第四章 -4
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四月、ティベリウスはアウグスタ・メリダにいた。アストゥレス族の土地から「銀の道」へ乗り、そのままひたすら南下してきた。ヒスパニアの西部をもうじき縦断するところだ。
無論タラゴーナへは、東へサラゴサ経由で向かうほうが近道ではあった。しかしティベリウスは、アグリッパがメリダの整備にはりきっていたので、同行することにしたのだった。すなわちまだ見たことのない場所を見たいという好奇心に従ったまでだ。マルケルスはタラゴーナで早く叔父と再会したがったのだが、より安全な道が優先された。やはりあの山道では、カンタブリ族とアストゥレス族の残党による待ち伏せがないとは言いきれないのだ。
アグリッパはメリダの整備に勤しんでいた。実のところ彼がヒスパニアに来た目的とは、こちらが主だったのだろう。どこからか彼子飼いの技術者部隊までが現れ、橋を架け、劇場を建てと、大変な働きぶりだった。日に日にグアディアーナ川の上に橋が伸びていく様子を、ティベリウスは半ばあっけに取られる思いで眺めていた。
退役兵の入植も進んでいた。ここまで銀の道を共に下ってきたのだが、すでにいつのまにか女連れ、さらに子ども連れになっている者もいた。軍務の合間にひっそりこしらえた家族で、これから正式に結婚できるのである。もちろんこれからこのメリダで伴侶を求める者も多い。
メリダは入植するには絶好の場所だ。ヒスパニア南部の、最も栄えて人口の多い地域がすぐそこだ。伴侶探しにさほど困るまい。交易も盛んであるので、物質的にも豊かな第二の人生を送れるだろう。夏がかなり熱いのが難点であるそうだが。
そのうえ銀の道を北上しさえすれば、カンタブリアの海まで難なく到達する。だから万一の時は、再び武器を手にローマ軍に加勢できる。実際にはそこまでの事態にならずとも、原住民の監視役を務めることができるというわけだ。また、彼らに子どもが生まれれば、ローマ軍に志願するかもしれない。そうなれば家族の近くで軍役を務められ、冬営期には交代で帰郷することも可能だろう。
アグリッパは銀の道の舗装も進めていた。古くから地元民が歩きならしていた道であるらしいが、ローマ人が進出してから街道として整備された。ガリアと違って水運が利用し難いヒスパニアの、大動脈としての役割を果たしている。主に運ばれるのは農産物、そして鉱山資源だった。
ヒスパニアは鉱物の一大産地だった。北西部にかけて採掘地が連なっていた。それゆえ古くから「銀の道」と呼ばれていたのだが、これからはさらに盛んに開発されるのだろう。ローマ人が仕組みを整えて、効率を上げるからだ。金であれ銀であれ、銅であれ鉄であれ鉛であれ、世界のどの民よりも熱烈に求めるだろうからだ。メリダの南にセビーリャという都市があり、そこからは水運を利用できる。ヘラクラレスの柱(ジブラルタル海峡)を通り抜け、他多くの物産と一緒に、鉱物はローマに届けられる。人々の需要を満たす。
しかし鉱山で働く奴隷たちは、過酷な境遇に置かれているという話だ。ギリシアではおよそ八十年前、彼らによる暴動が起こった。小柄であれば作業がしやすいという理由で、十歳前後の子どもまでが働かされていたという。女もまた労働のほか、子どもをたくさん産んで奴隷を増やすことを強制された。ここヒスパニアでも、銀山で働くならば、寿命は三ヶ月であると噂されていた。
カンタブリ族やアストゥレス族の奴隷の多くが、こうした境遇に置かれるのだろうか。後者の部族は、自分たちの土地に鉱山を所有していたのだが。
「ひどい状況下での労働は改善しなければならないね」
ある夕べ、食事を共にしながら、アグリッパとその話題になった。彼はそれから思案顔になった。
「カエサルも同じ考えだろう。人材は無限ではないし、一つの暴動から大反乱につながる可能性もあるんだ。それに維持できなければ、どれほどの採掘も無益だよ。近場の山に、明日にでも視察に行ってみようか。……ところで坊ちゃん、まだ君に葡萄酒は早い。十七歳の誕生日までお待ちなさい」
いくら仕事を増やしても、アグリッパという人は平気なのではないかと思い込んでしまいそうだ。一人だけ倍の一日を生きているのだろうか。
翌日のアグリッパの視察に、ティベリウスは同行した。マルケルスはメリダに残ると言って、少し曇った顔をしていた。すぐに戻るとティベリウスは約束した。
それでよかったと、ティベリウスは銀山に着いてから思った。抜き打ちの視察とは思いのほか効果的であり、不穏な空気を呼ぶものだと知った。不当に私腹を肥やしている人間は、どこにでもいるものだ。しかもその肥やした腹でもって、奴隷とは際限なく湧いて出るものと信じている。そうでなければどこからか誘拐までしてくる。銀山で幅を利かせている連中とアグリッパ一行とは、一時もみ合いになった。
ひと段落して後、ティベリウスは継父の統治に思いを馳せていた。たとえば彼は、最近属州における税の徴収制度を改革していた。以前は属州総督が徴税権を握り、好きなように私腹を肥やすことができた。それで豊かな属州に赴任することが、元老院議員の夢だった。しかしアウグストゥスは、この徴税権を総督から切り離し、新たに騎士階級の徴税官を送って自分の管理とした。予算配分も行い、総督とはそれを使って仕事をすればよいということになった。なぜなら豊かな属州が最も予算を必要としているわけではない。辺境の、防衛上重要な属州こそ、税を多く配分しなければならないのだ。このヒスパニア、それにゲルマニアのような属州が、まさにそうだ。継父はこの不釣り合いを、自らの裁量でもって調整することとした。
実のところ徴税だけではなかった。アフリカを除き、元老院属州に軍団を置かないことで、アウグストゥスは軍事権を自らに集中させた。そして裁判権も、ローマ市民権所有者の控訴と、属州民が総督を告訴した場合の裁決は、最終的にはアウグストゥスが下すことになった。
ティベリウスは、少なくとも徴税に関しては、継父の改革が優れていると思う。この鉱山で横暴に振舞う管理人のような輩が、世界で減るはずだ。軍事と裁判に関しても、ここ最近の経験や見聞を振り返れば、改良であると考える。
しかし一方で、継父の能力に頼りすぎではないかとも考えてしまう。継父が賢明で、曇りない良識と並外れた責任感があって、だれより不屈の精神の持ち主だから成立している改革ではないのか。ほかの人間に同じようにできるのだろうか。今が限りなく良い状態であるとして、アグリッパの言葉にあったように、維持していけるのだろうか。
もしも継父になにかあったら──。
「兄上」
十三歳になったドルーススが、背中に乗ってきた。もはやずっしりと重く成長して、兄は座りながら頭を膝のあいだに落とすしかなかった。
「手紙が来たぞ」
「そうか。こんなところまで」
「早く帰ってきなさいって、母上が」
「ああ」
母リヴィアは、次男の誕生日に合わせて手紙を寄越したのだろう。まだアウグストゥスとタラゴーナにいるはずだが、一年余りもそこで暮らして、今や第二の家になっているのだろう。
「あともう一巻」ドルーススが教えた。「いつもの鳥の封印のやつが」
それはカササギだ。
翌朝、ルキリウスからの手紙を剣帯に掛け、ティベリウスは馬を駆った。しかし向かった先は東ではなく西で、メリダからもタラゴーナからもさらに遠ざかった。ドルーススだけがついてきた。母の言いつけにもかかわらず。
そうして二人が目にしたのは、大洋オケアノスだった。世界の西の果てだ。
荒涼として見えた。この日の空模様のせいでもあっただろうか。見渡すかぎりの灰色、そして白い波しぶきだ。岬の下に、これぞ怒涛とばかりに激しく打ち寄せていた。それは人を拒むようで、母なる海のような親しみやすさはない。
見つめる先には水平線しかなかった。地中海でもこのような景色は見られるが、もしも船をひたすら漕いだならなら、あるいは鳥になってまっしぐらに飛んでいったなら、いつかは必ず陸を見つけるのだ。そこはローマかもしれない。ガリアかヒスパニアかもしれない。ギリシア、アジア、シリア、あるいはアフリカかもしれない。シチリアのような島かもしれない。
けれどもこの海の果てには、なにもないのだ。少なくともこの先を見て、帰ってきた者はいない。だからつまりは、この世の果てであるのだ。
しかしギリシア人の哲学者は、世界は球体であると唱えている。途方もない距離ではあるが、その円周を計算ではじき出している。
だからもしもこの最果ての海をどこまでもどこまでも進んで行けたなら、いつの日か「この世界」に帰ってくるということか。
そこはもしかしたらインドかもしれない。それよりも東にある未知の国なのかもしれない。
「兄上」ドルーススは彼らしくない厳粛な調子で言った。「だれか、この海へ出ていったやつはいないのか?」
「……きっといるだろうな」
必ず陸が見えるはず。そう信じてオケアノスへ漕ぎ出した勇者は、一人や二人ではなかっただろう。オケアノスの向こう側から鳥が飛来するのを見た。だから向こう側にはなにかがあるはずだ。そう考えるのももっともだ。
しかし現在のところ、オケアノスの向こう側から来訪したと話す人間はいない。この西涯の地から東涯の地へ、地中海を経ることなくたどり着いたと主張する者もいない。
こちら側から旅立った人間は、いずれ戻ってこなかった。帰れなくはなったが、もしかしたら向こう側で生きているのかもしれない。
それでも今ティベリウスが見つめているのは、冥府に等しい場所なのだろう。
世界の果て。
すなわち命の終わり。
人間は永遠にたどり着けないのだろうか。もう戻ってはこないのだろうか。同じ命を携えて、自力で。世界の端から旅立つとはそういうことか。
冥府を経て、忘却の川を渡る。しかし神々の世界にそのまま留まらず、新しく別の命として帰ってくる。そんなことを果たしたと主張する人間もいない。
あのカエピオは時を逆流してきたとのたわ言を語っていたそうだ。だがなんとこの眼前の世界の理に外れていることだろう。
孤独ではないか。ただ最果ての岬に立っているだけで、その思いに苛まれそうであるのに。
いつまでも陸を見られずに果てた者は、きっとたどり着きはしたのだ。永遠の国に。
世界が終わる。そんな絶望の果てに。
「兄上、帰ろう」
ドルーススが温かい指を絡ませてきた。ぎゅっと握られたそれを、ティベリウスはさらに強い力で握り返した。
「ああ、帰ろう」
「私を待たずともよいですよ」
アグリッパにそう言われたので、ティベリウスはマルケルスとドルーススと、ひと足早くタラゴーナへ発つことにした。セビーリャから船に乗ったのは、安全のためというより道中の誘惑を避ける対策になった。ティベリウスには見てまわりたい場所がありすぎたが、いちいち足を伸ばしていては永遠にタラゴーナにもローマにも帰り着かないだろう。世界の端から端など、まだ早すぎる。一個の人間にとって、世界は広すぎる。
それでも所々に寄港し、短いあいだであるが、半島南部の名高い都市を見物した。ヘラクレスの柱を通り抜け、すぐ傍らに迫ったアフリカ大陸も見た。その地平線を南から東へ、ティベリウスは目を凝らして眺めていた。
いつのまにかアフリカは見えなくなった。船が北上し、やがて白いピレネー山脈との再会となった。
五月、なんとかマルケルスの十七歳の誕生日に間に合って、タラゴーナに到着した。一年ぶりに会う継父は変わりなかった。体は絶好調ではなさそうだが、年を追うごとに減るどころか増していく諸々の重荷につぶされそうにも見えない。改めてティベリウスは、この継父ほど屈強な人は世界にいないのではないかという思いを抱いた。
マルケルスを熱烈に抱きしめて褒めちぎってから、アウグストゥスはティベリウスへ体を向けた。まるで覚悟はしていたとばかりの真面目な顔をして、慎重に、継父は目線を上げた。
「ティベリウス」そして結局、苦笑めいた顔になるのだった。「驚きはしないぞ。十年ぶりぐらいに会う気持ちでいるべきだと、話を聞いていたからな」
すでに母リヴィアの腕の中にいたドルーススが、巨大なコウモリのように継父目がけて飛んできた。またも熱烈な再会となった。
母リヴィアはとても健勝に見えた。少しばかり体力を夫に分けたとしても平然としていそうだった。初陣を終えた息子をねぎらいながら、どうしてもっとまめに手紙を寄越さなかったのかと、少しばかりなじった。母だって決して筆まめなほうではないのだが。
それから、当然のようにもう一人の家族がいた。
「ティベリウス! 無事に帰ってきてうれしいよ!」
ティベリウスがようやく異常に気づいたのは、彼に抱きしめられたあとだった。
「ユバ、どうしてここにいるんだ?」
接吻の雨を遮って、問わずにいられなかった。
「あとで話す」また苦笑に戻って、答えたのは継父だった。「事態が少々変わってな。まあ、ともかく、今日のところはお前たちの話を聞かせてくれ」