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第二章 -14



 14



 年が明けてまもなく、夢の世界は唐突に終わった。

 前日、ルキリウスは五度目の剣闘士試合に出場した。そしてこれまでどおり一撃で相手を仕留めたが、左腕を負傷した。回避の目測を誤ったか、相手が今際の執念を見せたのだ。たいして深くはなかったが、ルキリウスは痛い痛いとバルバトゥスの前で泣いた。教師は冷淡に、これで剣先に毒でも塗ってあったなら痛い痛いでは済まなかったと教えた。これまでも怪我をしたことはあったが、それは転んだとか、木剣や先を丸めた剣で打たれたという類のものだった。ルキリウスは初めて斬られる痛みを知った。自分がこれまで相手に与えてきたそれの、ほんの何分の一だったろう。

 事態を王族観覧席から見ていたコルネリアが、ただちに駆けてきた。この世の最悪であるところの待機場所まで押しかけ、ルキリウスの切り傷に薬草を当て、包帯をぐるぐると巻いた。腕から顔から何度も接吻をしてくれた。

 それが、彼女に触れた最後になった。

 翌日、一月初旬の冷たく澄んだ朝、いつもとは違う騒がしさに、ルキリウスは目を覚ました。

「なにをする! 放せ!」

 あれは、ガルスの声ではないか?

「ふざけるな! 私をだれだと思っている!」

 ものすごくたくさんの、物々しい足音が聞こえた。牢獄の中で、ルキリウスは揺れさえ感じたほどだ。総督官邸でありながら、常にのんびりした雰囲気の元王宮であるのに、突然天災に見舞われたのか。

 否、これはローマ人の仕業だった。ラテン語の怒鳴り声の連発だ。

「いやっ! やめて! お父様!」

 ルキリウスは飛び起きた。隠し持った鍵で扉を開け、階段を駆け上がった。

 地上に出ても、だれにもなにも言われなかった。それどころか衛兵の一人もいなかった。

 全員が正門前の広場に集まっていたのだ。

「いやよ! 放して! お父様! お父様、助けて──!」

「コルネリア! 貴様、娘に触るな!」

 たたずむ衛兵たちの隙間から、ガルスとコルネリアの姿が見えた。同じローマの衛兵に見えるが、少しばかり華美な装備をした男たちに引き立てられていくところだった。

 なじみの衛兵たちを押しのけ、ルキリウスは駆けだした。しかしすぐに頑なな腕に制止された。

 バルバトゥス、それから祖父。叔父もいるが、大勢の衛兵と同じようにぽかんとたたずんでいる。

「いったい何ごとですか!」

 ルキリウスは二人に問い質した。

「本国よりコルネリウス・ガルスの解任命令が届いた」

 答えたのは祖父だった。

「ガルスがそれに抵抗したので、こうなった。そのうえ彼の友人の何某が、彼を告訴したらしい。ガルスは法廷に引き出されるそうだ」

「いったいなんの罪で?」

「知らんよ。第一人者への不敬罪か、国家反逆罪かもな」

 後者の物騒な罪状は、内乱時代の陰惨をたちまち思い出させる。もう終わったはずではなかったのか。

「まるで罪人だ……」

 ルキリウスは信じられなかった。一方、祖父は鼻を鳴らしただけだった。いい気味だと思っているのだろう。孫の仇、なにより息子の仇でもあるのだ。ルキリウスはその事実を教えていないが。

「まさか、祖父さんが計らったの?」

「違うわい。儂はネロに知らせただけだ。それだけでこの様になるものか」

 そうだとしても、ルキリウスはぞっとした。だが確かに、友人の助命を願っただけのティベリウスから、ここまでの強制連行沙汰になるとは思えない。

 屈強な男どもが、ガルスばかりでなくその娘の両腕もつかみ上げていた。

「あいつら、コルネリアにまでなにしてるんですか!」

「ガルスを追い出すのだ。彼女をここに置いておくわけにもいかなかろう」祖父は感情を込めずに言う。

「娘はガルスの資産だからな」

 バルバトゥスの付け足しに、ルキリウスはかっとなった。

「ふざけんなよ! コルネリアがいったいなにをしたっていうんだ! あいつら、彼女に乱暴な真似をしたら──」

「よせ、ルキリウス! 相手は本国の兵だぞ!」

 祖父に叔父も加わって、力の限り制してきた。ルキリウスはなおも暴れた。コルネリアに触るやつは全員ぶった斬ってやるとわめいた。剣を牢獄に置いてきてしまったが、その辺の衛兵の手持ちを奪えばいい。

 コルネリアも振り返り、ルキリウスに気づいた。

「ルキリウス! ルキリウス──」

 だが彼女はその先を言わなかった。喉まで出かかっていただろうに、呑み込んだのだ。口にすればいつぞやのくり返しだ。ルキリウスは今度こそ死ぬに違いない。

 助けて、なんて彼女には言えなかった。

 ルキリウスは茫然と立ちつくした。

 ののしりながら、暴れながら、コルネリウス・ガルスが引き立てられていく。そのすぐ後ろで、コルネリアが泣いている。

 ローマ兵たちに囲まれながら、二人は王宮港のアーチをくぐっていった。そのまま船に乗せられ、あっというまに出航した。

 ルキリウスは船が水平線の彼方へ消えゆくのを、ただいつまでも眺めていた。

 初代エジプト総督は、このような無残な形で任地を去ることになった。

 ひと月後、ルキリウスは同じ場所で知らせを聞く。

 コルネリウス・ガルスは、ローマでの裁判中に自害して果てたとのことだった。







(第三章に続く)

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