第三章 -13
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負けるべくして負けた。いくら自覚がなかったとはいえ、とどのつまりは油断していたのだろう。コルネリアのためと言って教師バルバトゥスをローマへ送り返した。その時点ですでに慢心は始まっていた。だいたいいかに命のやり取りであれ、十回も試合をこなし、多少の切り傷は負えど全勝してきたとなれば、ルキリウス・ロングスのような男でも気が緩んでしまうのだ。だれかが言っていたが、人間は死以外どんなことにでも慣れるそうだ。
しかしいかに慣れようと、それは命のやり取りであり、人間同士の殺し合いであるという事実は変わらない。総督アエリウスが内々に伝えた約束も、この油断を招いた一因なのだろう。だが結局は、十度も殺し合いの場に自ら足を踏み入れた、ルキリウス自身に最大の因がある。
大して強くはないのに。むしろ弱さそのものであるのに。
相手の急所を外したうえで戦闘不能にする。そんな技が上手く決まり始めた気がして、いい気になっていた。実際は相手の死どころか重傷も直視できなかっただけだ。死んでいないのだから、きっと自分の知らないところで怪我が治療され、程なく完治し、日常生活に戻れるとでも考えた。そう信じていたかった。
慣れた人間は、ある日突然、携わる事柄の裏面を思い知らされる。十分肝に銘じていたはずであるのに。再三警告されていたはずであるのに。
反省する頭が残っていただけましだった。
けれどもその日の剣闘士試合は、いつもとは様子が違っていた。いつもの嫌々行進をこなしながら、ルキリウスも気づいていたはずだ。
総督観覧席に、アエリウス・ガルスはいなかった。代わりにカエサル・アウグストゥスの石像が置かれ、紅紫色の鮮やかな布をかけられていた。金糸の刺繍を施されたそれは凱旋将軍のトーガだ。この国でアウグストゥスは、すでにかつてのファラオを継ぐ神の地位にいるので、それでもまだ控えめなくらいの装いだろう。だが征服されたエジプトの民の心を逆撫でするとは考えなかったのだろうか。いくらローマによる平和と繁栄を謳歌しているとはいえ、だれもわざわざ敗北を思い出させられたくなかっただろう。亡きプトレマイオス王朝とは、アレクサンドロス大王の後裔を自認するギリシア人のそれだ。彼らと事あるごとにもめているユダヤ人もまた、今はヘロデ王がアウグストゥスと上手くやっているものの、思うところはあろう。土着のエジプト人は、あれがファラオだと言われても納得できないでいるだろう。それに先代総督に、テーベとヘロオン・ポリスでの反抗を潰されて間もない。
それでも幸いにしてこの日は、彼らの注意がアウグストゥス像にばかり向かないで済む存在があった。行進中、ルキリウスもまじまじと見つめてしまった。
とても日に焼けた人の集団がいた。以前にも遠目に見たことがあった。同一人物であるかはわからないが、そのとき彼らは観客席にいた。おそらくはエチオピア人だ。それが、此度はどういうわけがあるのやら、剣闘士として参加するらしかった。
勘弁してほしい相手であると、ルキリウスは思ったのだ。四人いる。若そうに見えるものの、日に焼けすぎているためによくわからない。ただ、四人ともが見上げるほどの上背だ。内二人は、黒い艶と張りのある四肢、それにくっきりとした胸筋を、惜しげもなく剥き出しにしている。ギリシア人の彫刻家が、今までの作品をすべてぶち壊してしまいたい衝動に駆られそうなほど、見事に整った肉体だ。しかもしなやかに動くだろうことが、ただ行進しているだけでも容易に想像される。単に鍛えるだけではなく、たゆまなく使ってこそ得られる美とその実だ。
一方、残る二人もまた目立たずにはいられなかった。見事な張りと艶をそのままに、腕も足も丸太のようだ。ずんぐり腹も出ていて、とんでもない威圧感だ。ただ歩いているだけで地鳴りがしている。ましてその一方ときたら、クジラの頭のような、あの下半身はなんだ。人生でつまずくでもなんでもして、倒れたことがあるのだろうか。そしてさらには、片目を眼帯で覆っていた。病気がまったく想像できない体躯なので、今まで故国でどれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのだろうと思わせる。その敵でなくてよかったと戦慄させられる。壁のごとく不動のまま、無数の連中を薙ぎ払ったに違いない。そして残る右目の眼光ときたら、獲物に飛びかかる寸前のトラのそれだ。行進中の者たちを、片っ端から腸をえぐって食べそうだ。
体躯の大きさなら、北方のゲルマニア人やブリタニア人が有名だ。ローマにもその騎兵隊がいるので、ルキリウスも見たことがあった。小柄なローマ人は、彼ら相手にとてもではないが単体で敵いそうにない。だから武器を手に頭を使い、集団で戦うのだろう。
しかし巨人は南方にもいるのだ。日に焼けているためなのか、ゲルマニア人よりも恐ろしげで不気味に見えた。
嫌な予感ほど当たるもので、彼らはルキリウスとは反対の、南の待機場所に入っていった。
「総督は新しく奴隷でも捕まえたのかい? あんなのをどうやって?」
メリクが香料係の仕事で現れたので、ルキリウスはぼやきがちに訊いてみた。総督アエリウスであれだれであれ、あのエチオピア人に首と足を持たれ、文字どおりひと捻りにされそうだ。
「お若いの、あいつらは奴隷じゃありやせん。それどころかおエラいさんです」
「ええ?」
「フィラエの南の、メロエ王国。そこの王族だが将軍だが。普段は象狩りとかワニ狩りで暮らしている連中です」
「なんでそんな人たちが、ここで剣闘士をやるの!」ルキリウスは信じられずに叫んだ。
象狩り王子? ワニ狩り将軍? 冗談ではない。
「どうもまた総督と入れ違いになったらしくて」メリクはひたすら顔を困らせるばかりだ。所詮他人事だ。「……いや、親善を兼ねて一緒に来るはずが、総督だけナイルの旅を楽しみすぎて、帰ってくるのが遅くなってるだなんて話も」
「それは彼らが試合に出る理由にはならないよね?」
言いたいことが色々あったが、ルキリウスは目前の問題にのみ話を絞ったつもりだ。
メリクは同情するように言った。「興味を持ったらしくて。曰く、あれがエジプトの神か? 今日がその神を讃える日なのか? そいつとここで一騎打ちができるのか?」
「できるわけないでしょ! ちゃんと説明したの?」
「いや、あっしがまさか……。代理総督が説明したはずです。それでも彼らやる気満々らしくて、『ほら、こっちは剣の刃先を丸めてやる。棍棒を使ってやる。これなら文句なかろう』とか言って押し切ったそうで」
「文句ないわけないよね?」
第一、刃先を丸めようが棍棒を用いようが、あの連中の一撃をまともに食らって生きてはおれまい。第二、対するルキリウスたちは、普段の武器しか用意していない。王族だか将軍だか知らないが、死んでもいいと思っているのだろうか。剣闘士試合は確かに見世物だが、遊びではないのだ。
「まったく舐められたもんだぜ」
そばで話を立ち聞きしていたらしい剣闘士の一人が舌打ちした。名を確かウルシウスと言った。熊のように強いという意味だ。
「とにかくいいですか、お若いの」メリクは顔を引き締め、ルキリウスへ寄せてきた。「相手はメロエ人、見たとおりの相手、以上です。いつもどおりやっちまってください。ぬかるんじゃありやせんぜ」
やりにくい。やりにくいったらない。
それがルキリウスの正直な気持ちだった。
この日の試合が始まると、まず太めのメロエ人が一人、次にしなやかなメロエ人が一人、それぞれ本職の剣闘士を、斧と棍棒で薙ぎ払った。試合前、触れ役が彼らの名前を知らしめたのだが、メロエ人のそれであるために上手く聞き取れなかった。テリテカス、アクラカマニ、そんなふうに聞こえた気がする。
ルキリウスの試合は、この日の最後に組まれていた。だがここでまたもいつもと違う事態が起こった。二対二の試合を行うというのだ。メロエ人の要望だという。ルキリウスはウルシウスと組んで、入場口をくぐることになった。
まあ、これ自体は珍しいことではない。事前に知らされるべきではあるが、組を作って戦う見世物も好まれている。それにこれは二対二とはいえ、相棒を傷つけないというだけで、事実上は一対一だ。息を合わせる必要もない。広い体育場で、一度に複数の試合が並行されることだってある。
ルキリウスはウルシウスを見て、つくづくコルネリアが参加を言い出さなくてよかったと思った。何かの間違いで、彼女と組んで試合に臨む──そんな事態がありありと想像できたからだ。そうなればルキリウスは絶対に平常心を保てそうにない。
しかしそんな想像をめぐらす余裕など、本当は持ってはいけなかったのだ。
入場すると、なぜかルキリウスの前には、例の隻眼の巨人が立ちはだかった。熊のように強いウルシウスであるのに、熊よりも強そうな相手は遠慮したいらしかった。触れ役が名前を呼ばわったが、アマニレナスとアキンダ、どっちがどっちだかわからない。
しかしこれは、当の巨人が望んだ状況であったのだ。ぎらぎら光る右目で、巨人はルキリウスを見た。それから視線を上向けて、顎で差しさえした。ルキリウスが振り向くと、そこは総督観覧席で、アウグストゥスの像が見守っていた。
「オ前ガ、コノ国ノ、神カ?」
この時ようやく、ルキリウスはぞっとした。
ルキリウスらにとってエチオピア人がそうであるように、この巨人にも区別がつかないのだ。アウグストゥスとルキリウスの共通点といえば、肌と髪の色くらいだ。体格も似ていたが、遠目の石像であるし、だいたいが大きめに作られるので、その点は重要でないだろう。
だがあの石像は、本物に寄せて着色がなされていたのだ。
「違う」とルキリウスは言った。通じたかどうか怪しかったので、激しく首を振りもした。これが万国共通の否定の身振りであるかも疑わしかったが。
「デハ、王カ?」
通じたらしい。喜びつつもルキリウスは、また猛然と首を振った。
「逃ゲルナ」
それなのに今度は、相手が受け入れてくれなかった。巨人はにやりと歪んだ笑みを浮かべた。目のくらむほど白い歯がずらりと見えた。
「私ハ、カンダケ。メロエノ王」
なんだって?
ええ、なんだって?
現実を否認したくて、ルキリウスは思わず辺りをきょろきょろ見まわした。だれか通訳してくれ。正確に通訳してくれ。もしくはこの人に正しいギリシア語を、ちょっとでいいから教えてあげてくれ。
石像のアウグストゥスはなにも応えてくれない。傍らの総督代理もまた、同じくらい役に立たない顔をしている。
見渡せば観客席の一角に、目立って日に焼けた集団がいる。メロエ人に違いなく、だれもかれもしなやかで屈強に見える。一人だけ例外がいて、彼らの真ん中に腰かけて、相対的に華奢に見える背筋を伸ばしている。何連にもなる華やかな首飾りをかけている。あれこそ王族で、きっと王子か王女で、もしかしたら王なのかもしれない。そうだ、そうであるに違いない。そうであってくれ。
いったいどこの王が、親善に訪れた他国で剣闘士などやるのか。
観客席にはコルネリアもいる。ルキリウスには未経験の状況であると見て、心配そうに顔を曇らせている。そばにはトラシュルスとレオニダスもいる。後者の両親と弟妹まで勢ぞろいしている。
嫌な予感がしたが、実のところはここに至るまで認めたくなかったのだ。死ぬには絶好の場ではないか。
どこのだれだろうと、勝つしかない。それだけだった。
審判が指揮棒を振り上げた。ルキリウスは剣を構えた。相手の獲物も剣だ。騎兵用のそれほど長さがありながら、人の顔ほども幅があろうかという大剣だ。
しかし巨人には巨人であるゆえの隙があるように見えた。まずもって片目である。さして防具もつけていない。肉こそ甲冑であると言わんばかりだ。けれども肉は肉だ。致命傷を与える必要はないし、動けなくさえすればいい。
ルキリウスはいけると思ったのだ。
審判が指揮棒を振り下ろし、試合が始まった。ルキリウスは大概この瞬間に勝負を決めにかかるのだが、このときは一瞬気を呑まれた。巨人が実際に大剣を振りかざしたことに、目を疑ったのかもしれない。そのときの雄叫びが思いのほか高かったことに、耳を疑ったのかもしれない。一瞬こそ致命的だが、初めてのことではなかった。とにかく瞬時に作戦を変え、ルキリウスは相手の先手に集中した。
かなり流したつもりだったが、それでも重かった。それもただの重さではなかった。遅ればせながらルキリウスは、この瞬間に今度こそ、魂の芯から戦慄した。
強い。この人は強い。今までに相対しただれよりも強い。
しびれる両手、そして剣刃のひびが、事態のますます差し迫る危うさを教えていた。内心狂乱しながら、ルキリウスは飛びのいた。
次の大剣の一撃、二撃をかわすうち、かろうじて視野の隅が捉えた。ウルキウスがしなやかなほうのメロエ人に、棍棒で吹っ飛ばされた。
どよめきは聞こえない。ルキリウスにそんな余裕がない。
これで二人を一度に相手にしなければならなくなったのか? ともかく今は目の前の相手だ。
次の四連撃を、ルキリウスは受け止めて、かわして、しのいだ。間合いを取り、隙を窺おうとした。ウルシウスらの戦場からも遠ざかっておきたかった。
そうはさせんと、巨人はさらなる追撃をくり出した。開いた片目をさらにぎらつかせ、彼は笑っていた。面白い、面白いぞ──とばかりに。
その渾身の一撃が空振りした瞬間、ルキリウスは彼の胸に見舞った。飛び込んで、真ん中から喉へ向かい斬り上げたのだ。
決めきれなかったのは、王であるとかどうとか不確かな情報を聞いていたためか。相手の剣刃が丸まっているのに、自分のそれが鋭いままであることに気が引けたのか。
いずれルキリウスの目に飛び込んできたのは、わずかな血しぶきと浅い傷、そしてその下にくっきりと走る胸の谷間だった。
胸筋ではなかった。晒を解かれ、それは確かに揺れたのだ。
「───!」
知らない言語が耳穴に飛び込んできた。だが知らなくてもわかる。共通ではないのに、どういうわけかこの単語だけは、人間にはわかる。
母さん!
そう叫んだのだ。ウルシウスの相手だった男が。
この巨人は女人だった。しかも母親であるのだ。
アマニレナス・クォレ・カンダケ。メロエの王にして王妃。すなわち女王。
後になって、この名を聞き知ったのは奇跡だ。ルキリウスはここであ然茫然と立ちつくしたのだ。
カンダケの次の一撃は、ルキリウスがただ反射的にかざした剣を真っ二つに折った。続く五連撃が、ルキリウスをたちまちに打ち据えた。
これで勝負はついた。カンダケの気も済んだようだったが、母親を傷つけられ、息子のアキンダのほうが黙っていられなかった。土埃の中で、もはやぴくりとも動かないルキリウスへ、棍棒を振りかざして迫った。頭を潰さんとしたのだ。
審判が止めた。総督代理も止めた。カンダケ本人も止め、少なくはないアレクサンドリア市民らも石を投げて止めてくれたそうだ。ルキリウスはこれを後になって聞いた。
最も聞きたくなかった事実は、コルネリアが観客席から飛び下りてルキリウスへ覆いかぶさり、代わりにアキンダの棍棒へ頭を差し出さんとしたことだ。
その後一ヶ月、ルキリウスは寝込んで過ごした。総督官邸の地下牢ではなく、レオニダスの家の一室にいた。元の場所では十分に休めまいと、レオニダスの両親が運び込んだのだった。父親のペルペレスは、大工仕事の伝手で、腕の良い外科医を呼んでくれた。剣闘士専属の医者を押しのけ、さらに家に通ってもらうようにまで頼んだのだ。母親のラオディケは、毎日ルキリウスの食べられそうな食事を作ってくれた。三人の子どもたちのついでだからね、と。数ヶ月子守りをしただけで、ここまでしてもらうほどの恩を受ける覚えはまったくなかったが、ルキリウスにはどうしようもなかった。なんとか歩けるようになるまでひと月かかったのだ。もしかしたらそのあいだ、頻繁に寝台を訪れては戯れるレオニダスとその弟妹により、多少治癒までの時間が伸びたかもしれない。しかしそれを帳消しにしてあり余るほど、多大に世話になった。
コルネリアもまたこの家に泊まり込んだ。ルキリウスの寝台の下に直で寝ることとし、四六時中看護をした。体を拭かれ、食事を口まで運ばれ、その他諸々、ルキリウスは本当にもう彼女のために守るべき誇りがないのだと思い知らされるばかりだった。彼女は外科医の言うとおりの薬を欠かさず飲ませ、時には自分で総督官邸の薬品庫に入り、役に立ちそうなものを手に入れてきた。外科医の許可なく飲ませられないと踏みとどまることが多かったが、植物園で勧められたという奇妙な葉肉だけは、執拗に食べさせたがった。牛乳に浸し、蜂蜜で味つけし、非常に美味にして、ルキリウスの口へ入れた。
「それはアロエだよ。なんにでも効く奇跡の薬草だよ。お医者さん要らずだよ」
見舞いに来たトラシュルスが教えた。彼の母親も植物園に出入りしているそうだ。レオニダスと二人、コルネリアの見ていないところで、そのアロエの蜂蜜漬けをつまみ食いしていった。
彼の言う「なんにでも」とはたぶん病気のことで、ルキリウスのような怪我にも効能があるかはわからなかったが、少なくとも傷は悪化しなかった。しだいに快方に向かったのだ。
剣刃が丸められていなければ。今頃肉体がばらばらになっていた。ほとんどそれに近い激痛を経験したが、それでも医者たちが手を尽くしてくれたために、ましだったのだろう。エジプトの医者は、嘘か真か知らないが、病人の痛みをまったく失くし、頭を切り開く手術までしてのけるそうだ。
しかしたとえ痛みをまったく感じなかったとして、ルキリウスは当面は起き上がれなかっただろう。生まれてこのかた味わったことのない恐怖に震え、打ちのめされていた。
甘かった。自分の甘さこそすべての原因だ。最悪死ぬところだった。ほとんど最善であっても、二度とまともに動けなくなるところだった。医者は大丈夫だろうと言ったが、完治するかは未だ確信が持てない。
怪我であれ病気であれ、人間はその全貌を見ることができない。たとえば骨を折ったとて、また修復されると歴史のうえで知っていようと、それがどのように砕けて、どのようにすれば適切に元通りになるのか、医者でもすべては見通せないだろう。だから怪我一つが致命的であるのだ。ルキリウスはそれを五つも負ってしまった。
腕を失って、足を失って、ルキリウス・ロングスはどうするつもりだったのだ? 二度と戦えないばかりではない。元老院議員になれないどころではない。ティベリウスと一緒にいられなくなる。もう二度と。
ただでさえ足手まといだったのが、それにすらなれなくなるところだった。亡き腕を伸ばし足を引きずり、はるか遠くへ、見えなくなるほど遠くへ行ってしまうティベリウスへ、ルキリウスはなにができただろう。役に立つべからずではない。もはや存在しないに等しい。少なくともルキリウスはそう考えて、震え止まなかった。ぞっと冷える汗も噴き出した。
どのような形でティベリウスのそばにいるべきか、それが未だにわかっていないのに、そんなことに思いめぐらしていられないほどの瀬戸際に追いやられた。取り返しのつかない事態になって、破滅するところだった。
いったいなにをやっていたんだ……。
激しい恐怖と自責に苛まれ、ルキリウスは長いあいだ動けなかった。未だ立ち直れたとは思えていないが、それでもコルネリアがいてくれて、そして陽気なレオニダスの家族やトラシュルスがいてくれて、無理矢理にでも気が紛れるのだった。
十一月になった。総督アエリウスが帰還したというので、ルキリウスも自らの足で元王宮殿に戻った。左足は引きずっていたが、医者によればもうじき治るとのことだ。むしろそろそろ動かしたほうがよい、と。左腕だけは、もうしばらく絶対の固定を言い渡された。
「おお、ルキリウス! このような姿になるとは情けない……。いや、かわいそうに!」
両腕を広げ、アエリウスは嘆くのだった。別に事態を彼のせいにするつもりはなかったが、ルキリウスは無性に恨めしくなった。
「ものすごく後悔していますよ。あなたがたと一緒にナイルの旅に出かけなかったこと」
大嘘であり、皮肉のつもりであったが、アエリウスにはまったく効いていないようだ。執務室の片隅から、マカロンだけは非常に気の毒がるまなざしで見つめてきた。
すでに会談を済ませて帰国したらしいが、あれはやはりメロエのカンダケ御一行に間違いなかったそうだ。女王アマニレナスと、三人の王子が試合に出場した。観客席にいたのは、まだ年若い王女だったという。
しかしアマニレナスからして、あれほど屈強な子どもを三人も四人も生み落としながら、まだ三十代後半であるらしい。そのうえ剣の扱いに長け、たぶん世界最強の女であろうと、アエリウスもマカロンも口を揃える。今頃になってやめてほしいのだが、アフリカやアラビアの地元民には、彼女の剛勇ぶりは有名であるらしい。一人でエジプト船を沈めたとか、手ずから象を斬り倒して牙やら皮やらを取っているとか、にわかには信じ難い伝説が数多くあるという。あながち伝説でもなかったようだな、とアエリウスはのんきにぼやいた。
「それにしても情けないことだったな」そしてやはりその心情を口にしてしまうのだった。「せっかくのカエサル・アウグストゥスの誕生日に、腕自慢の剣闘士が揃いも揃ってメロエ人に敗北してしまうとは。いや、ローマ人は君一人だったがね」
「アエリウス、ルキリウスはまだ少年だぞ。やっと十六歳になったのだったか?」マカロンがさすがに思い出させた。「それに不公平だ。斬れるわけがあろうか、メロエの王を。女人であり、母親であるのを」
「それは困る」アエリウスはしぶしぶのように認めた。「今メロエと戦争になってはまずい」
「今」という言葉に、ルキリウスはなにか引っかかった。だがアエリウスは続けた。メロエの民は、基本的に温厚であるのだが、ときどき思い出したように略奪を行うという。だからいずれなんらかの手段を講じるべきであろうが、差し当たりはローマの覇権に従い、大人しくしてくれるようだ。ここ数年、ナイルを下って交易を試みるたび、知らない連中に貢納──つまり税の支払いを求められ、それが不満でここへ説明を求めに来たらしい。そしてたまたま体育場でアウグストゥス像を見、あれが自分たちに納税を求めている張本人だと考えたという。それはそのとおりだし、彼らにしてみたらきちんと説明がほしいのももっともだが、ルキリウスにしてみればとんだとばっちりだ。
「それで説明して、わかってもらえたんですか?」
ルキリウスの疲れた問いに、アエリウスはあいまいな感じでうなずいた。
「まぁ……なにしろ言葉が不自由でな。だが了解してくれたと思う」
思う、ではまずいだろう。しかし説明したところで、納得してもらえるだろうか。貢納とは、ローマや地中海世界にしてみれば当然必要な関税だが、あの日に焼けた人々にとっては違う。いずれ力でわからせねばならないと、アエリウスでさえ考えているのかもしれない。戦争になってはまずい、と言うくらいだから。「今」──。
「それにしても困ったな、ルキリウス」
彼は目尻眉尻をさらに下げた。
「君を頼りにしていたんだ。来年までには元気になってくれるだろうか?」
「……どうしてです?」ルキリウスは嫌な予感でいっぱいになった。
「カエサル・アウグストゥスから正式に指令を賜った」顔を生真面目にして、アエリウスは知らせた。「我々は来年、アラビア遠征を敢行する。ナバテア人とユダヤ人を同盟者としてな。この世界の果てを探検するのだ、ルキリウス。君に軍団副官の任務を与えたいと、私は考えていたんだよ」
親愛なるティベリウス・ネロ
──そういうわけで、ぼくはアラビアに行くことにした。軍団副官だって、このぼくが。
君たちと張り合うわけじゃないけど、マカロン殿曰く、アラビア半島はイベリア半島四個分超、長さは二倍くらいだってさ。
もう当面、君に手紙が届かないかもしれないね。
(第四章に続く)
(主に第四章以降用に、参考地図2に追加しています)
(ここまででおよそ全体の半分。次章がたぶん実質の山場です)
(トラシュルスの初出→1作目『ティベリウス・ネロの虜囚』第四章-9)
(マカロンとレオニダスの初出→1作目『ティベリウス・ネロの虜囚』第四章―23)
(トラシュルス、レオニダス、マカロンの再登場→2作目『ピュートドリスとティベリウス』のわりと序盤のほう)