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第二章 -13



 13



 それからの二ヶ月間、ルキリウスは落ち着いた日々を過ごした。平穏無事にとはいかなかったが、日課が整い、それを六十日以上続けられたならば、落ち着いたと言えるはずだった。

 監視つきの生活ではあったが、さして不自由ではなかった。牢獄に寝泊まりを続け、午前はそこで読書をした。木格子の向こう側で、コルネリアがほとんど一緒だった。セラピス神殿の図書館から彼女の気の向くままに本を借りてきたし、ルキリウスの希望も聞いてくれた。

 午後からは、正門の外へ出た。バルバトゥスに付き添われながら剣闘士の訓練場に通い、陽が傾くまで稽古した。牢獄に帰ると、監視つきながらコルネリアが待ち構えていて、ルキリウスの手の豆などに、いく分怪しげな薬草を押し当ててくれるのだった。

 食事は十分に与えられた。二日置きには入浴も許された。手持ちができたので、柔らかい寝具や灯火を買い、牢獄をみじめな自室程度に変えていった。

 ガルスは月に一度、剣闘士試合を開催した。十一月には、別の金持ち市民もまたそれを主催した。

 ルキリウスはそのどちらにも出場し、どちらでも即座の勝利を収めた。最初ほど容易い相手ではなかったが、起こったことは同じだった。

 ティベリウスの誕生日にも、体育場で血しぶきの傍らにいた。冗談のように、ガルスはティベリウス・ネロ記念とでもしてやろうかとルキリウスに言ったが、実のところはアラビアやエチオピアからの客人を歓迎する名目の試合だったらしい。ルキリウスは客席に居並ぶものすごく日に焼けた男女を見た。

 人生初の試合の後は静まり返っていたが、これはルキリウスの心境のせいだったかもしれない。二度目の試合後は、客席から文句が聞こえた。つまらないじゃないか、もっと楽しませろ、と。三度目の試合後は、その半分が歓声に変わった。「あいつは次の試合も鮮やかな一撃で終わらせるんだろうか?」早くも賭けの対象にされているらしかった。もはや職業剣闘士に片足を突っ込んでいた。

 祖父と叔父には、もう大丈夫だからインド行きの準備でもなんでも進めてくれと言っておいた。それでも剣闘士試合では、二人は必ず席を取り、家族が死なないか見守りに来ていた。

 ルキリウスは無罪放免とされたわけではない。だが放免するよう、ガルスに強く願ったわけでもない。ほかにやることがないから、ただ居座ったのだ。ガルスの奴隷でなければ、傭兵になったに近い。試合の賞金の半分をガルスに渡し、もう半分を自分の生活費とした。コルネリアに頼み、牢獄の合鍵まで作らせて所持した。それなのにルキリウスは出ていかなかった。

 十二月になると、ティベリウスからの手紙が続々と届いた。慌てていたり激怒していたり問い質していたり──ルキリウスは笑ってしまったが、もちろん申し訳なく思った。一応十月末日に、もう落ち着いたので大丈夫そうだという旨の手紙も送ったのだが、まだ届いていないらしい。地中海世界はもう冬に入った。

 十二月には、コルネリアの誕生日があった。ガルスは当然のように娘が十五歳になる日を祝うため、剣闘士試合の開催を宣言した。

 ガルスが特別剣闘士試合好きというわけではなく、月に一、二度とは、都市における一般的な開催頻度であるのだろう。平時でなく戦勝後ならば連日の開催もあり得るが。このほかにも戦車競走や演劇といった見世物の日程も組みながら、為政者は市民を満足させるという仕事をこなすのだろう。これを真面目と見なすべきか否か。

 当然のように、ルキリウスは出場を言い渡された。今や完全に総督専属の剣闘士だ。もちろんコルネリアは反対していた。よりによってあたしの誕生日に、お友だちのルキリウスに危ないことをさせないで、と。それでも父親は、結局ルキリウスをありがた迷惑な贈り物に仕立て上げることに決めた。無論のこと、ルキリウスがコルネリアをもらえるわけではまったくない。

 けれどもあとで知ったが、この件でコルネリアは父親と別の交渉をしていた。

 誕生日の前日夕方、ルキリウスはガルスに呼び出された。それで執務室に行くと、思いがけず目に飛び込んできたのは、卓上の葡萄酒と羊肉の塊だった。前者は杯が二つ、後者はこんがりと焼き上げられ、果実のソースがかけられている。

 ルキリウスが最も仰天したのは、コルネリウス・ガルスが執務用机の向こう側ではなく、長椅子に横臥していたことだ。葡萄酒と羊肉の前に。いよいよこれが最後の晩餐というやつかと、ルキリウスは震え上がる。たぶん明日は、ルキリウスを網剣闘士に捕えさせてから魚剣闘士に串刺しにさせるのだろう。そうでなければ野獣の群れの中に放り込むのだろう。

 すでに本職の剣闘士たちには、宮殿の一角にでも場所を取って、豪勢な食事を振舞ってきたはずだった。そういう伝統だ。その場にルキリウスは一度も呼ばれたことがなかったが、今夜こそは最後にして最悪の晩餐を用意してくれたらしかった。

 ガルスに促され、ルキリウスは彼と対面する長椅子に腰を下ろした。横臥する気にはとてもなれなかった。

「まだ酒が飲める年ではないな」

 相変わらずの無表情で、ガルスはつぶやくように言った。それから自身の杯から、もう一方の杯に赤い液体を数滴垂らした。

「すでに散々血を浴びていながら」

 ひと言多いのも相変わらずだった。ルキリウスは苛々と、勧められてもいないのに羊肉をわしづかみした。むしゃむしゃと自棄気味に咀嚼するあいだに、杯に水がなみなみと注がれていった。

 ガルスは自身の杯を口元に運んだ。手つきは優雅で、屈強な見た目にそぐわないほどだ。

「ティベリウス・ネロは私にも手紙を寄越したぞ」

 ルキリウスは咀嚼も呼吸も止めた。ガルスは軽く鼻を鳴らした。

「ひと頃より成長は伺えるが、貴族らしい不遜が鼻につく文体だったな。それでもお前のことは本気で心配している様子だった。自尊心が許す瀬戸際まで私に平身低頭し、お前にいかなる苦痛も与えないでくれと懇願していた」

 口いっぱいの羊肉を忘れ、ルキリウスは膨れた頬をさらにゆがめた。人質にされるとはこういう気持ちなのだろうか。

 ティベリウスのときはだれも手紙をくれなかったらしいが。あえてであったとしても。

「そして、お前の処断を待ってくれとな。お前の件ではなにか大変な誤解があったに違いなく、もう一度偏りなく調べてほしいと。さらには、疑うくらいならお前を送還してくれと書いてあった。ローマではなく、ガリアのナルボンヌへな。ネロの友人だからではなく、エジプトの統治者はカエサル・アウグストゥスであるので、妥当な処置であるはずだ、と」

「……ふぉれだけ?」

 なんとか咀嚼を再開しながら、ルキリウスは訊かずにいられなかった。

「んぐ……っと、そんなふうにティベリウスが言うからには、彼はカエサルに話を通したはずだ」

 継子から話を聞いたアウグストゥスは、なんと思うだろう。継子のよく知らない自称友人が総督の暗殺沙汰を起こすなど許しがたい。さっさとその場で処刑すべきだと思うだろうか。

 だが、ファビウスたちの話も思い出せ。

「ティベリウスは、あんたがぼくを連れてナルボンヌに来てほしい、そう書いたんじゃないの?」

 ガルスはただルキリウスを見つめてきた。それは肯定も同然だ。

「つまり……カエサルはあんたに辞令を出すことにした。もしくは、もうすでに出していた。たぶん、ぼくの件とか少しも関係なく、ずっと前に」

 そうするはずだ。ガルスの実績は疑いないにせよ、ファビウスほか大勢が報告するしかなかった不祥事がある。実態を見ていないマルケルスでさえ、叔父に願い出たという話ではないか。

 ひとまずエジプト総督を解任して事情を聴く。それが妥当であるし、とっくにそうなっていてもおかしくなかったはずだ。よほどの事情がないかぎり。

 ガルスに首都に戻られては困る事情でもないかぎり。

「辞令ではない」だがガルスは言った。「だいたいあれの文章は遠まわしでわかりにくいのだ。あれでは辞令にはならん」

「いや、辞令でしょうが」ルキリウスは思わず言い返していた。「カエサルの文章のせいにしないでよ。正式の印が押されてあったなら、それは上官からの指令でしょうが」

「私にはまだここでやるべき重大事がある。離れるわけにはいかん」

「帰ったらいいでしょうが」ルキリウスは呆れ返った。「やるべき重大事? あんたの決めることじゃないよ。カエサルが決めることだよ」

「あれになにがわかる。この場にもおらんのに」

「ほんの三年前にはいたでしょうが」

「私がこの国に留まるべき理由は説明した。それに対するあの男の返事はまだ来ていない」

 ルキリウスはうめいた。四半世紀分も年上の人と対しているのに、まるで幼子と話している心地がしてきた。聞き分けの悪い、わがまま小僧だ。

 返事はまだ来ていない? 本当に手元に届いていないのか。もしや「自分が欲しいと思う内容の返事は来ていない」という意味ではないだろうな?

「それでもティベリウスが話を通したんなら、辞令という意味でしょうよ」杯を前に傾けながら、ルキリウスはまるで言い聞かせるようだった。「カエサルからの手紙も一緒に来ているんじゃないの。でなくても、いずれすぐに来るんじゃないの」

「それがどうした」ガルスの無表情は、今や気づけば意固地が露わになっていた。「私はまた説明する。そしてやるべきことをやる」

「あんた、どうしてそんなに帰りたくないのさ?」ルキリウスは納得できなかった。「なんでか知らないけど、カエサルの悪口を言い触らしたせいで、気まずすぎてもう顔も合わせられないの? だったらこれがいい機会だよ。どうかここは一つ、謝罪なさってはいかがですか?」

「なぜだ? 私がなにをした? すべて事実を言っているにすぎない」

 剣闘士たちと酒を飲んで、ガルスはすでに酔いがまわっているのだろうか。

「そこは自尊心の許す瀬戸際まで頑張ってくださいよ」

「帰ってみろ。増長したあれが私になにをするかわからんではないか」

「気分はガリア遠征後の神君カエサルですか」

 それこそあまりに不遜に聞こえ、ルキリウスは首を振るばかりだった。かつて元老院は神君カエサルから軍団を取り上げ、丸腰で裁判にかけようとした。遠征の功績を奪い取って。

「だからナルボンヌなんですよ。絶好の機会でしょ? あんたは元老院に引き出されることはない。ただカエサルとだけ話をすればいい」

 そう、きっとナルボンヌが好都合なのだ。お互いに。

 アウグストゥスが辞令を出したとしたら、それはこの八月か九月のことだったのだろう。

「とにかく次の総督でも送られてくるまで、私はここを離れるつもりはない」とガルスは言い張り、杯を干した。

「送られてくると思いますよ」ルキリウスは杯を両手で抱く。

「追い返す」

「やめてくださいよ」ルキリウスはつい腰を浮かせた。「それこそあんた、『国家の敵』にされかねませんよ。コルネリアはどうなるんですか? あと、巻き込まれてあんたにこき使われそうな、このぼくは?」

 ガルスはここで笑ったように見えた。だが笑いごとではない。ピラミッドへの落書きやアウグストゥスへの悪口だけならまだしも、総督解任の命令を無視したならば、ガルスは国家ローマに逆らうことになる。女王クレオパトラ、そして実質はマルクス・アントニウスと同じように「国家の敵」とされたらどうするつもりか。

 いくらなんでもそこまでの事態は起こらないと思うのか?

「国家の敵だと? 私が国家になにをした? もしもこの国があの男の所有だというのなら、国家は関係ない。あの男と私の問題だ」

 ガルスはもはやカエサル・アウグストゥスを名前ですら呼ばなくなっていた。

「だから、ナルボンヌに行けばいいって言ってるのに……」ルキリウスは困り果てる。おそらくティベリウスも、首都にいるガルスの友人たちも同じ心境だろう。「今は真冬ですけど、陸路と併用すればなんとかなるでしょ。四年前はカエサルも、この時期の地中海を横断したっていうし」

「ああ、そのとき私はサモス島で留守を任されていた」

「知ってます」

 ティベリウスから聞いていた。

「今とさして変わらんと思うか?」また杯を一気に干して、ガルスは口元をぬぐった。「なお悪いぞ。この国があの男の所有なら、さしずめ私は別荘の管理を任された奴隷頭だ」

 ルキリウスが一瞬言葉に詰まったのは、それが言い得て妙だと思ってしまったからだろうか。

「い、いや、それはあんまりな言い草じゃない? 自分のことだよ! 卑下しすぎというか……侮辱みたいじゃないか!」

「それが事実だろうが」

「いやいや、なんでそう悪く取っちゃうかな? ほかの人だったら名誉に思うでしょ? 属州総督だよ! 皆があこがれる出世街道の目標地点」

「属州ではなくあの男の土地だと言うから言っているのだ」

「で、でもここはそんじょそこらの土地じゃない。エジプトだよ! あんたには手持ちの軍もある。手柄を上げられる。この元王宮殿で、仕事さえしていれば好きに暮らせる。王様同然に!」

「王どころか、ここの神になった男がいたな」

 杯を掲げ、奴隷に次の葡萄酒を注がせる。その仕草はやけに尊大に見えたが、ルキリウスにはそれがわざとであるように見えてきた。ルキリウスに見せるためではない。ここにはいない存在への不服であり、皮肉だ。

「私はその男が、まだガイウス・オクタヴィウスだった頃から知っていた。学は凡庸。文章も不明瞭。軍事に至っては戦場にただ立たせてもおけないほどの貧弱だった」

「だから気に入らないと?」ルキリウスは問う。半分はわからないでもないが、半分は信じ難いというような思いだ。「その人がカエサル・アウグストゥスになったことが、そんなにご不満? 友人だったのに?」

「ルキリウス・ロングスよ」ガルスは皮肉のような、そして自嘲でもあるような笑みを浮かべ、すぐに杯でそれを隠した。「友情の第一人者。清らかなお前とその父親のような心持ちならば、素直に喜べると言いたいか。昔なじみの立身出世を」

「そのなんちゃら第一人者ってのはやめてよ。腹立つ」ルキリウスは苦りきった顔をする。「たぶんあんたは、カエサルを自分と同等か、畏れ多くもそれ未満に思ってきたんだろうな」

「友情とは対等のものであろう? 少なくとも建前は。お前たち親子はいつも、自分たちが崇拝するような男を友に選んでいるようであるが」

「うるさいよ」

 友情が対等だって。なにからなにまで対等な友だちなんているのか。

 ルキリウスがそう思い至ったのは、ガルスへの反抗心からだった。そしてはたと我が身を省みる。

 そうであるならばぼくは、どうして優れた男であるとか、将来出世の頂確実であるとか、貴族の生まれであるとか、そんな言い訳をしていたんだろう。

 それらの点で、ティベリウスは確かにルキリウスより上だ。間違いなかった。

 だがティベリウス当人は、ルキリウス・ロングスになにを求めていたんだ──?

 なんであれ、このままではいずれ一緒にいられなくなる日が来るのだ。今がそうだ。

 けれども──。

「だが私とてあの男を愛した」ガルスでさえ、こう打ち明ける。「美しく、常に朗らかだったあの青年を。なによりあの不屈の精神力を、尊敬せずにおれようか。おのれの弱さと闘いながら、あれほど辛抱強く大事を成し得た男は世界におらんだろう」

 空の杯を、ガルスは卓上に叩きつけるように置いた。

「だがあの男は忘れている。おのれが強運であったことを。そして友がいたから成し得たということを」

「忘れてないよ」身をすくめがちに、ルキリウスは言う。「たぶんだけど、カエサルは忘れていない」

「ならば、この増長ぶりはどうだ?」ガルスは右腕を大きく反らした。

「今やローマどころか、世界の王だ。元老院をどう言いくるめたか知らんが、少なくともこの国の事実上の王になった」

 ああ、そうだ、確かにそうだと、ルキリウスは胸中で同意するしかない。でもやはり王ではないから、第一人者であり続けることのほうがずっと大変であろうとしても。

「そうであるならば、マルクス・アグリッパが世界の東半分、私がこのエジプトくらいは所有する権利がありそうではないか?」

「ちょっと……」ルキリウスはさすがにひるむ。「それはちょっと、総督……」

「どうしてだ?」ガルスは臥台から体を起こし、ルキリウスをにらむ。「でなければやはり、私は奴隷頭か? なにしろこの国は、ほんの一部分も私のものではないのだからな。知っているか? あの男はこの国の土地を、アグリッパ、マエケナスと分かち合っている」

 驚いた。それはルキリウスには初耳だった。

「あの二人も今や大地主だぞ」ガルスの声には、今やはっきりと怒りが、そして憎しみに似たなにかが表れていた。

「マルクス・アグリッパ。その男も昔から知っている。軍事の才能は確かに優れているが、生まれは低く、さして教育も受けていなかった。詩も解さん。ギリシア語も読めん」

 ルキリウスは、父の墓前で見たかの人の気さくな笑顔を思い出す。

「ガイウス・マエケナス。自称エトルリア王族の子孫という、実際は素性不明の男だ。大富豪で有名だが、ほとんどはあの男との付き合いから得た資産であるのだ。芸術家の保護者を気取ってはいるが、実のところはあの男に好都合な詩と歴史を書かせる人材を探しているだけだ」

 そうかもしれない。だが言い過ぎではないのか。マエケナスは確かにアウグストゥスと互恵関係にあって、今の優雅な立場を手に入れたのだろう。

 しかしティベリウスは、あの人の疲れ切った顔を見たと言っていなかったか。優雅な暮らしの裏で政治に外交──諸事アウグストゥスの相談に乗り、時に自らが乗り出して、彼を助けてきたのではないか。

 なんのためにだ。

「ヴェルギリウスもな、あの連中に捕らえられた」

「違う」ルキリウスはついに声に出す。「あんたは言い過ぎだ。とくにマエケナス殿の事は。きっとあの人は……なんというか、そんな目先のことのために芸術家を応援しているんじゃないよ。それにあそこの詩人たちのことも侮辱することになるよ」

 だがルキリウスは、まんまとあの邸宅に連れていかれてどうなったのだったか。

「あんただって詩人じゃないか!」その記憶を振り払うように、ルキリウスは叫んでいた。「わかっているはずだ。優れた詩を無理矢理作らせるだなんてだれにもできない。見る人には必ずわかる。心からの言葉か、そうでないかが」

「若造め、相変わらず生意気を言いおる」

 言葉遣いとは裏腹に、ガルスは微笑んでいるように見える。

「お前などに詩はまだわからんだろうに。だが確かに、ネロのあれらの手紙を読むことならできるな。あのネロの本心が、お前にわかっているのだろうか?」

 ルキリウスは戸惑う。なにを言われているか混乱する。

「あんただって……」苦し紛れの言葉は、自己からの逃避だ。「あんただって、ヴェルギリウス殿の思いがわかってるっていうの?」

「ああ、無論だ」ガルスはうなずく。ひどく優しげな微笑みを、ヴェルギリウスの名前だけが彼から引き出す。「我々二人の間柄だ。もはや言葉もいらない。だがヴェルギリスの言葉は至高だ。永続する美とは、あれの心から創り上げられるのだ」

「だったら、あんたが守ってあげるべきだった」我が声は、どうしてこんなに悲痛に聞こえるんだ?「ヴェルギリウス殿を。マエケナスではそんなに心配なら。今からでも遅くないのに──」

「この地に三年も四年も留め置かれて、それが叶うと思うか」にべもなく返してから、ガルスはつけ加える。「そばにいるばかりが貢献ではなかろう。いないほうが良い場合さえあろう」

 そんな言葉は聞きたくない。聞きたくないんだ、大詩人ガルス。優れた軍人。初代エジプト総督。解放奴隷級の身分から成り上がり得た、比類なき才能と努力を備えた人。

「私と会うなら、ヴェルギリウスのほうがここへ来るしかなかった。そんなことは許されずにいるのだろうが」

「そんなことはない。そんなことはない」ルキリウスは何度も首を振る。「ヴェルギリウス殿はあんたのことを心底心配していたし、まだ愛していた。ここに来たがっていたけれど、旅の自信がなくて、こういう性格だからって」

「それも含めて、連中はお見通しなのだ」

「帰ったらいいんですよ!」立ち上がり、とうとうルキリウスは怒鳴りつけていた。「あんたが! ナルボンヌでもどこへでも! それからヴェルギリウス殿を連れて、どっかの島にでも引きこもればいい!」

「それはできん」

 薄ら笑いながら、ガルスが言う。「それはできんよ」

「なんで?」

「ヴェルギリウスをつき合わせるわけにいかん」

「なにを言ってるのさ!」

 なににだ? なににつき合わせると言ってるのか?

 ガルス、あんたはこの先になにを見ているんだ?

「それに、言ったはずだ。私にはまだやることがある」

 そう言うや否や、ガルスはたちまちまた普段の無表情に戻った。酒を飲んだことも忘れたように立ち上がり、きびきびと執務机へ歩いていった。

「先だって体育場で客人を見たか? あれはナバテアの国王代理と、それからエチオピアの王族だ。彼らの協力を得て、来年春には取りかかるつもりだ」

 ルキリウスは黙していた。ガルスはこつこつと指先で机を叩いた。

「幸福のアラビア。あの土地をローマの支配下に置く」

「……カエサルの命令は出ているんだよね?」

 ここから東の遥かなる未開の地云々ではなく、ルキリウスの口をついて出たのはまずその問いだった。

 ガルスが言った。「この秋、使者を送った。おそらくガリアで会見したはずだ」

「でも、あんたに出陣命令は出ていない」

「遠征することは決まっている」平淡に戻った調子のまま、ガルスは言い張った。「あの男も金が必要なのだ」

 幸福のアラビア。ローマ人かギリシア人が、かの地への夢を込めてそう呼びはじめたという。住まう人々にとって楽園であるかは知らない。乳香、没薬をはじめとする、大変貴重な香料を地中海世界にもたらしてくれるがために「幸福」であるのだ。乳香、没薬は非常に高価であるが、冠婚葬祭の儀式では欠かせない。エジプトとは昔から取引があったが、ローマ世界全体が平和で豊かになるに従い、需要は留まるところを知らずに増すばかりだ。

 広大なアラビアの地のほとんどが砂漠であるという噂だ。実のところローマでは、ほとんどかの土地の実態が知られていない。半島北部を領有するナバテア人とのみ同盟関係を結んでいるだけだ。

 しかしもしもそのアラビアを支配下に収めることができたなら──属州化でなくとも覇権を認めさせ、同盟関係を結び得たなら、その恩恵は計り知れない。乳香、没薬の一大産地を見つけ、ローマの技術を投入し、さらに生産高を上げる。そうなれば為政者ローマの国庫はうるおい、各方面の税金を下げるという政策すら可能になるかもしれない。

 強欲だろうか。このエジプトからプトレマイオス王朝の富を引っ張り出し、世界の年利を下げてまだ数年であるのに。しかしあの時の富が世界各地に分配され、多くの人をうるおしたのは事実だ。王朝は滅んだが、アレクサンドリアは変わらず豊かなまま。ナイルの洪水がもたらす小麦の収穫も、ローマ人の河川整備で向上した。幸福に貢献したのだ。

 アレクサンドリアからナイル川を遡り、砂漠の隊商路を横切る。その先に現れるという紅海とは、ローマ人にはほとんど未知の海だ。だがルキリウスの祖父と叔父がインドを目指すなら、その細長い海を果てしないまでに南下していかなければならない。

 アラビアは、その紅海の対岸にある。

「私以外にだれがやるのだ? アグリッパ、メッサラ、タウルス、いずれも首都を動く気配なし。それ以外のまともな将軍は、あの男がすべてヒスパニアに連れていっただろう。最も有能で、最も頼れるのは私だ。私でなければやりおおせられないことだ」

 そうなるとやはり、アラビアの属州化までは考えていないのだろうか、とルキリウスは思う。正確には知らないが、ルキリウスがこれまで聞いたところ、エジプト全土にいるのはせいぜい二個軍団というところのようだ。一国の制圧には全然足りない。

「やりおおせたら?」それでもルキリウスはそう尋ねる。エチオピアとの協定がそうであるように、属州化ばかりがローマの勝利ではない。「やりおおせたらどうするつもりさ?」

 いよいよガルスはここの王になるのか。否、幸福のアラビアがいったいどんなところかは知らないが、もしもかの地の一部でも確保して、ローマのものとすれば、新領地の獲得だ。凱旋式級の栄誉だ。市民は大喜びするはずだ。

 そしてアウグストゥスにしろ元老院にしろ、もうガルスをないがしろにできないだろう。

 これまでもないがしろにしたつもりなどなかったにせよ。

 ガルスはいよいよその実力と功績を認められるだろうか。本人が主張するほど正当に。そしてアグリッパの次席の地位にさえ置かれ得るだろうか。

「総督、大変結構なお話だけど、あんたは色々と逸脱しているように見える」ルキリウスは執務机に近づいた。その上に右腕を突き立て、正面から問い質した。「来年も総督でいるつもり? 本当に大丈夫だと思ってる?」

「私を解任はできんよ」とガルスは言ってのけた。「ほかの男ではみじめな失敗に終わるだろう。マルクス・アグリッパだけを除くとしても」

 果たしてそうだろうか。だれがやっても難事ではないのか。テーベの反乱平定とはわけが違う。神君カエサルはガリア遠征に何年をかけたのだったか。

 だが、違う。それ以前の問題がある。

「総督、だったらせめて、カエサルとなんとか仲直りを試みないの……?」

 こんなことは、ここにいたほか大勢の側近たちが進言したのではないのか。そうではなかった? ガルスが怖い上官だから?

 いや、ガルスのことなどどうでもよかったから?

 ルキリウス・ロングスだけが、カエサルに謝罪しろとかヴェルギリウスを連れて逃げろとか、あれこれ世話を焼いているのではないだろうな?

 父の仇を相手に。

 今度は、ガルスは例の薄ら笑いで応じてきた。

「お前ならどうするのだ、友情の第一人者? 友人にどこまでもつき従う以外を選ぶのなら、仲直りをする時はどうするのだ?」

 ルキリウスはまたも黙した。思い返せば我ながらあ然としたが、今までただの一度も、だれかとの壊れた関係を真剣に修復しようと試みたことがなかった。

 それを試みてくれたのは、だれだ?

 ぶん殴られて、追い出されて、それから七日間毎日ロングス家の門に立ったティベリウス・ネロだ。あのだれより誇り高くて優れた男だ。

 どうしてそんなことをしたんだ? 彼にとっては、あの時ルキリウス・ロングスとの縁など切ってしまって、まったく何ら問題はなかった。あの七日目に、ルキリウスは実際にティベリウスにそう言ってやった。それまではずっと無視を決め込んでいたのだ。

 ティベリウスはこう答えた。

「ぼくは、お前を失いたくない」

 ルキリウスは目を閉じた。ああ、ティベリウスだけが──あの時の友だけが、ルキリウスを変えたのだ。

 そしてまた、ルキリウスも変わり得たのだ。

 黙したきりのルキリウスを、ガルスは例の笑みを浮かべたまま眺めていた。

「簡単に言うな、若造め」

 その言葉にはどういうわけか、今までになかった愛嬌のようなものが込められているようだった。

「口ばかりまわる。おまけに頭まで理想ばかりでまわす。それを生意気というのだ」

 気持ちを消沈させ、ルキリウスはガルスを見ていた。彼の言うとおりなら、なんとまあ、大人になるとは生きにくいことだろう。

「いずれ私はこの程度では終わらんよ」自信を込めて、ガルスは言うのだった。「やってみせる。これからがこのコルネリウス・ガルスの大勝負だ」

 ルキリウスはじっとガルスを見つめていた。すでに詩人としても軍人としても多くを成し得た、この大人物の果てなき向上心。人はこれを野心とも呼ぶのだろう。

「しかし、明日はお前の大勝負だったな」

 そんなことはもう忘れていた。ルキリウスはため息をついた。

「ルキリウス・ロングス、どうしてお前をここに呼んだか、わかるか?」

「……将来の夢を聞いてくれる友だちもいなくなったから?」もう途方に暮れるしかなかった。「ほんと、もう、どうしてこんなに聞き分けが悪いのかな? なんでぼくが相手を務めなきゃならないのかな? ねえ、あんた、一応ぼくの父の仇なんだよね?」

「ああ、そうだ」

「あんただけナルボンヌに行ってくれるなら、ぼくとしては万々歳なんだけどな」

「お前は行きたくないのであろう」とガルスはまたにやりと笑う。「剣闘士にされてもなおここに居座っている。お前こそ帰りたくないのだ」

「ぼくなんかの話はどうでもいいよ。あんたの話をしているんでしょ」

「ティベリウス・ネロのために」

「あんたこそ、ヴェルギリウス殿でもだれでもいいから、だれかのために、さ……」

「ああ、私はやり遂げるつもりだ」

 意外にもルキリウスは、自分もまたその宣言が叶うことを願っているらしいことに気づいた。

「ルキリウス・ロングス」

「うう……」

 嫌な予感がする。

「明日も死ぬな」

「はい、はい……」

「お前にも成すべきことがあるはずだ」

「あんたねぇ……」

「人のせいにするな。今更辞退する気もないのだろう」

「ああ、ああ、はい、はい……」

「ロングス──」

「いや、聞きたくない」ルキリウスは両耳をふさぐ。「やめてください。アラビアとか暗殺とかアウグストゥスとかアグリッパとか、とにかく『あ』で始まる言葉は」

「いいや、コルネリアだ」

 ガルスは机越しに上体を乗り出してきた。ぎらりと目が光っていたが、凶悪な感じではなかった。

「私は成し遂げるが、お前はどうだ? もしも私がコルネリアをお前に与えると言ったら、お前はどこまでやるか?」

 それで、ルキリウスはまたも黙した。普段はたわ言や生意気を好きなだけまくし立てておいて、肝心な時になにもしゃべれない男とはルキリウス・ロングスだ。これでは殺されても文句は言えない。

 コルネリアに恋していた。たぶん愛してもいた。

 自分ではなに一つ約束できない男。それに、そうであったとしても成すべきことがあった。

「やはりお前にはやれんな、娘は」眉を下げたガルスは、からかっているようでもあり、本気で残念がっているようでもあった。

 あるいはまた、らしくもない本心の自嘲であったのか。

「だが男とはそういうものだ。恨むまいよ。だが忘れてくれるな、コルネリアのことを」





「ルキリウス!」

 そんな妙な会談があった翌日、大いに心を乱されながらも、ルキリウスは剣闘士試合で四度目の勝利を収めた。無傷ではあったが、色々あって陽が沈んでから王宮殿に戻ると、コルネリアに首に飛びつかれた。

 試合で渾身の一撃目を外したときよりも慌てた。出会って二ヶ月が過ぎていたが、ルキリウスはこれほどにコルネリアと密着したことがなかった。

「待ってたのよ! 無事だったのよね?」

「……ああ、コルネリア」ルキリウスはくらくらした。「誕生日おめでとう。遅くなったけど」

 頬に接吻までされたので、ルキリウスも同じように返した。背後の正門で、門番とスフィンクスと父の亡霊に見られている気がした。コルネリアの見張りどもも今日はなにをやっているのだろう。十五歳の少年の自制心など当てにしてはならない。

 だが、これはコルネリアが招いた状況だった。

「お父様がね、今夜だけは許してくれたのよ! あなたが勝って帰ってきたなら、一緒に過ごしてもいいって!」

「そうかい、そうかい……」

 ガルスは二度も同じ手を使う気だろうか。今度は未遂で済まなかったらどうするのか。

 月明りに照らされたコルネリアは、初めて見たときと同じように白く輝いていた。

「ねえ、ルキリウス、踊りましょ!」

 彼女がルキリウスの手を引く。

「今夜こそ、あたしと一緒に踊ってくれるでしょ?」

「い、いや、ちょっと待った!」

「なぁに? 大丈夫だってば。今日はお父様とちゃんと約束したんだから」

「そうじゃなくって、コルネリア、実はぼくも、君に誕生日の贈り物を用意したんだ」

 コルネリアはびっくりした様子だった。ルキリウスも自分に驚いていた。女の子に贈り物をするなど初めてだ。

 ルキリウスはコルネリアの両手を取った。せっかくの夜であるのに、緊張して汗だくであるのがばれてしまっただろう。一応試合後に体育場で水はかぶってきたが、土臭さと汗臭さ、さらに血生臭さが消えてくれたかも疑わしい。

「目を閉じて」

 それでもルキリウスは求めた。コルネリアは形の良い眉を寄せた。

「いやらしいことするの?」

「しない。このままぼくの手をつかんでいてくれていいから」

 それで、コルネリアは言われたとおりにした。ルキリウスもなにもせず、ただ首を振り向けただけだ。すると海の側から、とても軽快な音色が聞こえてきた。

 コルネリアはすぐに両目を開けてしまった。それは飛び交うイルカの群れか、あるいは空で降っては弾ける星々を探しているようだった。

「水オルガンだよ」自信なく肩をすくめて、ルキリウスは説明した。「ローマではまだ見たことがない。体育場でこれを聞いて、ぼくはもったいないと思った。こんな楽しくて美しい音色は、あんな残酷な場所で奏でるもんじゃない。君のためにあってほしいって。ぼくは……君がこの音色で踊っているのをずっと見たかった……」

 ルキリウスは自分が赤面しているのを感じていた。コルネリアが喜んでくれるかどうか、ひどく不安で恐れているのだ。らしくもないことを上手くやろうとしている。そんな自分が恥ずかしいとも思った。

 だいたいコルネリアのためではない。自分のためではないか。それが言い訳であるのかもわからない。しかし言葉は嘘ではない。しばらく前からこれを考え、体育場のオルガン奏者と交渉していた。賞金の一部を報酬として支払った。つまり血で汚れた金だ。

 コルネリアに良く思われたいし、自分も得をしたい。そういう考えなら、なんと浅ましい。

 答えは、コルネリアがくれた。ルキリウスの唇は、コルネリアのそれに塞がれた。

「さあ、踊りましょう」つないだ両手を、コルネリアが大きく振る。「あの月が見えなくなるまで、踊りましょう、ルキリウス」

「コルネリア……」

 白銀と紺青の世界で、ルキリウスは夢を見ているようだった。きっとやはり、ここはあの月の上なのだろう。

「今更だけど、ぼくは踊り方を知らないんだよ」

「なによ。あたしより上手に飛べるって言ってたじゃない」

「そうだっけ?」

「そうよ!」

 コルネリアが笑い、ルキリウスも笑った。心の底から思いきり笑ったのはずいぶん久しぶりだ。

 水オルガンの音色が、月の世界を駆ける。二人は手をつなぎ、飛んで、跳ねる。くるりくるりとまわり続ける。見つめ合って、お互いを抱き寄せる。

 きっとガルスもどこかで見ているのだろう。でも見えているのだろうか? このコルネリアの笑顔を独り占めとは、神々にさえ嫉妬される。見てほしい。この笑顔を見てほしい。

 永遠があるとしたら。色々な人間が長いあいだ追い求めてきた。詩がきっとその結晶だ。あの大恋愛詩人は言葉を紡ぐだろうか。

 二人は忘れないだろう。この音色とともに、深く残り続けるだろう。心にも肉体にも。月の上で踊った。あの表面に刻まれた。きっと忘れない。見上げるたびに思い出す。

 美しいコルネリア。その純真の愛情。






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