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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第四章 アラビアのルキリウス
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第四章 -6



 6



《日付は五月二十五日》


親愛なるティベリウス・ネロ

 この手紙は君に届くんだろうか? 届いたとしても三ヶ月後とか半年後かもしれない。いや、もしかしたら一ヶ月ちょっとかもしれない。

 というのもさ、ぼくは今アラビアにいる。なにかの間違いでないなら、かの幸福のアラビアの土地に、本当にいる。すでになにからなにまで間違いな気がしてならないけど、とにかく紅海の向こう側に上陸したことは確かだ。

 ぼくらは今、レウケ村とかいう場所にいる。クレオパトリスを出航してから半月かかって着いた。ついさっきわかったんだけど、ほとんどミュオス・ホルモスの真向かいにあるみたいなんだ。こんなことなら最初からミュオス・ホルモスで輸送船を造るべきだった。インドへ行った祖父さんたちだってそうしていたんだ。まあ、クレオパトリスからだって、半月もかかるような距離じゃなかったんだけど。

 ひどい旅だった。風向きはほぼずっと順風だったのに、船が次から次へと岩礁に突進していくんだ。あれだ、さながら飛んで火に入る夏の虫みたいな。乗っている側は散々だったけど、外から見ている分には笑える光景だったかもしれない。

 ナバテア人が水先案内人をしてくれていたんだけどね、どうしてこうもしょっちゅう船が壊れるのかね。総督もさ、このあたりを生業にしているエジプト人とか、航海の得意なギリシア人とか、もっと当てにできそうな人がいたんじゃないかと思うけど、なんで砂漠の岩の上に住んでいる人たちこそ頼もしいと思っちゃったかな。もう面白いくらいにさ、彼らが「あそこだ! あそこなら上陸できるぞ!」と指差した方向へ向かうと、必ず座礁するんだよ。「ここなら通れるぞ!」と言ったところに必ず浅瀬があるんだよ。

 ぼくの乗っていた船は幸運なほうだった。ひとまず紅海の藻屑と化さないで、アラビアに上陸できたんだから。

 二週間に渡って、散りゆく船を見せつけられた。それで、なにも偉ぶるつもりはない。十六歳にして経験をひけらかすつもりはない。つもりはないけど……

 人生で初めて、船乗り一家の息子でよかったと思ったよ。

 総督の船もレウケ村に到着した。でもまだクレオパトリスを出航したすべての船が、ここに揃ったわけじゃない。軍団兵を乗せたまま行方不明の船がいる。無事だといいんだけど。

 そういうわけでぼくは、この美しいはずの紅海が早速嫌いになりかけているところだ。いや、紅海に罪はない。わかる。無謀で無能な人間どもが悪い。でも濃紺の海と赤茶けた陸の対照を堪能しようとかいう気にはなれない。ラクダに乗って、コルネリアと逢引きに出かける気にもなれない。

 というのも、どうにか上陸を果たした側の人間も、もしかしたらそこまで幸運じゃないかもしれないんだよ。病気が流行り出したんだ。口の中が荒れて、足が動かなくなる症状で、軍団兵が次々苦しんでいる。信じられない速さで広がっている。ユダヤ人の医者は、このあたり特有の病だと言っている。ここの水と植物を口に入れたのが原因だってね。一方、ローマ軍医の一人は、なんにせよ、戦士たちの疲労と栄養不足が事態を悪化させていると言っていた。あながち的外れでもないと思う。少なくとも総督は元気だから。

 遠征半月で、疲労はともかく栄養不足とはどうなっているんだって話だよね。あれだけ輸送船を造ったんだから。少なからず座礁して、兵たちの救助に明け暮れて、新鮮な水と食糧をかなり見捨てたけれども。ただ単純に熱いから、なんでも傷みやすいんだけども。

 ぼくは大丈夫だ、今のところは。ちょっと口の中が痛いな、と言ったら、コルネリアが怪しげな粉末を混ぜて、喉へ押し込んできた。本当に窒息するところだった。でも不吉な症状は出ないで済んでいる。

 ぼくはコルネリアのほうが心配だよ。ぼくと違って弱音の一つも吐かないんだけどさ、見ていてかわいそうになってくる。ただでさえひどい環境なのに。男どもがばったばったと病で動けなくなるような毎日なのに。女の子だから、ぼくらより色々困ったことがあると思うよ。それなのにぼくは、彼女とその備えのおかげで生き長らえてるんだ。つくづく情けない男だと思うよ。

 こんな状況で、総督は遠征を続けられるんだろうか。まだ始まってもいない気がするんだけど、この病気の広がり次第では、厳しいんじゃないかと思うよ。現在死者は出ていないけど、兵の士気も下がってる。というか、足が麻痺して動けやしない。

 けれどもこの手紙を君が受け取ったとしたら、まだ希望があると思うんだ。このレウケ村が、ミュオス・ホルモスのほぼ真向かいにあるなら、時間はかかるけどエジプトから補給を受けられないわけじゃない。コプトスまで、ラクダに乗って約一週間だ。

 ところでさ、ここは「幸福のアラビア」らしいんだ。忘れそうだけど。詐欺師に騙された感は、あながち間違いじゃないのかもしれないけど。ともかくこの半島の奥地で産出される乳香とか没薬とか肉桂、香辛料、それからきらめく貴石を、エジプト人は紅海をまたいで取引してきたし、ナバテア人やユダヤ人だってそうなんだ。それは事実なんだ。

 後者の人らは、こんな岩礁ばかりの海路を利用していたの? そんなわけないよね。陸路があるはずだよね。「香料の道」──そんな名前で呼ばれる秘密の経路があるらしいんだよ。

 その道が実在するとして、ナバテア人のシュライオスは、使い物にならないと言った。ラクダが一列で進むのがやっと。ローマ軍が歩くような道じゃない。砂に埋まって全滅沙汰になるから、と。

 総督はそれで最初の当てが外れた。そうでなければクレオパトリスじゃなく、初めからミュオス・ホルモスから出航していたからだ。

 でもその話は、本当に本当なんだろうか。「香料の道」は、まともに存在しないのか?

 やっぱりぼくは、コルネリアを誘って、ラクダを駆るべきかな。でもまずは練習しないとね。

 ぼくらの宝探しは始まったばかりだ。もうすでに、こんなことなら罠だらけのピラミッドに盗みに入るほうがましだったかもしれないって思ってるけど、見つけ出さないといけない。総督も言っている。空手でカエサルのところへは帰れない。

 ティベリウス、ぼくは使命感も責任感も乏しい男だけど、こんなんじゃ帰れないという気持ちだけは、お人好し総督と一緒だよ。





 六月、ガリア・ナルボンヌは静かに夏の訪れを迎えた。まぶしい緑がそよ風に揺れていた。剣帯を外すと、ティベリウスは地面にどかりとあぐらをかいた。

 真正面に墓石がある。その上に女神の短剣を、またどかりと置く。そのまま手を止めて、ティベリウスはしばらく動かなくなる。銘文をにらみつけるように、目を見開いてまばたきもしない。

 やがてにやりと、口元に笑みを浮かべていった。

 一人で来た。夏至も間近で、太陽はこの墓石を一年で最も長い時間照らし出す。それがなんだとばかりに誇らしげに立つ石碑は、日に焼けた生前の頑固な顎を思い出させる。風に吹かれ、時折降り注ぐようにできる木陰は、まぁまぁとばかりに彼をなだめているようだ。

『ガイウス・ユリウス・ドゥーコ、神君カエサルの百人隊長』

 碑文の続きは、彼の長く赫々たる戦歴を伝えていた。

 ティベリウスは短剣から手を離した。代わって杯を二つ、いそいそと袋から取り出す。墓石の上と自分の前に、きっちりと一つずつ据える。そして革の水筒も取り出す。目は絶えず墓石へ向かい、笑いかけている。

 注がれたのは、水ではない。葡萄酒だ。それも水割りをしていない生酒だ。それでも陽の光は、満々たるその上面に、若者の顔を一瞬映した。誇らしげであり、いたずらっぽくもあるそれは、きっと十歳の子どもだった頃とまったく同じであるに違いない。

 ティベリウスは自分側の杯を手に取った。墓石側の杯にその縁を当て、かちりと音を立てた。

 乾杯。

 ティベリウスは一気に飲み干した。頭がぐらりとした。喉も腹もかっと燃えた。その衝撃を一瞬のみとして持ちこたえ、ティベリウスはまたにやりと誇り顔で墓石を見つめた。

 小僧め、まだ早い。

 そう言われたと感じた。けれども決めていたのだ。無事に初陣を終えたら、報告に来ると。割らない葡萄酒を一緒に飲むのだと。

 時折杯を振りながら、ティベリウスは微笑んで墓石を眺めていた。木陰がゆっくりと広がっていった。

 遠くで、だれかが名前を呼んでいた。ドルーススか、マルケルスか。

 ティベリウスはすっくと立ち上がった。

 ──ドゥーコ、私はまだ戦場を歩きはじめたばかりだ。これからも見守っていてくれ。





 それから帰途をマルセーユまで進んだ。ところがそこからは船に乗るように勧められた。行く手のアルプスで、テレンティウス・ヴァッロ率いるローマ軍が、サラッシ族と交戦中であるとのことだ。

 昨年のうちに予測されていた展開だった。ヴァッロの手元には三個軍団がいた。しかしその山道は昔、かのハンニバル軍の少なからぬ戦士を崖下に落した難所中の難所だ。少しでも足を踏み外すと谷底、慣れた地元のロバ以外めまいを起こす、道だと思ったら氷の板、隊商が丸ごと落下──等、恐るべき目撃談に欠かない。夏であるだけまだましなのだろうが、突然の雪崩も恐れられている。

 それでも若き将軍は、順調に戦いを進めているそうだ。このサラッシ族を制圧すれば、アルプスの道をずっと安全にできるという。ガリアへ抜ければ、アグリッパ街道とつながるだろう。そしてゲルマニアへのより短い経路も確立できるだろう。

 元軍団副官一行は、アルプスと地中海の狭間を通り抜けることもできた。しかしヴァッロ将軍の気を散らしては悪いと、進言どおり船に乗った。

 ところでこの一行に、アウグストゥスはいなかった。彼はまだタラゴーナにいるのだ。現地再編の仕事が残っているというのが主な理由だが、体調面でも長旅に耐える自信がないとのことだった。リヴィアも一緒に残った。

「こちらはゆるりと帰るから、お前たちは先に行ってなさい。まぁ、年内には、私も首都に入るよ。お前とユリアの結婚を見届けねばな」

 アウグストゥスはマルケルスにそう言って、微笑んだ。

 ところが無事ローマに帰り着くか否かという時宜で、アウグストゥスが手紙を寄越した。「代わりにアグリッパを送るから、彼を立会人に結婚式を済ませるように」と。

 アグリッパはまだ帰っていないが、たぶんタラゴーナには着いたのだろう。

 マルケルスは残念がっていた。彼にしてみれば、実父同然の叔父に立ち会ってもらわなければ、結婚式が成り立たないという思いだろう。新婦ユリアにとっては、もちろん実父である。

 おそらくアウグストゥスは、一日でも早く甥と娘の結婚を成立させたいのだろう。

「そして一日でも早く孫の顔を」

 パラティーノの丘の家まで挨拶に来た、元老院議員のだれかが言った。アウグストゥス当人もまた、マルケルスにそう口にして願っていたかもしれない。

 しかしマルケルスには、ほかにも不満な点があるようだ。

「どうしてアグリッパなの? 叔父上の代わりなんかいなくていいのに」

 彼の気持ちは、久しぶりに母と妹たちとの生活が戻ったことで、ほどなく晴れていった。一方ティベリウスは、継父も母もいない家という場所に帰って、少しばかり途方に暮れる思いがした。

 カエサル家にはもうすぐ新妻になるユリアがいて、共に住むのも気まずい。それでティベリウスとドルーススは、ネロ家に落ち着くことにした。

 思いがけず実家を出たような気分だったが、実際は戻ったのだ。解放奴隷の執事プロレウスに迎えられながら、ティベリウスはいよいよ現実的に一家の主になる時だと知った。

 七月になった。レントゥルスとユルスとだれかがいないが、友人たちと一緒の、にぎやかな日々が戻ってきた。






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