第三章 -5
5
ティベリウスはヴェリカの平原を騎乗して進んでいた。壁のような周囲の山々から、大勢の山岳民族がどやどやと駆け下りてくる光景を見ていた。いつものように連中は小隊を組んでいた。けれども今日は、最高司令官のいない軟弱なローマ軍を、この平原に誘い出して一挙に叩き潰さんと考えていた。小隊はまるで無数のように集まり、大軍になった。少なくとも見た目だけは。十万はいないだろうが、補助軍を加えたローマ軍を上まわる数なのは確かだ。
しかし彼らをここへ誘い出したのはローマ軍のほうだった。総司令官アンティスティウスが直ちに号令を出した。それを受けた各軍団長も一斉に命令を発し、打ち合わせどおり行軍隊列をただちに変えた。右翼が生え、左翼が伸び、ローマ得意の会戦陣形が出来上がる。行軍の先頭に立っていた補助軍は、波が引くように道を開ける。すると山々を震わす鬨の声を上げ、ローマ軍団兵がずらりと現れる。
「攻撃開始!」
マルケルスが叫んだ。軍団兵が槍を振り投げる。そして敵の体や盾を貫くのを見届けるより早く、一斉に走り出る。
「一人も逃がすな! 全軍突撃!」
ルキウス・ピソの号令も聞こえた。
第二軍団、第九軍団が右翼で敵に突進する。第四軍団が中央、第五軍団が左翼から、同様に飛びかかる。
ヴェリカの平原自体には、四個軍団しかいなかった。しかもアウグストゥスの護衛を担当したヴィニキウス一行がまだ戻っていないので、実質は三・五個軍団二万弱の軍団兵と、それに補助軍を加えた戦力だ。第六軍団と第十軍団は、すでに作戦として別行動を取っていた。
開戦前、アンティスティウスはマルケルスを呼んで言った。
「私はカエサル・アウグストゥスの代理総司令官として、軍全体を見渡す指揮を執らねばならない。つまり第二軍団は、実質君に軍団長を務めてもらうことになる。任せてもよいな?」
「……はい」
少しだけ震えていたが、マルケルスは力強くうなずいた。ピソの件から、こうなる心の準備はしていたのだろう。それから傍らのティベリウスを見た。
「ティベリウス、ぼくがなにか間違いそうだったら言ってね」
「ああ、心配するな」
アンティスティウスと目線を合わせたまま、ティベリウスもうなずいた。
「ネロ」少しあとで、一人でいるところをアンティスティウスに声をかけられた。彼は苦笑めいた表情を浮かべていた。「君も十五歳であることを忘れてしまいそうになる。いや、マルケルスはもう十六歳になったか」
「はい」
一年前とは違い、落ち着いた誕生日祝いはできなかった。今はあの頃からひどく遠い場所にいたが、これでいいのだろう。
「長老……」アンティスティウスは仲間内でのティベリウスのあだ名を知っていた。苦笑を深めた。「確かにお目付け役とは年寄りの仕事だがな、もう十年も戦場にいるような顔をしている。だが忘れるな。従軍者を置けば、君は軍内最年少者であり、君もまた、ローマが守るべき存在だ」
今、ティベリウスはカンタブリ族と激突するローマ軍を間近に見ていた。多くが敵を圧倒していたが、何人かは傷を受け、大地にひざまずき、粉塵の中に倒れていく。その中にはこの五ヶ月で顔を覚え、言葉を交わした者もいる。
右手をずっと腰に置いていた。そこには柄に女神をあしらった短剣が、帯から下げられていた。
ローマが守るべき存在。
ああ、たとえそうだとしても、ティベリウスは自らが守る存在になりたかった。目の前の命を、身を賭して戦う軍団を、そして国家ローマを。
今日が、それができるようになる最初の時だ。
「クィントゥス・ガレヌス! 立ち上がれ!」
短剣から手を離し、ティベリウスは左腰の長剣を抜いた。
「私がここにいる! 君を見ている! ここで死ぬな!」
見ていてほしい。私は必ず守る男になる。
軍団兵たちがガレヌスに気づき、かばって立った。彼らはティベリウスの大声に呼応するように一段と猛々しく武器を振るい、敵を後退させた。その隙にガレヌスほか数人の負傷者は、後方に下げられた。
「ファレル! アッティクス! タウレア! いいぞ! ほかの者も続け!」
ティベリウスは駆けまわった。敵勢より優位に立つ場所では、活躍する軍団兵の名前を呼び、武功を見覚えることを知らせた。敵に押されがちの場所では、さらに声を張って励ました。負傷者を一人でも減らし、救護し、犠牲者を出さないように努めた。軍団兵らもまたそのように動いてくれた。なお厳しい戦況である箇所へは、副官の権限の範囲内で援軍を送った。
馬を駆るたびに、必ずマルケルスのそばへ寄るのを忘れなかった。マルケルスもまた声を出し、必死に軍団兵を鼓舞していた。汗だくの顔をぬぐうこともせず、剣を高く振りかざし、そして前へ突き出した。声は枯れはじめていた。
彼の眼前の一角が崩れた。ティベリウスは急いでマルケルスを後ろへ押しやり、長剣を片手に進み出た。勇猛果敢なカンタブリ族。いつ死んでもかまわないとばかりに一様に黒い死装束を纏う。甲冑は不揃いだが、その下では筋肉が盛り上がる。長髪を振り乱し、鉢巻をなびかせ、ただ目前のローマ人を殺しに来る。
ティベリウスはその一人と剣を交えんとした。だがその直前、側面から援軍が加わった。
「第二軍団に後れを取るな!」
ピソの声だ。
「第九軍団ヒスパニア! 我が義兄カエサルと、どの軍よりこの地で武勇を轟かせたローマ人! その名の意味を知らしめてやれ!」
いつのまにかピソは、ティベリウスの横にいた。二人はそろってカンタブリ族を押しやった。
「まったく──」汗を一筋首に伝わせながら、ピソが苦笑を向けてくる。「ティベリウス、君の落ち着きぶりときたらなんだ? 歴戦の司令官みたいだぞ!」
「君が初めて戦場に行った日から──」ティベリウスは馬をまわし、次の敵を迎えに出た。「ずっとこういう日を想像していた。これはまだ激しくない類だ」
「ティベリウス」ピソもまた馬を動かし、ティベリウスの死角を守っていた。敵の剣をはじき返し、一撃見舞った。「ぼくもこんな日を想像したし、待っていたよ。言っちゃなんだが、これはすごく誇らしい」
崩れた隊列は再び整っていった。それ以外の箇所も敵を押していて、全体としてもかなり優位に戦いを進めているようだった。
「おい! そこの子どもはなにをしているんだ!」
これはグネウス・ピソの声だ。
「でかいからって大人のふりをして! 君は先祖のガイウス・ネロ独尊将軍ではないぞ! 軍団長! とっととそいつの首根っこをつかんで、あっちへ下がっててくださいよ!」
ヴェリカでの両者激突は、結果としてはごく短時間で終わった。カンタブリ族の側が、形勢不利と気づくや急ぎ撤退行動に移ったのだ。やはり会戦形式となれば、ローマ軍は最強だった。数で優る相手をすぐさま圧倒した。こうなるとやはり少数の奇襲作戦のほうが自分たちには向いていると思い直し、カンタブリ族は山へ森へと続々引き返していった。アンティスティウスへの思い上がりが嘘のようで、潔いほどだ。
しかしローマ軍の作戦は、ここからが本番だった。
「逃がすな! 背中を追え!」
軍団長とその代理は異口同音に叫んだ。
「やつらを我らが網の中に捕らえるのだ!」
この戦役におけるローマの作戦は、第二段階に入った。まさに海に投げた網ように展開し、カンタブリ族の土地全体を取り囲むのだ。
ヴェリカにいなかった二個軍団が、今度は敵を待ち伏せする側になっている手筈だった。第六軍団が西へ、第十軍団が東へ移動し、敵が敗走する前から逃げ道を塞ぎにかかっていた。
ヴェリカで勝利した四個軍団も、すぐさま敵を追撃した。この勢いのうちに一人でも多く敵戦力を削っておくに越したことはない。余力がある部隊が、大隊長や百人隊長らに率いられて散開した。機動力のある補助軍も積極的に追走した。
しかしヒスパニア全体からみれば北のごく一部分であれ、カンタブリ族の土地は決して狭くはない。そのうえ山多く、複雑な地形ばかりだ。これをローマ軍三万と補助軍で囲いきるのは難事である。倍の人数がいたとしても不足を感じるだろう。
土地を知り尽くした地元民こそ、あらゆる自然条件を味方にできる。一方ローマ側は、今後進軍や追撃はもちろん、長引けば食糧の調達も困難になるだろう。タラゴーナからは当然、本拠地であるササモンからも遠く離れていく。補給はむしろピレネー山脈の西をすり抜けた、ガリア・アクィターニアからのそれを当てにしたほうが早いだろうとさえ予測される。
ローマ軍はそれでも辛抱強くやり遂げるつもりだ。時間はかかるが、できるだけ多くのカンタブリ族を包囲網の中から出さず、降服に追い込む。そしてイベリア半島の完全制覇を果たす。
西側のアストゥレス族の動向にも注意しながら、ローマ軍は網を広げていった。ティベリウスとマルケルスは、アンティスティウスの本営に同行して、その南側を固めた。あとは追撃し、立てこもる各所を落とし、じわじわと網を絞っていくだけだ。山岳民族を相手にできることとはこれくらいだった。
しかし必ず成果は上がるはずだ。先の見通しも立てられる。
ローマ軍はヒスパニア最後の未開の土地に踏み込んでいった。
六月半ば、アンティスティウスは第四軍団と合流し、ヴィンディウス山を包囲していた。ヴェリカを逃げ延びたカンタブリアの戦士らが、その切り立った山肌を登っていったという。
アンティスティウスはしばしここを動かないつもりのようだ。一方でカンタブリア包囲網のほかの部分は、徐々にではあるが確実に絞り、固めていった。
ティベリウスは負傷者のテントを見舞ってから、自身の寝所へ戻った。ガレヌスは元気そうで、傷の治りも順調だった。だがもう一度戦えるほどに回復するかはわからない。軽傷でも傷口から病に冒されることがある。まして一度でも重傷を負えば、戦士としての再起は困難だ。ガレヌスは幸運なほうだろう。日常生活に支障のない程度までは戻れそうであるのだから。
寝所であるテントに入ると、マルケルスが顔を上げてきた。寝台で上体を起こし、何巻もの手紙に囲まれてうれしそうにしていた。ローマの母や妹たちが、先月の彼の誕生日を祝っていた。少し遅れたが、ヒスパニアの奥地にも届けられたのだ。無事の帰国が待ち遠しいと、全員が手紙を結んでいるに違いなかった。
ヴェリカの戦いの後、マルケルスは少し体調を崩していた。最初の緊張が去った安堵とともに、こらえていた疲労が押し寄せたのだろう。今日で寝込んで五日目だったが、具合は上向いてきたようだ。昨日はピソが、ヴィニキウス将軍をまたタラゴーナへとんぼ返りさせるのがいいかな、とティベリウスへささやいたのだったが、その必要はなさそうだ。
どの道マルケルスは、具合に関わらず戦地を離れるとは言わないだろうと、ティベリウスもピソも知っていた。だからこそ無理をさせないためにどうするべきか、今一度相談していたのだった。
ちなみにヴィニキウスはまだ戻って来ていない。「ヒスパニアのどんぐりは美味い。私はこの土地の熊になりたい」と書かれた謎の手紙だけが届いていた。
「ティベリウス、ドルーススは?」マルケルスが目を輝かせて尋ねた。
「今日はもうあちらのテントで眠った。ルキウスと一緒に」
明るく無邪気なドルーススは、軍団兵の人気者だった。今日もあちこちでかまってもらい、心地よく疲れて眠りに落ちた。従軍生活にもだいぶ慣れてきたようだ。
マルケルスの目はさらに輝きを増したように見えた。ティベリウスは彼の傍らで、敷物の上に座った。
「ユルスからも手紙が来た」
マルケルスが知らせた。
「ほう」
「『お前はユリアにも手紙を書け。婚約者だろう』って怒られた」
マルケルスは首をすくめたが、まだうれしそうに笑っていた。ティベリウスも微苦笑を返した。
そういえば自分も、ヴィプサーニアに手紙を書いていなかった。これまでに一度もだ。自分ばかり守り石を革袋に入れて、いつも持ち歩いていた。
「なんて書いたらいいかな?」
だからそのようにマルケルスに訊かれても、まったく見当もつけられなかった。
「『ヒスパニアのどんぐりは美味い。私はこの土地の熊になりたい』」
引用してから、ティベリウスはマルケルスと一緒に吹き出した。体を折り、寝台に伏し、しばらく笑いこけていた。
「……だめだな、これでは」マルケルスの膝を抱え、ティベリウスは懸命に腹の痛みに抗った。「気が触れたと思われてしまう。君は来年の今頃には、彼女と結婚しているかもしれないのに」
「来年かぁ……」マルケルスもやっとのようにまた体を起こした。「実感がわかないな。でもきっとその頃には、この戦争も終わって、みんなでローマに帰っているんだよね」
「ああ、そうなるといいな」
いずれ軍団副官の任期は一年であるし、来春には帰国の途に着くのだろう。ユリアは今年で十三歳になる。本人たちの実感はさておき、まずアウグストゥスにとって、甥と一人娘の結婚式は一日でも早く実現させたい慶事だろう。
「結婚かぁ……」
マルケルスは夢を見るようにつぶやいた。きっと遠い夢だ。婚約者への恋情よりも、この辺境での戦争という現実から飛び立ち、あたたかくて甘い思いを馳せているのだろう。
だが、マルケルスはこう言った。「ぼくはティベリウスと結婚したかったな」
ティベリウスはきょとんとした。マルケルスはその顔をおかしそうに覗き込んできた。
「覚えてなぁい? ぼくはずっと前に君に結婚を申し込んでいたのに」
言われて、ティベリウスは記憶を探った。ずっと前──たぶん十年も昔だ。初めて会ったころだ。マルケルスがまだマルクス・アントニウスの継子で、カエリウス丘に今もある家で暮らしていた時だ。
「ティベリウス、ティベリウス」
マルケルスは寝台で背筋を伸ばした。
「ケッコンしよ!」
「……マルケルス、男の子同士は結婚できないよ」
ティベリウスが応じると、マルケルスは右を見て、左を見た。それからもう一度ティベリウスに向き直った。
「でもぼくは、ティベリウスのこと好きだよー」
「うん、ぼくもマルケルスが好きだよ」ティベリウスは微笑んだ。
「じゃ、ケッコンできるね!」
「マルケルス、男の子同士は──」
このやり取りが、マルケルスが泣き出すまで延々とくり返されるのだった。当時マルケルスは、母オクタヴィアから「ケッコン」について聞いたらしかった。きっとオクタヴィアは、「結婚はあなたが好きな人と約束すること。愛し合う二人が仲良く、ずっと一緒に暮らすと誓うこと」というふうに説明したのだろう。
十六歳と十五歳は、今一度大笑いしながら寝台に突っ伏した。
「やだ、やだ、絶対やだ!」それでもマルケルスは、両拳で上掛けを叩いた。「ぼくはティベリウスと結婚するの! ずっと一緒にいるの!」
未だに彼は、半ばくらいは本気に見えた。
「マルケルス──」ティベリウスはなんとか顔を上げるのだった。「私たちは結婚したも同然だ。一生一緒に歩むのだからな」
「うん」マルケルスの両手がティベリウスのそれに置かれ、ぎゅっと力を込めてきた。「ずっと一緒だよ、ティベリウス」
「ああ」
「どこにも行かないでね」
「ああ」
「ほんとぉ?」マルケルスはにやりとした顔でにらんできた。「ティベリウスは男の子にウワキ者だから、ぼくはしょっちゅうシットしちゃうんだ」
「困ったな。身に覚えがないんだが」
「だったら、今夜はずっとここにいて」マルケルスはティベリウスの両手を引いた。「二人だけでいて」
「毎日いるだろう?」
「ドルーススがいるでしょ。気づいてないの? ぼくは毎日ドルーススと君を取り合っているのに」
「弟までウワキに含まれるのか。君も妹が四人もいるのに」
「今はいない」ティベリウスを引き寄せ、マルケルスは抱きしめた。「ローマに帰るまで、ぼくは君を独り占めしたいんだ」
「やれやれ、まいったな……」
言葉とは反対に、ティベリウスは内心ほっとしていた。マルケルスがようやく、一時的にしろ気負いを下ろせたのがわかるからだった。
一生一緒にいるが、今のこの戦争も、先はまだ長い。一日一日をしかと歩んで、生き伸びなければ。
ユリアへの手紙は明日考えよう、とティベリウスがささやくころには、マルケルスはすやすやと眠り込んでいた。