第一章 -4
4
翌朝、ネロ家の寝室で、ティベリウスは普段どおりの時間に起床した。顔を洗い、昨日とは打って変わって閑散とした邸内を歩き、食堂に入ると、ルキリウス・ロングスがむしゃむしゃと朝食を口に入れていた。
「やあ、おふぁよう」
口の中をいっぱいにしたまま、彼は挨拶した。ティベリウスはうんざりと目玉をまわしてみせた。
「もうちょっと遅く起きてきてもよかったのに」
ルキリウスはさらに手早く食卓上のものを自分の前に取り寄せた。
「君にとっては昨夜の残り物でも、ぼくにとってはご馳走なんだから。いや、やっぱり思ったとおり、貴族様宅の晩餐は違うね。早起きして来た甲斐があったよ」
「わざわざ人の家の朝食を漁りにくる甲斐が」
苦い顔で、ティベリウスはルキリウスの真正面にどかっと腰を下ろした。口をリスのように膨らませて咀嚼を休まないまま、ルキリウスはいかにも無邪気そうに目線を上げてきた。
「うぅん、で? どうだい、大人になってふぁいしょのあしゃは? すがすがしい? 生まれ変わった気分?」
「ああ、お前のおかげで最高だ」ティベリウスは全力の皮肉を込めた。「で、お前のほうはどうなんだ?」
「気分だけならぼくも最高」ルキリウスは請け合った。「一日の始まりからこんなお魚やお肉や新鮮な果物を食べられるなんて、奇跡みたいな贅沢だからね」
そうじゃない、とティベリウスはうなった。「料理が食べたいなら、昨日のうちにここへ来ればよかっただろう? 残り物じゃないし、果物だってもっと新鮮だった」
「君も反対しないと思うけど、熟成っていうの? 一晩置いた料理には独特のおいしさがあると思うんだ。ましてお金持ちのおうちの豪勢なお料理なら、後でいただいても十二分に満足。むしろこのほうがほかの客がいなくてゆっくり味わえるよね。君やドルーススが早く起きてこなければ」
「よく言う」ティベリウスはさらにうなった。「お前の家だって『豪勢なお料理』を用意したはずだ。一人息子の成人式だぞ!」
「いやいや、そんな」一度に何粒も押し込んだサクランボの汁を口から垂らしたまま、ルキリウスはさも慎み深く首を振った。「名門貴族クラウディウス・ネロ家のお祝いの席とは比べ物にならないよ。なにしろぼくのところは、アヴェンティーノの雑踏に怖々ひっそり混ざった新入り庶民の家なんだから。知ってるでしょ?」
知っていた。たとえば、ルキリウスの家は、十四歳の次期家父長が無駄におしゃべりになるほどには高い教育を与え、ポッツォーリを拠点に海運業を営んでいることなどを知っていた。つまり騎士階級を名乗れるほどに、かなり裕福な家ではあるのだ。
確かにアヴェンティーノの屋敷は質素ではあるが、このネロ家だって先祖の像を置いてあるくらいで、大差はない。それに近くのカエサル家に至っては、家父長が華美や豪奢と無縁で、住居にこだわりのない人物であるために、遠からずおんぼろと評されそうなたたずまいなのである。
ルキリウスはそういうことも知っていて、とぼけているのだ。いつものように。
「ああ、リヴィア様には、恐縮ながらうちの実家近くの葡萄酒とナツメヤシと、あと我が母特製の木苺菓子を、恥ずかしながら手製の器に入れてお渡ししたから。ぼくの成人報告も添えて」
それが、早朝からネロ家に入り込むための取引材料であったらしかった。もっとも、母は以前からルキリウスの母手ずからの作品を好んでいて、すでに奴隷を何人か習いに通わせていたが。ティベリウスは迷惑ではないかと内心それこそ恐縮に似た気持ちでいたのだが、ルキリウスにしてみればそれが、ネロ家やカエサル家に出入りする許可証として利用できると思っているらしい。
「わざわざ同じ日に成人式を挙げて……」
ぶつくさ言いながら、ティベリウスはようやく自分の朝食に手を伸ばした。ほかの家のことはよくわからないが、よほど贅沢をするところは別として、昨夜の宴の残り物を朝食に出す家は、実際少なくないのだろう。ネロ家やカエサル家では当たり前だ。食物を無駄にしないのは良いことだから、ティベリウスも賛成だ。夏場は傷みに注意しなければいけないが。
「だから、大人になって最初の朝を、ぬけぬけと他人の家の食事を食らって過ごす気分はどうだと聞いたんだ」
「ぼくは君と違って家父長になるわけじゃないからね」ルキリウスはさすがに少し苦笑した。ぺろりと唇を舐めた。「そんな実感みたいなのはないよ」
「どうしてわざわざ?」招待したのに、という言葉は喉仏で留めた。「しかも黙っていた? また」
また、という言葉に強勢を置いたつもりだったが、ルキリウスは気づかないふりをした。シトロン水をごくごく飲んだ。
「……ねぇ、ティベリウス、暦というものを参照してくれるとわかると思うんだけど、縁起の良い日というのは皆同じなんだ。それに、これでもぼくは庶民らしくきちんと遠慮した。中央広場での紹介から、君の後ろに並んで、自分の順番を辛抱強く待ちながら、内心で丸ごと胃を吐きそうなくらい緊張していたんだよ。もう、わかるのかなぁ? 君の次に演壇で市民にさらされた少年の、かわいそうな立場は。全員の目が言っていた。『こいつ、だれ?』『さっきと比べて貧相だな』『次の誕生日にはくたばってるんじゃないか?』もしくは、関心ないからさっさと自分の仕事に戻っていった」
「本当によく言う」
ティベリウスは忌々しがった。パンを思いきり噛んで引きちぎった。
「人が紹介されるあいだ、散々野次を飛ばして笑っていたのは、どこのどいつだ」
「だって君、ほんとにすぐ顔に出るんだもん」
膨れた腹に手を置いて、ルキリウスはにやりと笑った。
こういうことだ。中央広場の演壇に上がると、成人する少年の両親あるいは後見人が、市民たちに紹介口上を述べる。ティベリウスの場合はもちろんアウグストゥスが行ったのだが、その際このような一節があった。
──貴族らしい格から、傲岸不遜に見えることがあるかもしれないが──
──無口なうえ、口を開けば年頃に似合わぬ難解な言葉も使うので、理解し難いかもしれないが──
──顔をしかめて頭を傾けて歩いていても、機嫌が悪いわけではなく、生まれつきの悪い癖で、精神の欠陥ではない。
「顔が怖いぞ、ティベリウス・ネロ!」
「だから傲岸不遜なんだよ、ティベリウス・ネロ!」
「笑ってみろよー、ティベリウス・ネロ!」
と「だれか」が野次を飛ばしたために、ティベリウスははっと我に返ったのだった。
その後、ネロ家の宴の席で、マルクスの父親のメッサラ・コルヴィヌスが隣に来て、そっとティベリウスをなぐさめてくれた。ティベリウスが幼い頃から慕っていて、国語の師と仰いでいる人だ。
「父親とは息子を謙遜するものだよ。私も息子を紹介した時は少々手厳しくして、家に帰ってからなじられたものだ。『父上、軽薄で口八丁とはあんまりではないですか? これでぼくがマルケッラと結婚できなくなったら、責任を取ってくださるんですか?』とかなんとか。それに凱旋将軍と似ているだろう? 部下たちは栄光の頂にある将軍が神々の嫉妬に苛まれないように、あえて大声を上げるんだ。『市民たちよ、禿げの女ったらしのお帰りだ!』先代カエサルでさえ、こうだからね。……それにしても禿とは男が最も辛く思う指摘の一つなんだが……」
メッサラの優しさはわかる。言っていることもわかる。だが半年前、マルケルスの成人紹介のとき、アウグストゥスはここまでこの類の批判を述べただろうか? そんなことを考えて、つい悶々としてしまった。それは事実だ。
それでもあの時宜を得た笑い声で、ひとまずティベリウスは心の静穏を取り戻した。継父への敬慕と感謝も思い出した。笑い声の主は、継父と二人カピトリーノの丘を下りる時にすれ違ったが、ぼんやりと素知らぬ顔をして、アウグストゥスにだけひょいと頭を下げたきり、目も合わせてこなかった。同道していたのは、ロングス家の家父長である彼の祖父だった。
ルキリウスの父親は、三年前、エジプトのアレクサンドリアで亡くなっていた。
「それでさ、ティベリウス」ルキリウスはやっと食事に満足したらしく、両腕を食卓に置いて、身を乗り出してきた。「君は晴れて家父長として成人したわけだけど、今日からどうするの? なにか、こんなことをしてみようって思ってることはあるの?」
「……いや、特に」そっけなく答えてから、ティベリウスは思い出した。「七日後に、父上を記念して競技会を主催することになってはいる。その準備はする」
「そうだったね」ルキリウスはうなずいた。
亡父ネロを記念する競技会ではあるが、もちろんその後継者が成人して新たな家父長になったことを広く市民に知らせる意義もある。貴族の子弟ならば珍しくない通過行事だ。ドルーススの成人時は、母方の祖父リヴィウスを記念する競技会がすでに予定されているが、それも主催名義は家父長であるティベリウスになる。
ルキリウスはまたにやりとした。「なんか、あんまり楽しくなさそうだね」
「そんなことはない」
ティベリウスは言ったが、ルキリウスにはお見通しらしい様子がなんだか癪だった。
「だったらさ、どう? 一緒に楽しそうなところでも探検に行ってみる? たとえば、ほら、チルコ・マッシモの下とかさ」
そのあたりは、娼館が居並ぶ地区だ。
「行かない」
「あれ、もしかして君ぐらいになると、もうだれか素敵な人をおうちに呼んでもらったりしたの?」
「してない!」
「じゃ、ここの奴隷のだれか? それはそれは、ぼくとしたことが、せっかくの朝の余韻とやらの邪魔をして──」
「違う! 朝からなんの話だ!」
「あ、変なヤツだ」
ドルーススが起きてきて、ルキリウスを見つけた。兄と違ってしかめ面も作らなければ皮肉も言わず、素直な感情の赴くまますぐ彼の隣に陣取った。そして「なんで昨日はうちに来なかったんだ?」「お前が兄上の物真似をするのを楽しみにしていたのに」と腕を振りながらぶぅぶぅ文句を言った。ルキリウスもこれにはつい降参したように頬をゆるませるしかなかった。ドルーススの頭をかきまわしながらなだめた。
ティベリウスの物真似とは、ティベリウスがいないところでのみルキリウスが披露するという、謎に満ちた芸だった。ティベリウスの前でやっては命がないからだ。「ドルースス、ぼくはこの若さで公開処刑はごめんだよ」
そのあいだ、ティベリウスは黙々と自分の朝食を取った。
ドルーススがうらやましいと思うことはあるが、一度も口に出したことはなかった。
食べ終わり際、ふと手元に影ができていることに気づいた。顔を上げて、出入り口へ目をやると、そこに身を縮こまらせているような少女が一人立っていた。その後ろには、三十代に見える痩せた女奴隷も控えていた。
「ユリア」ティベリウスも今後は素直な気持ちから、怪訝な顔をした。「どうしたんだ?」
ルキリウスとドルーススもはたと動きを止めた。
「リヴィア様が──」答えたのは女奴隷のほうだった。確か名前をオピスと言った。「今朝はここで食事をするようにと」
「……」
内心まずいと思いながら、ティベリウスは食卓を見まわした。しかし幸い、ルキリウスと自分が腹いっぱい食べたあとではあったが、ドルーススはまだ食べはじめたばかりだった。
「…どうぞ」
ティベリウスは席を詰めて、横にユリアとオピスを座らせた。それから中腰になり、空いている皿を見つけると、その上に適当にパンと肉と卵と野菜と豆と果物を載せて、ユリアの前へ置いた。
「…ありがと」
ユリアは消え入るような声で言った。それからオピスと一緒に、一人ぼっちのウサギのように細々と食べはじめた。
このときティベリウスは家父長になった自分の立場を忘れていたが、食事を勧めるくらいならば普段からよくやることだった。もう少し幼い頃のドルーススに対してや、カエサル家とオクタヴィア家の子どもでごった返しているような食事風景の中であれば。母親や奴隷の目だけでは足りないからだ。
両家は、子女や甥姪のみでにぎやかなわけではなかった。彼らに加えて、世界各国から「留学」の名目で訪れている王族や部族長の子息らがいた。ユバがそうであったように、実態は人質でもあったが、中には王家の内紛で亡命してきた場合や、同じく後継者争いを避けるために王自らがローマに預ける選択をした場合もある。たとえばアルメニアの王弟、ガリアやゲルマニアの部族長の子らが、両家で寝泊まりし、ティベリウスたちとまったく同じローマ式の教育を受けている。
これら将来のローマ同盟者を、リヴィアとオクタヴィアが中心となり、手分けして預かっているのだ。奴隷や母国からの乳母の手ももちろん借りるが、彼女たちが実子にばかりかまってはいられないのも当然ではあった。これもまたローマの未来のために大切な仕事だ。
けれどもユリアは、そんな若者たちの中でもとりわけ重要な存在ではあった。彼女はアウグストゥスの実の娘だ。
ドルーススもまた自分の皿に気が済むだけの料理を盛って、がつがつと食べることに集中した。ルキリウスは落ち着かなげにティベリウスを見て、こそこそとユリアを見て、それから視線を宙にさまよわせた。この場の共通の話題を探して苦心しているのかもしれなかったが、上手くはいかなそうだ。案外、この無類のおしゃべりは人見知りだった。
ティベリウスもティベリウスで、礼儀上の対応以外になにをするべきかわからず、結局沈黙するのだった。
ユリアの食事は、あまり進んでいないように見えた。ゆっくりというより、なんというか、細い食べ方なのだ。
ティベリウスは、ユリアがこのネロ家で朝食を食べる羽目になっている理由に思いを巡らせた。言葉を交わした記憶はないが、確か昨日の宴に、彼女の姿もあった。それがお開きになると、アウグストゥスは翌朝早くに仕事の予定があるからと、カエサル家に帰っていった。母はこの家で休んだが、それでユリアのこともこの家で寝かせることにしたらしい。確かに、ルキリウスがわざわざ早起きして訪ねてくるほどの豪勢な朝食があるのだから、それは理に適ってはいるし、思いやりにもなる。カエサル家でわざわざ新しく朝食を用意する手間も省ける。
当の母は、ティベリウスがその部屋の前を通りかかったとき、起きてはいたが、奴隷たちと身だしなみを整えながらおしゃべりをしていて、食卓に現れそうな気配ではなかった。あるいは、ルキリウスを中に入れたくらいだから、もうすでに食事を済ませているのかもしれない。
母にしてみればネロ家もカエサル家も「我が家」であろうが、ユリアにとってネロ家は他人の家に違いなかった。所在なさげになるのももっともだった。
まして彼女は、「我が家」であるカエサル家にいてすら、居心地よさそうではなかった。
ユリアは今十一歳で、アウグストゥスと前妻スクリボニアの娘である。数年以内に、マルケルスと結婚することが決まっている。
アウグストゥスがこのユリアをカエサル家に引き取ってから、実のところまだ二年も過ぎていなかった。早くから認知して、以前はアントニウスの長男アンテュルスと婚約までさせていたのに、奇妙な話ではあった。
ユリアの実母スクリボニアは、大ポンペイウスの次男セクストゥスの親族である。アウグストゥスは、彼女とはその当時の政略上の婚姻関係であると割り切っていたらしく、セクストゥスとの関係が悪化するや、あっさり離婚した。ユリアが生まれたのはその後で、アウグストゥスはすでにリヴィアとの恋に夢中だった。
おそらくアウグストゥスは、いずれリヴィアとのあいだに息子を授かると信じていた。ところが、再婚十年目を迎えても、息子どころか娘も生まれることがなかった。夫婦どちらも前の伴侶とのあいだに子どもをもうけていたのだから、不思議な話だった。ともかく凱旋式を挙げたころ、アウグストゥスはとうとうリヴィアとの子どもをあきらめた。そして自分の血を引く唯一の男子である甥のマルケルスと、同じく唯一の実子ユリアとの結婚に賭けることにした。
この婚約が意味するところは明白であるが、ともかくここで長年実父に顧みられずに暮らしていたユリアが、突然光を当てられることになった。スクリボニアの下を離れ、カエサル家で養育されることになった。今更ではあるが、アウグストゥスは我が子として、つまりローマの第一人者の一人娘として、恥ずかしくないように育てなければならないと決めたのだった。
もしもティベリウスにたくさんの異父弟妹ができていれば、今このようになってはいないだろう。ユリアはほうっておかれたはずだ。良くも悪くも。
カエサル家に来てしばらくのあいだ、ユリアはよく泣いていた。伴ってきた奴隷たちにしがみつき、お母様のところへ帰りたいと、涙に暮れていた。
そ して母親のスクリボニアも、毎日のようにユリアの様子を訪ねてきた。手紙を送るばかりでなく、二日に一度くらいはカエサル家の門の前に来て、娘に会わせるようにと大声を上げるのだった。
ローマの法律上、認知したのならば子どもの親権は父親にある。けれども何年も実父にほうっておかれたのだから、突然住む家を変えろと命じられるのは、さらわれたも同然の気持ちだろう。母親を恋しがる気持ちもわからないではない。
けれども、それからもう一年半が過ぎたのだ。ユリアは未だ新しい家になじんでいない様子だった。スクリボニアは相変わらず執拗なほどにカエサル家の門を叩いた。彼女にも、アウグストゥスより前の夫とのあいだにもうけたほかの娘もいたのだが、だからといってユリアをかまわないではおれないらしい。愛おしいユリア、かわいそうなユリア、世界一美しい、私のユリア──。
正直なところ、リヴィアはユリアを持て余していた。アウグストゥスの意向で引き取ることになったものの、ずっとおどおどしているし、すぐ泣いてしまうし、実母もこのようであるし、かといって夫の実の娘であるから厳しくしつけることもしかねる。我が母ながらティベリウスも思うのだが、リヴィアは継母に向かない型の女なのだろう。スクリボニウス家とネロ家の背景の違いも大きいだろう。女だてらに責任感の塊のような母なのだが、彼女の生きた背景に基づく話が、ユリアやスクリボニアには通じないのだ。
しかし数年耐えれば、ユリアはオクタヴィアの手に移る。そう、ユリアはオクタヴィアの嫁になる予定なのであって、リヴィアのそれではない。その事実が養育への意気込みにまったく影響を与えないとは言えないだろう。まだそうなってはいないものの、リヴィアよりオクタヴィアとのほうが、ユリアもまた少しは楽な気持ちになれそうだと、傍目にも想像できた。
現在のところ、ティベリウス自身も正直ユリアとどう接したらいいかわからないのが本当だった。この一年半、同じ屋根の下で暮らしていながらそうなのだから、母のことはまったく言えない。妹のアントニアのような他人との距離感を気にしない一部を例外として、元々女子の扱いに長けたほうではない、というのは言い訳だろうか。
世の中には、輪の外に置かれがちな子を見つけては積極的に声をかけ、仲間に入れようとする心の優しい人間がいる。マルケルスがそうで、従姉妹であり婚約者でもあるからと、ユリアに優しく接していた。ユルスも弟妹たちとまとめて世話を焼くとばかりに、よく声をかけていた。頭が下がる思いだ。しかし彼らの妹たちとはいまひとつユリアは上手くいっていないらしい。彼女たちと遊ぶより、なじみの女奴隷にくっついていることが多いように見えた。
あるとき、気の強い妹のマルケッラが言っていた。「いつまでめそめそしているのかしら。泣かなきゃいけないことなんてないのにね、あの子には」
「お姉様」
姉のアントニアが咎め、母や叔父や兄に聞こえていやしないかと辺りを見まわした。ティベリウスやセレネや留学生たちは数に入っていないらしかった。
「だってそうでしょ?」マルケッラは面白くなさそうに続けた。「実のお父様もお母様も元気でいる。リヴィアが怖くったって、私たちのお母様が優しくしてくださる。奴隷たちもそばにいる。これ以上なにを望むの? マルケルスお兄様やユルスお兄様にかまってもらえるのを待っているのかしら?」
「マルケッラ」口を開いたのは、セレネだった。「それはちょっと意地悪よ」
「なんか見ていていらいらするのよね」マルケッラはかまわず鼻を鳴らした。「ちょっと可愛いからって、泣けばなんとかなると思ってる。ねぇ、セレネは本当になんとも思わないの?」
実の両親を亡くし、異国から連れてこられた比較的新しい家族に、彼女は疑いを向けた。セレネは小さく首をすくめた。
「だれだって、自分の中に辛いと思うことがあるわ。あなただってそうでしょ? それにその対処の仕方だって人それぞれなの。できることとできないことがあるもの」
母譲りの才能か、彼女はすでにラテン語が堪能になっていた。
非常に自信なさげに見える、その態度がもし影をひそめることがあるとしたら、ユリアはかなり整った容姿の少女と言えた。まさに実父アウグストゥスにそっくりで、これから健康に成長するならば、その輝くような美貌を受け継いでいきそうな気配だ。スクリボニアの自慢は決して親の贔屓目ではない。
女子たちと上手くいかないのは、そのあたりにも理由があるのだろうか。
ユリアの皿には、まだ料理が残っていた。正確には肉と、マルメロのジャムが乗ったパンと、一部の野菜が手つかずだった。ティベリウスがなにか食べたいものがあるのかと訊くと、ややしばらくしてから、か細い手で木苺のジャムと、別の炒り卵と、サクランボを指差した。ティベリウスが動く前に、オピスがそれをユリアに取り分けた。先に聞いておくべきだったと、ティベリウスは後悔した。
おおかた全員の食事が終わるころ、ネロ家執事のプロレウスが姿を見せた。
「坊ちゃま……いいえ、ご主人様、本日のご予定を確認させてください」
ああ、とティベリウスはうなずいて、その先を聞いた。プロレウスは主人に相談することなく勝手に予定を詰め込みはしないので、前日までに聞いていたことの本当の確認である。午前はカエサル家で勉学、午後は体育場での肉体鍛錬を休み、七日後の競技会の準備に当たる。夕方はファビウス家から報告会という名目の「お帰り会」に招かれている。
なんの変哲もない予定確認だ。それでもルキリウスのなにやら訝るような目線を見返しながら、ティベリウスははたと思い至った。まじまじとプロレウスの顔を見つめた。
昨日で成人し、ティベリウスは晴れて家父長となったのだ。ということはその権限として、家の奴隷の待遇を改めることもできる。たとえばこの祖父の代からネロ家に仕えている忠実な執事を、奴隷身分から解放するとか──。
父ネロは、プロレウスのような信頼厚い奴隷たちが、息子の成人まではネロ家に留まることを望んでいた。状況はたった今から新家父長に一任されたのだ。あれだけ昨日成人を祝われながら、今になってティベリウスは途方に暮れる思いがした。
プロレウスのいないネロ家など考えられない。彼がいなければティベリウスはなにをどうしていいのかわからない。一方であまりにも長い月日、プロレウスを不遇な身分に置き続けたことは事実だ。彼に自由を与えるべきだ。
このような状況にいる奴隷は、しかもプロレウス一人ではない。長年仕えている奴隷、最近入った奴隷、年数に関係なく忠実で有用な奴隷、そうではない奴隷と、実に様々である。家父長が解放するかしないかの線を、どこに引けばよいのだろう。それをいつ行うのがよいのだろう。
ティベリウスは自分がまだまったくの子どもであることを、ひしひしと感じはじめた。けれども大人になるとは、こうした無力を次々経験することなのかもしれない。成人式を済ませたからといって、自分が勝手に成長してくれるわけではないのだ。
「ご主人様、どうかしましたか?」
プロレウスは家父長の内心の動揺を知るはずもなく、ただ当然の不思議そうなまなざしを向けてくるだけだった。
「……いや、なんでもない」
「なにか変更はございますか?」
「いや、ない。それでいく」
ティベリウスはうなずいて、食卓から立ち上がった。
「プロレウス、お前と相談がある。明日の晩だ。いいな?」
「承知いたしました」
「家父長っていうのには、いつからなれるものなの? つまり、ぼくが想像するような万物の神のごとくエラいエラい家父長様にさ」
ルキリウスとはときどきティベリウスの心を覗き見しているのではないかと思われることがある。彼はティベリウスと並んで中庭に出てきた。
ティベリウスは首を振った。「当分先かもな」
「まぁ、君は上手くやっているほうだと思う」
ルキリウスはそう言って、陽光を浴びながら伸びをした。
一家にそもそも家父長がいれば、成人しようがさして立場に変わりはないのだが、ティベリウスの場合はすでに実父を亡くしている。成人とともに、法的には後見人の保護からも離れることになる。
ティベリウスはルキリウスに、一緒にファビウスの「お帰り会」に来るかと尋ねた。案の定ではあったが、ルキリウスはぶんぶん首を振った。
「なんでそうくる? ぼくはまずもって招かれてもいない」
「ぼくと兄上の友だちだぞ」ドルーススがルキリウスの腰に飛びついた。「一緒に行こう。ぼくがお前をファビウスに紹介してあげるぞ」
いったいなんて紹介するつもりなのか知りたくないとばかりに、ルキリウスはまた苦笑してドルーススの頭をかきまわした。
ティベリウスが言った。「ファビウスは、コルネリウス・ガルス率いる軍に軍団副官として参加した。テーベの反乱平定とエチオピアとの国境確立を成し遂げてきたそうだ。興味深い話もあると思うぞ」
「またエジプトか……」ルキリウスの笑みにさらに苦みが差した。「まぁ、あとで話を聞かせておくれよ。面白い話があったなら」
この少年は、以前はティベリウス以外とのコネ作りも頑張るなどと言って、少なくともそのふりはしてきたくせに、最近はずいぶんと引っ込み思案になった。ティベリウスの友人が貴顕の若者ばかりであることに気後れするのだと言うが、どこまでが本心なのかわからない。ルキリウス・ロングスとはそういう男だ。
とはいえ日々の勉学や肉体鍛錬は、毎日ではないにせよ、ティベリウスと一緒に行動するので、一年外地にいたファビウスは別としても、ピソやマルクスたちとはもう顔見知りではあった。ティベリウスには、ルキリウスが勝手に彼らとのあいだに一線を引いているだけのように見えるのだが、ルキリウスにしてみれば自称庶民で田舎者の自分と、先祖代々首都暮らしの名門出の若者とは、簡単には埋められない育ちの違いを感じずにはいられないという。そう言うわりに、ティベリウスにはずいぶん遠慮会釈もなくつきまとってきた最初の頃ではあったが。
今日も午前は、カエサル家で一緒に勉学をする。まさかただ朝食を相伴しただけでアヴェンティーノの丘に帰るのは馬鹿げている。家ではマルケルスの教師であるネストルを中心に指導者が集まり、カエサル家、ネロ家、マルケルス家の子女と留学生、さらに近所の友人たちも入れての授業が始まる。奴隷の子どもも加わるのだから、この規模となると、中央広場周辺やバジリカで開かれている私塾に引けを取らない。生徒の年齢や性別、熟達度や希望に応じて、個別授業も行われる。ティベリウスのほうからもメッサラ家やコッケイウス家に出かけて指導を仰ぐこともある。
ティベリウスはルキリウスとドルーススとユリアを連れて、カエサル家に赴く。その前に、母リヴィアへ声をかけるため、私室に寄る。
リヴィアは自分も一緒に戻ると言って、椅子から立ち上がった。すっかり身支度を整えていた。
「……優勝でしょ」
ルキリウスはごく小さな声でつぶやいた。リヴィアには聞こえなかったに違いないが、母はルキリウスの成人祝いだと言って、黄金の締め金をつけた牛革ベルトを祝いの菓子とともに籠に入れて、同行の奴隷に持たせると言った。ルキリウスはあわあわとして、朝食をご馳走になったし、うちの母たちがかえって恐縮するからお気遣い無用ですと言った。リヴィアは首を振った。
「フラウヴィアからは素敵なものをいただきました。突然のことでこちらは大したものも用意できず、できればもっと早くあなたの成人を知っておきたかったですが」
「と、とんでもない!」
「間に合わせのものですから、気にしないで頂戴。うちの息子は、もう母が用意したものを素直に身に着けてくれなくなりましたからね」と母はティベリウスを軽くにらみ、ティベリウスは目を逸らした。
母の手製や選択による品々はありがたく思うが、一方で毎日全身をそれらで固める気持ちにはなれなくなった。それは事実だ。
ついでにドルーススは、ベルトの締め金はガマガエルの形がいいと言って、母を呆れさせたところだった。アントニアの影響だろうか。
ティベリウスは母を先導してネロ家を出て、すぐ近くにあるカエサル家の玄関へ向かった。いつでも意味がなくても走るドルーススはそのティベリウスの前を行き、ネロ家の奴隷に大股で付き添われていた。恐縮のあまり落ち込んでいるように見えるルキリウスとその奴隷、また同じように身を小さくしているようなユリアとオピスは、リヴィアの後ろに続いた。
継父の家は、キュベレ神殿と、昨年奉献されたばかりのアポロン神殿に挟まれるようにして建っていた。継父は今頃朝の伺候に訪れる客の相手をしているところだろう。普段どおりの一日であれば。
「カエサル」
昨夜、カエサル家に戻ろうとする継父を、ティベリウスは急いで呼び止めた。
「私は……今夜はこの家で休みますが、今後もそのようにするのがよいでしょうか? ドルーススと」
というのも、普段のティベリウスはほとんどカエサル家で寝起きしていた。三歳のとき、継父に引き取られてからずっとそうだった。しかしこの日こうして成人した。十四歳と五ヶ月は、カエサル家を出る時宜だろうか。独り立ちに適した時期だろうか。
先に自分がどうしたいか考えるべきことだと思った。けれどもどうしてか、結論を出しきれなかった。
継父は驚いたような顔をした。それがどういう意味かティベリウスがわからないでいると、そのまま彼は少しのあいだ思案顔になった。
「そうだな。そうだった……」継父はつぶやくように言った。それから微笑んだ。「お前とドルーススがいない家なんて、考えてもみなかったよ。それもあるが、いくら並外れて大人びた『長老』のお前でもな、実際は十四歳だ。まだ早いだろう。そのうえドルーススと二人暮らしだぞ。さすがのお前も自信過剰ではないのか?」
「……はい」
ティベリウスは苦笑を返した。想像したらしく、アウグストゥスもおどけて震えてみせた。
「それに、世の中には若者を誘惑するとか、悪質な契約で財産をだまし取ろうと企む輩がいる。お前に限って滅多なことはないと思うが、それでも貴重な時間を奪われて、煩わしくなるだけだ。もう少し私の家にいなさい」
「はい」
ティベリウスはうなずいた。気持ちは喜びのようで、落胆のようでもあった。
「お前とドルーススのいない家なんて……」アウグストゥスはくり返した。「成人した日に言うのもどうかと思うが、それでも子どものいる家とは楽しいものだよ。いや、子どもはたくさんいるがな、その中でお前にはまだいてもらわねば困る。やってほしいことがあるのだよ」
それは、自分より年若い親族の世話をすることのみならず、主に留学生たちとの交流を意味していると、ティベリウスは知っていた。母とオクタヴィアだけの仕事ではない。他国の若者にローマを好きになってもらい、彼らを将来の同盟者にすることは、今のティベリウスやマルケルスにもできる大切な役目だった。
別の家に住みながらも、その役目は果たせる。実際マルケルスは、ネロ家同様に近接してはいるものの、オクタヴィアが取り仕切る別の家に住んでいる。毎日妹たちを連れてカエサル家に通い、しばしば夕食も共にしてから帰っていく。アウグストゥスにとって息子同然の甥であるのだが、実子ユリアと結婚前に完全な同居は控えたほうがよいと考えたのかもしれない。
一方、ティベリウスとドルーススは別居でも問題ないはずなのだが、継父は必ずしも今それを望んでいないようだ。アウグストゥスは体調に応じて自分の食事時間をころころ変える人であるが、それでも朝食や昼間の間食、それにときたまの宴のない夕べなどは、家族と食卓を囲むひとときを楽しみにしていた。リヴィアとティベリウスとドルーススを見まわしながら、うれしそうにくつろいでおしゃべりをするのだった。
だから今夜も、継父と母は当たり前にカエサル家で子どもたちを待っているのだろう。ドルーススと二人、相変わらず同じ寝室で眠るのだろう。甘い子ども時代は、もう少しだけ続くのか。
では、自分はいつカエサル家を出ることになるのだろう、とティベリウスは考えた。
ティベリウスが結婚するのは、今から早くても六年後、ヴィプサーニアが適齢に達したときである。結局はその頃に、ティベリウスはカエサル家を出て、家父長として自分の家を担うことになるのか。
あるいはそれよりも早く、状況が変わるかもしれない。
成人の宴を中座し、ティベリウスはアウグストゥスをそのまま見送りに出た。アウグストゥスはネロ家の玄関までで大丈夫だと言い、執政官付きの先導警吏に守られ、解放奴隷のケラドゥスも従えて、短い家路についた。彼は帰りがけに、ネロ家の門を見上げた。
「家には妻が必要だ。そう思わないか? 女がいるからこそ家になるんだ。リヴィアや姉上のいない我が家が想像できないようにな」
言われてみれば、そうなのだろうと思った。自分やドルーススだけで、あの留学生たちを世話しきれるだろうか。奴隷の手は大いに借りるにしろ、家を切り盛りする中心人物はなくてはならない。
「お前が妻と暮らすようになったら、この家も我が家と同じようになるな」継父はくすくすと笑った。「お前たちだけならまだしも、ドルーススとその妻までいるとなれば、まぁ、あのとおりだからな。するとリヴィアは唯一の静穏な休息場所を奪われてしまう。プリマ・ポルタの別荘などを、もっと充実させてあげねばな」
母への思いやりを感謝申し上げます──と言いかけて、ティベリウスはふと気がついた。
「ドルーススの妻……? あのとおりだから……?」
「黙っておけよ!」ティベリウスに飛び寄り、継父はいたずらっぽく人差し指を唇に当てた。「黙っておいたほうがいい! 意識させては下手にこじらせてしまう気がする。ぎりぎりまで黙っておけ。本人らが言い出したら、そのときに考えたことにして」
ティベリウスは思わず吹き出した。継父の考えに全面的に賛成だった。
喜べ、ドルースス。もうしばらくあとで。
「それにな、ティベリウス」
微笑みは一転落ち着いた。踵を返しながら、継父は言った。
「そう遠くないうちに、我々はそろって寝床を変えることになりそうだよ」
角を曲がり、ティベリウスはカエサル家の門を見るはずだった。ところが、その前にドルーススがだれかとぶつかり、地面にひっくり返っていた。お供の奴隷は慌てて駆け寄るでもなく、頭を抱えた。言わんこっちゃない、と。
「おいおい、ドルーススじゃないか!」
かろうじてひっくり返らなかった相手が、ドルーススに手を差し伸べた。見れば、パウルス・ファビウスだ。
「おい!」
ドルーススは自分で跳ね起きて、ファビウスに飛びついた。少しも痛がる様子がなく、うれしそうだった。
「なんでここにいるんだ? うちに寄ったのか?」
「ああ、まぁね……」
ファビウスはティベリウスたちに気づき、申し訳なさそうに眉毛を下げた。明らかに悪いのは不注意に突進していったドルーススのほうだと、ティベリウスは思った。
「ドルースス、ファビウスに謝れ。ファビウス、大丈夫だったか?」
「ああ、なんともないよ」
「カエサルにお会いしたのか?」
「ああ、うん……」
さらに見れば、ファビウスの後ろに三人ばかり男たちがいて、めいめいパラティーノの丘の下り坂に向おうとしていた。ファビウスより年上に見え、見知らぬ者たちではあったが、その気取りのない無骨な感じが、この丘には珍しい存在に見えた。
「ファビウス、彼らはひょっとして軍人か?」
「ああ……」ファビウスはどうしてか少し歯切れが悪かった。「一緒に報告に伺ったんだ、エジプトの……」
「そうか」
「あとで話すよ」ファビウスは無理に笑みを作ったように見えた。「夕方、ぼくの家でな。待ってるから」
「ああ」
「それよりさ、ちょっとこの先に行くのは待ったほうがいいかもな」
それで、ティベリウスがファビウス越しに先を見やると、カエサル家の門番二人が見えた。門を閉めようとして、だれかを押しやっているように見えた。
スクリボニアだ。
「ユリア! 私の可愛いユリア!」
「…お母様!」
走りだそうとしたユリアを、オピスかなんとか引き留めたようだ。この場では懸命な判断だ。
ティベリウスは母を見た。母は昂然と行く手を見据え、柔なところがどこにもなくなっていた。
「さあ、中に入って、勉強を始めなさい」
そう言い置いて、母はずんずんとスクリボニアに向かっていった。
静穏なひとときは終わった。母の一日の始まりだ。