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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第三章 ヒスパニアのティベリウス
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第三章 -9

 


 9



 ヴィンディウス山ほどの高所でなかったアラケルムは、七月のうちに陥落した。ローマ軍は北へのみ逃げる隙を作ったので、人々はその方角へ殺到した。

 第十軍団がアラケルムを占拠するあいだ、第二軍団のティベリウスは、その人々が態勢を立て直すより早く追撃する任務に加わった。第四、第九軍団もまた広く展開し、カンタブリ族を追い立てた。多くが山を越え、海へ向かった。

 騎馬で山を下りながら、ティベリウスは初めてカンタブリア海を目にした。息を呑む美しさだった。ローマ本土で見る地中海より色薄い青は、穢れもなく見えた。白い波が少しばかり荒く岩場を打ちつけている。とたんに心地よい北風が吹きつけた。

 季節は今一年で最も暑い。しかしティベリウスは、案外カンタブリアの夏が過ごしやすいと感じていた。首都ローマの日向など、この時期は歩いていられないほど暑いのだ。荒々しい気候が荒々しい部族を作るのだと言う人もいるが、少なくともカンタブリア沿岸の夏は、人に優しいようだ。

 しかしひとたび海へ出れば別だ。カンタブリ族は長いあいだこの北の海を支配してきた。いわば山と同じく、彼らの庭だ。

 港と呼ぶには程遠いが、それでも行く手には桟橋が複数見えた。小ぶりではあるが船も居並んでいて、すでに漕ぎ出しているものもある。カンタブリ族は漁業も重要な生活手段の一つとしているのだ。ここから海路を西へでも逃げれば、包囲網を突破できる。アストゥレス族などほかの部族と合流し、再起を図れるかもしれない。

 ティベリウスは浜辺まで馬を駆った。大洋オケアノスはここからほんのわずか西で果てるとされるが、今まさにその地平線に陽が接しようとしていた。

 陽の沈む前に決着をつけねばならない。波間へ急ぐカンタブリ族へ、ティベリウスは槍を投げつけた。そして馬から飛び下り、剣を抜いて浜辺を駆けていった。ルキウス・ピソがすぐ傍らに並んだ。軍団長代理の職務から解放されたので、もう先頭を走ってもよいと考えているようだ。

 彼らの目的は、実のところカンタブリ族を海に行かせないことではなかった。逆だ。圧力をかけて、海へ追い込もうとしているのだった。正直なところは、二度の包囲戦を終え、野を越え山をまたぎ網をしぼってきたローマ軍団は、余力が尽きかけていた。体力の余る者が先を行き、作戦の極みを果たすのだ。あと少しだ。

 敵を追い立てながら、ティベリウスは波間に近づいた。やけにあたたかくつま先が濡れ、ふと先程自らの槍が命中した男を一瞥した。そのとたんに硬直した。

 波になぶられながら、その男は動かなかった。穢れなかった薄青い海は、見る見る赤黒い血に染まっていった。

 初めて人を斬ったのは、ササモンの堡塁外だった。しかしティベリウスは、今こそ自分が人殺しになったのだという事実を思い知らされた。

 およそ五年前、アクティウムの北の浜辺。ティベリウスは人生で初めて戦闘を目撃にした。不注意な移動中に巻き込まれたのだ。

 あの時ティベリウスをかばって死んだ奴隷がいた。トオンという名で、ティベリウスが生まれたときから乳母のように育ててくれた男だった。

 彼もこうして波間で息絶えたのだ。体から穂先を抜かれ、血を吐いて、ティベリウスを抱きしめたまま。

 彼を手にかけた男と、今自分はまったく同じことをしていた──。

「ティベリウス!」

 呼ばれて、はっと我に返ると、すでに四人のカンタブリ族に取り囲まれていた。彼らへ、ティベリウスが向けたのは、自嘲の笑みだった。

 まただ。

 マルケルスが心配しているのだろう。グネウスが怒っているのだろう。ピソが慌てた様子で駆けてくる。アンティスティウスでさえ、もういい加減にせねば縄を打つと決めるかもしれない。

 なあ、トオン──。

 相手の斧を受け流し、剣をかいくぐり、ティベリウスはグラディウスを振るった。アラケルム到着後に、部下の一人が拾って届けてくれたのだ。

 ──お前に救われた命だ。ネロ家の男として、覚悟を持ってここへ来たつもりだ。だが私は、これで良かったんだろうか──?

 カンタブリ族にしてみれば、仲間の一部がローマ人を食い止めているあいだに、大多数が海へ逃げる算段だった。力自慢の勇者が、ティベリウスとピソ、それにほかの軍団兵らを足止めし、残りは桟橋から船に飛び乗った。浜辺から筏程度のそれを押し出したり、ただ身一つで海へ泳ぎ入ったりする者もいた。

 ティベリウスはここで死ぬつもりはなかった。ローマ軍もまたむざむざカンタブリ族を海へ逃がすつもりもなかった。

 彼らには見えないのだろうか、東西の岬の陰から静々進み出てくるクジラたちが。たちまち水平線を埋め尽くすように居並び、多くの子を産み落としている姿が。号令とともに、一斉に飛んでくる石の雨が。

 ローマ軍団兵らはただちに退いた。山を目がけて駆け戻ったのだ。ティベリウスとピソも同様だった。

 あれらはただの投石機ではない。当代最強のローマ将軍が改良した新兵器だ。

「坊ちゃーーーーんっ!」

 けれどもそんな声が耳に届いては、ティベリウスもつい相好を崩してしまう。

 あんなところからどうして見えたのだろう。ティベリウスにも見えていたが。

 ポッツォーリを出航し、マルセーユで増強し、ローヌ川とソーヌ川とレーヌ川を上って下った。ひと足早く北の海へ出て、ガリア・アクィターニア沖を南下した。その間、ついでのように道路工事を進め、食糧をたっぷりと積載し、憎たらしいほどの時宜を見て、七個目のローマ軍団が現れた。

 第二十軍団ヴィクトリス。率いるは、前執政官にして当代一の名将、マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパ。

 やっぱり来た。

 この日は八月一日だった。あれからちょうど四年になった。





 長い時間、死んだように眠った自覚があった。ティベリウスが目を覚ました場所は、甲板に垂らされた天幕の中だった。

 色々な人間の声が聞こえたが、どれも切羽詰まってはいなかった。むしろ皆が陽気で、満ち足りているようだ。

 しかしまだ戦争が終わったわけではない。

 簡易寝台から仰向けに、ティベリウスは麻布越しの太陽を見つめた。

 力尽きて、気を抜いて、こんなふうに眠り込んでいるあいだに、命を奪われた者がいた。アンテュルス、そしてルキリウスの父親──。

 ティベリウスは体を起こした。軽く髪と身なりを整え、天幕の外へ出ると、カンタブリアの薄青い海が、昨日流れた幾多の血を、すべて洗い流したかのように平然ときらめいていた。船縁に立つと、桟橋で釣りをしたり、浜辺で日光浴や海水浴をしたりする軍団兵らが見えた。さすがにあれからもう少し西へ移動したのだが、それでも昨日殺し合いをしたのと同じ海岸線だ。それでも彼らは束の間の休息を楽しんでいた。思い思いに体と心を癒しているのだ。ティベリウスと同じように。

 ガリア・アクィターニアからの補給が、たっぷりと与えられた。夏の海路を確保したので、今後も滞ることはないだろう。

 陸と海からの挟み撃ちは成功した。これを逃れ得たカンタブリ族は、陸路を西へ駆けるしかなかった。だがそんな彼らも幸運とは言えないだろう。

 天幕越しに確認したとおり、太陽はすでに天頂へ昇っていた。

「坊ちゃん!」

 呼ばれて、ティベリウスはまた笑みをこぼすしかなかった。振り向けば、やはりよくなじんだ笑顔が、船室から階段を上ってきたところだった。

 アグリッパの広げた腕の中に、ティベリウスは素直に誘われていった。昨夜再会した時もこのようにしたが、今改めてアグリッパはうれしい驚きとばかりに顔を輝かせるのだった。

「いやはや、坊ちゃん!」それは将軍の顔ではなく、身内としてのそれだった。「やはり勘違いではなかった。少し見ないあいだに、またいちだんとたくましくなられて! 顔つきもさらに精悍になった。もう一人前の男の顔だ! ……もう坊ちゃんとお呼びしてはいけないだろうか」

 一年と少し前、ティベリウスが成人した日もそのようにためらっていた。さすがに軍営にいるあいだはその呼び方をしないだろうが、当面はやめてくれそうにない。まして今は彼の旗艦の上だ。

 肉づきを確かめんと、アグリッパはティベリウスの体じゅうをばんばんと叩いた。大きな両手のひらで力いっぱい、跳ね返る感触がいちいち快いとばかりに。

「痛いですよ……」

 両頬を挟まれたときは、さすがに苦笑になって、文句を言った。これではとても上官に対する態度を保てそうにないが、どうしてくれるのだろうか。

 アグリッパはにんまりとして、少しも心配していないようだった。「もう私は君に背丈を追いつかれましたかな? いやいや、まだまだ婿殿に負けるわけには……。おい、ナウテウス、私と坊ちゃ……ネロの背丈を比べてくれ」

 彼はいそいそと従者に頼んでいた。

「よく頑張った」それからまた改めて、胸いっぱいに抱きしめてくれたのだった。「山岳民相手に、忍耐ばかり強いられる困難な道のりだったと思う。君が乗り越えてくれてうれしい」

「私はなにもしておりません」

「本当かな?」アグリッパはいたずらっぽい笑みでティベリウスを見つめた。「君の活躍が聞こえてきたぞ。もう戦歴十五年のベテラン兵のようだったと、複数人が伝えてくれている」

「軍団副官のくせになにをしているのかと指摘されました」ティベリウスは白状した。「マルケルスにも余計な負荷と心配をかけたと思います」

「でも君は命令に背くことはしていないだろう?」理解していると示すように、アグリッパはうなずいた。「まずだれよりも強くあろうとしただけだ。先頭を行く盾となって、皆を守れるように」

「アグリッパ……」

 そう評価してくれることに感謝するのだが、果たして自分はそれだけのことができただろうか。昨日以外、アグリッパには直接戦地での行動を見られていないのだ。

 私はふさわしい戦いができただろうか。初陣の者として、軍団副官として、将来ローマを守れる者として。

「とはいえ少しばかりはりきりすぎたと思う」アグリッパもやはり柔らかくとも指摘してきた。「若い故な。気持ちはよくわかるよ。私もこのヒスパニアで初めて戦場へ出たので、思い出すんだ。……それにしても君はまだ十五歳で、いちばん若いのだから信じられないが……」

 ティベリウスの両肩に手を置き、アグリッパはつくづくと上から下まで見渡す。実は母親が誕生年を勘違いしていたのではないかと疑うように。

 彼はもう一度、痛いくらい力強く、ティベリウスの肩を叩いた。

「いずれ私が来たからにはもう、君が頑張りすぎる必要はない。安心して、私に負わせてくれ。君も、君の荷の一部も」

 ティベリウスは微笑んだ。いつまでもこの人に甘える身ではいけないと思うが、それでもこの未来の義父は、いつでもティベリウスを安心させるためにいてくれるようだ。継父アウグストゥスにとってもそういう存在であるに違いない。

 継父は今頃どうしているだろうか。作戦の成功を、タラゴーナでもうじき耳にするだろうか。

 だがまだ戦争は終わっていない。

「あと少しだ」アグリッパも思い出させた。「これからは私も一緒だ。あと少しだけ、君の力を貸してほしい。無理はさせない。必ずカエサルとリヴィア殿の下へ無事帰すと約束する。ドルースス坊ちゃんと一緒に」

 海上を押さえた今、戦争の行方は見通された。力を蓄えたローマ軍は、真夏の太陽の下を西へ、行軍を再開した。もう包囲網は小さな網目を残すのみだ。






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