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第一章 -5



 5



「叔父上!」

 翌日の昼、家庭教師による授業を終えた後、マルケルスがアウグストゥスを見つけて駆け寄った。ティベリウスは平常の足取りであとに続いた。

 中庭を横切るアウグストゥスは、伺候客への対応を終えたところのようだった。足を止め、彼は甥に微笑んだ。

「マルケルス、今日の勉学ははかどったか?」

「はい!」マルケルスは元気にうなずいた。それからいく分声を低くした。「叔父上、今少しお時間よろしいでしょうか?」

「ああ。なんだい?」

「昨日の夕方、ぼくたちはパウルス・ファビウスの家に招かれました」

「ああ、そうだったな」そこでアウグストゥスはティベリウスの後着に目を向けた。「ティベリウスも、早速成人して初の晩餐の客になったんだな」

「はい」ティベリウスはうなずいた。もっともまだ葡萄酒が飲めるわけではないし、正式の晩餐会のような格式張った集まりではなかった。継父もそれはわかっているだろう。

「ファビウスは、そこでぼくたちに従軍体験を話してくれました。コルネリウス・ガルスの指揮で、エチオピアへ行軍したこと」

「エチオピアまでは行っていないはずだがなぁ」アウグストゥスはおどけているように言った。「ガルスは我々とエチオピアとの国境を定める任務を果たしてくれたのだよ」

 マルケルスがあえてエチオピアと言ったのは、エジプトという言葉を使いたくなかったからかもしれない。三年前の自身のエジプトでの従軍体験は、大変な衝撃で、まさに悪夢だった。二度と思い出したくもないのだろう。その責任の大半であることを自覚するティベリウスは、できる限り「エジプト」の話題を出さないという協力をするしかなかった。しかしマルケルスがファビウスから聞いた話を叔父と分かち合いたいなら、そうもいかなくなる。

「叔父上、ファビウスはなんだか少し元気がありませんでした。心配していたんです、コルネリウス・ガルスの振る舞いのことで」

「そうか」

 同じように心配そうな顔をする甥へ、叔父はあっさりとうなずいた。

「私もぽつぽつ報告を受けているよ。しかしまぁ、とにかくテーベやヘロオン・ポリスの反乱平定とエチオピアとの国境確定という重要任務を果たしてくれたのだから、多少尊大に振舞っているくらいで彼を責めたくないがね」

 それは、実のところファビウスも同意見だった。だから彼は怒りではなく、心配や疲労のにじむ顔をしていたのだ。ピラミッドや王家の谷やワニやカバの話は別として、ティベリウスたちにさえ、詳しくは話したがらなかった。

 コルネリウス・ガルスとは、三年前、エジプトの王都アレクサンドリアを陥落させる際、艦隊を率いていた男だ。アウグストゥスの厚い信頼に応え、王都の海上封鎖を果たした。いよいよ陥落となった時、霊廟に立てこもって抵抗した女王クレオパトラを捕えたのも、彼の功績だった。すべてが終わった後、アウグストゥスはガルスにエジプトを任せてローマへの帰途についたのだった。

 アウグストゥスとガルスはつき合いが長いらしい。先代カエサルの後継者に指名された頃からだというから、十五年を超える。武将としてだけではなく、詩人としても大変に名高く、若い頃からたくさんの詩を書き上げ、出版し、エレゲイアという新しい形式をラテン詩に確立したことでも有名だ。

 コルネリウス・ガルスほど、ローマで文武両道に秀でた人物はいないのだろう。アウグストゥスはだからこそ彼を重用するし、彼の多少の欠点には目をつぶりたいのだ。そもそもきっと、エジプトを任せるまでは目につかなかった欠点なのだろう。

 だがマルケルスは、このガルスの悪評を捨て置けないと思った。

「ガルスはフィラエという場所に、自分の立派な石像を建てたそうです。自分の功績を讃えて」

「ああ。でもそれは違反とか悪事とかではないからな」

「叔父上の功績なのに」

 マルケルスの指摘に、叔父は苦笑だけ返した。甥はさらに続けた。

「ピラミッドに自分の名前を落書きしたとも聞きました」

「それはちょっと悪事だな。中にいる古の王に呪われないか心配だ」

 アウグストゥスはまたおどけてみせたが、マルケルスは現実的な意味で大真面目だった。

「軍団兵たちに、インペラトールと歓呼させたそうですよ」

「それも、事実は事実だ」

「インペラトールは叔父上ではないですか」

「そうだな。ありがとう、マルケルス」

 アウグストゥスの感謝にも、マルケルスは変わらずじれったそうだった。

 「インペラトール」とは、古来、戦に勝利した将軍へ捧げる部下たちの歓呼であるが、マルケルスの主張は、ガルスを派遣したのはアウグストゥスであるのだから、勝利の栄光はアウグストゥスのものではないかということだ。少なくとも、主張の半分は。

「叔父上、ぼくがいちばん気がかりなのは、ガルスが叔父上の悪口を言いふらしているという話なんです。それがなんなのか、ファビウスはぼくらに教えませんでしたが……」

 ここでマルケルスはちらりとティベリウスに目線を寄こした。ティベリウスはもちろんその意味を察した。

「マルケルス、ぼくのことはいいよ。そうなったらそうなった時だ」

 これは三年前のエジプトで、ティベリウスに関わる事件のことを示唆しているのだが、ティベリウスは自分はともかくとして、今頃その一件が明るみになったとして、アウグストゥスの不名誉にはならないだろうと考えた。マルケルスの気持ちはありがたいし、心に傷を残すことになってしまって申し訳ないとは思っているが。

「マルケルス」叔父が尋ねた。「お前の意見を聞きたい。こういうとき、我々はどうするべきだと思う?」

「……ぼくなどが申し上げるのはおこがましいと思いますが」おもむろに前置きしつつも、マルケルスはきちんと自分の意見を携えていた。「ガルスをローマに呼び戻して、事情を聴いてみることはできないでしょうか? もしかしたらそれで彼の目が覚めるかもしれない。誤解があったら解けるかもしれない。ぼくも、ガルスの優れた評判は知っています。あの人にとっても叔父上にとっても、不本意なことにならないことを望みます」

「うん」そのとおりにするかは明言せずとも、アウグストゥスは甥の答えに満足している様子だった。

「ティベリウスはどう思う?」

 求められたティベリウスだが、我ながらマルケルスほど事態を重く見ていないことに気づいていた。だがファビウスのためにも言った。

「ガルスの言動は単なる噂や誇張の可能性もありますが、私はファビウスが見たというものならば信じます。彼はガルスが優れた将軍であることもわかっていて、できれば上官を悪く言いたくなかったのです。彼はこれ以上悪いことにならないか心配しています。往々にして、人は増長するものだから、と」

「うん」

 アウグストゥスはまた微苦笑を浮かべた。ときどきこういうことがあるのだが、どうもマルケルスとティベリウスの話し方の違いに因があるらしい。

「私もそうならないことを願うよ」

「手遅れになる前に、早く、どうか──」

 マルケルスが最後に願った。





「んで? その話のなにが問題なの?」

 同じ日、午後の肉体鍛錬の終わり際、ルキリウスがティベリウスに訊いた。彼の自宅からも近いチルコ・マッシモにいたのだが、もう歩いて帰るのもしんどいとばかりに、柱廊の奥の日陰に引っ込んで、ぐったりとひっくり返っていた。まだ春のうちにこの調子では夏が思いやられる。ティベリウスはその傍らで柱に背中を預けていた。

「まずファビウスは、自分たちの報告のせいでガルスが困難な立場に追いやられることになってほしくないと思っている」

「それはしょうがないでしょ」天井を仰いだまま、ルキリウスは大きく息をついた。「心優しくて育ちが良いファビウスくんは、先生にチクっちゃったみたいな気分なんだろうけどさ、問題があったなら最高責任者に報告するのは義務でしょ」

「ああ」

「そもそも、ファビウスくんがその調子なら、よっぽど目に余る振る舞いだったんじゃないの、そのガルス殿とやら」

「ああ、ぼくもそう思う」ティベリウスはうなずいた。「ファビウスがたとえカエサルになにも言わなかったとしても、エジプトから帰国したほかの関係者が次々と報告に来ただろう。実際、昨日もファビウス以外にも客が複数来ていた」

「悪口合戦?」

「ああ。ファビウスは、本当はその仲間入りをしたくなかったんだろう。公平じゃないから。ガルス当人がその場にいて、自分を弁護できたなら別だが」

 ファビウスは、今日は見たところ元気にしていた。一年数ヶ月ぶりにチルコ・マッシモに帰ってきて、友人たちとともに日ごろの鍛錬を再開していた。今も皆に請われて、従軍で鍛えられたに違いない剣の腕前を披露していた。けれどもどうもルキウス・ピソとレントゥルスという昔馴染みたちにはなおも分が悪いらしく、特にピソからは今日まだ一本も取れていなかった。ファビウスはむきになっているようで、実のところ久しぶりの無邪気な友との交流をうれしがっているようだ。ピソに勝つまでは今日は家に帰らないと大声で知らせ、まだ勝負を挑んでいた。

 通常、ローマの若者たちは、午後からの肉体鍛錬のために、チルコ・マッシモやフラミニア競技場に集まる。これらより小規模な屋内体育場やほかの施設も利用する。ギリシア人の体育教師による指導の下、古来より彼らが重んじる体育競技を手本として、徒競走、拳闘、組打ちから、遊び要素の強いボール投げまで、種目は様々だ。もちろん剣術に弓術といった、戦闘を想定した訓練もある。槍投げは武術でもあるが、競技でもあり、戦に赴く将軍が行う儀式でもあるので、高貴な身分の者にも重要視されている。

 馬術訓練の場合は、チルコ・マッシモでは人をはねる恐れもあるので、郊外の広場へ足を伸ばすこともある。以前はマルスの野がそのために使われていたが、ここ数十年で公共建築物が増えて塞がりつつあるため、しばしば街道沿いの平原まで出かけることになる。

 昨日の鍛錬を競技会の準備のために休んだティベリウスは、今日は剣術から始め、それから組打ち、槍投げと予定をこなした。同行したルキリウスは、組打ちの途中でへたばった。マルケルスは、ユバやヘリオスやプトレマイオスを入れて、ボール投げを一日の仕上げとしていた。ドルーススはまだ元気があり余っているらしく、友人たちと競技場の縁を走りまわっていた。

「ファビウスくんはともかくさ」ルキリウスが頭を横に向けた。ファビウスたちを見ようとしたようだが、たぶんできなかっただろう。「マルケルスがガルス殿のことを、そんなに心配しなくていいと思うけどね」

「マルケルスが心配しているのは、カエサルのことだ」

「それから、君」

 ティベリウスは左頬にルキリウスの視線を感じた。

「君の馬鹿で無謀でクソ突拍子もない振る舞いが世間様にばれることを、そんなに心配してくれているの?」

 その件で、ルキリウスが未だに自分を許していないことはわかっていたので、ティベリウスはただ首を振って応じた。

「それよりもインペラトールのほうが問題なんだと思う」

「どうして?」

「このあいだ、メッサラ・コルヴィヌス殿に伺ったんだ。インペラトールは、昔からある名誉の称号だけど、カエサルはそれを常時用いる権利を元老院に認められている」

「だからって、ほかの将軍が使ってはいけないわけじゃないよね?」ルキリウスは指摘した。「それともカエサル・アウグストゥスは、ほかの人に使ってほしくないと思っているの? インペラトールは自分一人のものだと?」 

「そんなことはない」

 そうは言ったものの、メッサラもほのめかしていた。これからはインペラトールと呼ばれる人は少なくなるかもしれないね、と。それは平和な時代が到来するからという意味だけではないかもしれない。

 とはいえ、アウグストゥスはインペラトールの称号を常に用いる権利を持ちながら、それをほとんどまったく誇示しなかった。一部にそれは、実際の戦争は、彼よりも右腕のアグリッパの指揮に依るところが大きいからなのだろう。

 ルキリウスは疑い深げに続けた。「それに軍団兵たちが戦に勝った暁に歓呼してくれるのを、止められるもんじゃないでしょ」

「そうだな」

「でもマルケルスは、ガルスにインペラトールは過ぎた名誉だと思っている」ルキリウスが言った。「まるで彼の偉大な叔父上と並んでいるみたいで」

 インペラトールを国家ローマの軍事の頂に立つ最高司令官や、複数の軍団をまとめ上げる総司令官に対する呼称とする場合、ガルスは無論後者に当てはまる。ただ、ガルスが率いていたのは二個軍団程度らしく、「総司令官」とは少々大げさに聞こえることは確かだ。

 とはいえ、そもそもは戦の規模よりも結果に寄るところの称号である。

 最高司令官に関しては、アウグストゥスが共和政体の復帰宣言とともにその権利を手放したので、現在その該当者はいない。必要に応じて元老院が任命する有事の職なのだ。

 けれども、その有事がまた起こったとして、今のローマでいったい誰が「最高司令官」に選ばれ得るのだろうか?

 マルケルスにもそれがわかっている。しかし彼も心の優しい若者なので、本人が言ったとおり、アウグストゥスとガルスのどちらにとっても不名誉な事態になる前に、急ぎ当事者を呼び出して事情を聴くべきだと考えているのだ。

「いったいどうして手遅れになるのさ?」とルキリウスは訝る。「もう複数年エジプトに置いているんだから、普通に呼び戻せばいいのに。ひょっとして、ガルスにローマに戻ってこられたほうがまずいことになる……なんてことはない?」

「どういう意味だ?」

「君の件もさ」ルキリウスはより具体的な問いを重ねた。「ほかにだれが知ってるの?」

「カエサル、アグリッパ、メッサラほか当時の一部幕僚。ぼくはガルスと話したことはないが、おそらく立場上、彼も知っていると思う」

 家族には、母とドルーススにさえ話していなかった。ユルスには、ヘリオスやセレネの口から知らされているだろう。友人たちでは、エジプトへ従軍していたレントゥルスを別とすれば、知っているのはルキリウスだけだ。否、ルキウス・ピソには、レントゥルスが黙っていられずに白状してしまった。結果、一行をアテネまで出向いて迎えに来ていたピソは、アドリア海を渡りきるまでティベリウスを腕の中から出してくれなかった。

「その件がもっと公になったとしてね、確かに今更どうなるって話だね」面白くなさそうに、ルキリウスは言った。「むしろ君の評判は上がるんじゃないの? マルケルスを守った英雄としてさ。そうなると、君はだれよりも目立つ若者となり、つまり、公になっていちばん不都合になるのは──」

 そこでルキリウスは、さすがに口をつぐんだ。そんなふうに今まで考えてもみなかったティベリウスも、ついしかめ面をルキリウスに向けていた。

 ルキリウスは少し早口になった。「ほかにもガルスにしゃべられたらまずいことがあったりして? 彼がエジプトで触れまわっている悪口とやらが、このローマで声高に直接叫ばれたりしたら非常に厄介なことだとか?」

「なにがだよ?」

「……いや、よくわかんないけど」

 首をすくめて、ルキリウスはようやく引いた。しかしティベリウスは、ここでまたメッサラの話を思い出す。彼はいつもティベリウスの疑問に辛抱強く応じてくれる。人生の先達として、古くからローマを担ってきた名門貴族の当主の視点から話してくれる。一方で、これも伝統ある貴族であるゆえに、非常に言葉を選んでいることも、今のティベリウスにはわかり始めていたが。

 カエサルはエジプトをどうするおつもりでしょう、とティベリウスは、メッサラに質問したことがあった。二度だ。一度目は「わからない」と答えられたが、一年余り過ぎてからの二度目は、うなずいて応じてくれた。

「当面はコルネリウス・ガルスに任せるとのことだ。しばらくは地元の不満や蜂起に注意しなければいけないしね。状況が落ち着いたころに、元老院で方針を伝えて承認を得ると思うが……」

 メッサラの目は、考えあぐんでいるように空を漂っていた。

「エジプトは属州になるのですか?」

「……ちょっと違うと思う」

 メッサラはなんだか少し苦しげだった。

「ティベリウス、よく学ぶ君も知ってのとおり、ローマは昔から他国を属州化する場合は、非常に慎重を期する。すなわち、現地の習慣・文化は可能なかぎりそのまま存続させる。政治も、経済も、宗教もね」

「はい」

「それでカエサルはね」メッサラはどんな顔を作ったらいいかわからないようだった。「エジプトの神になって、治めるつもりのようなんだ」

「……はい?」

 聞けば、はるか古代から神々を崇め、ファラオを神であり王として頂に据えてきたかの国は、今後も神に統治されるという形が最も上手くいくだろうと考えられた。クレオパトラは当然としても、ローマ人のマルクス・アントニウスをさえ、化身を自称していたディオニッソスがオシリス神と同一視されているという理由で、あわや神にしかけた国だった。ところでアウグストゥスは、先代カエサルが死後に元老院で神格化を決議されているために、「神の子」と言える。この「神の子」ならば、新しいエジプトの神としてその頂に立ち得る。土着の民たちを納得させ、摩擦を最小限に、自然な統治がしやすい。

 そういう理屈だというのだ。

 ティベリウスは目を激しくしばたたかずにいられなかった。

「……確かに神君カエサルはローマの『神』であり、偉大な人物ですが、それは元老院が決議したことですよね」

「うん」

「エジプトや東方の人々が考える神とは、ちょっと違うと思うのですが……」

「そうだね」メッサラは二度うなずいた。「でも神は神だからね」

 ティベリウスは今度は首をかしげた。確かに、ローマの元老院よりは統治している想像がしやすいけれども──。

「……ということは、カエサルがエジプトの王になるのですか?」

「その称号は決して使わないが」メッサラはすかさず注意した。「『カエサル』という名前だけで十分だろう」

「つまり、エジプトはカエサルの土地になるのですか?」

 国家ローマのものではなく、という言葉をなんとか呑み込んだ。

「そうなるね」メッサラは渋い顔でうなずいた。

「でもカエサルは、いつもエジプトにはいられません」

「当然だ。だからガルスのような男たちに任せる」

「ガルス殿は元老院議員でしたか?」

「いや、違う」メッサラはここでまたさらに苦しげになった。「非常に才能のある男だが、騎士階級だ。今後もカエサルが自分の代理として、エジプトに責任者を置くことになると思う」

 元老院を通さずに。

 ティベリウスはあっけに取られるような気持ちだった。メッサラはそれからあえてのように、明るい調子で言った。

「もちろん、その恩恵はすべてのローマ人に行き渡る。ほら、アレクサンドリアの王宮に貯め込まれていた富は、今どんどん外に出されている。軍団兵たちに配分してもなお余るほどで、市民全員に贈り物として配られたし、年利も史上ないくらい下がった。みんなが豊かになって、良いことだよ。それにかのナイル川が恵む実りは、いざという時には首都のローマ人たちも救い得るだろう。今後飢饉で人々が亡くなるなんてことは、格段に減ると思うよ。エジプトが平和である限り、カエサルがエジプトをお守りになる限り」

「……」

 エジプトは毎年比類なき小麦の収穫を上げるという。けれども、そのすべてが常にどこかの飢饉のために使われるわけではないだろう。それにかの国は、最後のクレオパトラが統治していた時でさえ、世界一豊かな国とされていた。ティベリウスも一部をその目で見たが、世界じゅうの富が集まるのだ。噂では、はるか東のインドとの交易もあり、莫大な富を得ているという。

 そのような土地が、カエサル・アウグストゥスという一個人の所有になるという。そのうえガルスのような代理人の手元には軍団兵さえいる。これが、王でなければなんだというのだろう。

 だが確かにメッサラの言うとおり、アウグストゥスがかの国を統治することで、決して小さくはない良いことがあるのだ。エジプトだけではない、ローマが治める世界すべての安定につながる。

 その後、この件をアウグストゥスは、凱旋式と共和政体復帰宣言という二度の熱狂の冷めやらぬうちに、段階的に元老院に認めさせた。元老院は、特に後者の宣言に感激しきりだったので、喜んで彼にエジプトを任せたという。彼らの手元にはまだ、エジプトからもたらされた金銀財宝などの富があふれて余っていたのかもしれない。世界の平和という恩恵とともに、今後もっと豊かになっていく見通しに、だれもが顔を輝かせていたのだろう。

これで良いのかもしれない、とティベリウスは思いはじめている。今後どうなるかわからないが、継父を見つめていればおのずと答えは出るだろう。

 ただ、もしかしたらだれかが、不都合を、もしくは許容できないものを見てしまうことがあるかもしれない。

 ローマ人は王政が大嫌いだ。

 競技場から、不意に華やぐような声が聞こえてきた。途端にルキリウスはがばっと飛び起きた。見ると、一角に女子が五人ばかり円を描いて立ち、ボールを打ち上げては追いかけて楽しそうにしていた。最近は女子も肉体鍛錬の場に現れる。高貴な身分の者ほど周囲の目に縛られて難しいようだが、市井の若い未婚の女は、自宅で勉強や裁縫や家業の手伝いをする以外に楽しみを見つけようと遠慮しなかった。神殿や浴場でも、男に負けず活発に動く彼女らが見かけられた。ティベリウスはまだ見たことがないが、剣闘士になって試合に出ようとする女もいるらしい。

 当面、競技場に集う男たちにとって重要なのは、活発なローマ女子たちが、胸まわりと腰まわりのみを覆うだけの運動着を身に着けていることだった。

 こうなるともう鍛錬どころではなかった。ファビウスたちの集まりが、一斉に剣を下ろすというよりは地面に落として、口をぽかんと開けて魅入っていた。既婚のレントゥルスでさえ、うっとりと立ちつくした。ユバはボールを頭にぶつけられたままぼんやりとし、まだ幼いプトレマイオスに「セレネ姉上に言いつけるぞ」と脅かされている様子だった。ドルーススだけはかまわず走りまわっていたのだが、友だちがいつのまにかついて来ないことに気づいて、怪訝な顔でようやく立ち止まった。マルケルスはどうしてか戸惑ったような顔できょろきょろしたが、目が合って初めてティベリウスは自分を探していたらしいことに気づいた。戸惑いとも恥じらいともつかない顔は、ルキリウスに気づくと、いく分曇ったように見えた。

 ルキリウスは珍しく気づいていなかった。「ティベリウス」彼は震えがちに言った。「これからちょっとつき合ってほしいところがあるんだけど。たとえば、ほらっ、ここのすぐ横とか……」

「駄目だ。一人で行け」

「やだよ。怖いもん」





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