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世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマ・ティベリウスの物語、第三弾~  作者: 東道安利
第三章 ヒスパニアのティベリウス
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第三章 -3



 3



 ササモンの陣営から、ローマ軍は食糧の調達という名目で、あちこちに小隊を派遣した。実のところは最高司令官が無事タラゴーナに戻れるよう、敵の目をくらます目的が第一にあった。軍団兵ほか補助軍の騎兵がその役目を担った。

 ガリアの大河と違い、エブロ川は航行ができない。そのうえ辺りは岩の多い複雑な土地である。馬を御すのもただ歩き通すのも骨が折れた。山賊は頻繁に待ち伏せをしてきたが、ローマ軍は迎撃のみしてすぐに退いた。あたかも任務失敗のように見せかけ、犠牲を出さないよう細心の注意が払われた。

 けれども敵は、やがて気づいた。アウグストゥスがタラゴーナの城壁内に戻るのこそ邪魔できなかったが、ローマ軍は最高司令官がいない状態で堡塁にこもっているのだ。

 カンタブリ族の度重なる勇猛な攻撃に恐れをなし、アウグストゥス・カエサルは引き返した。最高司令官をすでに敗走せしめたのだ。臆病者のローマ人! 軟弱なローマ軍! もはや勝利は我らのもの! さっさとヒスパニアから出ていけ!

 彼らはたびたび堡塁の前まで現れて、そのように嘲笑した。実際は彼らの言語でなされたが、その類の罵倒はだいたい伝わるものだ。ヒスパニアの補助兵たちも通訳してくれたが。

 このように敵は意気軒昂だった。一方で、実のところローマ軍も士気は下がっていなかった。むしろ大多数がほっとしている様子だった。だれも大っぴらに口には出さなかったが、仲間内ではしばしばささやき合っていた。アウグストゥス指揮でアグリッパ不在は負け必定──この運命はすでに避けられたな、と。

 冗談のつもりで言う者もいただろうが、元来兵とは迷信深いし、したがって戦争とは縁起をかついで様々な儀式を行うのだ。

 しかしマルケルスだけは別だった。カンタブリ族たちの嘲りと侮辱に、いちいち傷ついているように見えた。彼とて最高司令官の不在が、この場合には必ずしも悪い方向に事態が傾かないことに気づいていた。けれども甥として、後継者として、その事実を認めたくなかった。悪い方向どころか、むしろ良い方向に士気が上がっていることなどなおさらだった。

 マルケルスはある日、自ら一個大隊を率いて敵をかく乱してくると申し出た。「君が出る必要はない」とアンティスティウスは言ったのだが、マルケルスはなかなか引かなかった。叔父上に敵の目を向けないために兵たちが危険を冒しているというのに、自分だけいつまでも堡塁内で安穏としてはいられないと言い張った。

 アンティスティウスは渋い顔で傍らのティベリウスを見た。結局はうなずいた。

「西の丘へ、五キロ以内で許可する」

「ティベリウスは来ないで!」

 いざ全員が馬にまたがる段になって、マルケルスはいきなりそう言い出した。

「ここで待っていて!」

「マルケルス」ティベリウスはできるだけ沈着な口調で言った。「アンティスティウス将軍は、私の同行がなければ出動を許可しない」

「どうしてさ? 軍団副官が二人も行く必要はない!」

「マルケルス、わかっているはずだ。もう一度将軍を煩わせるか?」

 するとマルケルスは、ひどく苛立ったうなり声とともに体を背けた。馬の腹を蹴り、単騎で西門を出ていった。数騎が慌ててあとを追った。ティベリウスは残りをうながして、そのあとに続いた。

「自分は一人で軍団兵と出かけたくせに」

 ティベリウスが追いつくと、マルケルスは馬上で前方をにらんだままうなり続けた。

「ぼくと一緒にいるふりをして、本当は遠ざけようとしてる。そんなに先に手柄が欲しいの?」

「それは味方を率いて敵を潰走させるという意味か? それとも首を取ってくることか?」確認してから、ティベリウスはうなずいた。「ああ。とくに後者の意味なら、君よりも先に敵を斬らねばならないと思っている。でなければ私は、いったいなんのためにいる。……ああ、確かに、武功を急いでいるのは私のほうだろうな。すまなかった」

 それを聞くとマルケルスの横顔が、いく分強張りを解いたように見えた。

「ティベリウス、ぼくは手柄が欲しいよ」なお決然としながらも、マルケルスは悲壮な様子で打ち明けた。「叔父上に恥じないために。誇らしく思っていただけるように。叔父上がこの場にいないのなら、ぼくが勇敢だったことがしっかりとお耳に届くくらい活躍しなきゃならない。アグリッパがいないから頼りないなんて言われたくない。だってぼくはカエサル・アウグストゥスの甥で、あの『ローマの剣』の子孫なんだよ。だからただ後ろで大人しくしているだけじゃだめだ! 目に見える手柄を上げないと……」

「マルケルス」ティベリウスは口調を強めた。「君は色々背負いすぎだ」

「わかっているよ!」マルケルスはさらに強く、高く声を張った。「でもこれは……叔父上のためでもあり、ぼくのためでもあるんだ。ぼくはこの先、どんな男になりたいか。どんなふうに皆に覚えられていたいか」

 ティベリウスは思わず返す言葉に詰まった。それから言った。

「男のあり方は一つではないぞ。君は『ローマの剣』になる必要はない。カエサルのようには、これからなればいいんだ。武功がすべてではない」

「でも今はこれしかない!」

 マルケルスが剣を抜いた。ティベリウスもそれに倣った。気づいていた。行く手の茂みが盛り上がり、岩が揺れている。連中は待ちきれずにいるのだ。最高司令官を追い返したと思い込み、調子に乗っているのだ。

 連れの十騎が盾をかざし、マルケルスとティベリウスの前に進み出た。それ以外も盾と槍を構えた。本来が歩兵である軍団兵らは下馬した。

 マルケルスは行く手へ剣先を突き出した。

「目の前に全力を尽くさないで、だれがローマを守れる男になるというの? ぼくにはわからない。ぼくになにができるか。なにに秀でていて、なにを人に頼るべきか。ぼくには君がいるのに。君という男がいつもいる、のにっ……だから──」

 ティベリウスは奥歯をかみしめた。マルケルスがそこまで考えていたことに今更気づかされた。彼が最も比べ、比べられる。それは偉大な叔父でも先祖でもなかったのだ。

 まずは弓矢の応酬だ。それらが降り注ぐ寸前、マルケルスは傍らへ精一杯のような微笑みを見せた。

「ティベリウス、そんな君を、ぼくは守れる男になるって誓ったんだよ」

「マルケルス……」

 矢が盾を打ち、たちまち激しい音を立てた。鬨の声を上げ、ローマ大隊が前進した。敵も茂みや岩陰から飛び出してきた。騎兵もいるが、ほとんどが歩兵だ。それでも退く気はなく、潰せると考えたらしい。やはりいい気になっている。

「ならば、私についてきてみろ!」

 ティベリウスはマルケルスへにやりと笑ったのだった。それから馬を駆り、味方の壁を飛び越えて、敵襲に突っ込んだ。猛然たる勢いで先頭の騎兵と交差する。馬上から転落し、騎兵は仲間たちにぶつかりながら落馬する。ティベリウスは次の騎兵にも一太刀浴びせ、さらに馬の脚で歩兵の顔を蹴る。また振り向きざまに一太刀を見舞う。

 首から鎖骨まで、赤い筋が走るのを見た。噴き出すそれを押しのけて、次の敵に剣を振るった。

 目の端には、あっけに取られたようなマルケルスがいた。

「どうした! 来ないのか?」

 さらに次の敵と刃を交えながら、ティベリウスは呼びかける。斬り捨てると、また笑みを作って向ける。

「そう簡単に私に勝れると思うな!」

 胸を張って知らせた。一瞬後には次の敵を押しのけ、また振り向いた。

 大隊の迎撃は的確だった。すでに敵騎兵の勢いは殺されていた。

「私はティベリウス・ネロだ。君よりもよほど傲岸不遜で、負けず嫌いなのだ。よくわかっているはずだ」

 そうだ。君が行くと言うのなら──。

「ここではどちらが勝るか? どうやら私がしてやったようだが 、いずれ長い戦いだぞ! その忍耐はあるんだろうな? この世界に生き続けるかぎり、君と私の勝負は続く! そういうことだろ?」

 マルケルスが雄叫びを上げた。そんな声が出せたかとティベリウスも、そして部下たちも驚いたに違いない。彼もまた猛然と馬を駆った。部下たちが急ぎ道を開けた道を、まっすぐに突っ込んできた。馬が跳ね、敵を追い散らし、背中をティベリウスに向けて剣を構える。

「ティベリウス!」

 マルケルスは断固として叫んだ。ティベリウスがそっと目線をまわすと、彼は最初の敵に斬りかかるところだった。

「ぼくは必ず君に勝つ! そして、ずっと一緒だ!」

 ああ、そうだ、とティベリウスは胸中で応じ、剣を振るう。マルケルスへ近づく一人の肩を刺し貫く。

 しかし君は私が守る。それは変わらないからな。





 五月末、アウグストゥスが無事タラゴーナに入ったという知らせが届いた。するとローマ堡塁内はいよいよと活気づいた。ただちに幕僚たちが総司令部に集められた。

「山賊どもは我らを散々侮って楽しそうだな。とくにこの私を」

 総司令官の席に座り、アンティスティウスはほくそ笑んでいた。

「最高司令官アウグストゥスはいない。当代最強、世界ご自慢の名将アグリッパもいない。ただアンティなんとかという聞いたこともない老人が、曲がった腰をさすりながら指揮を執っておるとか、自分の代わりに部下どもを徘徊させておるとか」

 おかしそうに指揮棒の先で、彼は卓上の地図の一端をつつくのだった。

「それでよい。好きなだけ侮らせておけ。そうして連中を全員誘い出せ。ここに」

 彼が差したのは、ここから北西へ約二十キロのヴェリカと呼ばれる地点だった。ほとんど奇跡のような平地がそこにあった。

「いざ始めよう。カンタブリ族どもを一網打尽だ」






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