第三章 -2
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《日付は四月三日》
親愛なるティベリウス・ネロ
タラゴーナに着いたのか。いよいよ進撃開始か。
君が世界の西の果てで戦場に立つあいだ、ぼくは相も変わらず世界のほぼ東の果てで、のんきに牢屋暮らしを満喫している。
自分を責めるな、か。なぐさめてくれてありがとう。
君のほうが荒々しい日々を過ごしているだろうにね、人間の格の違いを見せつけられる思いだよ。
しばらく手紙を書くつもりはなかった。戦地の君にちょっかいを出したくないというより、ぼくのほうが取り立ててなにも書くようなことがない、平穏な日々を送っていたからだ。
新しい総督は、同じガルスでも似ても似つかない人なんだけど、良い人で、ぼくを引き続き居候させてくれている。ちょっと良い人すぎやしないかと思うこともあるよ。
あと、祖父さんたちはひと月ばかり前に、アレクサンドリアを出発したよ。ぼくも途中まで見送りに出た。メンフィスまで。君も四年前に立ち寄ったんだっけか。
祖父さんたちはさらにナイルを遡行して、コプトスという町に行く。そこから東に砂漠の中を横切って、干からびて死ななければ紅海に出る。蜃気楼とかいう幻でなければ、そこにミュオス・ホルモスという港町があって、着いてからようやくインドへ行ける船をこしらえるんだとさ。だから実際にこの世界からいなくなるのは、五月か六月じゃないかな。
ぼくはそこまでは見送りに行かなかった。なんでかな。あの辺りにはガルスが力づくで黙らせたテーベとか、色々見どころがあるって話なのに。ああ、ピラミッドは見たよ。君が言っていた、メンフィスの西にあるやつ。近づいたら思うよりはるかに途方もなくてさ、ガルスの落書きは見つけられなかったな。
ああ、こんなどうでもいい日常を書きたいわけじゃないんだ。去年みたいな波乱万丈も御免だけどさ。
ぼくはアレクサンドリアに戻ってきた。そしたら──
「こんにちは、お若いの! お手紙ですか、お若いの?」
いつのまにかルキリウスの牢獄には、また陽気な自由人が現れるようになっていた。これはメリクという王宮の雑用係で、今は格子窓から日に焼けたにやけ面を覗かせている。
ルキリウスは半眼のうんざり顔を上げた。寝台を机代わりに、ひざまずいて手紙を書いているところだった。
「もう書き終わりですか? あっしがお届けしやしょうか?」
「今書き始めたんだよ」
意地悪く響いた声も、メリクにはちっとも堪えないようだ。気が良いのか短いのかよくわからない笑顔を絶やさず、しきりに右へ左へ首をかしげている。もちろん彼が直接世界の果てに手紙を届けに行くわけではなく、お使いついでに税関にでも立ち寄り、適当な船便に乗っけてやろうという話だ。ルキリウスからの銀貨がお目当てだ。これ以外にもあれこれといらない世話や、いらなくはないがなんとなく癪に障る世話を焼きたがる男だ。先日は空いている桟橋で、これまで集めた銀貨を一列に積み上げた。地面に這いつくばって騒いでいた。
「ご覧なさいよ!」
彼はルキリウスに見せびらかした。
「見ようによってはセラピス神殿よりも高い! ほらっ、ファロスの大灯台よりも高い!」
ルキリウスが足を踏み鳴らすと、何枚かが海中へ転がった。メリクは悲鳴を上げてあとを追った。何枚救い出せたかはわからない。
「いいですか、お若いの、雑用係というのはね」
それでも少しもめげた様子もなく、翌日あたりには得々とまたちょっかいを出しに来るのだった。今や牢獄は牢獄でもなんでもなくルキリウスの部屋と化していたので、外に衛兵も立てられていなかった。だからといって出入り自由にした覚えはルキリウスにはないのだが、メリクなどは遠慮もなく好きな時に木格子の前までは来た。暇でなければ怠けているに違いないのだが、地べたにどかりとあぐらをかき、厨房からくすねたらしき葡萄酒をおいしそうにすすり、ルキリウスへ自慢と哀れみのまなざしを向けて楽しげだった。「お若いの」がまだ酒類を飲めないことを知っているのだ。
「マレオティス湖の酒は世界最高! せっかくこの都まで来てこれを飲めないだなんて、人生損してるなぁ、お若いローマ人!」
「ぼくの人生はこれからの予定なんだけど」
ルキリウスは苛々と言い返し、メリクのつまみの煮干し魚やナツメヤシを横取りする隙を窺った。
濃い髭を生やしているのでローマ人より老けてみえるが、メリクはどうも三十代のようだ。三十歳か三十九歳かは不明だが。本人曰く、ギリシア人と土着のエジプト人との子だそうで、ナイルデルタ内にひしめく集落の一つに生まれた。ある日、毎年恒例のナイルの増水が激しすぎて、家がカノポス河口から地中海の上へ移動してしまった。それを機に王都で稼いでやろうと決意した。
ギリシア語を話すが、この総督官邸で雑用をこなすがためにラテン語も覚えたそうだ。ルキリウスにはラテン語混じりのギリシア語で話してきて、なんだか奇妙な感じがした。
「それで、雑用というのはね」
木格子越しに伸びた手をはたいてから、メリクは得々と語るのだった。
「素人にできるこっちゃない。あっしのような優秀な男でなければ、ただの邪魔もんで役立たず。それもそんじょそこらの優秀じゃ駄目なんでさ。まず言われたことだけやってりゃいいって思うでしょうが、それじゃ一日の終わりには存在を忘れ去られちまう。とにかく自分で仕事を見つけて、だれかのお役に立つ。それで喜んでもらって、また仕事をもらう」
こうして皆の目に留まりやすい糞尿の壺まわりの掃除から始め、今は総督官邸全般の香料係を任されているそうだ。あちこちの部屋でお使いを承りながら、悪臭が出ていないか、元王宮殿にふさわしい品のある香りがたちこめているか、確認してまわるのだという。
「女のほうがにおいに敏感だとムセイオンのエラい学者のだれかが言ってやしたが、かまうもんか。どうせ野郎どものほうが多いんだから、ここは。最近は闘技場のにおい消しさえ頼まれました。お若いの、このあいだお気づきになりやせんでした?」
「気づいたよ。あまりにかぐわしすぎて、試合前に全員吐いた。さらに阿鼻叫喚の地獄になった」
「次は違う配合で試してみましょう」目を合わせずに、メリクはさらりと言った。「無臭にするのがいちばん難しくてね。でもそんなんつまんないでしょ? 生きとし生けるもの、においをまとって当然。それがまた、なんていうか、そそられるでしょ?」
「いや、死体とか排泄物がいちばん臭うと思うんだけど……」
「でも雑用とはここからが肝心でね」無視を決めて、メリクは自分の話を続けた。「単なる優秀だと、あれもこれも言いつけられちまう。それでいっぱいいっぱいになって、その瞬間、あっという間に無能に転落。仕事もクビ。だから自分で仕事を支配しなきゃならない。これができりゃ、あっしはこの国の新しい王様同然。ローマの大将軍も尾っぽを巻きまっせ。んでね、あっしは一日の仕事をこの指で数えられるまでって決めてる。これでも凡人は目をまわしてぶっ倒れるくらいでさ」
「その仕事ってのはさ」もう一度煮干し魚を狙いながら、ルキリウスはメリクをにらみ続けた。「牢屋で優雅にお酒を飲むことなの? ほら、たい肥組合の皆さんが、例の壺たちを引き取りにきたみたいだよ。今夜はなんで一ヶ所にまとめておいてくれないんだって、ぼやいてる」
こんな調子ではあったが、少なくとも今朝までは、メリクは総督官邸の雑用係を首にならなかった。それで、ルキリウスは手紙を書くのを中断しなければならなかった。「それはそうと、総督がお呼びですよ」と彼が知らせてきたからだ。本人が言うほど極めて優秀であるならば、メリクはもう少し遅い時宜でルキリウスを訪ねてきたはずだ。銀貨をもらい損ねたというのに、まだにやにやしている。
いずれルキリウスにはさして手紙に書くこともなかったのだが。
「おおっ、ルキリウス」
執務室にて、総督ガルスは顔を輝かせた。ややこしいことに新しい総督もガルスの名を持つのだが、前任者とは似ても似つかなかった。ほっそりとした学者肌の男だ。年齢も四十歳過ぎであろうが、戦時も平時も修羅場をくぐり抜けてきたとばかりの冷厳さと自負は、この人物の容貌に見当たらない。人の良さそうな屈託ない笑顔を浮かべ、今日はひと際身軽な様子だ。
カエサル領エジプトの二代目総督、アエリウス・ガルス。貴族ではないにしろ、生まれも首都ローマの古い家柄だという。
「私はフィラエまで出かけることにした。君も来ないか?」
あなたもですか、という言葉を、ルキリウスはどうにか呑み込んだ。
祖父と叔父は、そろそろミュオス・ホルモスに着いた頃だろうか。永遠を覚悟した別れのきり、手紙の一つも寄越さない。その町からは西へ砂漠の隊商路が伸び、ナイル川沿いのコプトスにつながる。そこに古くから税関が置かれ、アラビアやインドからの輸入品に関税を課す仕組みだ。
フィラエはそのさらに南だ。道中にはテーベもある。
アエリウス・ガルスの顔には明らかに名所見物の旅だと書いてあった。
ルキリウスは答えた。「遠慮します」
「どうしてだ? せっかくエジプトにいるのに、壮大な旧跡を見たくないのか?」
「見たくなくはないですけど」そうは言うものの、ルキリウスは今一つそそられないのだった。この国に来たからには必ず見ておくべきとされるファラオ葬祭殿の数々に。「今や一応のこと、ぼくはこのアレクサンドリアに留学しているようなもんですから。まだ勉強すべきことがある。体も鍛えなきゃいけない……」
「君が同行してくれるなら、道中安心なんだがなぁ」とアエリウスは眉を下げる。ただそれだけのことで、ルキリウスは胸の痛みに似た感覚を覚える。
似ても似つかないからこそ、なおさら思い出してしまうということがある。
「ご冗談でしょ? ぼくなんか連れて行ってなんになります? 道中に砂漠の蛮族でも出そうなんですか? それともまさかワニ退治要員? カバ捕獲要員? むしろエサ要員か、ピラミット盗掘大作戦の第一の罠生贄要員? 落とし穴で串刺しかな? それとも蛇とサソリの部屋行きかな?」
「ルキリウス」アエリウスは笑い出す。「悪かった。そんなつもりで言ったんじゃない。この国はどこも安全だよ。少なくともフィラエまではな。近くにローマ軍団が駐留しているので、私は総督らしく慰問するつもりだ」
この人は気さくすぎだ。息子ほどに若い市民権行使年齢未満の若造に、あっさり謝ってくるのだから。騎士階級であり、この度なんの縁だかアウグストゥスに抜擢されなければ、まさか属州総督になるなど思ってもみなかったのだろう。
もっとも最初の数週間ばかりは、その地位にふさわしい威厳を保とうと努めていたのだ。
「君がルキリウス・ロングスか」
コルネリウス・ガルスとその娘を追い出した、その手荒さはすべて自分の非情が為した業だとでも言いたげに、その同日に声をかけてきたのだ。
「話はティベリウス・ネロから聞いている。ここに来る直前に手紙が来てな。だからといって私は君の罪の有無について、偏りなく自らの目で判断を下すつもりだが──」
「ティベリウスが──」王宮港にたたずんだまま、ルキリウスはほとんど聞いていなかった。「ティベリウスがガルスを連行させたんですか? 総督を解任して?」
「馬鹿を言うな。これは第一人者カエサル・アウグストゥスのご決断である。あの男はカエサルによる再三の命令を無視していた。この国を我がものとして、あとは一歩も外に出たくなかったのだ。ところで私もガルスというんだ。アエリウス・ガルス」
ルキリウスはそこでようやく新総督を見た。
アエリウス・ガルスは様々な不都合が重なって舞台に立つことになった代役に見えた。
「とはいえ、君はまだ十五歳の少年なのだろう? 罪人や戦争捕虜でさえ、その若さで剣闘士試合に出すなど言語道断だ。二度と試合に出なくてよい。君に対する正当な沙汰は、これから私が再調査した上で決めるが、それまではまっとうな騎士階級の一市民として扱うことを約束しよう」
このほんの二週間後だった。
「ルキリウス!」執務室の机に伏し、新総督が頭を抱えていた。「今日の剣闘士試合で、市民が君を求めて大声を上げていた。どうして君を出さないんだ! 早くしろ! 新総督だかなんだか知らんが、ガルスはなにをやっているんだ!──とあわや暴動沙汰だった」
「それはすみませんでした……」
ルキリウスは目を逸らした。名目は一応、新総督の就任祝いであったのだから、気の毒な話だ。
たぶん市民たちは、ルキリウスが出場する前提で多額の金を賭けていたのだろう。
「ルキリウス!」机から身を乗り出し、アエリウス・ガルスはルキリウスの手をがしりと取った。「このままでは私の──いやローマのエジプト統治が危うくなる! 何事も最初が肝心なのだ。私はその事実を甘く見ていた。だからルキリウスよ、来月は……来月だけはなんとか──」
「かまいませんよ」
ルキリウスはたぶん白目になって言った。
「ありがとう!」ほぼ机に乗り、アエリウスはルキリウスを抱きしめたのだった。「私が臨場するかぎり、君を死なせはしない! 試合内容に関わらずだ! それだけは約束する! ……もっとも、君が即死の怪我を負わされた後ではなにもできんのだが……」
この人の言う約束にはどこかに抜けがあることを、この短期間で学んだルキリウスだった。どれもこれも真心からの善意であるのだが、善人であることと信用とは必ずしも組み合わせられないのだ。
ともあれ以来、ルキリウスは新総督に良くしてもらっていた。昨年までとは雲泥の差であるが、時々──否、もっとしばしばアエリウスの人の良さが心配になるのだった。
この度の見物旅行もそうだ。ワニやカバやサソリはともかく、砂漠の蛮族は一応のこと、このエジプト国内で出没したという話は聞かない。ここよりずっと西のヌミディアやマウリタニアではときたま襲撃があり、ためにローマは二個軍団を属州アフリカに置いている。だがエジプトはコルネリウス・ガルスがテーベを平定して以来、平穏を保っている。世界各地から見物旅行客もナイル遡行を楽しんでいるようだ。
だがフィラエまで行って、エチオピア人から宴にでも招待され、手厚いもてなしに感激しているうち、そのままうっかりさらわれるか殺されるかしてしまわないか。そういうまずあり得ないであろう事件さえなんだか想像させてしまうのが、ここ三ヶ月ほどルキリウスが良くしてもらっているアエリウス・ガルスであるのだった。
畏れ多いことではあるが、軍団指揮権も持たせるのなら、アウグストゥスはぜひともアグリッパと人選を相談してほしいと、ルキリウスは思う。それとも相談した上でのこの人なのか。前総督とのごたごたがあり、自身がヒスパニアにいたこともあり、選んでいる暇などなかったのか。
いずれアエリウスは良い男で、つき合いやすくはあるのだった。平時であれば、それ以上なにを望むんだ?
「本当に来ないのか?」
そう重ねて訊いてくる総督は、飼い犬のような目をしてさえ見えた。
「ええ」ルキリウスはうなずく。「お気持ちはとてもありがたいですが、祖父さんたちの消息も、届くとしたらここということになっていますし」
「コプトスのほうが早いだろう?」
「コプトスにずっといたくはありませんよ。これから真夏だっていうのに」
「……私が留守のあいだ、君が剣闘士試合に出場して万一のことがあった場合、止めてくれる者がおらんかもしれんのに」
でも総督がいないうちは、剣闘士試合を主催しようとする人間は少なくなるのではないか。
「お気遣い感謝します」と頬肉が痛むような笑顔を作るが、ましてルキリウスはもはや強制される身ではないのだ。「きわめて慎重に、考えて行動します」
「君は変わっているな」アエリウスは困ったように首をかしげるのだった。「普通であれば、ナイルの旧跡めぐりの機会に狂喜して飛びつくと思うのだが」
まるで浮かれている自分がおかしいのだろうかとでも言いたげだった。
「そうでもありません。ローマにはピラミッドを金と人力の無駄、権力の乱用と切り捨てる人もいました。嫉妬で言ってるのかもしれませんが」
「君もそういう男か?」アエリウスは疑うというより信じたくないようだった。「私は友人を待って出発するつもりだ。外国にいるんだが、もうじきここに来ることになっていてな。気が変わったらいつでも言ってくれ」
「ええ。たぶんそうはならないと思いますが」
「ところで君、来年は十六歳になるのか? それとも十七歳か?」
「……今年十六歳になって、それから来年十七歳になる見通しですが、それがなにか?」
「うむ」
アエリウスはうなずきだけを返した。嫌な予感を背中に乗っけながら、ルキリウスは総督執務室をあとにした。
しかしまあ……新総督が来てからは、これまでもこの先もすべて自業自得であると思った。
「こんにちは。こんにちは、ローマの少年」
翌朝もまた、ティベリウスへの手紙に取り組んでいたところへ、上から声をかけられた。どいつもこいつも「こんにちは」とさえ言えば、牢獄の住人と話してもいいと思っているのだろうか。
ルキリウスが顔を上げると、格子窓の向こう側で、よくわからないがとにかく見覚えのない男が微笑んでいた。声にも聞き覚えがないが、滑らかなラテン語だ。
「……えっと、どちら様ですか?」
「総督の友人だよ」
よくわからないが、ルキリウスを見て、その初めて見る顔は少し残念がったように見えた。けれども微笑みは消さず、変わらない穏やかな声で話しかけてきた。相当無理な体勢でいるだろうに。
「昨晩ここへ到着したばかりだ。勇敢なローマ少年がいると、アエリウスから聞いてね。つい気になって来てしまった。邪魔をしたならすまない」
メリクなどとは大違いだ。手紙をまたも放置して、ルキリウスは牢獄を出た。
客人は立ち上がり、服についた土を払い落としているところだった。ルキリウスを前にすると、太い眉と唇を動かし、やはりどこか残念そうに見える微笑みを浮かべるのだった。がっしりと大柄な体つきだ。頭髪はごく短く、ゆったりと丸い顎に白黒の胡椒をまぶしたような髭が散っている。
「全戦一撃勝利」どこか悲しげながら、その男は感心しているように言った。「そのうえ衛兵たちを相手にしても負けなしと聞いた。ローマには君ほどの若者がほかにもいるのか? ……いや、すまない。君がまずすばらしいのだろうに。しかし思いのほか細いので、びっくりしている」
「お皿に残ったカタバミ野郎に見えるでしょ?」ルキリウスは半眼になって代弁した。「事実そうなんですよ。今日も衛兵たちに仕返しをされないか怖いので、牢屋に自分で鍵をかけて引きこもっているんです」
「君は妙な若者だな」
するとその男も、もう少し正直な言葉を使うようになった。
「私はポントスのアマセイアから来た。今はローマの属州領になっているがね。マカロンと呼んでくれたまえ」
「……ルキリウス・ロングスです」
「ルキリウス」マカロンの声は落ち着き払っていたが、すでに控えめな親しみが込められていた。「よかったら少し君と話したいんだ。君はいつからここで暮らしているんだね?」
「去年の十月です」
「ご家族は?」
「いません。ついこのあいだインドへ出かけました」
「ほう」なかなかに印象的である話をしたはずだが、マカロンの反応はそれだけだった。「友人は?」
「いませんよ、ここには。ぼくは一人です」
「私はローマにいたことがあるんだ」
マカロンは強いてのように笑みを大きくした。
「若い頃にね、十三年もいたんだ! アエリウスの家にはその頃に世話になった。彼とは図書館にこもったり、あちこち旅をしたり、共に色々なことを学んだよ。実の弟のように良くしてもらった」
……となるとこのマカロンは、アエリウス・ガルスより年若いということになる。彼よりもずっと落ち着いて見えるが、日に焼けた顔や手足には、確かに溌溂とした艶と張りがあった。笑い皺のほうが目立つが。
「私の旅に出た先はたびたび戦乱になる気がするのだが、此度はそうはならなそうでよかった。ローマに初めて立ったときは、神君逝去直後の騒乱、いざ故郷に帰らんとしたらアクティウムの海戦、途中に立ち寄ったエジプトではプトレマイオス王朝の最期──」
「わざと野次馬しに行ってるんじゃないですか?」
「そう思われても仕方ない」ルキリウスの指摘に、マカロンはあっさり苦笑を返した。「なぜなんだろう。私はただこの足で世界を見たいと欲しているだけなのだがね」
それから二人は場所を、官邸内の中庭の一つに移した。柱に大理石をあしらった東屋で腰を下ろし、とりとめもなく話をした。
マカロンは地理学者であるそうだった。この世界をできるだけ歩いて見てまわるのが夢だという。そして地誌を書き上げる。この世界をそれに残す。それこそが彼の生涯の志であり、だれに託されたわけでもないが、使命であると考えているという。平和になった地中海世界だからできることだ。それは多くのローマ人と、殊にアウグストゥスの統治のおかげだ。かの人に直接お会いしたことはないが、その辛抱強い戦いと賢明な統治を、これまで肌身に感じて生きてきた。同年齢であることを勝手に誇らしく思っていると、マカロンはつけ加えた。
エジプトには以前にも来たことがあったが、そのときは王朝滅亡の混乱の中で、あまり満足に旅をすることができなかった。寄り道ばかりせず、故郷に帰らねばならないという思いもあった。それが此度はなんとアエリウスがこの国の新総督に就任したという知らせが届いたものだから、これ僥倖とすっ飛んで来たという。この国をしかと歩かずして、地誌を書き上げられようか。ヘロドトスやプラトンのような偉大なる先人たちも次々この土地を踏んだ。二度目の挑戦では、叶うならばフィラエのその先まで行ってみたい、と。
マカロンという名前は、やはり縁起が良いのだ。決して疫病神ではないぞ、と彼は冗談めかしてルキリウスに言い聞かせるのだった。
アエリウスはこの旧友を待っていた。エジプトに着いてすぐか、もしかしたらそれよりも前に、そのアマセイアという町に手紙を届けるよう計らったに違いない。やはりアエリウスとは、総督であり将軍であるというより、今も好奇心旺盛な学者であるのだ。
「アエリウスは君に同行を求めたんだって?」
生来であろう愛嬌を備えたまなざしを向け、マカロンは確かめてきた。
「はい。丁重にお断り申し上げましたけど」
「それは残念だな、私も」と彼は眉を下げ、顔じゅうに皺を作った。「君はご家族と一緒にインドへも行かなかったんだな。あまり興味がないのかな、世界を見ることに?」
「ええ、たぶんそうでしょう」
「でもこの都には来た」
「ええ、勉学と鍛錬のために」
「それはここではなくてもできるぞ」
「片道三ヶ月も海の上にいる場合はできません。これからますます灼熱になる砂漠でもできません」
「君には世界を見るより大切なことがあるようだ」愛嬌のある目は、深い思慮も備えていた。「それとももしかしたら、だれかと一緒に見たいと思っているのかな? まだ見たことがないあらゆるものは」
その言葉が、ルキリウスには引っかかった。聞いたことがあったのだ。
──まだ見たことがない、あらゆるものが見たい。
ティベリウスがよくそう言っていた。
ああ、きっとそういうことなのだろう。一人旅で満足する人もいるが、ルキリウス・ロングスはだれかと一緒に見たいと思うのだ。この世界の最果ても。東も西も。
マカロンもまた友人に呼ばれたから再挑戦しようと思い立った。
ティベリウス、確かに君となら、テーベの葬祭殿を見てみたいよ。君と、それからドルーススと、あとメッサラとネルヴァとグネウスなどを加えてピラミッド探検なんて、すごく、すごく楽しそうだ。
君と一緒なら、きっとインドへも行った。
今頃君はなにを見て、なにをしているんだ?
ティベリウス。それからコルネリア。ぼくが一緒にいたかった人。
ぼくはこれで良かったんだろうか──?
マカロンを歓待し、まずは彼のアレクサンドリアの思い出めぐりからでも始めたのだろう。総督アエリウス一行がアレクサンドリアを出立したのは、五月に入ってからだった。