第四章 -9
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「あなたは最低!」
コルネリアがルキリウスの頬を思いきり張った。ごもっともだとわかっていたので、ルキリウスは甘んじて受けた。かつて拳でティベリウスを殴りつけた自分と比べれば、まだ優しい。
けれどもコルネリアはこれくらいでは収まらなかった。両拳を握りしめ、ぼこぼことルキリウスの胴体を殴りまくった。彼女の目尻から次々こぼれる涙の粒を、ルキリウスはぼんやりと眺めていた。美しいな、相変わらず──見とれていたのは、胸の痛みを忘れていたかったためだろうか。
やがてコルネリアは崩れ落ちていった。ルキリウスはそっと彼女を抱え起こした。
「いやよ! いや、いや、いや──」ルキリウスの肩に顔をうずめ、コルネリアは泣きじゃくった。「あたしも一緒に行く……」
「コルネリア、わかっているはずだ」ルキリウスはできるだけ淡々と言った。「君はもう一緒に行けない」
「この卑怯者!」ルキリウスの顔へまともに、コルネリアは怒鳴りつけた。「悪党! 大馬鹿者! 最低男──」また何度も拳で殴りつけた。
ルキリウスはただされるがままにたたずんでいた。
年が明けて、三月になっていた。ローマではカエサル・アウグストゥスが、ガイウス・フラックスを同僚に、十度目の執政官職に就いたそうだ。かの人はまだ本国に帰っていないらしい。昨年十二月に書かれたティベリウスからの手紙によれば、一緒にアルプスの麓にいるという。
たぶんこれが、ティベリウスから受け取る最後の手紙になるのだろう。もちろん、アラビア半島では、だが。
そうでなければ困る。
昨年半島に上陸するや否や頓挫したアラビア遠征は、明後日から行軍を再開する。海難やら病気やらから、ローマ二個軍団はなんとか持ち直した。士気もまずまずだ。
一夏一冬をレウケ村から出られずに過ごしたローマ軍だったが、ほかにすることがなかったので、ここに桟橋を整備した。見えないが、ほぼ対岸にあるというミュオス・ホルモスからの補給を、少しでも安全に受け取るためである。
その桟橋に今、進軍再開前の、最後の輸送船が到着していた。届けられたのは食糧だけではなかった。ルキリウスが半年にわたって色々工作した甲斐あって、マカロンとペルペレス、それにラオディケが船梯子を下りてきた。
ラオディケまで来てくれるとは思わなかった。三人の子どもたちはどうしたのかと訊けば、ちょうどコプトスに友人一家がいて、彼らとともに砂漠の隊商路をミュオス・ホルモスまでのんびり旅してきたという。つまりレオニダスたちは、今対岸で両親の帰りを待っている。
彼女が来てくれて助かった。正直に言えば、いくらマカロンとペルペレスとはいえ、男ばかりの船にコルネリアを一人乗せたくはなかった。夫婦はそうしたルキリウスの気持ちも汲んでくれたのだ。彼らの旅費として有り金を丸ごと仕送りしたが、つくづく世話になりすぎて感謝しきれないとルキリウスは思った。
祖父と叔父は間に合わなかったが、これでひとまずコルネリアをエジプト本土に帰せる。
この地に来るまでは、ルキリウスもどこか楽観していたのだ。コルネリアに強く主張されたためでもあったが、彼女をそばに置いておいたほうが安心だし、正直に言えば、心強いとさえ感じていたのだ。
結果、連れてきて良かったのは確かだ。コルネリアのおかげで、多くの兵が病気から立ち直ることができた。なにも考えていなかったルキリウスに対し、彼女はいざという場合に備え、種々の薬草を粉末化したものを持ち込んでいたのだ。その配合の一つが、この土地特有の流行り病に効いた。
これほど貢献したというのに、いざ遠征が再開する段になって一人送り返されるとは、ひどく薄情な仕打ちだろう。けれどもルキリウスは、この一夏一冬でさすがに限界を感じていた。少なからぬ兵が、コルネリアが女子であることに気づいていた。そうなると、いくら看病してくれた恩人とはいえ、欲望に駆られずにはいられない。彼らとて、一夏一冬も女という生き物をコルネリアのほかに見ることなく過ごすしかなかったのだ。それでも大切な看護人である。先代総督の娘であると気づいた者さえいる。先代はだれにとっても良い上官とまでは言えなかっただろうが、裁判で極刑を言い渡されて当然と見なすほどの恨みを抱いている兵はいなかった。彼らも最初はできるだけコルネリアに敬意を持って接するよう努めたのだ。
しかしそれも限界らしいと思う出来事が、何度か起こった。ルキリウスのところへ給金を丸々持参し、なんとか一晩だけ君の女人を貸してくれないか、明日死ぬかもしれないのだから、と頼み込まれた時、ルキリウスはもう一刻の猶予もないと思い知った。ずるいではないか、君だけ、と詰め寄ってきた者もいて、コルネリアの見ていないところで、片っ端から決闘で黙らせた。立派な軍規違反だが、どっちもどっちで、状況も状況であるので、だれにもなにも言われなかった。使ったのは木剣ではあったが。
だが、同じ男という立場からすれば、彼らの言い分も理解せざるを得ない。「ぼくの立場がないんだけど……」と、ルキリウスは恥を忍んでコルネリアに打ち明けたのだが、彼女は聞き入れなかった。
「お前が背負わなくていい。そうなったら私がその人たちを八つ裂きにする」
そう言い張りながら、一方ではまだ男で通せると考えていたようだ。欲望の対象ならば、実のところ女であれ男であれ関係ないのだともルキリウスは話したのだが、やはり彼女は聞かなかった。
これで遠征が再開したらどうなる、とルキリウスは考えた。信頼が危ういナバテア人に先導され、未知の土地に踏み込もうとしているのだ。確実に待ち受けるものの第一は、灼熱の砂漠だろう。そして原住民との争いも必定だ。長さだけでもヒスパニアの二倍を超える大地を往復し、コルネリアは無事でいられるのか。ローマ二個軍団全軍の無事も危ういのに。
そして長引くほどに女子であることが広まるだろう。過酷な気候と戦闘の中、いよいよ男たちは理性を失う。
連れていけるものか。ルキリウスはそう判断するしかなかった。そばに置いて、守れるものか。自分にそんな力はない、と。
早い段階でその現実をわかっていたのだが、コルネリアが納得してくれなかった。ルキリウスと一緒にいたがった。軍団兵らにも看護人としてだけでも必要とされていると、彼女は信じていた。そして遠征が始まれば、戦力にもなれるとさえ自負していたのだ。
そこでルキリウスは、最終手段を取った。
その結果が、今日の別れだ。
彼女の激しい罵倒、そのすべてがもっともだ。
総督アエリウスとの積もる話を終えた後、マカロンが遠慮がちに戻ってきた。それを機に、ルキリウスは我が身からコルネリアを無理矢理に引き剥がした。額に接吻をして、マカロンとペルペレスへ押しやった。二人に押さえられる間もなく、コルネリアはすぐに取って返し、ルキリウスと唇を重ねた。
ルキリウスはもう一度、そっと押しやった。
「帰るって言ってよ、ルキリウス!」
マカロンとペルペレスに捕まえられながら、コルネリアがもがいていた。
「必ず無事で帰るから、待っていろって! どうしてそれすら言ってくれないの?」
ルキリウスはぽかんと口を開けた。うっかりしていたと思ったが、それからもごもごと動いただけで、口からはなんの言葉も出てこなかった。
「ルキリウスは元気で帰ってくるわよ」
代わりにラオディケが請け合った。我が胸ではなく腹をぽんと叩いて見せたのだが、そこにはふくらみが目立ち始めていた。彼女の四人目の子──レオニダスの弟か妹が、そこで育っているところなのだ。
つくづくそのような体で、よくここまで来てくれたものだ。
そのような体だからこそ、か。
「アレクサンドリアに帰ったら、トラシュルスに訊いてくれ」ルキリウスが選んだのは、そんな言い方だった。「必ず星読みしてくれる。ぼくの運命を。アラビアで死ぬなんて言わないと思うよ」
責任の回避であり、押しつけだ。
「トラシュルスもミュオス・ホルモスにいるぞ」
と、ペルペレスが教えた。もはや家族ぐるみの付き合いをしているらしい。ルキリウスの運命は早くも明るみになりそうだ。
「俺たちはお前さんを待ってる。せっかくだからテーベとか、あちこちを見てまわりながらさ。なつかしいなぁ、ラオディケ。俺たちの駆け落ち以来の上エジプトだ」
「必ず無事で帰るんだよ、ルキリウス」マカロンが厳粛に言った。「コルネリアだけじゃない。君になにかあったら悲しむ者がいる。ここにも、ローマにも」
「死ぬんじゃありやせんぜ、お若いの」
メリクもいた。総督へのお使いを済ませた後らしい。すれ違い際、ルキリウスへ左手を差し出し、わさわさと揉むような仕草をした。意味はわかっていたので、ルキリウスはそこへティベリウス宛ての短い手紙、それから祖父や母に宛てた手紙を乗せた。ところでペルペレス一家に謝礼を払ったため、もはやメリクへの駄賃さえ持ち合わせていないことに気づいた。
「……これでもいいかな?」
差し出した最後の銀貨は、前にティベリウスが弾いて寄越したものだ。
『ルキリウス、ぼくはこれから帰る』
「なんですか、これは」メリクは呆れ返った。「ルキリウス? あんたのお守りでしょ? こんなん手放しちゃ──」
けれどもそこで、彼は首を振った。
「……いや、いい。わかりやしたよ。こいつを預かります。お若いの、嘘をついたらだめですぜ」
彼らは四人がかりでコルネリアを船へ連れていった。
「コルネリア──」ルキリウスは桟橋の果てに立った。「元気でね」
最後まで、そのくらいの言葉しかかけられなかった。だがそれこそルキリウスのただ一つの、真実の願いだ。
コルネリアはなおいっそう泣きじゃくっていた。船縁から身を乗り出し、今にも海へ転げ落ちそうだ。ペルペレスやラオディケによって懸命に支えられていた。
「ルキリウス!」声はもう枯れていた。「絶対に帰ってきてよ! あたしはどこへも行かないから! ずっと待ってるから!」
こんな形でコルネリアを見送るのは二度目だ。一度目のときと違い、彼女は最後までルキリウスに泣きすがった。それはそうだ。もう一年半も毎日一緒に過ごした。恋人であり、相棒であり、家族同然だ。彼女にはもうほかに身寄りもいない。世界で頼れる者はルキリウスしかいない。
卑劣な裏切りに遭ってなお、彼女はルキリウスを見限らなかった。剣闘士になってまでアレクサンドリアに戻った強い意志の持ち主だ。本当にずっと待っているつもりだろう。
けれどもどうしてそんなに泣くんだ? 卑劣な裏切りへの怒りでなければ、なぜ、もう見るに堪えないくらい、悲痛にもだえているんだ。まるで永遠の別れみたいじゃないか。
ぼくがもう二度と帰らない。彼女はそう感じているんだ……。
するとルキリウスは、不意に衝撃に打たれたように固まった。それまで直視できなかったコルネリアの嘆きを、目を見開いて眺めた。
船縁から身を乗り出したまま、コルネリアはどんどん小さくなっていった。
この光景を、かつて見たことがあった。だがそんなはずはない。あれはコルネリアではない。見ていたのも、ルキリウス自身ではない。
あれは、ぼくだ。
そしてあれを見ていたのが、父さんだ。
八年前、アジアのエフェソスで、ルキリウスは父と永遠に別れた。最後の説得を試みるため、祖父が家族を船に乗せ、東へ発った。港に接岸するやただちに、アントニウスを見限り、ローマに帰るように父へ求めた。父は穏やかに、だが断固としてそれを拒否した。九歳の一人息子の泣きじゃくりながらの要求も受け入れなかった。
──ならぼくも父さんと一緒にいる! ずっと一緒にいる!
息子はそう言い張ったはずだ。
この時点で、戦争はまだ始まっていなかった。アントニウスとクレオパトラがカエサル・アウグストゥスに敗北すると、まだ決まったわけではなかった。本国にいた祖父には、アントニウス側が極めて旗色悪いと見えたからこそ、父の説得に出向いたのだが、世界の大半の人にとっては、まだ運命の行く末など見えていなかったはずだ。
けれども九歳のルキリウスでさえ感じ取っていた。父はこのままアントニウスと運命を共にするつもりであると。どちらにせよ、もう家族とは袂を分かつ気でいると。
──元気でな、ルキリウス。
なぜなら、父はそうささやいた。
──母さんを頼んだよ。私がどこにいても、お前たちの幸せを願っていることを忘れないでくれ。
父は息子と家族の未来に、もう自分の姿を見ていなかった。
どうして──。
ルキリウスは未だに思う。まさか父にもカエピオのような性質の悪い占い師が付きまとっていたわけではあるまい。ただ父は、すでにマルクス・ブルートゥスの敗北を体験していた。感じ取っていたのだろうか、なにかを。
もう二度とローマに帰ることがない運命の流れを。
──どうして!
幼いルキリウスは泣きわめいた。結局あきらめるしかなかった家族に抱えられ、また船へと戻された。
そして……あんなふうに船縁から身を乗り出して、泣き続けていた。覚えている。こうして眺めていたのではないが、覚えている。
──ぼくは父さんのようにはならない!
最後に投げつけてやったのは、そんな言葉だった。
それ以来父は、息子の前から永遠に姿を消した。息子もまたあの瞬間から、強情を張り続けていた。
今日この日まで、ルキリウスは父の亡霊──魂の気配さえ感じることができなかった。強いて言えば、初めてコルネリアに触れて踊った、あの夜だけか。あの牢獄に籠って一年も張り込んだ成果がそれだけだ。
けれどもこの瞬間、ルキリウスは亡霊を飛び越した。まるで父そのものになって、初めて家族と別れたその胸の内に触れた。
なんてことだ。父はこのうえもなく家族を愛していた。アントニウスと比べてどうだとか、家族より友を選んだとか、そういう単純な話ではなかった。当たり前だ。できることならずっとずっと、いつまでも一緒にいたかった。けれども父にはこうするしかなかった。父は父なりに、家族にとっての最善を信じたのだ。
あの九歳の馬鹿息子は、父親が自分と同じか、それ以上に辛い思いに耐えていたなどとは考えてもみなかった。馬鹿親父が、家族を捨ててまた友を選んだ。それだけだと思って、恨んだのだ。コルネリアを見ろ。あんな仕打ちを受けながら、まだ裏切り者の幸いを願っている。
友と家族。そばにいて、どちらも幸福にできたなら、どんなにか良かっただろう。
しかしあの時までに父は、もはや選択の余地すらなくしていたのだ。
こんなことになって、父の魂が留まるはずもない果ての土地に立って、ルキリウスはようやく父の気持ちを理解した。
そして最初の時──ブルートゥスと運命を共にする覚悟を決めた時すでに──父が母に、ルキリウスを残した思いもようやくわかったのだった。
船が水平線の果てに霞んだ時、ルキリウスは自分に呆れかえっていた。
まったく、もう、なにが、なにが、「父さんのようにはならない」だよ。
自分に向けた深いため息は、たちまち紅海の波間に呑まれた。
今、ぼくには家族も友もいない。一人きりだ。
けれどももう引き返せない。
ああ、そうだ、まだだ。まだぼくは意地を張るんだ。これからどうなるかはぼくが決めることだから。運命がどうあれ──。
海に背を向け、ルキリウスはずんずんと大股で歩き出した。
《日付は三月一日》
親愛なるティベリウス・ネロ
行ってくるよ。