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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第三章 ヒスパニアのティベリウス
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第三章 -10



 10



「試合を中止しろ!」

 ルキリウスは相手方の待機場所に怒鳴り込んでいた。しかし試合前の接触は、場外乱闘となりかねないので禁止されていた。ルキリウスは青銅の柵に遮られ、さらに警備兵にも押さえられながらわめきまくったのだ。

「ふざけんなよ! 剣闘士だと?」

 しかしルキリウスがいくら暴れようと、当の本人は柵の向こう側でどこ吹く風と言わんばかりの顔をしているのだ。汚らわしい腰掛けに片膝を抱えて座り、目線は開門を待つばかりの入場口へ据えている。まるでルキリウスの声など聞こえていないように。

「その子は女の子だぞ!」ルキリウスは柵から指を突き出していた。「そのうえまだ十五歳だ! どこの蛮賊砦だ、ここは?」

 知らしめてから、ルキリウスははっと気づいた。たちまち全身から血がなだれ落ちていくような感覚がした。

 馬鹿なのか、お前は。こんなところで女子であることを知らしめてどうなる? どんな連中の只中に、今彼女はいると思っている? かえってこのうえもなく危険な状況にさらした。お前の余計な口のせいだ、ルキリウス・ロングス。

 当の似非剣闘士は、ルキリウスを見ないままため息をついた。

「そいつをどっかにやってくれ」

 聞いたことがない、醒めた声色だった。

「新顔の俺が怖いらしい。試合前からわけのわからんちょっかいとは」

「──おいっ」

 絶句した後、気づけばルキリウスは、警備兵に廊下を引きずられていた。

「おいっ──おいっ──」

 なにもできない。止めることはおろか、彼女の名を呼ぶことすらできない。

 しかし新顔コルネリウス・フェロクス(剛勇)は、この日の第一試合で見るも鮮やかな勝利を収めたのだった。相手は例によって対初心者用の武器持ち死刑囚だったが、自分よりはるかに体が大きくて残忍に見えるその男を、新顔剣闘士は切り伏せた。一撃かわした後、目にもとまらぬような三連撃を走らせたのだ。さながら流れ星のようだった。

 だが実際に飛び散ったのは、やはり血しぶきだった。鮮やかな赤。勝者にも敗者にも降りかかり、どす黒く変わっていく赤。

 門柵の向こう側で、ルキリウスは茫然とその光景を見守っていた。

 相手の男は、たぶん致命傷は負わなかった。いずれも急所は外れていた。ただ腕に足に脇腹に、長い裂傷を負わされたなら、戦意は失せるだろう。なにをして死刑囚になったかは知らないが、痛みにも慣れていなかったのだろう。いずれにせよ審判が戦闘続行不可と見なした。

 ルキリウスの試合はこれよりずっと遅い時間に組まれていた。もはやベテラン剣闘士扱いされていたのだ。

 試合を終えたので、問題ないとされたのだろう。コルネリウス・フェロクスとかいうふざけた名前の剣闘士は、試合前のルキリウスの待機場所に姿を見せた。柵越しに、ルキリウスはつかみかかっていた。

「いったい君はなにをしているんだ!」

 三年間のティベリウスをさえ、ルキリウスはここまで激高して怒鳴りつけただろうか。涙こそ出ていないが。

「コルネリア! どうして君はこんなことをしている!」

「落ち着け」ひどく醒めた調子のまま、コルネリアは胸倉をつかんで震えるルキリウスの手に、自身のそれを重ねた。「痛いだろ。それにそんな具合じゃ、試合で死ぬぞ」

「だれのせいで──」

 興奮のあまり、ルキリウスは言葉を継げなくなった。

「とにかく少し頭を冷やせ、ルキリウス」

 コルネリアにしか見えない、短髪の少年剣士は言った。ぎゅっと力を込めてくる手は、つい先程人を血祭りに上げたばかりだ。こんなに硬かっただろうか。豆とその痕だらけだっただろうか。

 本当に、わずか七ヶ月前、あの月下でつないで踊った、あのやわらかい手なのだろうか。

「俺は……私は勝った。それも今日が初めてじゃない。三度目だ。前の二度は、ポッツォーリの円形劇場で勝ったんだ」

「なん──」

「あとで話す」コルネリアであった少年は、ルキリウスの両頬をばんっと叩いた。「終わったら、お前のあの寝床へ行く。だから今は、試合に集中してくれ。生きて返ってきてくれ」

 なんて勝手なことを、と言いかけた。しかしすでに青銅の柵にめり込んだルキリウスの額へ、少年はそっと唇を押し当てたのだった。

「私は大丈夫だから、な?」

 この感触だけは、半年前とまったく変わっていなかった。

「さあ、言えよ」

 仰せのとおり、この日の最後から二番目の試合で勝利を収めてから、ルキリウスは地面を激しく踏みならして牢獄に戻ってきた。

 コルネリアは木格子にもたれて立っていた。ルキリウスは顔をぬぐいながら迫った。

「どうして君がこんなことになったのか、言えよ……」

 そして彼女を胸いっぱいに抱きしめた。まもなく堪えきれずに膝から崩れ落ちた。

「ルキリウス……」

 これにはコルネリアも参ったようだ。つられてひざまずきながら、声になつかしい甘さをにじませた。

「そんなに泣かないでよ……。あなたって人は、ほんとに相変わらず泣き虫なんだから」

「だれのせいだよ……」鼻をすすりながら、ルキリウスは力なく責めた。「君たち親子ときたら、隙あらば、ぼくの男としての尊厳をずたずたにせずにはいられないんだな」

「ルキリウス」父親への言及は、コルネリアの声からなつかしさを霞ませた。「私は最悪を見た。でも今は、たぶんあなたが思っているほど最悪ではないよ」

「十五歳の女の子が、外国で一人、剣闘士になって殺し合いをすることのなにが最悪でないのか、説明しようもないと思うんだけど。……ピリヌスに会ったのかい? バルバトゥス先生にも?」

「ああ、会った」

「……そのせいなのか?」

 ピリヌスとは、コルネリアの消息をつかむため、ルキリウスが最初にローマへ送った奴隷だ。教師バルバトゥスをもまたこの三月、祖父と叔父を見送る傍ら、ローマへ帰していた。新総督が良い人なので、自分はもう大丈夫です。だから契約をここで終わりとしますが、お金をもう少しだけ払いますので、あなたがご家族のところへ戻った後でいい。コルネリア・ガッラを見つけたなら、ぼくに代わってできるだけのことをしてあげてくれませんか──。

 頼む相手がおかしかった。だがルキリウスは、もうほかに当てにできる人物がいなかったのだ。

 契約どおり、バルバトゥスは「自分にできるだけのこと」をしたというわけだ。

 なにを考えていたんだ!

 だがコルネリアが言った。「バルバトゥス先生は私からお呼び立てしたんだ。それまではヴェルギリウス殿やあなたのお母様がかくまってくださった。私は……早いうちから剣闘士になることを考えていた……」

 始めはうっすらと笑みさえ浮かべていた。けれども虚ろなそれは、やがて怒りと憎しみに歪んでいった。

「だってあの連中ときたら、あたしを競売にかけ出したのよ! よりにもよって、お父様を裏切ったやつらが、どの面下げて! お父様は自ら命を絶たれた。それだけじゃない! 連中と元老院はね、死んだ後もお父様を痛めつけたのよ! 『記録抹殺刑』だって! 信じられる? お父様の公式な記録を、すべて消し去るんだって! あらゆる文書や碑文から名前を削って、石像も壊して、存在自体をなかったことにするんだって! お父様の詩さえ、多くが焼き捨てられたのよ……」

 記録抹殺刑。このエジプトで、はるか昔のファラオが死んだ先王に対して同じようなことをやった事例があるらしい。だがローマ人がローマ人に対してこのような刑罰を行うとは、前代未聞だ。亡き人の痕跡一切を、歴史から一切消し去るべしと決めるのだ。

 かつてマルクス・アントニウスも、この国で死んだ後は世界じゅうで像が破壊された。けれどもその名前まで消されたわけではない。

 けれどもローマ人は、コルネリウス・ガルスにはその処遇を是と決議したのだ。大詩人と謳われた男を。武功を上げ、初代エジプト総督に登りつめた男を。

「裁判の様子は聞いていたわ。でもあたしは……お父様がそこまで罰せられるほどのなにをしたのか、最後までわからなかった……」

 コルネリアは涙を流した。ようやくだ。先に泣いてしまったことを情けなく思いながら、ルキリウスはしばらくコルネリアの背中をさすっていた。抱きしめて、何度も接吻した。

 半年も過ぎてしまった。

「あいつらっ──」コルネリアは拳で地面を叩いた。何度も、何度も。「裏切者! 卑怯者! 臆病者! よってたかってお父様を侮辱して、追いつめて! そのうえかわいそうなあたしを、妻にしてあげるですって? ふざけんじゃないわよ! 子どもに罪はない? カエサルだって、敵の子どもを保護しているではないかって? あいつら何様のつもりなのよ! いやらしい下衆ども!」

「……カエサルが憎いかい?」

 コルネリアの背中をそっと叩きながら、ルキリウスは訊いた。しゃくり上げながら、彼女はしばらく黙っていた。

「……わかんない」やがて悔しそうに言った。「だってあたしは、カエサルに会っていないもの。ローマにさえいなかった人だもの。あの人がなにを言ったにせよ全部遅くて……お父様は絶望してしまった。……でもあたしには……みんながカエサルを看板みたいに掲げて、お父様を破滅させたように見えた」

「ああ、きっとそうだと思う」

 ルキリウスは同意した。カエサル一人を憎めばよいという話なら、コルネリアはまだ楽だったはずだ。

「あたし、それでも妻になってやろうって、思ったのよ」目の端から、歯のあいだから、コルネリアはまた憎しみをほとばしらせた。「まずラルグスから、寝所で刺し殺してやるの。それから次の裏切り者、次の卑怯者……ってね。でもね、ルキリウス、殺してやりたい男が、あたしにはあまりにも多すぎた」

「……それで剣闘士の訓練を考えたの?」

「それもある」コルネリアは認めた。「でも、ほんとは違う。あたしは、ただ強くなりたかった。あいつらの思いどおりになりたくなくて、好きなようにされたくなかった」

「当たり前だ。当たり前だよ、コルネリア」ルキリウスは何度もうなずいた。それからいく分沈着に言った。「……でもね、こんな道を選ばない方法は、まだあったはずなんだ。ヴェルギリウス殿なら、もしかしたら君の身の振り方を、もっとましにできたかもしれない。首都以外のところで信頼できる男を見つけるとか、ひょっとすると彼が君の夫に名乗りを上げてくれたかも。形だけにしても」

「あたしより打ちのめされていた人が?」

「コルネリア……」ルキリウスは彼女を抱き直した。優しい子なのだ。悲嘆と憎悪の只中にありながら、ちゃんと周りを見ているのだ。

「あたしに選ぶ権利はないの?」だが彼女は怒りを込めて言った。「あたしは物じゃない。人間なのよ。ローマ女と認められなくたって、コルネリウス・ガルスの娘なのよ。好きな男と結婚するか、さもなくば一人で闘って死ぬか。それくらいの決定権はないの? 自分のことなのよ」

「コルネリア」ルキリウスは目を閉じた。「コルネリア……」しきりに背中をさする。それくらいしかできないなんて。

 自分の身の振り方を決められない女は、ローマには少なからずいた。貧しい庶民でも、良い家柄の婦女子でも。ローマは家父長制を伝統とし、家子の生殺与奪の権限を与えているのだ。だが家父長が生きていればまだよかった。逆らうとか、駆け落ちするとか、交渉手段はまだあった。気に入らない相手と結婚したがるからといって、実際に娘を殺せる父親などほとんどいない。勘当すればいい。実際はむしろ娘を独身のまま、勝手気ままに贅沢さえさせてやる親のほうが多かった。

 だがコルネリウス・ガルスは死んだ。そのうえ記録抹殺刑にされ、財産を没収されたのだ。コルネリアがガルスの実子と認められていたとて、もはや同じだ。一文無しの女の子だ。

 嫁に行くしかなかった。そうでなければ、どこかでなにかをして働くのだが、住む家さえままならないではないか。天涯孤独の少女十五歳が、いったいだれの家でなら安心して眠れるというのだ。

 ルキリウスが思い当たったのは、ヴェルギリウス一人だ。しかし彼の気質を知っていたし、また願えるほどの縁はないので、母フラウヴィアに、バルバトゥスに、できるだけのことをしてほしいと頼んだ。

 だがルキリウス本人は、なにをした?

「ルキリウス、あなたはあたしと結婚してくれないのよね?」

 彼女はすでに見通していた。名乗りを上げて、乞い願って、それでもコルネリアを娶れた可能性は低いとせざるを得ない。しかし駄目で元々であれ、ルキリウス本人がローマへ帰らなかった。それが答えであるのだ。

「……コルネリア」ルキリウスは彼女の顔を見られなかった。「……君がもし、ぼくの母さんかヴェルギリウス殿のところにいられるなら、ぼくはティベリウスに頼んでみようと思った。彼からカエサルに話してもらって……どうか、君に……まともな男をめあわせてくれるようにって……」

「でもそれはあなたじゃない」

「ああ」底無しに深く、自分に失望していた。「ぼくじゃないだろうな……」

 そうだ。ルキリウス・ロングスとかいう世界一の臆病者は、自分がコルネリアの夫になると手を上げることができないのだ。

 なんの実績もない少年で、頼りなく思われるだろうことが第一。そしてほかの理由も──。

「元老院議員になりたいから、あたしが邪魔?」

「違う!」ルキリウスはぎょっと顔を上げた。「それだけは違う……」

 たとえ外国人の妻であれ、元老院議員になるだけならば、なんともできない条件ではなかった。ルキリウスは元老院議員になれさえすればいいのだ。末席の末席でかまわない。好きな女を一人背負って、実力で地位を得る。それくらいの気概はある。叶うか叶わないかではなく、努力はできる。

 しかしルキリウスを思いとどまらせているものは、別のことだ。それは自分でもはっきりとはわかっていない、なにかだ。

「わかってるわよ」優しいコルネリアは、笑ってくれるのだった。ひんやりした額を、こつんとルキリウスのそれに当ててくれた。

 ああ、とどのつまり、やっぱり、コルネリアが今剣闘士になっているのは、全部、全部、このルキリウス・ロングスのせいなのだ。

「あなたはそんな人じゃない。わかってる。無理強いはしないわ。だれだって、だれかの生き方は変えられない。あたしがお父様へそうだったように」

 ルキリウスは頭を思いきり殴りつけられる感覚がした。自分が長い時間をかけても受け入れられないでいることを、コルネリア・ガッラは認めてしまったのだ。容易く、あっさり、ではあるまい。激しい苦悶と悲しみの最中で、認めるしかなかったのだ。

「だからね、ルキリウス、あなたもあたしに好きにさせてほしいのよ。あなたのせいじゃないから。なにがどうなっても」

 そんなことがあろうか。暴力に身をさられようと、殺し殺されようと、ルキリウス・ロングスのせいではない?

「あなたに会いたかった。そばにいたかった。これだけよ」

 コルネリアはルキリウスのためにここへ生きて戻った。そうであるのに?

 再会したコルネリアは、人が変わったような醒めた顔をしていた。実際に外見も変え、口調も変え、これまでの生き方も変えた。

 並大抵の決意ではなかったはずだ。そしてアレクサンドリアの体育場に立つまでに、断固たる行動をやめなかった。

 しかしいざルキリウスを前に話をすれば、なつかしいコルネリアに戻るのだった。長い髪はほぼ丸坊主になった。皮膚は日に焼けて、にきび痕が目立った。華奢だった腕は張り詰め、手のひらは硬くなった。

 それなのに彼女の笑顔は、変わらず輝いていた。

 当たり前だ。愛する人を前にして、輝かずにいられる人間がいるだろうか。

 くしゃくしゃにするように、ルキリウスはコルネリアを抱きすくめた。声を殺そうとしても上手くいかず、長いあいだまた泣いた。

 結局、人はだれも背負えないのか。

 ああ、だから言うのだ。結局好きに生きて、好きに死ぬしかないならば、家族も友も持つべきではない──。







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