同じだ。どいつもこいつも一年間なにをやっていたんだか。ぼくを含めて。

 それで、例によってナバテア人が案内役を務める。赤く焼けた岩と砂しかない土地を、一万人がとぼとぼ歩く。彼らがあっちだと言えばあっちへ行くが、道がない。まもなく砂に埋もれて、これじゃあだめだと引き返す。彼らがそっちだと言えばそっちへ行くが、今度は岩山。行き止まり。また引き返して、今度こそこっちだと言われていけば、崖下の道。それでも道だと思って進んでいけば、突然水が流れ込んでくる。万の矢みたいに。ぼくらは大慌てで崖を上る。それでも一帯が洪水になる。

 生き延びたぼくらは、やれやれそれでも水が手に入ったぞ、と無理矢理希望を見出すんだけど、次の瞬間にはその水が無くなっているんだよ。さっきまでナイル川に張り合おうってくらいの勢いだったくせに、もう涸れてしまっているんだよ。

 後で知ったんだけど、このあたりはちょうど四月五月の今が、雨季なんだってさ。年にあともう一回だけあるんだってさ。まず『雨季』なる用語からして意味不明だよね。エジプト以南では当たり前なの?

 以来、ローマ軍は涸れ谷だけは歩かないことにした。横切るしかない時も、全力で駆け下りてよじ登るんだ。死ぬほど暑いのに。

 日陰に入れば、なんとかしのげると思うだろ? ローマではそうだった。ところが紅海の近くなんてさ、日陰さえ無意味なんだよ。なんか空気が、湿ってるっていうの? 日差しを避けても暑くて、息が苦しいくらいだ。風は時折吹いてくる。けど熱風だ。ローマの冬だったらありがたくて離れたくなくなる火鉢の熱、あるいは火葬中の火の粉。あれが常時まともに吹きつける。あの海、実は馬鹿でっかい炎なんじゃないの? 青く見えるだけで。

 もう沿岸は嫌だ。少しでも内陸を行こう。そうすると今度は、日陰もなにもない砂漠だよ。転んだら火傷するくらいに熱いよ。確かにもう湿り気はない。からっからでさ、ただ果てもなく続いている。ぼくはこんなに途方もない地平線を見たことがない。これをどこまで行けばいいんだって、途方に暮れる。歩いても歩いても、地平線は途切れやしない。こんな光景、ローマではお目にかかれない。世界の果てなんてないのかもしれないよ、ティベリウス。このまま砂と岩が、生きとし生けるものすべてが力尽きるまで永遠に続いているんじゃないかな。祖父さんや叔父貴はこのはるか向こうにあるインドに行って帰ってきたらしいけど、たぶんなにかの勘違いだったんだろう。

 もう井戸を掘るのも無駄な土地ばかりだからさ、ずっとラクダに水を運ばせている。水というか、ほぼ熱湯だけど。このほかに食糧も運ばなきゃいけないんだけど、この暑さでしょ、乾物しか腹に収めるものがないよ。世界はもうじき五月なのに。みずみずしい桃やサクランボの夢を見るよ。なんでもいいから、新鮮なものが食べたいよ。

 それでもまあ、食べる物があるだけましだ。いつまで持つかわからないけど。現地調達するにも、書いたとおりの土地でさ、かろうじてちょっとした飼料麦が見つかるくらい。つまりぼくらは、ラクダと同じ食べ物でしのいでいる。

 この土地には家畜が見当たらないんだ。野獣なら、牛だか鹿だかわからない奇妙なのがいたけど、ラクダと羊と山羊くらいだ。馬も豚もいない。卵の一つでもあれば、だれかの甲冑に割って乗せるだけで目玉焼きができるに違いないんだけどね。というか、こんな土地で甲冑を着て歩くなんて、正気の沙汰じゃないよ。ナバテア人とユダヤ人を見なよ。全員布を纏っているだけだよ。

 こんな調子で、ぼくらは二ヶ月もアラビア半島を彷徨った。くり返される行き止まりに嫌気が差してさ、紅海に面した岩山を、無理矢理三回くらい越えてみたかな。そのたびにみんな後悔したんだ。

 そうこうするうちに、ようやっと、少しだけまともな土地に入った。ここより南にはいくつか小国が並んでいるらしいんだけどさ、無数の部族社会みたいなもんで、だれも正確なところはよくわからないんだよね。ユダヤ人は、伝説のシバの女王の国がどうとか言っているけど、ぼくはあのカンダケの一件で、すっかり女王恐怖症だよ。その単語だけでもう震え上がるよ。

 ともかく、ここのアレタスとかいう人は、少なくとも女王じゃなかった。ナバテア王オボタスの親族なんだってさ。アエリウス総督のことを好意的に迎え入れてくれた。現地の酒を二人で酌み交わしてさ、ぼくらにも羊肉とか新鮮なナツメヤシを振舞ってくれたよ。「客人をもてなすことこそ古来より我らが誇り」だって。涙が出そうだったよ。それでアレタスは、ローマ軍への補給も寄越すと約束してくれたんだけど、次の日にはなぜか、態度が一変した。早く出ていってくれってさ。約束の補給は、一応ラクダの一団に乗せて出してくれたよ。でも三、四日後にははぐれちゃってね、たぶんローマ軍のほうがまた迷子になったんだろうさ。

 アレタス王の態度もわかるよ。そりゃそうだ。ぼくらは客人じゃない。反抗する者を武力で鎮圧せんとして遠征してきた、ローマ軍だ。今やすっかり疲労困憊、行き倒れ間近な迷子の群れだけど。

 シュライオスが、どうもアレタスにあることないこと吹き込んだみたいだ。補給隊とはぐれたのも、彼が誘導したからだと思う。

 ローマ軍はここの人々のすべてを征服しようと考えてきたわけじゃない。アエリウス総督も言っている。「協力者はローマの友とせよ」カエサル・アウグストゥスの言葉だってさ。同盟関係を結べたら十分であるわけだよ。アラビアのことをもっとよく知って。

 ここに至るまで、ローマ軍は敵らしい敵に出会わなかった。原住民の待ち伏せさえなかったよ。多分敵は、外側じゃなくて内側にいるんだろうね。ここの厳しいにもほどがある気候風土を利用してさ、巧みに右へ左へ連れまわして、敵はローマ軍を消耗させにかかっているよ。

 どうしたもんかな。総督はまだシュライオスを頼りにしている。ほかに頼れる人がいないからだ。たとえローマ軍が全壊しても、自分だけこの幸福のアラビアに一人取り残されるよりは、まだシュライオスにすがるかもしれない。それだけ心細いんだよ。世界の果てにいるってことは。





 五月、マルケルスの十八歳の誕生日祝いとして、ティベリウスはまた彼のための一日を取った。三年ぶりのことだ。昨年と一昨年も一緒には過ごしたが、ヒスパニアで戦争中だったり移動中だったりして、あまり落ち着けなかった。ドルーススを引っ越したばかりのユルスの家に泊りに行かせ、マルケルスをネロ家に招くことにした。

「もうっ」会うや否や、マルケルスはティベリウスに飛びついてきた。「またぼくをほったらかしにして! ティベリウスってば、どうしていっつも一人で先に行くの? ぼくを連れていってくれないの?」

 そんなつもりはなかったんだが、とティベリウスは苦笑した。結婚して、人生の次の段階に進んでいるのはマルケルスのほうだろう。ただ、ネロ家兄弟が、マルケルスを置いてアウグストゥスのところへ向かい、冬を越してきたのは事実だ。母オクタヴィアの下で、マルケルスとユリアが仲睦まじい新婚の日々を過ごすことを願ったためであるのだが、それでも彼は少しばかり寂しかったのだろう。戻ってからも、ティベリウスは家父長の仕事を覚えるのに忙しくしていた。

 この日だけは、マルケルスも無邪気な少年に戻って過ごした。彼の好物である食事を用意して、ティベリウスはもてなそうとしたのだが、マルケルスは喜びつつもそれもそこそこに、ティベリウスにくっついていたがった。たくさん話をして、それから涼しい部屋で並んで昼寝をした。午後にはアグリッパ浴場に行ってみるかと提案したが、マルケルスは首を振った。泳ぐなら、アグリッパのプールよりティベリス川がいいと言った。

「それはだめだ」

 ティベリウスは首を振った。

「今はもう船の往来が激しいから、泳ぐような川じゃない。だいたいあそこは下水とつながっているんだぞ。アグリッパが整備したとはいえ」

「アグリッパ、アグリッパって」

 マルケルスはぶうとふくれ面を作った。

「だってティベリウス、マエケナス殿のお屋敷はもう嫌なんでしょ?」

「ああ、悪いが、当分は」

「一人で先に帰っちゃったし~」

「それは悪かったって」

「バジリカ・ネプチューンもパンテオンも、どこへ行ってもアグリッパの建物ばっかり」

「アグリッパの建物じゃなくて、彼が市民に寄付した建物だ」

「言いたいことはわかるでしょ?」

「そんなにアグリッパが気になるのか?」

 嫌いなのか、という言葉を、ティベリウスは使わないようにした。マルケルスはますますむくれ顔になった。

「アグリッパは色々なことをやりすぎだ。このままじゃ、ぼくたちのやることがなくなっちゃうよ。ぼくだって市民の役に立ちたいし、叔父上をお助けしたいのに」

「焦らなくていい、マルケルス」ティベリウスは微笑んだ。「だがそういう気持ちならわかる。でも心配するな。きっともうすぐ、君に託される仕事が増えるはずだ。カエサルが帰ってきたら、もうアグリッパのことを気にしている暇もなくなるぞ」

「でもティベリウスは、もう弁護の仕事を何度もこなしたよ」

「たまたま私のクリエンテスが災難続きだっただけだ。アジアの地震とか。君だって、そのうちシチリアあたりから仕事が殺到するかもしれないぞ」

 シチリアは、マルケルスの祖先である「ローマの剣」が活躍した土地であるので、一族のクリエンテスが多いはずだ。

「ティベリウスはいつもぼくの先を行く」

 ティベリウスを抱きしめて、マルケルスはまたくり返すのだった。

「体もどんどん大きくなる。ぼくも早く、ティベリウスみたいになりたい」

 結局二人は、ティベリス川を渡ってカエサル庭園に散歩に出かけた。薔薇の花が見ごろを迎えようとしていた。人工池もあって、小舟を漕いで散策するには最適だった。

 夕方には、ネロ家の浴室でくつろいだ。食堂では、春ならではの食材を並べて、マルケルスに振舞った。それから二人は、ティベリウスの寝室に引き取った。今夜はここにマルケルスを泊めることになっていた。

 ティベリウスは心地よく寝台で伸びをした。ところがマルケルスは寝台の端に乗り、なんだか思い詰めたような顔をしていた。

「……どうした?」

 ティベリウスは目をしばたたいた。

 マルケルスは伏し目がちになった。光源は蝋燭のみだが、心持ち頬を赤らめているようにも見えた。

「……ユリアと上手くいかない」

 彼は小さくうめくように言った。

「……」

 喧嘩でもしたのか、と言いかけた瀬戸際、ティベリウスは言葉を呑み込んだ。

「……どうしたらいいかわからなくて……」

 続けながら、マルケルスはうなだれていくのだった。ティベリウスは無表情を固めたまま、内心困惑の極みにいた。

「……どうしたらいいかな?」

 マルケルスはおずおずと目線だけ上げてきた。ティベリウスは瞬きも忘れて静止していた。

 マルケルスがどう考えているにせよ、ティベリウスがなにもかも彼より先に進んでいるわけではない。だいたい母が差し向けた麗しき娘たちをことごとく追い返すばかりだったティベリウスに、男女の夜のなにがわかるというのだろう。

 ティベリウスは長いあいだ沈黙していた。できればどこかへ逃げ出したい気持ちだったが、マルケルスは本気で悩んでいる様子だ。どうしたらいいのか。

「……君は……ユリアをどう思っているんだ?」

 とりあえず、まずそこから訊いた。

「……可愛いと思う。大事だと思う。……でも、本当はなにを話したらいいかわからない」

 妹を四人も持つ兄がこう言うとは、相当手ごわいのだろう。同じ女子であれ、ユリアはまったく違う型に見えるのだろう。

「ぼくが隣にいると、ユリアもなんだか、困ったような顔をするんだ。最初は夜、二人だけになるのにもおびえて、ずっと泣いていたんだ。今、ようやく手をつなげるようになったところで、それより近づくとまた涙目になって、怖がって……それでもぼくは、ただ隣で寝ているだけじゃだめだと思って──」

 もしかしたらそれは、傍目には初々しく微笑ましい若夫婦の暮らしだったのかもしれない。だがその先を聞きたいか、ティベリウスにはわからなかった。

「焦る必要はないんだ」

 だから、大いに焦って言った。

「まだ結婚したばかりだ。十八歳と十四歳だ。時間はこれからたっぷりある。手をつなげたなら上出来じゃないか。これからもっとユリアのことを知っていけばいい。彼女がなにが好きで、どんなものに興味があるか。……まず、可愛いとほめてあげれば、喜ぶと思うぞ」

「でも叔父上が、早く孫の顔が見たいって──」

「言っているだけだ!」

 ティベリウスは大慌てで遮った。

「二年後、三年後……五年後だってかまわないだろうよ。お互いに無理をするな。怖くて当たり前だ。それに出産とは女性にものすごく負担をかけるものだと聞いている。男には想像もつかない苦痛を与えるし、出産の過程で死んでしまう人もいる。だから、まだ幼いユリアに負担をかけることはない……」

 言いながら自分も赤面していくのを感じるティベリウスだった。いったい私はなにを話しているんだ? 結婚もしていないのに。

 マルケルスはまだ悩ましげな顔のままだった。

「……でも、ぼくは?」彼は首をかしげた。「ぼくのほうは……どうしたらいいの……?」

「……辛いのか?」

 ティベリウスはいよいよ自分が追い詰められるような心地がしていた。こういう話はピソかマルクスか、できれば既婚者のレントゥルスにでも相談してほしかった。今この瞬間にでも、彼らに自分と入れ替わってくれと願った。

「……ううん、大丈夫だよ」

 ほっとしたことに、マルケルスはそう言った。

「今日はティベリウスと一緒だから、大丈夫だよ」

 彼は両腕をティベリウスへ伸ばしてきた。

「マルケルス! こういう時はな!」

 彼を抱きかかえつつも、ティベリウスは強引に寝台から飛び起きた。

「酒を飲んで、気分を晴らすんだ! おい、プロレウス! 上等な葡萄酒を持ってこい! 蜂蜜入りの!」






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