第四章 -2
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《日付はアウグストゥスとユニウス・シラヌスが執政官の年(前二十五年)、三月八日》
親愛なるティベリウス・ネロ
これが最後の手紙にならなきゃいいんだけど──
と書きかけた手紙を、ルキリウスは握りつぶした。
──なにが軍団副官だ。お前は正気なのか? いい加減ローマに帰ればいいではないか。
そう手紙に書いて寄こした男を、さらに激怒させるだけだからだ。別に激怒したっていいのだが、無駄であるのだ。意地の悪い書き出しをしてなんになるんだ。
ところで昨年秋、これより一つ前のティベリウスからの手紙は、思いのほか早く届いた。しかしそれにはルキリウスが試合で負けた件のみ書かれていて、アラビア遠征への言及はなかった。彼の十一月の誕生日まで、ルキリウスは手紙を書かなかったし、書けないでもいたのだが、その間にだれかがティベリウスに知らせたのか? まさかアレクサンドリアのローマ人剣闘士が、世界のどこかほかの場所でもだれかの口の端に上っていたはずはあるまい。だからアエリウスしかいない。噂はまずメンフィスにでもいた彼に届き、それからティベリウスのいるヒスパニアまで向かうという、跳ね返りのようなことが起きたのだろう。
目に見えないものとは、案外世界の端までもすぐに到達するらしい。悪い知らせとか、病気とか、お呼びでないものほど足が速い。ヘルメス神が好んで翼を生やしてあげているようだ。
ともかく、ルキリウスは気を取り直して、もう一度ペンを執った。なにしろ時間は有り余るほどあった。
……こんなはずではなかったのだが。
親愛なるティベリウス・ネロ
心配かけてすまない。ぼくの体はだいぶ良くなったよ。医者には若いとは素晴らしい哉と言われた。それにここエジプトのような暑くて乾燥した土地のほうが、怪我人の肉体には良いんだってさ。
ぼくはもう怪我人じゃない。むしろ元気が有り余って、持て余しているくらいだ。たわ言じゃないんだな、これが。
ぼくは今、クレオパトリスという市にいる。どこかの大馬鹿野郎が忘れられない体験をしたペルシオンの南に位置する。細長い湾があって、向こう側にシナイ半島がある。あれが左手に失せるまで南下したら、いよいよエリュトラー海──紅海ってわけさ。
もう三月に入ったから、いつ行軍開始してもおかしくはないんだよね? いよいよ君に手紙が届き難くなるんじゃないかと、ぼくも覚悟を決めるところだけど、ああ、嬉しい哉悲しい哉、もうしばらくここにいられそうだよ。
親愛なる君、説明させてくれ。暇だから。
まず、アラビア遠征に向かう戦力は二個軍団だ。エジプトにも守備隊を残しておかなきゃいけないから、実際は一万をぎりぎり超えるかという人数だ。ぼくにとっては大勢に見えるけど、君がいるところのヒスパニアの七個軍団と比べたら、三分の一以下だ。
えっ? この二個軍団でなにをするの? えっ? ヒスパニアの五倍もある土地に行くのに? 初めて行くのに?
いや、わかるっちゃわかるけどさ。シリアの四個軍団はパルティアから領土を防衛しなきゃならないし、西隣のアフリカの二個軍団は、砂漠の盗賊どもから属州とヌミディア王国を守らなきゃならないし。
ユバ王は大丈夫なの? なんか危うい感じの情報が、アレクサンドリアにも時々聞こえてきたんだけど。
いや、ともかく、どっかほかの場所から軍団を補充し難いのは、わからなくはない。わからなくはないんだけど……。
カエサルは、この遠征の目的をどうお考えなのかな、とは思うよ。
アエリウス総督は、見ている限り相変わらず総督というより地理学者で、ローマ人未踏の土地に入ることを楽しみにしている様子だよ。ある意味ものすごく勇敢だよ。どういうことか、わかっていないのかな? わかっていなくて幸せってやつかな? ……あ、いや、ぼくごとき新米が、こんな考え、おこがましいよね、はい。
ほかにナバテア勢一千と、ユダヤ勢五百の歩兵が加わるよ。彼らの話はまた今度にするけど、この人ら、毎日喧嘩してるんだよ。
我らがローマ軍団に話を戻すけどね、第三軍団キレナイカはいいよ。コルネリウス・ガルス子飼いのベテラン揃いなんだ。
でもこの第二十二軍団ディオタリアーナって、ローマ軍って扱いでいいの?
昔々、ガリア人がなぜかアジアくんだりまでやって来ました。月日が流れ、ガラティアと呼ばれるようになったその土地で、王ディオタルスはローマ式に軍を創り上げました。かの大ポンペイウスの任命でした。それからポントスとのミトリダテス戦争、神君カエサルがファルナケスを打倒したゼラの戦い──いずれもディオタルス軍は、ローマ側について共に戦いました。したがってほかのローマ軍団よりも、はるかにベテランと言えます。それが最近、というかこの度、ようやく正式にローマ一個軍団として認められました……。
こういう一風変わった人たちだよ。ぼくは民族主義者じゃないと自分で思っていたけど、軍団長含め、彼らだれ一人ローマ本国で暮らしたことがないよ。全員外国人だよ。市民権はあるけど。
彼らを率いてこれからアラビアに向かう、その目的とはなに? 征服とか新領土獲得じゃなくて、アエリウス総督を見たとおり、本当に実地調査、未開の土地の探検なのかな? 神君カエサルが最初にブリタニアへ渡ったときみたいな?
それならそれでいいんだけど。なんなら君もすごく来たかっただろうにって思うけど。でもそこんところがはっきりしないんだよ。上の考えていることを、ぼくなんかが説明を求める資格はないんだけどね、本当に大丈夫かなって思うよ。
というのも、ここからがぼくが暇を持て余している理由になるんだけどさ。
生真面目にもぼくは、年明け早々からこのクレオパトリス市で任務を開始した。そっちと違って雪なんて降らないから。冬営とかないから。
それで総督は、まず春になったら一斉に出航できるようにって、船を用意したんだよね。軍船を八十、二段櫂船やら三段櫂船やら。これはナバテア人の長シュライオスの進言をそのまま実行した結果だ。一方、ユダヤ人たちは反対したんだよ。「なんで軍船が必要だ? アラビア人と海戦をするのか?」
アクティウムに従軍した君ならよく知っていると思うけど、軍船と普通の帆船は全然違う。まず漕ぎ手が百五十人くらい要る。
そもそもなんで紅海を下るのか、陸路を行けばいいじゃないかって話もあるんだけど、ナバテア人様曰く、この「大軍」を連れていけるような道はないんだって。灼熱の砂漠でよちよち歩き、すぐに迷い、全滅沙汰になりかねないって。
……総督はこの話を採用した。いや、わかるよ。ぼくだって灼熱の砂漠なんて歩きたくない。人生で初めて作った素敵な甲冑が、憎たらしくなること請け合いだから。どこにせよこんな重いの着て、よくただ歩くどころか戦っていられるよね、ローマ軍ときたら。
ああ、んで、ともかく、それで年明けから二ヶ月、せっせと軍船造りに勤しんでいたんだけど、ついおととい、総督は突然「戦略」を変えた。軍船じゃなく、輸送船でアラビアに行くんだってさ。あれだけ長い半島だから、どっかちょっとくらい停泊できるところがあるだろうって。海戦よりも、物資をしっかり積んで、陸戦するに越したことはないって。
それで軍船は全部崩し、輸送船に造り変えることになった。予定は百三十隻。
昨日、ぼくはコルネリアと一緒に、軍船を力の限り破壊しつくしにいった。でもメリクに止められたよ。「木材はそのまま輸送船に転用できるんだから、痛めつけないでやってくんなさい」
メリクは総督のお使いで来ていた。ぼくはこの手紙を書き上げたら、また彼に頼むつもりだ。案外早く君のところに届くんじゃないかと思う。
そういうわけでティベリウス、ぼくはまだ案外「近くにいる」。順調にいったとして、行軍開始は来月かな。再来月かもな。
コルネリアは一緒に来たよ。止めても聞かなかった。ぼくは彼女に断ってから、皆に言い張ることにした。「これはぼくの従者」……奴隷だってことにしたほうが、いくらかでも身の安全を保障できそうだったから。彼女は人前では男のふりを続けているけど、無理なんだよ。可愛いから。だいたいその容姿だと、男とか女とか関係ないから。でも第三軍団の一部は、彼女がだれだか気づいているみたいだ。
マカロン殿は遠征には同行しない。アレクサンドリアで帰りを待っているってさ。そう言いながら、たぶんあちこち旅をせずにいられないんだろうけど。この国は何年かかっても調べ尽くせないって、自分で言ってたから。ぼくが世話になったあの一家も、一緒に遠足にくり出すかもね。
ティベリウス、君はもうローマへの帰途へ着いたんだろうか? ぼくを殴りつけたくなるようなことを書くけど、無事任務を終えたんなら、余計な道草を食わないで、さっさと家に帰りたまえ。もう一年長居しようとか、戦争を最後まで見届けようとか、要らない熱意を見せないように。いつぞやはそれでずるずる従軍し、挙句の果てにあんな目に遭ったんだから。
ああ、頭に来ている君が見える。一人空しく拳骨を振りまわしているのがわかる。想像するだけで楽しい。
早くも、なんか、ぐだぐだって言うの? 先行き思いやられる感じだけど、なんとかなると思う。ぼくも一年、軍団副官をやりきってみせる。
カエサルだって、きちんとお考えあっての遠征決行に違いないからね。そこまで悪いことにはならないさ。
元気でね、ティベリウス。一年後くらいには、ぼくもローマに帰るよ。
届くかわからないけど、帰ってからの様子とか、愚痴でもさ、世界の果てに行くぼくへの慰めになると思って、書いておくれよ。
そんなに怒らないでいいから。