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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第三章 ヒスパニアのティベリウス
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第三章 -6



 6



 えんえんと泣き声がうるさくて、ルキリウスは目を開けた。うなりながら体を横向けると、子どもが木格子に挟まっているのが見えた。

「ああっ、もう!」

 勉学の合間に昼寝をしてしまった。それが過ちの元で、さっさと訓練場に出かけるべきだった。

 どうしてこんなところにいるのか知らないが、まだほんの幼児だった。扉の部分だけは縦の格子しか入っていなかったので、通り抜けられると考えたらしい。右半身のみ中へ入れ、あとは二進も三進も行かなくなっていた。トラシュルスが駆けつけ、うんうんうなりながら左手を引いて、幼児を向こう側へ連れ戻そうとしていた。幼児はますます大声で泣いた。

「どうしてこんなことになってるんだよ?」

 ルキリウスの問いは、空しく牢獄に反響しただけだった。こちら側から合鍵で扉を開けたが、なんの解決にもならなかった。ルキリウスはまずトラシュルスを止めて、幼児をなだめることから始めなければならなかった。大変だった。ただ前に進みたいだけの幼児は、挟まったまま扉をばたばたと動かして、泣き続けるのだった。

 最悪、木格子を剣で斬り外すことを考えた。ルキリウスが寝台の下から試合用の剣を取り出すと、幼児はぴたりと泣くのをやめた。しまったとルキリウスは思った。体の一部を切り離されるとでも思って、恐怖しただろうか。

 ところが幼児は、その剣を持たせるようにとルキリウスへ要求した。しきりに右手足を振っているうちに頭が傾き、尻だけを挟めて、ほとんど体を横にして浮いた。トラシュルスがその尻を思いきりつまむと、幼児はぎゃっと悲鳴を上げて、それから下に落ちた。

「なんなんだよ、もう!」

 ルキリウスはほっとひと息つく暇もなかった。幼児が寄り来て、剣へ手を伸ばしたからだ。まったくめげておらず、むしろらんらんと目を輝かせているのだった。無論鞘に収めたままの剣を、ルキリウスは両手で高々と上げた。幼児もまた小さな手のひらをかざし、ルキリウスの前でしきりに跳ねた。木格子に対する最初の甘い見通しと同様、手を伸ばしさえすれば届くと信じて疑っていないかのようだった。

「おにいちゃん、かして!」

「だめだ! これはだめだ!」

 そのうち幼児は、ルキリウスの体をよじ登る作戦に変更した。ルキリウスは牢獄の外に助けを求めた。

「トラシュルス、なんとかしろ! この子はいったいどこから来たんだ? 君の弟か?」

「知らない」トラシュルスは首を振った。「今日初めて会った」

「マカロンのおっちゃん!」幼児がだしぬけに叫んだ。「マカロンのおっちゃんがね、ろうやにつよーいローマのおにいちゃんがいるってね、いってたんだ」

「マカロンだって?」ルキリウスの心情は、最もまともだと思っていた人間に裏切られたそれに近かった。「君はあの人の身内? あの人がここに来るように勧めたの?」

 それにしてもマカロンは、今頃アエリウスとナイル川を遡行しているはずで、幼児が一人でここに来られたはずがなかった。

 結局トラシュルスが幼児を羽交い絞めにしてなんとか引き剥がすあいだ、ルキリウスは態勢を整えるしかなかった。革袋から紐を抜き、それで剣の鞘と柄をきつく縛った。どの道幼児には、まだ剣を握って振りまわすだけの力はなかった。引きずったり持ち上げたりしてもうしばらく暴れた後、ようやっとルキリウスのあぐらの上に落ち着いた。剣を抱きかかえて満足そうだった。

「とうちゃんに、ぼくのをつくってもらう」彼は決めた。

「父ちゃんはどこなんだ?」

 ぐったりとして、ルキリウスは訊いた。

「おそとでだいくさんしてる」

「この王宮で?」

「ううん、おっきいみなとで。ヘプタスタディオンのとこで」

 ヘプタスタディオンとは、ファロスの大灯台へつながる石橋のことだ。その下を船がくぐることもできるほど立派な造りだ。船大工をしている父親なのだろうか。

 しかしこの王宮までは、幼児が一人で歩いてくるような距離ではなかった。

 ルキリウスはため息をついた。後ろでは、トラシュルスが寝台に上がり、幼児による突発的な剣の暴走から身を守っていた。ルキリウスの頭を盾にして。

 ああ、本当に、昼寝などするんじゃなかった。怠惰は悪であり、災厄を呼ぶのだ。このように。

「坊や、名前は?」

「レオニダス! ペルペレスの子!」

「いくつだい?」

「四さい!」

 幼児期とは、どういうわけか、人生でいちばん年齢を誇らしがるらしかった。レオニダスも例外でなく、指を四本立ててルキリウスへ突き出した。目つぶしをされかねない勢いに咄嗟に頭を反らすと、トラシュルスの顎とぶつかった。

 それからは辛抱強く話を聞いた。レオニダスはこの都市に住んでいて、父親が大工で、母親がこの王宮の食堂で働いているそうだ。第三子──レオニダスの弟を出産したためにしばらく休暇を取っていたが、今日から復帰したという。

 両親がマカロンと友人であるそうだった。最近再会を喜び合い、彼らの家で大いに飲んで食ってしゃべったらしい。総督官邸の地下牢に居座るローマ人の話は、そのときに話題に上った。これより前、ペルペレスはすでにルキリウスを見たことがあり、違うな、あの子じゃない、まさか剣闘士になって戻ってくるわけがないもんな──とでも話した。それで仕事を抜けて試合を観に行ったことがばれて、妻ラオディケに叱られたという。次は私たちも連れて行きなさい、と。

 そこまで聞くと、ルキリウスはレオニダスの手を引いて、衛兵たち向けの食堂に向かった。これ以上子守りをする責任は果たせないと思った。

 名前からしてギリシア系の家の生まれだが、レオニダスはこのあたりには珍しい明るい髪色をしていた。ルキリウスの金髪より少し色が濃くて、癖がない。

「おや、お若いの、いつのまにそんなに弟ができたんで?」

 途中、メリクがからかってきた。香料らしき乾燥した植物の入った籠を抱えていた。

「君、銅貨二枚でこの子らを食堂に連れていってくれる?」

「ぼくの母さんは違う人だよ」トラシュルスが思い出させたが、ルキリウスは彼を顧みずに続けた。

「トラシュルスの母さんは君の同僚なんじゃないの、メリク? なんとかしてよ」

「あいにくと今日は忙しくて」メリクは笑いながら首をすくめた。「お客さんが来てるんでさ、総督に」

「総督は留守でしょ」

「そうなんですけど、知らずに行き違いになったらしくて、今ひとまずのおもてなしに大わらわ」

「そんなエラい人なの? ローマ人?」

「いや、ナバテア人です。行政の長シュライオス。気づかなかったんですか? 表は結構な騒ぎだったのに」

「この子らより騒げたなら気づいただろうにね」

「ぼくは騒いでないもん」トラシュルスが言った。

「ナバテア人をおにいちゃんがやっつけるの? ぼくもいく!」レオニダスは好きなように解釈した。

 ナバテアとは、アラビア半島北部を領有する国だ。今はローマの同盟者であり、事実上の属国となっている。首都ペトラは、アラビア半島を縦断する隊商路を北へ抜けるところにあるらしく、その交易で多大な利益を得ているという話だ。代々王が治めているが、主に内政を担い、外政は「兄弟」と呼ばれる行政の長に預ける体制である。

 つまりはナバテア王国の事実上の頂が尋ねてきているのだ。新総督に挨拶に来たのだろう。

「ちょっと気をつけたほうがいいかもですよ、お若いの」

 ところが、メリクはこうささやくのだった。

「きな臭いって言うんですかね? シュライオスはあっしら下っ端には当然のように横柄な野郎ですが、それはさておくとしても、したたかですよ、ナバテアは。このご時世に滅びずに生き延びている国なんですから」

「……それをどうしてぼくに言うの?」ルキリウスは眉をひそめた。

「なんとなくでさ」メリクはさらりと言って、また首をすくめた。「あんたは前の総督をご存じだ。聞いたことがあるんじゃないですか?」

「なにを?」

「アラビア遠征」メリクの声は耳に鋭く響いた。「あのナバテア人を当てにして進める気だったんですぜ。関わらないほうがいい」

 食堂に入ると、信じ難いことにラオディケだという婦人が、幼児を背負い、乳児を抱いて、さらに給仕の仕事までしていた。陽気におしゃべりをして、時折衛兵たちに乳児を預けてかまわせていたのに、レオニダスのせいで気づいてしまった。

「レオニダス、あんたどこへ行っていたの? ……あらっ」

 愚かで哀れなルキリウスは、レオニダスの手を離す時宜を逸したまま立ちつくしていた。そのまま食堂の片隅に座らされ、レオニダスと並ばされ、乳児を抱かされた状態で遠慮なく昼食をとるように言い渡されるまで、逆らう間もなかった。

 いまいましいトラシュルスは、とっくに逃げ出していた。いったいあいつこそなにをしに来たんだ?





 翌日、父親に作ってもらったという藁の剣で、ルキリウスがレオニダスに叩かれまくっているところへ、トラシュルスがまた現れた。

「レオニダスは強いねぇ。連戦負けなしのルキリウスが手も足も出ないよ」と余計なそそのかしまで始めた。

「ぼくはスパルタさいきょうの王さまだぞ!」四歳児が叫んだ。

「なにしに来たんだよ?」

 食堂外の腰掛けの上で、ルキリウスはダンゴムシのように丸まっていた。腕の間からにらみやると、トラシュルスはやはりにやにやして、かつうきうきして見えた。

「ルキリウス、ぼくは今日おばけ探しに行きたい」

「……なんだって?」

「おばけ探し」トラシュルスはうずうずと左右に腰を揺らした。「こないだね、宮殿の奥からだれかのすすり泣く声が聞こえたって、いろんな人が噂してたの」

「それだけでなんでおばけだって話になるの? だれかがたまたま泣いてただけだろ」

「でもここんところ毎日聞こえるって。いろんな人が気づくんだけど、だれが泣いているのかはわからないんだって」

「きっとかわいそうな奴隷がだれかにいじめられているんだろうさ」

「でもぼくの母さんに聞いたら、いつもの人たちで、様子のおかしい人はいないって」

「君のお母さんは、女官だからって毎日全員を見ているわけじゃないでしょ。そんな話はメリクもなにも言ってなかったぞ」

 いかにも好みそうな話の種を、メリクが暇を見つけてしない理由はないと思った。ナバテア人の予期せぬ訪問で忙しいのかもしれないが。

「だからおばけかもしれないでしょ」とトラシュルスは言い張った。「聞こえる人にしか聞こえない。きっと見える人にしか見えない」

「君のお母さんはその泣き声を聞いたの?」

「聞いてない。噂だけ」

 ルキリウスは、不必要であるのに、ここでレオニダスへ目をやってしまった。彼は話のごく一部分のみ理解していた。藁の剣を突き上げた。

「おばけをやっつけにいくぞ!」

 いずれラオディケは日中の食堂でのみ仕事をしているのだから、そのおばけの泣き声を聞いていそうにない。

「……おばけってのは、心にやましい気持ちがある人にやたら見えるんだってさ。神君カエサルを殺したブルートゥスしかり……」

 ルキリウスはラテン語でつぶやいた。

 たかだか数日で噂が確立されるのは早急な気がするが、この元王宮殿内には霊廟もあるのだし、幽霊の成り手には事欠かないのだろう。ここに墓はないにしろ、ルキリウスの父親もその一人だ。おばけであれなんであれ、未だに一度も見かけたことがなく、気配すら感じないのだが。

 もしかしてコルネリウス・ガルスもまた、わざわざローマからここまで戻ってきているのだろうか。死せる肉体を置き去りにして。

 馬鹿馬鹿しい……。

「やめときなよ、トラシュルス。おばけなんて失礼だよ。ここで静かに眠っている人たちに」

 ルキリウスはギリシア語に戻って言った。

「でもぼくも聞いたから」

「……ええ?」

「ぼくも昨日聞いたの!」少しも怖がる様子なく、トラシュルスは自信満々に言い張った。

「昨日のいつさ?」

「食堂からの帰り」

「食堂から逃げた帰り」言い直してから、ルキリウスは眉をしかめた。降りかかる藁の剣を、左手でつかんで止めた。「真っ昼間だったよ? おばけなんて出るもんか」

「でも聞こえたもん、だれかが泣いてるの。ぼくはその声がしたほうへ行ってみたんだけど、まるで逃げてるみたいに遠ざかっていって、でもぼくも追いかけてるうちに迷子になっちゃって、そしたら衛兵さんの一人が、ぼくを母さんのところへ連れて行ってくれて──」

「逃げてたんだよ、その人は」ルキリウスは断定した。「君に泣いているのを見られたくなくて」

「男の人の声だったと思う」

「じゃあ、なおさらだ」

「でもでも、でも!」今日のトラシュルスはこればっかりだ。「おばけでも、そうでなくても、毎日泣いているのはかわいそうだよ。だから探しに行きたいの。ねえ、ルキリウスも一緒に行くでしょ?」

「──ったく、なんでさ?」

「ぼくが迷子にならないように。おばけの声が聞こえたら、追いかけて挟み撃ちにできるように」

「……君は案外策士だな」

 ルキリウスはため息をついた。トラシュルスはにやりとした。

「どうせ今日はレオニダスにいじめられるしかすることないんだし」

「はなせよ、おにいちゃん!」剣を抑えられて、レオニダスはもがいていた。ルキリウスの足をぐいぐい蹴り押してきた。「ぼくもおばけたいじにいくんだからな!」

 夏至も間近の、真っ昼間だ。探されるにせよ、退治されるにせよ、自分の巻き添えにしてしまいそうなそのおばけとやらに対し、ルキリウスは申し訳ないような気持ちになるのだった。

 まあ、会えるとはかぎらないが。







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