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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第四章 アラビアのルキリウス
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第四章 -10



 10



 四月初旬、花々が咲き始めた野原を傍らに、ティベリウスとドルーススはローマへ戻った。一方アウグストゥスは、まだ北方にいた。ヴァッロが建設している最中のアオスタに入り、澄んだ空気とおいしい雪解け水で心身を清めている。気にしているのはやはりゲルマニアの情勢で、ヴィニキウスによる復讐行の行方が見通せないうちは、首都に戻らないつもりだろう。

 ティベリウスも立ち寄ったが、アオスタは美しいところだった。この時期はまだ肌寒さを感じるが、夏には快適に過ごせそうだ。首都の真夏は継父にとってこたえるだろうから、あちらにいるほうが体に良いだろう。

 弁護の仕事があり、少々慌ただしくはあったが、昨年と違って穏やかな冬を過ごせた。継父も、体調は相変わらず不安定ではあったが、楽しそうだった。ガリアとヒスパニアの統治再編はほぼ完了した。残るはゲルマニア問題と、あとは早くマルケルスとユリアに子が授かったという知らせがほしいものだ、と言って、にこにこしていた。

 ユリアは十月三十日が誕生日であるので、まだ十五歳にもならない。アウグストゥスもさすがに気が早いかと自分で言っていた。とはいえ三十八歳にして、孫の顔を見たがっているのは本心なのだろう。ここにはいない若夫婦が仲睦まじく過ごしていることに期待しながら、自分は統治の仕事に忙しくしていた。ティベリウスの二度の弁護も、今度はほぼ手放しにほめてくれた。もう少し情感がこもれば言うことがないが、まあ、お前の場合はよいか、と。

「カエサル!」

 一方、継子その二のドルーススは、アウグストゥスに話があった。

「マルケッラ二人もセレネも結婚、大きいアントニアも婚約だな! ……ですね」

 ティベリウスにぎろりとにらまれたので、ドルーススは言い直した。アウグストゥスは明るいとぼけ顔を作った。

「おおっ、そうだな!」

「家の女の子は、残りあと一人だな! ……ですね」

「おやっ、そうだったか?」アウグストゥスはびっくりとばかりにのけぞった。「まだ女子がいたか? おてんば小僧なら確かにいたな!」

「あれはそこらの男の手に負えないぞ」両腕を振り振り、ドルーススは言い張った。「あいつと結婚できるほど勇敢な男なんて、きっといないぞ」

「そうか。それは困ったな」おかしそうに、アウグストゥスは首をひねった。「そうなると、すごく慎重に考えないとな」

「考える必要はないぞ!」

「そうか? 私にはどうしたらいいか、さっぱりわからんぞ」

「ぼくにはわかるぞ!」

「そうか、ドルースス? 私はいったいどうするべきか、教えてくれ」

 そこでドルーススは、両腕だけぶんぶんとあてもなく振り続けたまま、黙り込んでしまうのだった。次第に顔が赤くなっていった。

 アウグストゥスとティベリウスは、内心で微笑みながら、待ち構えた。

「…………アントニアをほかの男にあげないでください」

 ようやく、つぶやくような声で、ドルーススが言った。

「わかった」アウグストゥスはいかにも大きくうなずいた。「ドルースス、約束しよう。お前の許可なく、アントニアをほかの男に嫁には出さない」

「……カエサル、少し意地悪です。ドルーススももうすぐ十四歳になるのですから」

 なにかが違うとばかりの怪訝顔でドルーススが去ると、ティベリウスは継父に言った。「ですが、ありがとうございます」

 アウグストゥスはたまらず吹き出していた。「あの子はいつまでも私にとっては可愛いちびすけなんだ。だが、そうだな、ティベリウス、ローマに帰ったらあの子の成人式を挙げてやりなさい。競技会も開くといい」

「ティベリウス、君ってば本当にさ、もう早くもカエサルに頼られているよねぇ」

 ローマには、レントゥルスもユルスと一緒に帰ってきていた。祖父リヴィウス・ドルーススを記念する競技会の準備に忙しくするティベリウスを、自宅に招いた。ちょっと一息ついて、ヒスパニアの話を分かち合いたいなぁ、と。

「首都に帰っても次々仕事が来るんだって、ピソやファビウスが話していたよ」

「そんなことはない。あの二人のほうが弁論やら詩作の発表やら勤しんでいるぞ」

「君はまだ十七歳。ようやく市民権を行使できる年齢だよ。ついでに思い出してもらうと、君は自分が成人する時も、競技会の準備に奔走していた」

 それは確かに、今回はドルーススの成人式に合わせた競技会なので、彼に準備を任せてもいいのだが、ネロ家の家父長はティベリウスであるし、今回は継父がそばにいない分、なお主体となって動かなければと思うのだった。その気持ちを知ってか知らずか、ドルーススは「象の競争をやろう! 四頭立て象の戦車競走!」などと無茶苦茶を妄想し、兄に却下されていたが。

「それで、ヒスパニアはどんな様子だった?」

 杯に口をつけながら、ティベリウスは尋ねた。レントゥルスは未だ極度に薄めた葡萄酒しか飲ませてくれなかった。ほとんど水だ。

 彼は苦笑を返すのだった。「うーん、もうちょっとってところかな」

 レントゥルスによれば、ヒスパニア北部はまだ平穏とは言い難い状況であるらしい。指導者であるコロコッタもまだ捕まっていないそうだ。

 一昨年の大規模包囲網が無駄だったわけではない。ただ、やはりそれをくぐり抜けて生き延びたカンタブリ族とアストゥレス族が、山地に身を潜めながらしぶとく反抗を続けているという。とくに後者は、一年前にランケアを火の海にしたティトゥス・カリシウスに対して恨みを募らせていた。残党らは必ず復讐してやると息巻く一方、カンタブリ族ほど直情的に振舞わない。あえて恭順を誓うふりをしながら、だまし討ちを試みてくるという。レントゥルスとユルスが任を解かれた直後も、ローマの一個大隊を巧みにおびき寄せ、待ち伏せを食らわせたという。それを機に、両部族は再起を図ろうとしている。

「そんな状況で帰ってくるのが、なんだか申し訳なかったよ。任期満了だからしょうがないんだけどさ」

 と、レントゥルスは眉尻を下げた。ティベリウスも吐息をこぼした。

 本年はルキウス・アエミリウスがヒスパニアで指揮を執るという。カリシウスでは両部族の憎しみをますますたぎらせるばかりになるからだろう。

 一昨年の包囲網が無駄だったわけではないとレントゥルスは言うが、もしも両部族が結託して再蜂起したらどうなる? おそらくは大事にはなるまい。今や彼らはヒスパニア北部の、ごくわずかの地域に追いやられた。戦闘員も激減した。ローマどころか、ヒスパニアのほか地域も脅かすまでにはなれないだろう。

 しかし小規模ながら反抗が続くなら、それはヒスパニアの平和ではない。カンタブリ族とアストゥレス族を完全制圧するためには、もう一度大規模な作戦が必要であるかもしれない。

 けれども今は、ゲルマニア、そしてアラビアでも戦が予定されている。ヒスパニアへもう一度大軍を投入する余裕はないだろう。

 いや、それよりもそんなことをしたら、一昨年の戦争が失敗であったと、ローマ市民に知らしめることにならないか。

 自身も参加したカンタブリア戦争を、ティベリウスは失敗だったとは思いたくない。そして実際に失敗ではなかったはずだ。

 ただ一年では、反抗勢力すべてを屈服させるに至らなかったということだ。彼らはローマが想定した以上にしぶといし、あきらめない。

 ならば、カンタブリ族とアストゥレス族を根絶やしにするのか? カリシウスが悪化させた事態からわかるように、そのような横暴はできない。そして現実的ではない。

 後日、ティベリウスはメッサラ・コルヴィヌスを訪ね、その話をした。ドルーススの成人祝いで上演される演劇で、メッサラの後援する人に演出を務めてもらう、その打ち合わせの合間に持ち出した。

「ヒスパニアに完全をもたらすなら、ローマはどうすべきでしょうか?」

「しばらくは現状維持がよかろうね。少なくとも五年。それからもう一度、断固たる行動を取る」

 考えながら、メッサラはそう応じた。そしてティベリウスを意味深げな目で見た。

「どういう意味か、君にはわかるはずだ。アグリッパではなく私を相手に選んだのだから」

 そのとおりだ。いかに軍事の専門家であれ、アグリッパはアウグストゥスに不利になる現実の一面を話したがらないだろう。

 つまり、五年のあいだを置くのは、一昨年の勝利を打ち消さないためだ。アウグストゥスが辞退したとはいえ、凱旋式級の成果であったものを、万一にも失敗であったと見なされてはならない。不完全であったことはいずれ認めるにせよ、五年後にヒスパニアの完全制覇に乗り出す。そのころには市民にもまた別個の戦争として認識されるだろう。

 メッサラに丁重に礼を述べ、ため息を呑み込みながら、ティベリウスは家路についた。不完全の隠ぺいに対してではない。それほどに異民族の征服とは難事であることを、身をもって知ったからだ。ヒスパニアのほんの一部であれ、たかが一年の大規模作戦で、綺麗さっぱり終わらせることなどできない。戦争をすれば必ず禍根が残る。恨みも憎しみもくすぶり続ける。八年でガリアを平定した神君カエサルとは、やはりとてつもなく偉大な人物だった。以来ガリアでは、一度アグリッパが赴いた以外、反乱も起こっていない。

 このような征服行を、もしも今後アラビアやゲルマニアで行おうとしたら、いったいどのようなことになるのだろう。

 しかしティベリウスでもこのように考え至るのだから、アグリッパはすでにもっと曇りなく見通しているに違いない。起こり得る未来も、選ぶべき道筋も。

 その後、アグリッパがユルスの無事帰国を祝うためとして、自身が建設中の浴場を、家族に一日貸し切りとしてくれた。建設中とはいっても、七割方の設備はすでに使える状態になり、市民に開放されているのだった。あとはヴィルゴ水道が開通し次第、その豊かな水を流し入れて、完成となる。

 以前にもアグリッパは、このような家族との時間を用意してくれた。数年前、大はりきりのヴィプサーニアがティベリウスへ突進してきた日しかり。アウグストゥスとマルケルスがいないあいだは、ユリアを元気づけるためとして、ユルスともどもここへ連れ出して、あれこれ案内したり、遊んだりしたそうだ。浴場ばかりではない。プールに運動場、図書室まで備えた大きな憩いの場だ。

「あいつらは本当に結婚したんだよな?」

 温水プールに浸かりながら、ユルスは疑うような目を向けるのだった。視線の先には、ボール遊びをしている集団がいるのだが、マルケルスと、嫁に行ったはずの妹マルケッラ、そしてアントニア姉妹の組、これとは別にアグリッパがふてくされ気味のドルースス、ヘリオスとプトレマイオス、それにユリアを加えている組に分かれている。二組はそれぞれ輪を作って、ボールを追かけている。

 ユルスの目には、マルケルスが妹たちを相変わらずかまい、ユリアを気遣っているのはアグリッパであると映っているようだ。

 ティベリウスは傍らで両足を水に浸していた。

「仲良くやっているようだぞ。問題は聞かない」

「お前になにがわかるんだ」

 ユルスはティベリウスに言い、それから自分へとばかりに首を振った。

 二人のそばで、姉のマルケッラが赤子を沐浴させていた。女児で、昨年アグリッパとのあいだに授かった。赤子とはさほど水を恐れないらしい。気持ちよさそうに母親に手を引かれている。ヴィプサーニアが、小さな妹が可愛くてたまらないとばかりに寄り添っている。

「セレネが君を恋しがっていた」

「ああ。会えなかったが、手紙をもらったよ。ヒスパニアで」遠い目をして、ユルスはうなずいた。「そして昨日、ユバからも手紙が来た。あののんき者のことだから疑わしいが、マウリタニアは今のところ平穏で、上手くやっているってさ。それで、向こうでもう一度結婚式を挙げたいから、ぼくとヘリオスとプトレマイオスに──なんならいっそみんなに、参列してほしいんだとさ。やれやれ、西の果てにとんぼ返りしろっていうのか? なぁ、この話、カエサルのお許しが出ると思うか?」

「まずアグリッパに話してみるといいだろう」ティベリウスは考えを述べた。「君たち三人は行くべきだ。セレネのために。もちろん君が、もう少し体を休めた後でいいと思うが」

「お母様のお顔を見られて、うれしかったけどさ」ユルスはオクタヴィアのことを言っていた。「あの家にもうぼくの居場所はないよ。ヘリオスとプトレマイオスを連れて、カエリウス丘に移ろうかと思う」

 そこには、彼が亡父アントニウスから相続した家が残っているのだ。若い三人だけで、オクタヴィアは心配するに違いないが、確かに今やマルケルスとユリア夫妻が暮らす家になったので、居づらい気持ちになるのもわかる。

 小さい義理の姪がぷかぷかと近寄ってきたので、ユルスは受け止めに出た。続いてヴィプサーニアも漂ってきたので、ティベリウスも水に入った。足が届かない深さだったが、ヴィプサーニアはにこにこと、怖がる様子もなくティベリウスの腕をつかんだ。絶対に溺れはせず、必ず抱きとめられると信じきっている様子だ。今回は一応、袖なしの水着を纏っていた。

「お前は幸せ者だな、ティベリウス」

 姪を抱き上げながら、ユルスがつぶやくように言った。






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