第三章 -11
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親愛なるティベリウス・ネロ
──それでもコルネリアは自棄になっていると、ぼくは考えているよ。目先の対応としては正しい。まして危機を前にしたら、目先の対応こそ真理ってやつだ。そうだろ?
でもコルネリアは、大局を捨てているよ。
ぼくは彼女になにか将来ってやつを見せてあげられるんだろうか。
結婚もできないくせに、おこがましいって話だけどね。
男の結婚は十四歳からだ。だからできなくはないんだ。ぼくじゃなければ。
君は馬鹿だと思うかもしれないけど、いちばん必要とされているときにうなずけないなら、ぼくはあと何年待ってくれと言う資格もないと思う──
「またティベリウスへの手紙か?」
木格子の向こう側で、コルネリアが呆れ声を上げていた。
「お前はほんとティベリウスばっかりだな! 少しはお母様への手紙も書いてあげたらどうなんだ? 私に愚痴をこぼしていたぞ。たまに届いたかと思えば私の話で、自分がどうしているかはろくに書いていない」
ああ、うん、そうかもね、と適当に相槌を打ちながら、ルキリウスはペンを卓に置いた。今日も書き上げられなさそうだった。
朝、コルネリアにせかされ、ルキリウスは牢から出た。コルネリアの部屋の前を通り、階段を上る。ラオディケの働く食堂で朝食を取り、午前の勉学を始める。昼にはトラシュルスやレオニダスと遊び、午後には肉体鍛錬をする。剣闘士訓練場に行くか、ここの衛兵の稽古に交ぜてもらう。夕方には疲れた体でまた子どもらと遊んでから、夕食を取る。そんな日課が始まって、夏の盛りが過ぎ、もう季節は秋になった。総督アエリウス・ガルスは、未だにナイル遡行の旅から帰ってこなかった。もしかしたら砂漠か葬祭殿の中ででも迷子になったのかもしれない。
コルネリアはルキリウスのいる牢獄の空室を使用していた。ここに居座って以来、囚人仲間を得たことがなかったルキリウスだが、彼女が来たその日から、蜘蛛の巣を払うことから始めて、猛然と掃除をした。一緒に買い物にも出かけ、寝具やらなにやらを揃えた。不足部分はラオディケに頼み、宮仕え女性陣の設備を利用させてもらえるようにも取り計らった。
コルネリアは感謝しつつ、くすくすと笑っていた。
「一緒の部屋じゃだめなのか?」
「十五歳の男の理性なんて、世界でいちばん信用できないよ。覚えておきなよ」
実のところは格子を二つばかり隔てていてさえ、限界ぎりぎりという思いだった。当のコルネリアはまったく他人事のように、毎晩すやすやと寝息を立てていたが。
たまにすすり泣きの聞こえたときだけ、木格子をくぐり、腕と肩と胸を差し出しにいった。
ルキリウスの小さな友人二人も、すぐにコルネリアになついた。トラシュルスの算数の勉強に付き添い、レオニダスを背負って広場を駆け、コルネリアは陽気に笑い声を上げた。実際に楽しそうだし、案外教師に向いていたらしい。ルキリウスもまた子守りの負担が減ったと、何度もこれ見よがしにほっとため息をつくのだった。
さぼっているのを目ざとく見つけ、コルネリアは子どもらをけしかけた。トラシュルスはヴェルギリウスの詩をギリシア語で音読するようにせがみ、レオニダスは藁の剣其の五で滅多打ちにしてきた。後者四歳は特に、七月にコルネリアと出くわした、あの剣闘士試合を見ていたらしく、今やすっかり標的にされていた。あこがれの的と言えば聞こえはいいが、実態はおもちゃだ。「おれもつよくなるために」好きなだけ利用されるのだ。「さいきょうになるまで」
それはともかくルキリウスは、以後コルネリアの剣闘士試合の出場を禁止しようとした。腕がなまる、とコルネリアは不満顔だった。
「ならば、普通に女として出るよ。最近は女剣闘士も流行りだからさ、ポッツォーリでもそうしたんだ。女同士の試合なら問題ないだろ」
問題なくはない。彼女は譲歩したつもりだったろうが、どっちにしろ殺し合いにはなる。相変わらずとんでもない。それでルキリウスのほうは、せめて総督アエリウスが戻るまではやめるようにと譲歩した。彼には口利きできるので、最悪の場合でも死なずに済む可能性が高くなるから、と。本当はアエリウスが戻ったならば、彼に事情をぶちまけてでも、今度こそ完全に剣闘士試合場から彼女を締め出すつもりでいた。
しかし一度口論になった後、結局彼女は九月の試合に出場した。女剣闘士同士の見世物だ。
数ヶ所の薄い切り傷を負いながらも、コルネリアは勝利して戻った。
「見てたか、ルキリウス?」
実際、訓練を始めて半年程度であることが信じ難いくらい、彼女は腕の立つ剣士だった。この日まで何度も手合わせしたので、ルキリウスにもわかっていた。元々が運動能力の高い少女だ。バルバトゥスも見込みのない人材には、ここまでの技を教えなかっただろう。
「これでお前に誕生日の贈り物ができるな。一緒に買い物に行こう」
そこで彼女は、さすがに憔悴しきったルキリウスを無視できなくなった。
「わかった、わかった、わかったよ! もうやめる! もう当分やめる! だからそんな顔しないでってば……」
もうすぐ十六歳になる男が、自分の要求を通すのに泣くしかないとは、つくづく情けなかった。赤ん坊だ。
「でもルキリウス」頬の切り傷をぬぐうように掻きながら、コルネリアは真面目な口調で話すのだった。「だったらお前もやめることを考えてほしい。もう十分のはずだ。これ以上見世物に出続けてなんになる?」
そのとおりだった。ルキリウスはほかにすることがないから剣闘士試合に出続けただけだ。そうに違いない。もはや月一度の習慣になって、自分でもよくわからない。
当面の生活費はあった。コルネリアも今日勝って、賞金を得た。そして来年、ルキリウスの祖父と叔父が無事インドから帰ってくれば、ロングス家は大富豪になる……かもしれない。いずれ無駄遣いしなければ、年を越せるくらいの懐具合ではあった。
ではいったいルキリウス・ロングスこそ、つくづくなにをしているのだろうか? ティベリウスからの手紙でも、何度となくその問い、ないし非難が書かれてきた。
ルキリウスの誕生日には、アレクサンドリアの大通りに出て、コルネリアとお揃いの指輪を買った。だがそのあつらえを見て、コルネリアは眉間に深い皺を寄せた。
「これがあたしたちの結婚指輪なの?」
「両方、君が持っていていいんだよ」甘い夢のかけらも見ない調子で、ルキリウスは勧めた。「ぼくにはいらないから。というか、かえって自分を傷つける凶器になるから。君も気をつけるように」
それは鋭い棘をあしらった指輪だった。以前、非力な者の備えとして、教師バルバトゥスが推奨していたのだ。
その月の二十三日には、カエサル・アウグストゥスの誕生日も祝われた。カエサル神殿は華やかに飾られ、牡牛が犠牲に捧げられた。当然のごとくまたも剣闘士試合が開催され、ルキリウスは砂漠のどこかにいるアエリウス・ガルスから、直々に出場要請の手紙を賜った。彼自身が不在であるくせに、ルキリウスに会場を盛り上げろと言っているのだ。代理総督には君を決して死なせないように言っておくから、と一応の言葉は添えられていたが。
コルネリアはこの祭典試合に出場しないと言った。ルキリウスが反対する以前に、アウグストゥスの誕生日を祝うという目的に自分が沿えないと思ったのだ。父親の死の原因を作った人物であることに違いないのだから。
ぼくもこれを最後にするよ、とルキリウスはコルネリアに約束した。そして、だからといって先になんの当てもなかったが、だいぶほっとした気持ちで試合に臨んだのだ。
結果、剣闘士ルキリウス・ロングスは初の敗北を喫した。