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第一章 -3



 3



 カピトリーノの丘を下った後、ティベリウスは継父に伴われて自分の生家に戻った。そこでは母リヴィアと弟ドルーススが、この成人祝いのために用意させた料理を前に待ち構えていた。特にドルーススはもう待ちきれず、すでにつまみ食いを済ませては母に頬をつねられたような跡を見せていた。これから祝いの席だ。

 けれどもその前に、成人式の締めくくりとしてやるべきことがあった。やれ遅い、さてはトーガを踏んでずっこけたなだの、真っ白のトーガが似合っていないだの、あれこれからかってくるドルーススを適当にあしらいつつ、ティベリウスは母に続いて中庭を横切った。周りを囲む柱廊には、クラウディウス一門の著名な先祖たちの像が並んでいる。

 家の奥にある祭壇の前に、ティベリウスは母と並んで立った。すでにこの日の朝、最初の挨拶を済ませていた。これは一連の儀式を無事に終えたことの報告だ。祖先と、そして亡き父へ。

 同名の父ネロは、ティベリウスが九歳の時にこの世を去っていた。息子と母は、厳かに香を焚いた後、しばし祭壇を前に目を閉じた。

 少し後方で、ドルーススもこのときばかりはぴたりと静かになった。けれどもいつまでもじっとしてはいられないらしく、やがて継父にまとわりついては体を押さえられているらしい声が聞こえてきた。先日誕生日を迎えて十一歳になったが、次男らしくまだやんちゃ盛りだ。ティベリウスは小さくため息をついてから、目を開けた。

 とにもかくにも、ひとまず息子二人が健勝に育っていることを、父が喜んでくれているといいのだが。

 祭壇では、朝に奉納したブッラがひっそりと輝いていた。成人式のこの日まで、ローマ市民の子どもはこの首飾りを下げて歩く伝統がある。ティベリウスのそれは、名門貴族の息子にふさわしく黄金があしらわれていた。次にこれを首に掛けるのは、ティベリウスのまだ見ぬ嫡男である予定だ。

 息子が別れを告げたばかりのそれを、母はそっと手に持った。少しばかりのコツでそのブッラを開くと、中から柔らかな布にくるまれた指輪を取り出した。小さな青い宝石とともに、クラウディウス・ネロ家の印章があしらわれていた。

 成人したばかりではない。この指輪を身に着けることは、ネロ家の家父長になることも意味する。

 ティベリウスは初めてこれを実父から渡された日のことを思い出す。晩秋ではあったが、今日と同じように、青く晴れ渡った空の日だった。この祭壇のすぐ横で、父は息子に話してくれた。死去の五日前のことだ。あの時手のひらで途方もなく大きく見えたそれは、今確かに自分の指に収まった。

「父上はきっと喜んでおられるわ」

 母の顔には、ほっとしたような微笑みが浮かんでいた。あまり見せない表情だ。

 思えばティベリウスは、母の口から実父のことをほとんどまったく聞いたことがなかった。母は、ティベリウスが三歳のときに離婚した。腹の中にはドルーススもいたのだが、アウグストゥスに請われて再婚したのだ。アウグストゥスは、父ネロに直談判をしてリヴィアを譲り受けたという。

 母にとって、父ネロはいかなる存在だったのだろう。同じ名門貴族クラウディウスの血を引く者同士だった。だが二十七歳も年が離れていた。夫婦でありながら、父と娘のような関係でもあっただろうか。五歳年上のアウグストゥスとのほうが、夫婦らしく似合いではあるのだろう。

 だが母は父を愛していなかったのではないと思う。生真面目な母は、父のために男児を授かるよう、毎日祈りとまじないを続けたという。父の亡骸を火葬するときには、母は一筋の涙を流しながら炎を見守っていた。

 母は十六歳でティベリウスを産んだ。その後すぐに幼子を抱いて戦乱に巻き込まれ、短くはない逃亡生活を強いられた。母にとっても、長くてかつ激動の十四年だったに違いない。

 ティベリウスは母にも改めて感謝を述べた。年頃なのか、最近は反抗心のようなものがつい胸をよぎることもあるのだが、母とともに過ごせた子ども時代は、疑いようもなく幸福で恵まれた日々だった。それが叶わなかった子どもも大勢いるのだ。

 息子の言葉を聞く母は、すでにいつもの母で、誇り高く凛としていた。

「おなかが空いたぞ!」ドルーススが大声を上げた。「豚の丸焼きがもう冷めてるぞ!」

 息子と母は苦笑しながら振り返った。継父に背中を抱かれながら、ドルーススが両足をばたばたさせていた。

 四人は並んで食堂へ向かった。





 結婚式や葬式と比べれば、成人式は内輪の行事である。けれどもクラウディウス・ネロ家嫡男のそれとなれば、公的、社会的意味合いも少なからず帯びる。それで、午後にはたくさんの客がネロ家の門を叩いた。嫡男への祝辞を、本人ほか母親と継父に恭しく述べ、そして勧められるがまま、食卓に並べられた皿や葡萄酒の杯にも手を伸ばしていく。当然、ドルーススが狙っていた肉料理の大部分も、来客たちに振舞われるのだった。

 来客の中でも年配の者は、おおむねローマの伝統としてネロ家とパトローネス=クリエンテス関係を結んでいる者たちだった。父ネロの代か、それより昔からの縁者もいた。ティベリウスも成人したので、今後はクリエンテスたちに責任を持ちながら、自分でも新しい互恵関係を築いていくことができる。

 来客の中でも比較的若い者は、ティベリウスの親戚や友人たちだった。笑顔のマルケルスが真っ先に現れ、ティベリウスを抱きしめた。ひとしきり祝辞とくり返しの接吻を受け、ティベリウスは困った笑みを浮かべながら思い出していた。以前にもこんなことがあった。父ネロの葬式のときだった。もちろんあの時のマルケルスは、笑顔ではなく涙を流していたが。

「ティベリウスも成人だ。やっと!」

 今はぴたりと頬をティベリウスのそれに押し当てて、マルケルスは満足げだった。半端な髭を沿った感触を堪能しているようだ。

「ずっと変な感じだったんだ。ティベリウスがまだブッラを下げて、子ども用のトーガを着ているなんて」

 マルケルスはすでに昨年、成人式を済ませていた。ティベリウスより半年早く生まれているので、順番としてはなにもおかしなことはない。クラウディウス・マルケルス家の嫡男であり、カエサル・アウグストゥスの血を引くただ一人の男子だ。アウグストゥスは、自分と同じ十月十四日に甥の成人式を執り行っていた。

 マルケルスとティベリウスは義理の従兄弟であり、マルケルスのほうが生まれの早さで言えば兄の立場と言えた。それでもマルケルスは幼い頃からティベリウスを頼りにしてきた。いつも一緒にいたがった。アウグストゥスもそれはわかっていて、彼はたびたびティベリウスに言ったものだ。

「あの子はお前にだけは甘える。お前をいちばん頼りにしているからだ。マルケルスを頼んだよ」

 継父は、自分と右腕アグリッパのような関係に、マルケルスとティベリウスにもなってほしいと望んでいるのだろう。

「『長老』殿もようやく成人か」

 マルケルスの後ろから、ぶっきらぼうな顔つきで、ユルス・アントニウスが言った。

「まぁ、実際妙ではあったな。その背丈と貫禄でブッラだもんな」

「ティベリウスは大きくなりすぎ! ちょっと待って!」

 マルケルスは跳ねながらティベリウスに訴えた。彼も体が順調に成育してはいたが、元からティベリウスのほうが体格が大きかった。

 ユルス・アントニウスのほうは、ティベリウスと同じほどの背丈だが、いく分痩せぎすに見えた。ティベリウスより一つ年長で、これからよく食べてよく飲む男になるならば、亡父アントニウスの壮健な体躯を受け継ぐだろう。

 ユルスはマルクス・アントニウスの次男である。アウグストゥスの姉オクタヴィアによって育てられたが、彼女はアントニウスの妻だった。父親がアクティウムで敗北し、エジプトで女王クレオパトラの腕の中で息絶えたときも、ユルスはオクタヴィアや妹たちとローマにいた。同じくエジプトで非業の最期を遂げた実兄アンテュルスと、同じ運命をたどらなかった。

 ユルスは実母フルヴィアをすでに記憶に留める前に失くしていた。成人式を行ったのは、アントニウスに去られた後も彼を見捨てなかった義母オクタヴィアである。彼の内心の悲しみは計り知れない。それでもこのごろは、今後ろに控えているたくさんの弟妹たちの面倒を看ることで、複雑な思いを忘れておこうとしている様子だった。

 たくさんの弟妹たち。

 ネロ家は一気ににぎやかになった。まるで鶏小屋に早変わりしたようだ。

「ティベリウスはちょっとかっこよくなったわ」

 勝気な感じでそう言うのは、マルケルスの二歳下の妹マルケッラだ。一歳下の妹もいるのだが、先日早くも嫁いだので、今この場にはいないらしい。三人は、オクタヴィアと最初の夫マルケルスとの子である。

「マルケルスお兄様のほうがかっこいいけどね」

「お姉様ったら」一応のこと、礼儀のために眉をひそめるのはアントニアで、こちらもマルケルスの妹だった。アントニウスとオクタヴィアの娘で、したがってユルスの妹でもある。

「おめでとう、ティベリウス」

「ティベリウスはいつもの青いトーガが似合うわ!」

 そう言いながら、ティベリウスの純白のトーガにぶら下がる、こちらもアントニアだった。九歳で、お気に入りのカエルのブローチを肩口で光らせながら、ティベリウスにぐいぐいよじ登ろうとしていた。

 マルケッラ姉妹にしろ、アントニア姉妹にしろ、妹のほうが姉より勝気で自由気ままに育つようだ。少なくともオクタヴィアの家に関しては。

 だがそれは、クラウディウス・ネロ家の兄弟も同様だ。

「アントニア」

 それでもドルーススは、妹のアントニアに対しては頑張って兄貴ぶるのだった。来客が現れるや、慌てて料理を次々口の中に突っ込んでいた。マルケルスが現れるや、勝手に敵愾心を剥き出しにうなり声を上げていた。しかし妹分に対しては、もっと余裕を見せなければならないと考えた。

「こっちへ来い。お前の分のお料理を取っておいてあげたぞ」

 でもアントニアは、ティベリウスのトーガの襞に夢中なので、かわいそうに思ったティベリウスは、体を半分、ドルーススのいるほうへ振り向けた。

 ドルーススもアントニアのことはよく知っているので、大きなカタツムリの料理をつかんでかざすのだった。

 マルケッラと姉のアントニアが、しかめた顔を見合わせた。アントニアはようやくティベリウスから離れて、ドルーススのいる食堂へ駆けていったが、どうも料理ではなく、動く大きなカタツムリを期待しているようだった。

「プトレマイオスにも!」ドルーススはさらに知らせた。「焼き豚とマグロを寄せておいてあげたぞ。しょうがないからヘリオスの分も」

「ドルースス! ぼくは魚はきらいだぞ!」

 ユルスの後ろから、八歳のプトレマイオスが教えた。

「好き嫌いをするな。ほら、ぼくがちゃんと骨を取ってあげるぞ」

「ユルス兄上のほうが上手いぞ! ぼくはサクランボのお菓子がいいぞ!」

「それじゃ、お前は虫歯で泣くぞ」

 プトレマイオスもドルーススのほうへ駆けていった。十三歳のヘリオスは、隣のユルスと苦笑を交わしてから、弟のあとを追った。すれ違い際「おめでとう」と、ティベリウスにささやいた。

 この兄弟もまたこのとおりであるが、二人はアントニウスと女王クレオパトラの子で、エジプトの王子だった。戦争終結後、アウグストゥスがローマに連れてきたのだった。凱旋式で見世物した後、姉オクタヴィアの養育に任せた。

 兄弟は両親を失った。そればかりでなく、カエサリオンとアンテュルスという兄二人も永遠に奪われた。兄二人が処刑された理由は、それぞれ先代カエサルとアントニウスの成人済みの息子だったためである。

 そのような残酷を見せつけられ、さらに故郷も身分も失くした二人にとって、こうしてティベリウスの成人祝いに来るとは、決して楽しい気持ちでないだろう。それでも亡き兄の代わりを務めんとするユルスが、本当によくやっていた。マルケルスもまた実の兄弟同然に彼らを慈しんだ。ドルーススやアントニアの開放的な明るさも助けになっているだろう。

 そしてもう一人──。

「ティベリウスはとても素敵よ」

 妹たちの中でもひと際輝くヒナギクのような少女が、背伸びをしてティベリウスの頬に口づけした。

「輝いて見える。昨日も会ったのに不思議。やっぱりティベリウスには王子様の気品があるのよね」

 ティベリウスが軽く礼を言うと、ユルスが呆れたように言った。

「おい、少しは照れたそぶりくらいしろ。お世辞じゃなく、セレネは本気で言ってるんだぞ」

 クレオパトラ・セレネは、ヘリオスの双子の妹で、女王クレオパトラの娘だ。マルケルスを世界一の兄で美貌の男子と信じているマルケッラ・アントニア姉妹よりはティベリウスに関心を見せる、珍しい女子の一人だった。

 ところで彼女の後ろには、ティベリウスよりも年上に見える若い男がもう一人いた。セレネの言葉にしきりにうなずきながら、なぜか目尻に涙を浮かべていた。

「うんうん、本当に見違えるよ、ティベリウス。もう成人だなんて、ついこのあいだまで私の膝の上にいたのに、こんなに立派な男に育ってうれしい……。ところで、でも……セレネがこんなに褒めるのを間近で聞くと、婚約者の私としては少々複雑──」

「なんでここにいるんだ、ユバ?」

 ティベリウスは驚きのあまり大声を上げていた。

 マルケルスが苦笑した。「今朝帰ってきたんだ。とっても良い時宜だったね」

「今朝『も』帰ってきたんだろ」ユルスが言った。

 ユバとは兄弟ではないが、兄弟のように育った仲だ。ティベリウスより八歳上だ。

 仰天しているのは、そんなユバが自分の成人祝いに来てくれたためではなく、ユバが今や国王であるという一事のためだった。ローマ本土の南、海を挟んで向こう側の、ヌミディア王国の長だ。二年前、エジプトから帰国後に、アウグストゥスが王位を与えたのだが、どういうわけか、以後も年に数回は彼とローマで顔を合わせている気がしていた。エジプトなどと比べればそれほど遠くないとはいえ、国王がそんなにほいほいと帰ってきていいものだろうか。

 ユバもまたティベリウスを抱きしめ、その婚約者と同じように接吻をしてくれた。

 まだ公になってはいないが、セレネとの婚約は──このあいだユバが帰ってきた時だったか──アウグストゥスが言い出したことだった。もしかしたらもっと前から考えていたのかもしれないが、エジプトから連れてきたセレネの人柄を見て、良しと判断したのだろう。

 二人は似た境涯だった。ユバは元々がヌミディアの王子だったのだが、父王が先代カエサルとの戦争に敗れ、人質としてローマに連れてこられた。凱旋式で見世物にされた後、カエサル家で養育されたのだ。

 セレネはユバをどう思っているのだろう。ユバを横目に、彼女はにんまりと笑っていた。それからヒマティオンの裾をさらさらと揺らしながら、すました感じで奥へ歩いていった。

 ティベリウスはユバがアントニウスとは似ても似つかないと思っていたが、もしかしたらそうとも限らない一面があるかもしれない。それとも恋愛する男女とは、だいたい皆同じように見えるものなのだろうか。

 ユバはいそいそとセレネのあとを追っていった。ユルスは、弟妹たちは全員奥の食堂へ行ったはずだが、それでもまだだれかを探しているかのようにきょろきょろして、いずれこの場から離れていった。

 マルケルスはまだティベリウスといたいらしく、隣で自分の正装用トーガで歩き方の手本を見せると冗談っぽく先輩風を吹かせたり、背比べを再開したりして、うきうきしていた。ところがふと玄関前のアトリウムのほうに目をやり、とたんに顔を曇らせた。

「じゃ、またあとでね」とぼそりと言って、彼も奥へ引っ込んでしまった。

「坊ちゃーーん!」

 代わりに、とても明るい大人の声が届いた。笑顔いっぱいの大柄な男が、両腕を広げて中庭に現れた。

 ティベリウスもまたにっこり満面の笑みで、その人物を迎えに出た。マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパ──アウグストゥスの唯一無二の右腕だ。

「おおっ! しかしいやはや、こうなるとどうしたものか……」

 ひとしきり親密な抱擁を交わしたあと、アグリッパはティベリウスへうろたえてみせた。

「今日で君は成人だ。もう坊ちゃんとお呼びしては失礼だろうか? 私の可愛い坊ちゃん……でも今は確かに見るもたくましくまばゆいティベリウス・ネロ……」

 ティベリウスはしばしにやにやと笑うばかりで黙っていた。おろおろと、アグリッパは両脇へ助言を求めた様子だった。片側には十四歳になる新妻マルケッラ、もう片側には六歳の娘ヴィプサーニアがいた。控えめなマルケッラは、私に訊かれても……とばかりに困った顔を返した。娘のほうはにこにこして、いまいちまだ意味をわかっていないのか、それともなにか励まそうとしているのか、父と手をつないでしきりに振った。

「アグリッパ、私はまだ若輩です」

 ティベリウスはもう一度上体をアグリッパに寄せた。この人の背丈を追い越すには、アウグストゥスよりももっと時間がかかりそうだ。

「なにも成すどころか、始めてもいない。ですが、ようやくこれで使い物になる姿になりましたゆえ、さらなるご指導のほど、よろしくお願いいたします。きっとお役に立ってみせます」

「なんとまぁ…なんとまぁ恐縮な……」

 アグリッパは感動したようにもう一度ティベリウスに腕をまわした。背中を叩かれながら、日差しの匂い立つようなあたたかさに、ティベリウスはひととき浸った。アグリッパはこの頃も相変わらず忙しくしているようだ。

 傍らで、ヴィプサーニアがなにやらうずうずしていた。うれしそうな笑みのまま、アグリッパはティベリウスから体を離した。

「今朝、我々も中央広場に行ったんだ。カエサルが君を市民に紹介するのを見るために」

「はい、気づきました」

 ティベリウスはうなずいた。マルケッラは見かけなかったが、アグリッパはヴィプサーニアを高く抱き上げて、演壇上のティベリウスとアウグストゥスを見守っていた。

「君があまりに立派な好青年なので、私は危機感を覚えた。これでローマじゅうの年頃の女子が、君に目をつけてしまう」

 ティベリウスは笑いながら首を振った。

「それでも我が娘は身を引くつもりはないがね。さぁ、ヴィプサーニア、待たせたね」

「ティベリさま!」

 父に促されるや、ヴィプサーニアは声を張り上げた。まだ声量を加減するという意識を働かせる年頃ではない。ずっと自分の「お役目」を準備して、待ちかねていたのだろう。亜麻色の髪をくるくると結い上げて、大きな花の刺しゅう入りのトゥニカも着せてもらって、ご機嫌な様子だった。彼女はぷっくりとした両腕をティベリウスに突き出した。

 ティベリウスはその意味を知っていたので、そっと身をかがめてから右手のひらを差し出した。

 ヴィプサーニアはそこに卵型の石を置いた。此度は主に白と青色と銅色で、傍目にはでたらめに見えたが、たぶん彼女なりの意味と秩序と思いを込めて着色されていた。すでにここまでずっと拳の中で大事に握りしめてきたのだろう。染料がすでにわずかににじんでいて、石そのものも湿っていた。まずは礼儀にかなった対応を考えてはいたものの、ティベリウスは自然と微笑んでいた。

「ありがとう、ヴィプサーニア」

 ヴィプサーニアは頬を紅潮させて、ぴょんとひと跳ねした。父親にそっくりの、愛らしい笑顔だった。

 これは幼い婚約者とティベリウスとのあいだで始まった、ちょっとした儀式だった。生まれてすぐにティベリウスと婚約と相成り、家の者たちからくり返しくり返し「お嬢様はティベリウス・ネロ様のお嫁さんになるのですよ」と教えられ、自宅の庭には十歳のティベリウスの石像も置かれている環境で育ったヴィプサーニアは、意味はさておき「こんやくしゃ」としてティベリウスを覚えていた。二歳のとき、継父率いるローマ軍に従軍することになった「こんやくしゃ」へ、ヴィプサーニアはこの卵石をお守りとして手渡してくれた。およそ一年半後に再会したとき、ティベリウスは彼女にお守りのお礼を述べたが、卵石の着色はほとんど落ちてしまっていた。それで四歳のヴィプサーニアは、もう一度塗り直してからまた手渡ししてくれた。以後、年に一度ほど、ティベリウスはヴィプサーニアにお守りの再着色を任せることにした。去年、不意に石本体が割れてしまったときは、我ながら驚くほど衝撃を受け、慌てた。事情を説明すると、ヴィプサーニアは泣きもせず、カエサル庭園に出かけて新しい石を探してきてくれた。今回はその二代目の石の、二回目の着色である。

 アグリッパは退屈しつつあったマルケッラの肩を抱いて、家の奥へ歩いていった。すれ違い際に、「婿殿、娘をよろしく」と片目を閉じるのを忘れなかった。

 ティベリウスは卵石を左手に包み、右手をヴィプサーニアに差し出した。ヴィプサーニアはうれしそうにティベリウスの人差し指だけをぎゅっと握り、並んで歩き出した。ティベリウスは自分の歩幅に注意した。

 この小さな娘が婚約者であり未来の妻だとされても、ティベリウスもまた実感がわかない。それでもアグリッパのことは大好きであるし、ヴィプサーニアのこともその無垢な優しさを守りたいと思うほどには大切になっていた。

 昨年、アグリッパは十三歳のマルケッラと結婚した。ローマでは女子は十二歳から婚姻が可能だが、通例は十四歳からだ。

 アグリッパの最初の妻であり、ヴィプサーニアの母である人は、四年前に亡くなっていた。夫がアクティウムの海戦で勝利を収めた直後であり、ヴィプサーニアの妹を出産した後のことだったという。

 マルケッラは、父親ほど年の離れたアグリッパと、まだしっくりなじんではいないようだ。昼間にしょっちゅう実家に帰ってきては、母オクタヴィアや妹たちに話を聞いてもらっていた。けれどもいずれは上手くいくのだろう。不幸せには見えない。

 この件で、実のところ明白に不満でいるのは、彼女の兄マルケルスだった。可愛い妹の一人が、父親ほどの年の離れた男に嫁いだことも複雑だが、相手が他でもないアグリッパであることもまた問題であるようだった。ティベリウスは最近ようやく気づいたのだが、マルケルスはあまりアグリッパと上手くいっていないらしかった。というより、マルケルスのほうが一方的にアグリッパを避けているように見えた。ティベリウスはアグリッパほど心を開いて信頼できる大人はいないと思うのだから、相性とは不思議である。なによりマルケルスもアグリッパも、だれにでも分け隔てなく接する思いやりある性格で、日常でだれかと不和を起こしているところなど見たことがなかった。

 あるいは、相性以外の要因があるのかもしれない。





 ヴィプサーニアもおなかを空かせているだろうと思い、ティベリウスは客の出迎えを中断して、食堂へ足を向けた。だがその瞬間、拍手と口笛の騒音に背中を襲撃された。

「ヒューッ、これはこれは晴れてご成人のティベリウス・クラウディウス・ネロ家父長! 早速未来の奥方と堂々の逢引きかな? いっそ今日のうちに結婚式も挙げちゃうのかな?」

 ティベリウスはつい舌打ちした。来るとわかっていたのに、よりにもよって隙だらけのところを狙われた。まるで藪の中の伏兵だ。これではアグリッパに軍人として落第させられてしまう。

 たちまち実際に背中をばしばし叩かれ、四方八方に引き寄せられ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられ、尻をむんずとつかまれ、もみくしゃにされた。相手は一本や二本の手ではなく、ティベリウスはなんとかヴィプサーニアが踏んづけられないようにするだけで精一杯だ。彼らだって、それくらいの配慮、分別はあるはずだと思うが──。

「逢引きの邪魔をしてごめんよ、ティベりん。でもぼくのことだって、ちょっとは思いやってくれてもいいよね? ほら、君はまだ知らないだろうけど、大人の世界は苦く険しいから」

 そう嘆いてティベリウスの頭を抱え込もうとするのは、メッサラ家のマルクスだった。ティベリウスと同い年で、ほんの前月に成人式を挙げたばかりだ。

「なにしろうちの母上はこのごろ病気がちだし、上のマルケッラは結婚しちゃうし……。なんでこんな早く、あんなおっさんに!」

「マルクス、ご本人に聞こえるよ」別の声が言った。

「だってマルケルスも同じこと言ってたぞ!」

「あと二人残ってるとも、君は言った。そもそも、君の本命は妹のマルケッラじゃなかったっけ?」

 マルクスとティベリウスの頭のあいだに強引に割り込んだのは、コッケイウス・ネルヴァの頭だった。彼も同い年で、今月初旬に成人式を終えている。ティベリウスの顎に噛みつきそうな距離から、彼は言った。

「おめでとう、ティベリウス。ごめんね、早速騒がしくして」

「我らが『長老』もこれでようやく成人か」

 ひょいとティベリウスの頭を反らし、額に素早く口づけしてきたのは、ルキウス・カルプルニウス・ピソだった。六歳年上なのだが、いつもと変わらず泰然自若として、まだまだティベリウスに背丈も諸事の腕前も抜かされるつもりはないとばかりの笑みを浮かべている。それが今日は無性に腹立たしくて、ティベリウスはただうなり声だけを返した。

「これで我ら『トロイヤ騎兵隊』全員が大人だな。よく我慢したぞ、ティベリウス。実はいちばんやんちゃで子どもっぽいやつからとっとと成人させちまうのがこの伝統の目的なんだ。だれよりも落ち着いている男は最後までほうっておかれるんだ」

「そうなの?」マルクスがのけぞる。

「違うよ」とネルヴァが真面目に否定する。「そんな法律はない」

「勉強家のネルヴァはこう言うがな、世の中には暗黙の銘文というものがある。証拠に、ぼくが真っ先に成人式を挙げた。レントゥルスに至ってはいち早く結婚までした」

「ああ、ぼくの可愛いティベリウスが!」

 コルネリウス・レントゥルスは、マルクスとは反対側にティベリウスの頭を抱き寄せようとして、同じように嘆いてみせていた。防御しようのない頬への接吻も惜しまなかった。

「どうしてこんなに大きくなるの? ほんの少し前まで、ぼくの腰のあたりでうろちょろしていたのに。あんなに可愛かったのに! もう抱っこもできない。抱きしめて添い寝してよしよしもできない」

「レントゥルス!」

 あることないこと言うな、と叫びたかったが、ティベリウスは八本ほどの腕に締め上げられていて、余裕がなかった。顔が熱いのは、酸欠のためばかりでもない。

「声まで低くなっちゃって……」

 レントゥルスはトーガで涙をぬぐうそぶりをした。彼は五歳上で、二十歳になる。

「でもまぁ、レントゥルスが結婚すると知ったときのティベリウスは可愛らしかったよな? 悔しそうで寂しそうで、ほとんど涙目で、式の当日もむくれていて」ピソは思い出さなくていいことを皆に思い出させた。「大好きなレントゥルスお兄ちゃんが取られると思ったんだろう。健気じゃないか。だから確かにマルケッラ結婚におけるマルクスやマルケルスの気持ちもわかっている──」

「全然違う話だぞ、ピソ!」

 ようやくティベリウスは叫ぶことができた。

 レントゥルスが結婚したのは、二年前、首都での凱旋式が終わってまもなくのことだ。確かに当時のティベリウスは非常に衝撃を受けた。思いもかけず、まったく打ちのめされたと言ってよかった。レントゥルスはまだ十八歳だった。早すぎだ。しかも仲間内でもとりわけのんびりした性格で知られていたのだ。彼の結婚など想像だにしていなかった。結婚。そのときまでその儀式の意味や重みさえ、ティベリウスは知らなかったのだ。年上ではあるが、幼い頃から最も心を許してきた友人が、突然別人に変わってしまうように感じられた。あるいは、ずっと遠くに行ってもう戻ってこないように思われた。

 だがあくまでその当時の話だ。もう忘れた。

 忘れたんだ。

「なんて可愛いティベリウス!」

 レントゥルスは全然聞いていなかった。

「成人しようがなにしようが、君はいつまでもぼくの愛おしい友だちだよ。だからもうこれ以上大きくならなくていいからね? いいからねっ?」

「なにが『だから』なんだ?」

 ティベリウスは彼らの腕の中で暴れた。

「おい、そろそろ大概にしておけよ」

 少し離れた背後から、また別の声がした。ティベリウスの周辺と違い、興奮の気配が少しもなかった。

「どいつもこいつも、もう子どもじゃなくなったんだろう? それに、ヴィプサーニア嬢がトーガに絡まっているぞ」

「グネウス……!」

 かろうじて首をまわしながら、ティベリウスはうめいた。二歳上のグネウス・ピソが、いつもの厳めしい顔をして腕を組んでいた。

「じゃあ、手を貸してくれ……!」

 どいつもこいつもお互いに絡まっていたので、ティベリウスもグネウスも骨を折った。ヴィプサーニアは、最終的にティベリウスの股下をくぐり抜けて、その背後に伸ばされた腕二本に救出された。幸いにして楽しそうにきゃあと歓声を上げるヴィプサーニアにほっとしながら、ティベリウスは目線を上げた。

 驚いたのは、救出者がここにいるとは思わなかった男だからだ。だがユバほどではない。

「ファビウス」ティベリウスはまた安堵の息をついていた。喜びで頬もゆるんだ。「帰っていたんだな」

「ああ、二日前にな」十九歳のパウルス・ファビウス・マクシムスは微笑んだ。「こうして皆に会えてうれしい。それと、成人おめでとう、ティベリウス。早いもんだな」

「ファビウス──」ティベリウスはふと眉根を寄せた。「無事なんだよな? 怪我などしなかったか?」

「大丈夫、大丈夫」ヴィプサーニアを抱き直しながら、ファビウスは軽く片手を振った。「ぼくはなんともない。ひどい目にも遭っていないし、どっかの熱血な二人みたいな無茶もしていない」

 ピソとレントゥルスが、それぞれあさっての方向を向いた。

「ファビウスはエチオピアまで行ってきたそうだ。ナイル川をひたすら下って、砂漠の中も行軍したって」

 一足早くファビウスと話したらしいグネウスが教えた。

「ほんとかよ、アレクサンドロス大王みたいじゃん!」マルクスがはずんだ声を上げた。

「ピラミッドは見たの? 葬祭殿は? ワニは? あの国の『日に焼けた人たち』は?」ネルヴァまでが興奮して声を裏返らせた。

 ファビウスは去年を軍隊で過ごした。名門出の子息が出世する道の一つであり、一般に軍役に志願できる十七歳から、親類縁者の監督の下、軍団副官という身分で見習い経験を積むことができる。十七歳のピソはアクティウムで、レントゥルスは翌年のエジプトで、それぞれ初陣を果たした。ファビウスは一年ばかり遅れはしたが、十八歳で無事に任務を果たして帰国したのだった。派遣先は、ローマが占領したばかりのエジプトの駐留軍だった。

「その話はまた明日にでもしようぜ」ファビウスは苦笑して言った。「今日はティベリウスが主役の日なんだからな」

「ファビウス、なんだか疲れて見えるぞ。本当に大丈夫か?」

 ティベリウスが尋ねた。冬を越えたのだから当たり前だが、ファビウスの顔にはもうエジプト南部にいたための日焼けの跡はない。だが青白い肌は元からにせよ、よく見るとなんとなく、久しぶりの笑顔には密かな翳がある気がした。疲れているか、あるいはなにか心配事があるのか──。

 ピソやレントゥルスもそれを見て取ったのだろう。幼馴染の肩を、さりげなく抱えにいった。二人とも初めての戦場で苦い経験をしていた。それでもこの場で根掘り葉掘り聞き出すつもりはないらしく、これまでと変わらない明るい調子でファビウスの肩を叩くのだった。

「ファビウス、いつまでヴィプサーニアを抱いているつもりだ? 花婿を差し置いて」ピソがにやにやと指摘した。

「まだ違う……」ティベリウスはまたうめいた。

「これは失礼」とファビウスもにやりとからかう笑みで応じた。彼は昔から年下への面倒見の良い男だった。のんきながら抜け目のないピソやレントゥルスと一緒にいると損な役回りを引き受けてしまうことも多いようだが、彼が帰ってきたと知れば、ドルーススも大喜びするだろう。

 実に恭しく、彼はティベリウスへヴィプサーニアを差し出した。

 きゃあと悲鳴を上げ、ヴィプサーニアは飛び下り、屋敷のどこかへ逃げていってしまった。

 ぽかんと固まるティベリウスを、グネウス・ピソまでが加わって皆笑い声を上げた。

「花婿殿、逃げられましたね」

「花嫁殿は、早くも恥じらいを覚えましたね」

「これはどうしたことか。話が違う。聞いたところ、つい先日、アグリッパ殿監督中の浴場へ、ご家族が見学と試し湯に招待された折、この日を非常に楽しみにしていたヴィプサーニア嬢は大変におはりきりになって、『ティベリさま、いっしょにおふろにはいりましょー!』と、すっぽんぽんでまっしぐら──」

「だれに聞いた、マルクス!」

「……ドルーススだったかな?」

「まあ、ともかく、今日はこうしてティベリウスの成人のおかげで、一年ぶりに『トロイヤ騎兵隊』の皆で集まることができた。二重にうれしいことじゃないか」

 取っ組み合いを始めそうなティベリウスとマルクスを涼しい顔で引き離しながら、ピソが強引に言った。

「マルケルスがいないぞ」とファビウスが指摘した。

「もう来ているんだろ? それからユルスも」ピソが答えた。

「みんな元気にしているんだろうな?」

「ああ」

 彼の言う『トロイヤ騎兵隊』とは、六年前に開催された『トロイヤ競技祭』をきっかけに作られた。アウグストゥスが古の伝統を復活させるとして、少年たちの騎馬競技を主催したのだった。馬を御するに足る家柄の良い少年たちが選抜され、ピソを組長とする年長組と、マルケルスを組長とする年少組に分かれ、チルコ・マッシモで市民たちに、足並みを揃えた華麗な馬術を披露した。

 そのとき共に練習をした友人八人を、ピソやレントゥルスが『トロイヤ騎兵隊』と呼ぶことにしたらしいのだが、無論その八人だけが競技祭に参加したわけではない。それどころか、ティベリウスに関しては、実父の喪に服したために、結局競技祭には代理を立てて参加しなかったのだ。

 ところで昨年、アウグストゥスがもう一度『トロイヤ競技祭』を開催した。ピソらかつての年長組は退いたので、ティベリウスがその組長を務め上げた。

 だから、彼の言う『トロイヤ騎兵隊』とは、同じ競技祭への参加の有無ではなく、その当時か、それより前から続いている友情を表す言葉なのだろう。

 彼ら一人一人が、ローマに古くからある名門に生まれた少年たちである。全員が元老院議員を父親に持ち、遠からずローマの未来を背負って立つ。アウグストゥスばかりでなく、首都ローマすべての市民が期待をかけている。

 今はまだ無邪気な若者の群れである。

 ピソがティベリウスの肩を軽く叩いて言った。

「さて、もうドルーススたちに食い尽くされてほとんど残っていないだろうが、ぼくらもたらふく食って、飲んだくれるとしよう。友の成人と再会を祝して」

「あ、まだだめだよ、ティベリウス。葡萄酒は」レントゥルスがすかさず言った。「君にはまだ早い。おいしい蜂蜜入りの果汁で良い子にしていること」

 ティベリウスはまたうなった。そんなことは知っていたが、言い方が癇に障った。

 成人したとはいえ、まだ一人前の男としてなにもかもができるわけではなかった。できるのは、契約のような法的行為くらいで、それも父親や後見人の監督が推奨されている。参政権もない。軍役に志願できる十七歳になれば認められ、酒類もおおむねその頃から飲めるようになるのだ。

 食堂はもう来客と子どもたちでいっぱいだったので、彼ら青少年は中庭に臨時で置かれた臥台や石などにそれぞれ場所を取った。ピソとレントゥルスとファビウスは、これ見よがしに葡萄酒をおいしそうに舐めて、やれやっぱりカンパーニアのファレルヌム酒が最高だとか、エジプトのマレオティス湖畔の葡萄酒も格別だったとか、水で割らないほうが粋なのだとか、通ぶった話をして、ティベリウスたちの反応を窺った。グネウスは今年十七歳だが、まだ果汁と水をすすっていた。

「君もどこかへ軍務に行くことを考えているか?」年上たちを冷たくにらみながら、ティベリウスは彼に尋ねた。

「父上がな」グネウスは相変わらず素で厳しい顔のまま、貝のバター焼きに手を伸ばした。「考えておくと言っていた。おそらく来年だな」

 ティベリウスもまたあと二年もすれば十七歳だ。従軍を終えて以来、今日まで平穏な日々を過ごしてきたが、もしかしたら再び軍営に向かう日がそう遠くないのかもしれない。

 そういえば、と青少年たちは新しい楽しみを思いついた。大人になれば臥台に横たわって夕食を食べるのだ。先に成人式を挙げた者どもは、だれもがティベリウスにその最適な体勢を教えたがった。拒否するティベリウスを臥台に押し倒し、その横や上に重なり、自称友人どもは自分の食事を続行した。さらにその上に、いつのまにやらやってきたドルーススと妹のアントニアが乗っかり、そろって雄叫びを上げた。マルケルスや弟妹たちの笑い声が聞こえた。ヴィプサーニアは目を丸くしてたたずんでいた。ユルスはあきれ顔をして妹かだれかの隣にいた。母リヴィアの声が、もうそのくらいにするようにと言って怒気を帯びはじめていた。

 ティベリウスが自由の身になるまでしばらくかかった。

「大人の洗礼はいかがだったかな?」

 自分もだれより積極的に参加しておきながら、レントゥルスが一転思いやるような苦笑を浮かべて、隣に座った。ティベリウスの乱れた頭を撫でつけた。

 ティベリウスはむくれていたが、それでもレントゥルスが好きなので、そばにいられていつでも悪い気はしない。それがまた悔しい。

 さっさと結婚までしておいて、見ていろ。すぐに君たちに追いついてやるからな……。

 レントゥルスはふいにきょろきょろとあたりを見まわした。

「そういえば、ティベリウス。今日はあの子は来ていないのかい?」

「あの子?」

「ほら、このごろ君とよく一緒にいる、小柄で、君にだけおしゃべりな、跳ねた金髪の──」

「変なヤツ!」ドルーススが先を引き継いだ。「兄上、なんで今日はあの変なヤツは来ないんだ? 呼んでないのか?」

「そんなやつは知らない」

 ティベリウスは斬り捨てるように言った。





※アグリッパの最初の妻で、ヴィプサーニアの母ポンポーニアの設定を変更しました。前作時点ではアグリッパと「離婚」と認識しておりましたが、今作を書くあいだに調べた結果、「死別」の可能性が高いという情報を、筆者が知ったためです(確定ではないですが)。そのため前作、前々作中で数人の言及に矛盾が生じております。申し訳ございません。

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