第三章 -7
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《日付は六月十七日》
親愛なるティベリウス・ネロ
──そんなわけで、ぼくらは宮殿内へ幽霊探しに出かけた。
平和なもんだろ? 君たちが西の果てで山賊どもを包囲しているあいだにさ。
こんなに離れていても、一ヶ月くらいで手紙が届くなんてね。ぼくは改めて、君の敬愛するカエサルと、ローマ人の尽力をありがたく思っているところだよ。後者へは一度不信になりかけたけど、やっぱり平和がいちばん大切だ。そのために戦場にいる君にこんなこと言うのも薄情な気がするけどさ、おかげで世界の大勢がのんきに暮らせているんだ。
君は無事に初陣を果たした。当然だ。無事じゃなきゃ困る。
それで、どうせ君のことだから平然としているんだろうけどさ、君っていう男は、だいぶ後になって疲れが出てくる型じゃないかと思うから、気をつけるようにね。自分で思っているよりずっとずっと後だ。みんなが戦いを忘れたくらいの頃だ。エラそうに言ってるけど、これはぼくから始まった意見じゃない。昔、テオドルス先生がそう言ってたんだよ、血でこねた粘土くん。あの人、今もロードス島で元気そうだよ。アレクサンドリアにも評判が聞こえてくる。ムセイオンの学者が、そこだけで満足できずに、わざわざ出向くくらいにね。
とにかくティベリウス、辛くなる前に、上手いこと気分転換するのが大切だ。こういう時、たぶんほとんどの男なら現地の可愛い女の子を探すとか、葡萄酒を浴びるように飲むとかするんだと思う。後者はまだ早すぎる。前者はできたならぜひとも詳細を書いて知らせるように。
あれこれ知らないうちに背負い込んで、気づいたら人疲れしているようなら、ちょっとだけ一人になれるといいんだけどね。……いや、これはここ毎日子ども二人に文字どおり背負って遊ばれている、ぼくの願望かもしれないんだけど。
山登りとかどうかな? いっそ山賊どもに交じってさ。そして彼らが噂に聞くとおり尿を溜めた風呂に入っているのかどうか、ぜひぜひ確かめてきておくれよ。
噂と言えばさ、ティベリウス、ぼくらの幽霊騒動の顛末に戻るけど……
結果を言うと、見ていられないくらいだった。幽霊じゃなくて、幽霊を探しに来ていた人なんだ。どっかのだれかみたいに。
先に言っておく。心配しないでいいから、ぼくのことは。
テントの中で、ティベリウスはこの手紙を中断することになった。外から鬨の声が聞こえてきたからだ。
しかしこれは予測されていたことだった。今のティベリウスの役目とは、持ち場に留まり、力を蓄えておくことだ。事態には第四軍団が対処する手筈だった。援軍は必要としないだろう。
七月下旬、ヴィンディウス山を包囲してひと月余りが過ぎた。いくら勝手知ったる山とはいえ、敵はそろそろ使える資源に不足してきた。忍耐も限界に近いようで、昼間の斥候によれば、いっそ各方向から一斉に山を下り、ローマ軍の網目のどこかを破ろうと企んでいる気配であるとのことだった。ここでアンティスティウスは一計を案じた。あえて網目に隙間を作り、敵がそこを目がけて下りてくるよう誘うのだ。今度はローマ側が待ち伏せする側になるというわけだ。上手くいけば、全方向から一度に下山されるよりよほど対処が楽になる。
それが、今夜起こった。暗闇にまぎれて麓で待ち構えているのは、ガイウス・フルニウス指揮下の第四軍団だった。
手紙を伏せた卓を前に、ティベリウスはじっと耳を澄まして戦いを聞いていた。マルケルスもまた武装したまま、寝台に座してぴんと背筋を張っていた。おそらく可能性は低くなったが、第二軍団の持ち場へも敵が下ってきたら、夜番の軍団兵らが声を上げるはずで、そうなれば二人も現場に出向くことになる。
ドルーススとルキウスは、遠い騒音にもかまわず、ティベリウスの寝台でぐっすり眠り込んでいた。
長くはかからなかった。下山してきたカンタブリ族は、第四軍団によって破られた。山へ逃げ帰った者もいたが、多くがその場で倒されるか、捕らえられたという。ヴィンディウス山の包囲は再び隙なしに固められたが、これはカンタブリア包囲網全体を見渡せば、ぽこりともつれてできた瘤のようなものだ。夜明けを待って全容を確認し次第、いよいよこの瘤を取り除くか、もう少し包囲を続けて弱らせるかを決める。
だが夜が明けきらないうちに、急を知らせる連絡が届いた。ここからさらに四十キロほど北東にあるアラケルムという町で、武装蜂起があったというのだ。ヴェリカを逃げ延びたカンタブリ戦士ほか、新たに現地の若者、それに老人に女子どもまで、反ローマを掲げて攻勢を仕掛けてきたという。
これだけならば、東から西へ広く包囲網を敷く作戦の最中である。十分に起こり得ることだった。ヴィンディウス山ばかりでなく、あちこちでの小規模の反抗や待ち伏せであるならば、ティベリウスやマルケルスも何度か馬を駆って対処に出かけた。しかしアラケルムは東カンタブリアの残る全力を結集したようで、規模がこれまでになく大きいとのことだ。西からは第六軍団が中心となってじりじり包囲網を狭めているので、その方面からも人員が集まっているという。当然だ。ローマもまたそれを想定して作戦を遂行してきたのだから。
だが大なり小なり想定外はあった。一つには、カンタブリ族が思いのほか頑強かつ頑固であり、忍耐強くもあったこと。半島に最後に残された抵抗勢力だけのことはある。彼らは決して容易に屈しなかった。死ぬまでローマを手こずらせてやろうという不屈の意志で、部族全体が団結していた。
二つには、包囲するローマ軍の兵糧もまた底が見えてきたことだ。各所からの補給がないわけではないが、届くのが遅くなっていた。そのうえ、もう夏になってはいるのだが、だからこそ食糧が傷みやすくなった。実りの秋ほど周辺の収穫はなく、そもそも耕作に適さない山岳地帯が続いているのだ。海にまで出られたならば状況はかなり改善されるのだろうが、ローマ軍はまだカンタブリア海に達していない。
これに加えて三つに、ネズミの害が広がっていた。食糧を食い荒らすばかりでなく、人間にも病気を広めているという。よりによって最東を担当する第十軍団がこの流行病の直撃を受け、三つの百人隊がほぼ全滅状態であるそうだった。ピレネー山脈の西端を越えた、ガリア・アクィターニアからの補給が滞っていることが、事態をますます悪化させていた。
第十軍団は、この状況でアラケルムの蜂起とまともに相対しているのだ。すでに第九軍団の半分を率いて、ピソが援軍に発っていた。ヴィニキウスがタラゴーナからようやく戻ってきたからだ。彼はそのままヴィンディウス山麓に留まっていた。
だがもはや悠長にしていてはいられない。アラケルムの蜂起には、さらに人員を割かなければ危うい。ピソとグネウスは無事でいるだろうか。
結局アンティスティウスは、夜明けの戦況分析にかまわなかった。第四軍団にのみしばし休息を与えたあと、この日の昼には総攻撃を命じたのだ。第二、第四、そして半分の第九軍団が、一斉に山肌を登った。敵は矢を降らせ石を落としてきたが、思ったほどの数ではなかった。やはり相手も限界であったのだ。一方ローマ軍は、補助軍の援護もあって、なんとか敵の根城に到達した。
マルケルスを後ろに、ティベリウスは敵地へ踏み込んだ。人嫌いの男がこもる山小屋のようなものが粗末に並んでいたが、勇猛不屈のカンタブリ族は、とうとうこの場所に火を放った。
「ティベリウス!」
自ら根城を焼くとは、敵は降服より死を選んだのだ。ティベリウスはマルケルスを下り道まで退かせ、グラディウス──ローマ軍団兵の剣を構えた。煙の中を走り出てきた敵は、斧を振りかざしていた。それを投げつけてさえきた。
「ティベリウス、逃げて!」
そうはいかなかった。ここで退けばマルケルスに敵の手が及ぶし、軍団兵もまた上からの攻撃を受けることになる。この狭い根城に大勢はいられない。順次退くべきだ。だが敵は、死を目前に最後の抵抗を試みている。ただでさえイベリア一獰猛と言われた部族を、最も凶暴な状態でもってここから出すわけにはいかない。
もうピソはいない。グネウスもいない。ティベリウスは己の力のみで戦いきるしかない。だが、それがなんだというのか。
ずっと一人きりで戦い続けている男もいるのだ。
今のティベリウスを見たら、まただれよりも激怒するに違いないが。
斧を回避したあと、ティベリウスは続けざまに剣を振るった。黒髪と鮮血がいく度も宙を舞い、たちまち煙に紛れて消えていった。ついには左手で女神の短剣も抜き放ち、一度に二人を相手にしていた。
めきめきと音を立てて見張り台が崩れはじめたのは、その時だった。
「ティベリウス!」
マルケルスの声が届くより早く、ティベリウスは後退していた。だが見通しは甘かったかもしれない。煙が立ち込めてよく見えない。
最後には、まるでマントの首元をつかまれたように、ふと宙に浮いていた。そして気づけば坂に投げ出され、数度転がった。
雷撃のような音とともに、見張り台が倒れた。粉塵と火の粉をかぶり、ティベリウスはしばし動けなかった。
「ティベリウス! 大丈夫?」
振り返るとマルケルスが、側近の軍団兵に押さえられるように囲われていた。二十歩ほど後方だ。ティベリウスのまわりにはだれもいなかった。
ひと時、ティベリウスは茫然とした。
「ネロ、こちらへ!」
軍団兵らが呼んでいる。我に返ると、手の中に短剣はあるが、グラディウスはない。転がる前に手放したのだ。今や瓦礫の山と化した見張り台の前に、それが落ちているのが見えた。拾いに向かいかけて、煙の中からなおもカンタブリ族が必死の形相で現れるのを確認した。
マルケルスが叫んだ。「だめだ! ティベリウス!」
そのようだった。グラディウスをあきらめ、ティベリウスはその場から下がった。
するとマルケルスが吠えた。振り向くと、軍団兵らが遠巻きになり、彼が槍を振りかぶるところだった。ティベリウスはわずかに兜をかしげた。
マルケルスの投げた槍は、狙い違わず先頭の敵を貫いた。
ヴィンディウス山が陥落して後も、休む暇がなかった。後処理を第九軍団の残り半分に任せ、アンティスティウスは第二軍団と第四軍団をアラケルムへ急行させた。待ち伏せを警戒しながらの、夜通しの行軍となった。
夜明け前、騎乗のティベリウスは数多くの篝火が地上に並んでいるのを見た。ひっくり返った星座のようだが、とくに南側が規則的に輝いている。ローマ軍が敵の群れとにらみ合いをしているのだ。
「そんなに急いで来なくてよかったのに」
無事堡塁に入ると、ピソがいかにものんびりと声をかけてきた。
ティベリウスは軽く指を差した。「目の下に隈がある」
「君もだ、ティベリウス」ピソも指摘し返した。「もう大丈夫だから、ちょっと休めよ」
「……まさか君もネズミの病に冒されていないだろうな?」
「いない。ぼくのことは心配無用。なにしろ今やちょっとした富豪になった。アエミリウス将軍が、逃亡奴隷よろしくネズミに懸賞金をかけたんでな。ぼくの隊があまりに上手く捕獲するので、グネウスが嫉妬していたところだ。『なぜそんなに手馴れているのか。そっちのピソ家ときたら、ローマの実家もネズミだらけに違いない』……おい、グネウス、これは悪口だぞ」
するとテントの奥から、グネウスが鼻を鳴らして出てきた。
「だれだって引く。壺いっぱいのネズミを捕獲したのを見て、なぜこいつらは魚みたいに漬けて食えないのかと話しているのを聞いたなら。お家が知れるというわけだ。しかもこっちのピソ家は必ず巻き添えを食らう」
それから彼はティベリウスを見、その後ろにいるマルケルスを見た。そして顔色を変えた。
「おい!」
ティベリウスが振り向くと、マルケルスがぐらりとよろめいたところだった。彼は慌てた三人の友人に一斉に抱えられた。
「マルケルス!」
「大丈夫……」顔面蒼白ながら、マルケルスは意識を手放さずに言い張った。「大丈夫だから……」
肩を貸して、彼を寝台へ運びながら、ティベリウスは悔やんだ。夜闇のために気づけなかった。だが無理もない。戦闘をしてから徹夜でここまで駆けてきたのだ。
ピソの従者が、白湯を持ってきてくれた。それをマルケルスに飲ませてから、ティベリウスは彼の額に口づけした。
「昼間は君に助けられた。ありがとう」
「ティベリウスこそ──」マルケルスはほっとした微笑みを浮かべ、そのまま眠りに落ちた。
ティベリウスもまた吐息をこぼした。
「君も休め、ティベリウス」傍らでピソが言った。「先行の騎兵隊から聞いた。まさに獅子奮迅の大暴れをしたってな」
「そんなことはしていない。していないが──」ティベリウスは昼間のことを思い返した。「だれかが私を守ってくれた。そんな気がしたんだ」
「それはぼくらの生霊かな」ピソは笑った。「そうでなければ神々か、そのおそばに侍りしかつての生者」
「……」
ティベリウスはしばし心をここではない場所へ馳せた。それは黙礼を捧げているに近かった。
「まったく呆れる。普段は『長老』ぶっておきながら」グネウスが説教役を引き受けた。「ガイウス・ネロの血は争えんな。わかっているのか? 君だってただの軍団副官じゃない。クラウディウス・ネロ家の嫡男で、最高司令官の継息子だぞ。わきまえろ」
「気がついたらそうなっていたんだ」と言ってから、今度ははっきりため息をついた。「だが言い訳だな。わかった。以後気をつける」
「戦争が始まってから今日まで、君が気をつけているのを見たことがないぞ」
「まぁ、まぁ」結局ピソが止めに入った。「戦闘では予期しないことが起こるもんだ。ましてこういう敵地での行軍なら、従軍者を含め、絶対安全なんてことはないんだ。いつ激戦に巻き込まれてもおかしくない」
「たかだか一部族相手の戦闘で貴族の息子が死んだら、それこそローマの恥だ」グネウスは吐き捨てるように言い、それから尋ねた。「ドルーススとルキウスはどうしてる?」
「ヴィニキウス将軍と一緒だ。あとから来る」
「さあ、ティベリウス、もう甲冑を脱げ。ゆっくり眠るんだ」ピソが空いている寝台へせかした。「それとも腹が減っているか? 木苺ならまだいっぱいあるぞ。この堡塁内に自生しているんだ。これぞ神の恵みだ」
「今はいらない」寝台に座らされたが、ティベリウスはずっとピソを見上げていた。「やはり食料不足は深刻か? 君たちはちゃんと食べているのか?」
「もちろん」ピソは明るくうなずいた。「アクィターニアから信じられないくらい美味い豚の塩漬けが届いた。でもそろそろ魚が食べたくなってきたな」
「漬けネズミ」
グネウスがうめいたが、ピソは聞こえないふりをした。
「いずれヴィニキウス・食いしん坊将軍がやってくる前に、あの町を落としておきたいところだな」
その夜が明けきらないうちに、ローマ軍は篝火の数をさらに増やした。すでに必要より多くを灯して、敵に無勢を悟られないようにしていた。今やようやく見せかけではなくなった。
それでもなお先行きが安泰であるほどの人員がいるわけではない。しかし食糧が少ないので、人員を増やすわけにもにらみ合いを長引かせるわけにもいかない。
アラケルムに包囲網の増強を知らしめるあいだ、ローマ軍は交代で急ぎ休息を取るという、矛盾をはらんだ備えをした。豚肉やイチジクやオリーブをこれでもかとばかりに与えられ、マルケルスもすぐに調子を取り戻した。
そうこうするうちに、第九軍団の残りが到着した。カンタブリア包囲網は、今やさらに狭まった。西側を第五、第六軍団に任せながら、ここに四個軍団の精鋭が集った。アラケルムで蜂起した人々は、結局町の中に立てこもることを余儀なくされた。
だがローマ軍にも、これ以上包囲に時間をかけている余裕はない。山を越えて、海に到達する時だ。
第十軍団の長アエミリウスは、ネズミの死骸の山でもてなされるヴィニキウスを見たくなかったのか、今こそアラケルムに総攻撃をかけるべきだと主張した。彼の軍団が先陣を切ることに、アンティスティウスは同意した。