第三章 -8
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結局のところ、幽霊というものはこの世に存在しないらしい。ルキリウス・ロングスばかりではない。幽霊が幽霊を探してもなお見つけられなかったのだ。少なくとも、会いたいと願っている相手の前にかぎって、幽霊というやつは絶対に姿を現わすまいと決め込んでいるようだ。どいつもこいつも勝手に先に死んでおいて、性格が悪い。
勝手に先に死んでおいて──。
七月のこの日、ルキリウスは幽霊が乗る船を見送った。港からではない。ロキアス岬からだ。ヘプタスタディオンと無謀に張り合うように、元王宮殿の敷地の北端に伸びている。およそ一ヶ月前、ルキリウスたちはこの場所で幽霊を見つけた。
船は王宮港を出て、静々と水平線へ向かって小さくなっていった。意気消沈しているように見えて仕方がなかったのは、あの船に乗っている幽霊の心境を思うためだろうか。彼の徒労に終わった旅を哀れんでいるのだろうか。
自分も同じことになる可能性が濃厚と思えてならなかったが、ルキリウスは未だ自分の旅を終えることができずにいた。
徒労か。本当にそうであったかは、良きにしろ悪きにしろ、しばらくあとになってからわかるものかもしれない。それがささやかな救いだ。
なにも見つけられなかった徒労。実りもなく、報いもなく、なにもできないままの無力。
「おにいちゃん」
傍らへ、レオニダスがちょこちょこと歩いてきた。やり場のないルキリウスの手指をぎゅっと握った。
「かあちゃんがいっぱいごちそうをつくったよ。いっしょにたべよう」
なぜなら明日、ルキリウスは久しぶりに剣闘士試合へ出場するからだ。ここひと月ばかりの子守りの実績を買ってくれたらしく、ラオディケが腕によりをかけると言っていた。
「明日でぼくも幽霊になって、永遠のお別れかもしれないしな」
自嘲してから、ルキリウスはとたんにひどく後悔した。四歳児に言うようなことではない。彼にはなんの運命の責任もない。
「おわかれ?」意味をどこまで理解しているのか、レオニダスはじっと見上げてきた。「おにいちゃんと、あしたでおわかれ?」
「……違うよ。ごめん」レオニダスを抱き上げて、ルキリウスはロキアス岬を大股で引き返した。「そうはならないよ」
ああ、そうだ。ああ、そうだ。負けてたまるか。
幽霊にさえなれないなら、ぼくは死んではならない。
岬の根本では、トラシュルスも待っていた。彼もまだ八歳であるのだが、ときどき今のように、人の心を見透かしているような、大人びた微笑を浮かべていることがあった。
「トラシュルス」ただ前を見据えたまま、ルキリウスはその横を通った。「ぼくは明日死ぬか?」
「死なない」
空いているルキリウスの右手を、トラシュルスはしかと握った。
「ルキリウスはまだ死なない」
ははっ、とルキリウスは悲しく笑うのだった。カエピオの占いと同じだ。今のところは。
これからもそうであるのだろうか。
ひと月前、ルキリウスたち三人は、この岬へ件の幽霊を追い立てた。気の毒なことをしたものだ。一人涙に暮れる時間を、彼から奪ったのだから。
上面を平坦にしてあるくらいで、ロキアス岬はほとんど剥き出しの岩だった。その半ばまで彼を追い詰めてから、ルキリウスは我が目が信じられずに立ちつくしたのだった。
「ヴェルギリウス殿!」
ルキリウスはその人を呼んだ。赤らめた顔を涙で濡らしているばかりではない。一年見ないあいだに、彼は全身が痩せてすさんで見えた。否、間違いなくこの半年のあいだでこうなったのだ。
もはや半年になるのだ。
「なにをしているんですか、こんなところで?」
ルキリウスは確信を持ったが、ヴェルギリウスにはだれだかわからなかったらしい。ティベリウス・ネロの友だちですよ、アポロン神殿でお会いした──二、三度そうくり返して、やっと思い出してもらえたようだ。
「……君は……」ヴェルギリウスはごしごしと腕で顔をぬぐうのだった。「君こそどうしてここにいるんだ?」
ルキリウスはそれを説明しようとした。したのだが、空しく口だけ動かすばかりで、なかなか言葉が出てこなかった。
この人の前で、簡単にコルネリウス・ガルスの名を口には出せない。そう歯止めをかけたのだ。ほかならぬ彼こそが、ここにヴェルギリウスがいる理由だ。それ以外考えられないのに。
助けを求めるように顔を横向ければ、トラシュルスとレオニダスがいた。二人ともぽかんとたたずんで、動かなかった。ルキリウスたちがラテン語を使っているためもあるだろう。
この人はぼくの知っている人なんだよ。そう二人へギリシア語でささやいてから、ルキリウスはヴェルギリウスへ首をすくめた。
「……家族がインドへ商売に行くので、見送りに来たんです。そのう、ヴェルギリウス殿──」
ルキリウスは痛ましかった。実際に胸がじくじくする感覚がした。だからこの気持ちは欺瞞でも儀礼でもなくて、きっと真実なのだろう。
「……なんと言っていいか……、このたびは本当に残念なことでした。あなたの心のために、お悔やみを申し上げるとしか──」
どうせ結べない言葉だったが、ルキリウスは途切らせた。ヴェルギリウスの両眼にたちまち涙の大波がぶり返したのだ。がくりと体を折り、彼はうずくまった。岬から転げ落ちそうだ。ルキリウスが急ぎ抱きかかえると、彼は爪を立ててしがみついてきた。憚らず、大声で、身も世もなく泣きじゃくった。
──ガルスっ、ガルスっ……ああ、私の大切なガルス!──
肩に胸に、トゥニカをぐしゃぐしゃにされるがまま、ルキリウスはただその哀れな人へ腕をまわしていた。激しく震える体は、やはり骨と皮ばかりにひどく痩せてしまって、これほどの涙を吐き続けたならもうじき干からびてしまいそうだ。
──ガルスっ、ああ、ガルス! なぜ死んだ?
嗚咽を聞かされながら、ルキリウスはうつろに虚空を見上げる。
このまま泣き果てて死んでしまえたらどんなにか楽だろう。彼の精神はそう悲鳴を上げているようだ。
──どうして私を置いていったんだ! 一人にしないでくれよ、ガルス! 私の半身! ただ一人の友……!
ルキリウスは奥歯を嚙みしめた。
──君のいない世界を、いったいどうやって生きるというのか! 死んだのだ! 君が死んだら、私も死んだのだ! もうとっくに死んだのだ!
ルキリウスはぎゅっと目を閉じた。
やめてくれ。
そう願いながら、彼を抱く腕に力を込めた。壊れそうな頭から背中を、何度となくさすった。
やめてくれ。頼む。もうやめてくれ。
やめてくれよ──。
「……私はなにもできなかったんだ……」
いくらかかろうじて落ち着くと、ヴェルギリウスはそう言った。十五歳のルキリウス・ロングスに、訴えるようにしゃくり上げながら。
「こんなことになるまで……。ガルスが自ら死んでしまうのを、どうして止められなかったんだろう……」
「彼はあなたに会ったんですか?」
まるで自分がひどく締めつけられているような声で、ルキリウスは尋ねた。
「ああ、会ったよ。一度だけ、裁判の前に……。あとはいくら頼んでも会ってくれなかった……。最期の日でさえ──」
「あなたを巻き込みたくなかったんですよ」
強引なほどの圧でルキリウスは言った。だがヴェルギリウスは聞かなかった。
「私は……彼を告発した人らと一緒だ……」
「違う! ガルスはあなたを愛していた。ぼくはここで彼と話したからわかる。彼は、あなたのことだけは悪く言わなかった。本当の友だちだと思っていたんだ」
「でも彼は死んだ!」
ヴェルギリウスは残酷な事実を叫んだ。
「ただの死ではない! 自殺だぞ! 本当の友が、いったいなんだというのだ? 私はガルスが生きる理由にならなかった! 彼は絶望の末に死んだんだ……」
ルキリウスは言葉を失った。
ヴェルギリウスもまた絶望の涙を流し続けた。「こんな無情があると思うか? あのコルネリウス・ガルスが……教養でも武勇でもこの世界に比類なく名を馳せたあの男が、自ら死ぬしかなかったのだ。友のせいで! 彼が尽くしたローマ市民のせいで! 裏切りと無関心、とどめに、この半身の無力だ!」
「ヴェルギリウス殿……」ルキリウスは震えるようにやっと首を振った。「あなたのせいじゃない」
「ならば、私とはなんだ?」ヴェルギリウスはぐしゃぐしゃの顔を上げた。「ただの人か? 市民は大勢私を褒めてくれる。これまでいく度も私の詩を朗読し、次作が待ち遠しいと口をそろえる。だがそんな私の言葉を、彼らは聞いてくれたか? ガルスを責めないでくれ。国家へ多大な功績を上げてきた私の友へ、感謝しないまでも、彼を苦しめないでくれ。私のところへ返してくれ! そんな言葉を、一度でも聞いてくれたか?」
彼は、両手でルキリウスの頬を挟んだ。
「君だけではないか、少年。君だけが私の声を聴いてくれる。いったいなんのために、私は詩人になったのだ? 友一人の自死も止められないで、いったいなんのために存在しているのだ?」
「やめてください……」ルキリウスは目眩がした。がんがんと頭を打たれているように。「やめてください、ヴェルギリウス……」
「ガルス! ああ、ガルス! ガルス!」ヴェルギリウスはルキリウスを抱きしめた。「こんな私を許さないでくれ! 共に連れていってくれ! どうして一人で死んだんだ! なあ、ガルス──」
そのまま、彼は長いあいだ泣いていた。もはやルキリウスはなにもできず、されるがまま体を預けていた。
空が青い。冷酷なまでに、青い……。
「……どうしてもっと早くここへ来なかったのか」
やがてヴェルギリウスは再び我を取り戻そうとした。またごしごしと腕で顔をぬぐうのだった。彼の顔じゅうが赤いのは、もう何日も何ヶ月もこれをくり返していたからなのだろう。皮が剥ける程度ではない。鼻もまぶたも唇も、摩滅していないのが奇跡なのだろう。
「……そればかり悔やまれる。ガルスがここで無事でいるうちに会えていれば、きっと運命を変えられたかもしれない。私という男は、無力で、臆病で……肝心な時になんの役にも立てなかった。今やなにもかも手遅れになった」
「あなたはできるだけのことをした」ルキリウスは堅い声で言った。「だれもあなたにここへ来てほしくなんてなかった」
そう、だれもだ。カエサルもマエケナスもホラティウスもプロクレイウスも、元老院も騎士もローマ庶民も、ヴェルギリウスをガルスの巻き添えにしたくなかった。そしてガルス当人が、最もそれを望んだのだ。
「ガルスはあなたに心穏やかでいてほしかったんだ。ああ、わかっています。あなたはほかのことを望んでいたんだって、わかっています。でもあの人の気持ちだけはわかってあげてください。ガルスはあなたを恨んでなんていなかった。愛していました、ずっと……」
「今更になって、どうしてここへ来たのかと思うのだろうな」
赤く腫れたまぶた。その奥のうつろなまなざし。彼にルキリウスの言葉は届いているのかいないのか。だれと話をしているつもりなのかも怪しかった。
「……つくづく愚かだと思うよ、自分を。もうここにガルスはいない。それなのにひょっとしたら、ここへ来れば彼を見かけられるかもしれないなんて、思ったんだ。どこかに彼の生きていた証が……いや、今も生きている息遣いが……ほんのわずかな影が……感じられるかもしれないって、そう願ったんだ……」
ああ、だからもう、やめてくれ、とルキリウスは思う。
それは同じだからだ。父の死に場所を訪ねたルキリウスと同じ思いであるからだ。それなのになんの手ごたえもなくて、今も帰る時宜を失っている自分には、ヴェルギリウスにさらなる絶望しか与えられないではないか。
幽霊には会えないのだ。愛していればなおのこと会えないだなんて、そんな馬鹿な話はあんまりだが、今のところそれが現実だ。
それとも違うのか。ヴェルギリウスは死せるガルスの存在を見つけられるのだろうか。
きっと無理だ。なぜなら彼もまたコルネリウス・ガルスと同様、絶望しているからだ。
自分自身に、そしてこの世界に、絶望しているからだ。
彼がこの世に踏みとどまっているのは、まさに一瞬一瞬の奇跡であるのだろう。亡霊でもよいので、ガルスに会いたい。そうして会えないまま、無力な自分を罰したい。そんな思いだけで、生き長らえているのだろう。
ヴェルギリウスにとって、この世は悪夢であり、地獄だ。
たった一人で、よく耐えていられるものだ。
「もう行きましょう、ヴェルギリウス殿」彼の背中を、ルキリウスはそっと、だが逆らわせないつもりで叩いた。「休んでください。どこか静かな部屋があるはずですから、この王宮には……」
アエリウス・ガルスめは、肝心な時にいない。いや、いなくて幸いだ。同じガルスという男に預けられるだなんて、悪夢にもほどがあった。
「君の話を聞いた気がする」肩を貸そうとして、はたと目が合った。「ガルスへの、あまりにも多い、聞くに堪えない非難の中で。君は……ガルスに剣闘士にされたのか?」
「そんなことはどうだっていいんですよ」ルキリウスはヴェルギリウスごと立ち上がった。「ぼくとあの人の問題だから」
「どうして君はここにいるんだ?」再会して最初の質問を、彼はくり返した。「彼がいなくなって、もう半年だ。どうしてまだ留まっているんだ? どうして君だけが、私を抱いてくれるんだ?」
「ぼくだけじゃなかったでしょう」
「皆形だけだ」ヴェルギリウスはうなだれる。「私にはわかる。だれもガルスを心から悼んでいない。私をなぐさめるのは、私にこれからも詩を書かせたいからだ。でも君は……どうしてかな、私をわかってくれているように感じる。信じてもらえないかもしれないが、人前でこんなに泣いたのは初めてだった……」
そうだ。まるでルキリウスは、ここでヴェルギリウスを待っていたかのようだった。そんなわけはない。そんなわけはないのだが、もしも自分の中にガルスの一部がいるというのなら、ヴェルギリウスにすべて差し出したかった。
だが、そんなわけはないんだ。
「休んでくださいよ」ルキリウスはヴェルギリウスごと踵を返した。「あの人をあの世まで追っかける以外ならなにしたっていいですから。ところで一つだけ、思い出してほしいことが。あなたはなにか聞いていませんか? ガルスの娘コルネリアのこと──」
そこでルキリウスは言葉を切った。愕然と、目を剥いていたはずだ。
なぜなら見据える先には、すっかり忘れていたトラシュルスとレオニダス。そしてその後ろに、黒髪をなびかせ、にたりと笑う禍々しい存在。
「コルネリア・ガッラ」その男が言った。「美しい娘だったな。残念だ」
「あんた……」ルキリウスは震えたが、これは恐怖ではないはずだ。怒りだ。「こんなところでなにしてるんだ、カエピオ!」
ヴェルギリウスへ向けたのと同じ質問だったが、圧が違った。トラシュルスもレオニダスも、そして肩上のヴェルギリウスも、びくりと跳ね上がったのだ。
ファンニウス・カエピオは、けろりと肩をすくめた。「ヴェルギリウスの付き添いだよ。私が同行するならば彼も無難であろうということでね」
「ふざけんなよ……」ルキリウスはうなった。「マエケナス殿はどうかしている。あんたみたいな人をいつまでも仲間内に置いておくんだからな」
「それをマエケナスに直接言うこともできない君だったな、ルキリウス・ロングス」
「黙れよ」ルキリウスは左腕を大きく振った。「さっさとどっか行け。その子らに近づくな。トラシュルス、レオニダス、こっちへ来るんだ」
だがトラシュルスもレオニダスも、これまでに見たことのないルキリウスの剣幕にひるんだのか、おろおろとして動かなかった。今にもカエピオに首根っこをつかまれて岬から放り投げられかねないのに。
「来るんだよ、ほら」手を差し伸べ、ルキリウスはせかした。
するとヴェルギリウスが右肩からずり落ちた。
「戻りましょう、ヴェルギリウス」
カエピオもまた手を差し伸べた。両腕にヴェルギリウスを抱え、ルキリウスはひざまずくしかなかった。
「かわいそうに、子どもらにいじめられて、こんなところに追い詰められて」
「……っ」
「君も子ども二人で手一杯だろう、ロングス?」
子ども二人の頭の向こうで、カエピオが薄ら笑っていた。まるで人質の交換だ。
だがあいつにヴェルギリウスを渡してはいけない。あんなやつに預けてはいけない──。
「……」
ヴェルギリウスはじっとルキリウスを見つめていた。それから邪悪なる彼の付添人へ目線を移した。
「……ああ、カエピオ、行こう」
よろめきながら、ヴェルギリウスは一人で立ち上がった。「すまなかったね」とルキリウスの肩に手を置いた。
「コルネリアは私が引き取るつもりだった。ガルスに頼まれていたんだ。だが彼が旅立って数日後、いつの間にか姿が消えていた」
「さながら競売の開始だったからな」見物だったとばかり、カエピオがうなずくのだった。「無一文なのだから奴隷同然だったが、欲しがる男が大勢いたので、結局いちばん金を出した男が娶ることになった。私ももう少し金持ちだったならば参戦したかったよ。マエケナスに借金を申し入れたらよかったかな」
「黙れよ」
ルキリウスは今ここでカエピオを刺し殺したかった。
「お前らにコルネリアをどうこうする権限はない」
「無論、金はカエサルに払われるのだよ」
カエピオはせせら笑うばかりだ。いったいなにが楽しいというのか。
「すまないね、ルキリウス」ヴェルギリウスは歩き出した。「こんな私で、本当にすまない……」
「ヴェルギリウス殿!」
ルキリウスは大声で呼んだが、止められなかった。だがヴェルギリウスは、カエピオの手助けを丁重に断る身振りをして、一人で歩いていった。
「ガルス……ガルス……、私こそ生きる値打ちもないのに……」
うわ言のような声だけが、岬に漂い、消えていった。
「ヴェルギリウスは死んだ」
トラシュルスとレオニダスが胸に飛び込んできた。しかと抱きしめながら、ルキリウスは居残る男をにらんだ。
むず痒くもないという横顔で、カエピオはしぼんだ背中を見送っていた。
「率直に言って、コルネリウス・ガルスとは比べられん。ローマは後にも先にも、ヴェルギリウスほどの偉大な詩人を持つことがないだろう。それほどの大人物を失ったのだ。カエサル・アウグストゥスはすでに後悔しているだろうが、いずれもっと、身もだえして悔しがるだろうさ。たかだか一友人とのいさかいで、彼は栄光を失った。そしてローマは、永遠を失ったのだ」
「……あんた、なに言ってんだよ?」
「ヴェルギリウスはもう詩を作れない!」
腕を広げ、カエピオが声を張った。まるで自分の作品を誇らしげに披露するような姿だ。
「彼が今手掛けている作品も、未完のまま消えるだろう。そのおかげでローマは、滅んで後も永く語り継がれるはずであったのに」
「滅んで後だって?」
「スキピオ・アエミリアヌスも言っていたぞ」顔をしかめるルキリウスへ、カエピオは得意げに頭をかしげた。「いずれローマにも滅びの時か来る。しかし偉大な芸術とは、国を越えて、時代を超えて生き延びる。ローマはその最重要である柱を失ったのだ。自国の言語の至高という、とてつもない柱だ。神君カエサル、キケロ──第一級の文筆家はいた。しかし詩人はいなかったのだ。ホラティウスだって、あの性格だ、ローマの栄光を残そうなんて考えやしない。今頃二千年先の未来から、ヴェルギリウスの作品が消えた。もしくは、不可解な未完のまま、断片だけが残っただろうな」
「あんたの言ってることはさっぱりわからないよ」ルキリウスはむしゃくしゃした。「二千年先の未来? なんでそうなるのさ?」
「知っているからだ、私は」さらりとそう言ってから、カエピオは体も向けてきた。「だがロングス、君だってわかるだろう。あの体では、ヴェルギリウスは二度と詩なんて作れやしない」
「そんなことはわからないじゃないか!」ルキリウスは大声で言った。それからいく分勢いを失った。「……そうだとしたって、それはヴェルギリウス殿の勝手だ。書きたくなきゃ書かなきゃいいんだ」
「詩人が書けないまま生き続ける。それは無理矢理書けと言うのと同じ拷問だぞ」にやついて、カエピオは人差し指を突き出した。「家族を愛するな。女を愛するな。そして友を愛するなというのと同じだ、君に」
「なん──」
「ヴェルギリウスは生きる意味を失った」カエピオは断言した。「いずれ時がその心を回復するか? 無理だな! なぜなら彼はこの世界をもう愛せない。無二の友が、この世界を憎みながら自死したのだ! その現実を前に、もう一度愛せるわけがあろうか!」
ルキリウスは膝立ちのまま絶句していた。ヴェルギリウス当人でもないのに、まともに打ちのめされていた。
しゃべり疲れたとばかりに、カエピオはここでため息をついた。
「時だけが心を癒すというが、彼の場合、寿命が尽きるのが先だろうな」
それから波打つ黒髪の奥で、双眸を光らせるのだった。
「私はただ取り返しのつかない喪失だと言っているだけだ。カエサルにも、ローマにも。永遠の喪失だと」
だからいったい、そんな話のなにが楽しいのか。
「だが別に彼が初めてではないだろう? この世界を憎みながら死した英雄は」
うるさい。やめろ。
「かのスキピオ・アフリカヌスでさえ、ローマを呪いながら死んだのだ。ところで彼にもまた、無二の友がいたんだよな? ラエリウス? その友情は、次代のアエミリアヌスとラエリウスにまで受け継がれたそうだが、さてさて前者はなぜか不可解な死を遂げたな。謎のまま。復讐も果たされぬまま。後者はその時なにを思っただろうか?」
「カエピオ、あんた──」
ルキリウスは本気でこの男を斬り殺そうと思った。ヴェルギリウスのため、自分のため、そうしなければならないと思った。
「だが教えたよな、ルキリウス・ロングス?」
けれどもカエピオは、ここでようやく踵を返したのだ。最後にとどめと、ルキリウスの耳孔を打ちつけたうえで。
「すなわち君は、ヴェルギリウスではない、と──」
「ルキリウス! 大丈夫、ルキリウス?」
「おにいちゃん! おにいちゃんてば!」
気づけばトラシュルスとレオニダスに、体じゅうをはたかれていた。
ヴェルギリウスはこのひと月後、カエピオとともにローマへ帰っていった。彼の暗いまなざしを見るかぎり、今のところカエピオの言うとおりだ。ヴェルギリウスはもう一行も詩を書けそうにない。
ガルスを失った悲しみ。世界への失望。そして自分自身への絶望。
亡き友の声も、二度と彼の耳に届かない。世界からの愛は、決してもう彼の心を震わせない。
彼が死したというなら、その目に映る世界が死したと同じだ。
それで終わってしまうのか。彼を生み育んだ世界は。ローマは。
ヴェルギリウスは世界を呪いながら死にゆくのか。無二の友にそうさせた世界だから、と。
見送りに出たその日まで、ルキリウスは彼のためになにもできなかった。今もなにができるかわからないままだ。ああ、わからないからまだこの地にいるのだ。今も。
──君は、ヴェルギリウスではない。
ああ、畜生。ああ、畜生──。
だったらなんだと言うんだよ?
死せる詩人を見送った翌日、ルキリウスは予定どおり剣闘士試合の会場へ向かった。試合前の行進は、いつまで経っても不愉快なままだ。しかし今や自らの選択でここへ来ているのだから、文句は言えない。
なんのために戦うのか、ルキリウス。否、見世物で殺し合いをするのか。
そんなことを考えていたら、あっという間に殺される。だからルキリウスは、ひとたび会場に足を踏み入れたならば、試合に集中しようとした。相手を倒すこと。生きてまた外に出るにはそれしかないのだ。
だからバルバトゥスに言われたとおり、行進は相手を見定める機会として、欠かさなかった。
だから──気づかないわけがなかった。もうまともに試合もできそうになかった。
黒髪を剃り上げた、新顔だった。