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第二章 -12



 12



 残りの一日を、ルキリウスはほとんど自主的に牢獄に引きこもって過ごした。だれにも会いたくなかったし、なにも聞きたくなかった。寝台もどきで頭を抱えて丸まり、長いあいだ震えていた。

 臆病者とはなにも知りたくないのだ。結局あの男が死んだかどうか、ルキリウスは聞かなかった。試合前に彼の名前を告げられたはずであるのに、思い出すのを拒否した。

 一方が戦闘不能と判断されたなら、試合は終わりになる。ルキリウスは勝利したはずだ。かすり傷一つ負わずにここへ帰ってきたのだから。けれども覚えているのは、生の喜びや観客の歓声ではなく、右手が肉をえぐる感触と、血を吹いて痙攣するだれかの悲惨な姿だけだ。

 恐れていたよりもひどかった。

「当たり前だ。年々鍛錬して伸び盛りの少年が、ろくでなしの初老に負けるものか。総督はずいぶんと甘やかしてくれたものだ」

 バルバトゥスが平然と言っていた気がする。

「つまらん。早すぎる。見世物がなんたるかをわかっていない」

 これはガルスの言葉だったか、それとも衛兵か観客のそれか。

 陽が沈んで後も、震えは止まらなかった。食事が出されたが、手を伸ばすこともできなかった。かろうじて水だけ口から流し入れたが、すぐに吐いてしまった。

「ルキリウス……」

 夜が更けて、むしろ朝に近づく時間だったかもしれない。格子窓から気配と可憐な声がした。

「ルキリウス……いるのよね?」

「……ああ、コルネリア」どんなときでも、好きな娘の前では虚勢を張ってしまうものだ。「いるよ。生きているよ。なぜか今頃になって死にそうだけど」

「大丈夫?」訊いてから、コルネリアは地面をえぐるような音を立てた。「……ごめん。馬鹿なこと聞いているわよね」

「大丈夫だよ」そう来られたら、こう答えるしかないのだ。「コルネリア、君はやっぱり優しいね」

「ごめんなさい……」コルネリアの声が歪んでいた。「こんなことになって、ごめんなさい……」

「君が謝るようなことはなにもないんだよ」つくづくルキリウスは、自分に愛想が尽きる思いだった。「ぼくが君に触れようと触れまいと、ガルスはいずれなんらかの処遇を決めたさ。だからバルバトゥス先生が、ぼくにとっていちばんましなのを選ぶように仕向けてくれた」

「でも、あなたは傷ついたわ」

 コルネリアの声のほうが痛ましかった。

「……君は見ていたのか?」

「うん。お父様の後ろから」

「勇気があるな。だったらぼくが無傷なのもわかっているはずだ」

「あなたは傷ついてる!」涙声を張って、コルネリアは断言した。「剣を刺したくなんてなかったのに! 無理矢理戦わせられて」

「それは違う。コルネリア、違うんだよ」

 ルキリウスは独り首を振った。それからまた頭を抱え込んだ。

「遅かれ早かれ、ぼくは剣で人を斬らなきゃいけなかった。だってぼくは、将来ローマの元老院議員になろうってんだよ? なんの実績も無しで、選挙に出るわけにいく? 船乗り家系の庶民なら、たくさん賄賂をばらまくか、戦場に出てひと手柄を上げるしか方法がないよ」

「そんなことないでしょ!」コルネリアが叫ぶ。「弁論家になるとか、みんなの役に立つものを寄付するとか、ほかにも方法があるはず! 命令だけして自分の手を汚さないまま偉くなる人だっていっぱいいるんじゃないの?」

「それはわからないな。わからないけど──」両膝のあいだで、ルキリウスは引きつった笑みを作った。「結局、これはぼくが望んだんだから」

「違う! あなたはそう言い聞かせて自分を保っているだけよ!」

「それだったら……悪いけどもうほうっておいてくれないかな」笑みは消え、声は平淡になった。「今のぼくには余裕がない。それだけは確かだから」

「ルキリウス」それでもなお、コルネリアは退かなかった。「こっちへ来て。お顔を見せて」

「コルネリア──」

「お願いよ……」

 ルキリウスが顔を上げると、格子窓から白い指が伸びていた。空を掻いて、必死に見えた。

「コルネリア」ルキリウスはうめく。「だめだ。ぼくはもう穢れている」

「それがなによ?」コルネリアはうなった。「穢れていない人なんていないわ。みんなだれかを傷つけて、傷つけられる。でもあなたが受けた傷は、あまりにむごい」

「コルネリア、頼むから帰ってくれ……」

「いやよ。あなたが来てくれるまで、ずっとここにいる」

「また連れ出されるぞ」

「なら舌を噛んでやるわ」

「そんなこと言うもんじゃないよ」

 それでも、ルキリウスはおずおずと体をほどいた。首と肘と膝が拒否しようと痛んだ。よろめきながら立ち上がったが、今にも寝台から転げ落ちそうだ。

 そうなる前に、コルネリアの指がルキリウスの指をつかんだ。ルキリウスは恐る恐る顔を上げた。

「……なんで泣いているんだよ、コルネリア?」とても綺麗な目と頬と涙だ。あの血しぶきが嘘のようだ。「ぼくは死んでいない。生きてる。試合に勝ったんだよ。祝ってくれていいのに」

 それから、もうたまらなくなって目を伏せた。

「ごめん。ごめんよ…。ぼくだって君を傷つけたくなかった」

「あなたはなにも悪くないわ」

 コルネリアが指に力を込め、さらにもう一方の手も重ねた。最初はひんやりと気持ちよかったそれは、やがてほのぼのとあたたかく変わっていった。少し汗にしめって、柔らかさも感じられた。

「ありがとう、コルネリア」ルキリウスはほっと息をついた。すると実際に腹の底から少しだけ重いものが減った気がするから不思議だ。あれだけ吐いても楽にならなかったのに。「少し落ち着いた」

「ねえ、どうして?」格子の向こうで、コルネリアはわずかに首をかしげたようだ。「どうしてあなた、そんなに強いの?」

「強くはないよ」

「あたしの言ってる意味はわかるでしょ?」

「強くはないって。バルバトゥス先生が言っていたかと思うけど、状況的に当然の結果だって」

 そう言ってから、ルキリウスは壁に右半身をもたせた。

「ただぼくは……相手の攻撃がね、なぜか止まって見えることがあるんだ。こっちに向かってくるときに。特にいよいよやられるって間際に。バルバトゥス先生より前の体育教師に話したら、言うことだけは達人の域だなって呆れられたんだけどね」

 もう五年も前の話だ。それまでルキリウスは、これが他人と違う感覚であるらしいとは気づかなかった。

「そりゃそうだ。ぼくは劣等生だったから。体格も並以下で、体力がないからすぐにへたばる。体術を教わっても、思うように体が使えなくて、そのうちあちこち痛くて泣き出す。ティベリウスに初めて会ったころ、ぼくは彼を助けたくていじめっ子の群れに飛び込んでいったことがあったんだけど、結局逆にぼくが助けられる羽目になったんだよ」

「でも、あなたは強くなった」

「いや、強いのは剣だ」ルキリウスは首を振った。「バルバトゥス先生もそう言ってる。それにティベリウスを利用できた。彼がアクティウムで従軍しているあいだ、ぼくは首都に残った彼の教師に片っ端から指導を頼んだんだ。今ロードス島で大学をやっているテオドルス先生とかにね。剣術と肉体鍛錬でも同じように良い人が見つかった。でもあとは普通にしていただけだ。午前は勉強、午後は肉体鍛錬。どこにでもいるローマ少年の日常だ。ただ、祖父さんたちのおかげで、望んだ人に望んだだけの授業料を払えたのは恵まれていたけどね」

「あなた……」コルネリアは呆れたようだ。「どれだけそのティベリウスが好きなのよ」

 ルキリウスは笑った。「ティベリウスが従軍から帰ってから、ぼくらはなにげなく剣の手合わせをしたんだ。最初の一度だけ、うっかりぼくが勝ってしまった。あの時のティベリウスの衝撃を受けた顔ったら忘れられないよ。以後、ぼくの受難が始まった。三十回連続でぼくを負かすまで、ティベリウスは許してくれなかった。毎日毎日一緒の行動を強いてきてね、ぼくが負けても信じてくれず、『手を抜くな』『演技するな』『ぼくをだませると思っているのか』と騒ぐ。ほんと、しつこいったらないんだよ、あのむっつりは。まあ、おかげで以後の二年も、ぼくは勉学も鍛錬もさぼらずに過ごせたんだけど」

「あなたはずっと頑張ってきたのね」ようやく理解したというように、コルネリアの声に感慨がこもった。指にはさらにあたたかい力が入った。「ティベリウスのために、だれよりも努力してきたのね」

「違う、違う、それは断じて違う」

 しかしルキリウスは、壁に頭をぶつけながら激しく首を振る。

「ぼくなんかより努力している人間はいっぱいいる。ティベリウスがまずそうだし、彼の義理の従兄弟のマルケルスだってそうだ。彼らの周りには、努力もして才能もある若者が集まっているよ。ぼくなんかとても入り込めないくらいに。ああ、彼らがぼくより恵まれているところがあるのは確かだけど、ぼくだってほか多くの人間よりは恵まれているんだ。だから努力じゃない。体力がなくて凡庸なぼくに、だれよりも努力することなんてできっこない。ぼくはただ、自分に恵まれた幸運を利用しただけだ」

「ティベリウスのために」

「違う」ルキリウスはなおも否定した。

「『友人の役に立つべからず』それがルキリウス家の家訓だ。ぼくのためなんだよ、コルネリア。彼の役に立つつもりはさらさらない。おこがましいよ、貢献しようだなんて。あれほどの男に。けどこのままじゃ、ぼくはただ彼のそばにいることさえできなくなる。実際さ、ここに来る少し前にね、ぼくは彼の足を思いきり引っ張って、困らせてきた」

「ティベリウスはあなたを助けたかったのよ」コルネリアの声は共感に満ちていた。ここにはいない男への。「あなたが大事な人だから。ルキリウス、どうしてわかってあげないの?」

「そんなのはだめだ」ルキリウスは言い張った。「ろくなことにならないんだ。ティベリウスも知っている。ぼくの父親が良い例だ」

 それから、父親のことを訊かれる前に話を戻した。

「ティベリウスのヒスパニア行きが決まった時、ぼくはまた同じ手を使うことにした。彼の伝手で、バルバトゥス先生に会ったんだ。かなりしぶられたけど、なんとか手合わせを一本組んでもらえた。あとはすんなりいったよ。おかげでこの二ヶ月、船の上でしごき倒されながら、退屈しないで済んだ」

「先生があなたの才能を開かせてくれたのね」コルネリアはうなずいたようだ。「でもその前の長い頑張りがあったからできたことでしょ」

「そう言ってくれる気持ちはありがたいんだけど、ぼくは相変わらずだったよ。バルバトゥス先生も言ってる。お前には体力がない。そのうえ非力である。体術がからきしなのは、一撃で相手をくじくだけの力がないからだ。そうであっても、相手の不意をついたらあとは逃げるのがコツであるのに、いつまでももたもたしているから逆に痛めつけられるのだ。お前みたいなやつは、剣を持て。一撃で仕留めよ。実戦ではそれが最も強い──って」

 それは、ルキリウスが最も求めていた教えだった。まぐれでもティベリウスに勝った時、一筋見た光明だった。だからルキリウスは、ほかでもないバルバトゥスに教えを請うた。

「相手と取っ組み合いをするな。最初の一撃がすべてと思え。どんな強者でも、ほんの少しの怪我で体の釣り合いを失い、まともに戦えなくなるものだ。それが実戦だ。怪我は死も同然なのだ。だから渾身の一撃を見舞い、あとは進め。次の敵がいるなら、また同様に一撃で倒せ。振り返る必要はない。絶命を確かめる必要もない──」

 だから、ルキリウスは今日そのようにした。「実戦」で試したのは無論初めてだった。

 とても素直な生徒だ。

「これがぼく向きの戦い方なんだってさ。さすがだよ、剣闘士歴二十年、その前はガリア某部族の切り込み隊長だったあの先生は。あとはこの戦い方を実現できる訓練をするだけだ。まったく夢の中にまで先生が出てきてね、剣を振りまわすもんだから、ぼくもそのたびに一撃で倒す技を考えなきゃならなかったよ。気づいたら夢じゃなくて、寝台の上であれこれ手を動かしてさ、足も踏み込んで、思いきり下に転げ落ちてあわや死ぬところだったり……」

 これほど早く実戦を迎えるとは思ってもみなかった。バルバトゥスとのこの二ヶ月がなければ、ルキリウスは今頃とっくに人生を終えていたのだろう。

 それとも、ほかの道を選び得たのだろうか。

「でもね、先生のすごいところはさ、ぼくに強烈に警告してくれるところなんだ。お前は幸いにして、相手の動きを見抜く天賦の才能があるが、同じことを考えて実行せんとする男は、世界じゅうに大勢いるだろう。だから言う。力を誇るな。極力使うな。だれよりも強いと自負するべきは、敵と対峙する瞬間のみだ」

 そういう心持ちまで、素直に従い得ただろうか。ルキリウスはせめて自分にくり返し言い聞かせるのみだ。

「力を誇った瞬間、お前は力でしか生きていけなくなる。他人も、そしてお前自身も、お前の力に期待し、おのずとそういう生き方を運命づけられるのだ。そしていずれ戦いで死ぬ羽目になる。それはお前の望むところではなかろう」

 そのとおりだ。そのような死に方を、ルキリウスはしたくなかった。あまりに自分らしくないではないか。

「──って言っておきながら、先生、結局早々にぼくを最も力を誇る場所へ向かわせましたよね……というのが笑いどころだと思うんだけど、ほら、先生も剣闘士だから。どうやって矛盾を解決したのか、ただの強運だったのか知らないけど……」

 しかしバルバトゥスは今日まで生きていた。他者に力を求められ、力なくして自分が生きられない世界で、そのうえ見世物らしい試合まで要求されながら、引退まで生き長らえたのだ。どうしたらそんな芸当ができようか。

 剣闘士ならばそれを人気と言うが、他者に求められたなら、人は驕るのだ。

 自分が自分である。ただそれだけのことで、ゆるぎない自信を保ち続ける男など極めて稀である。

 自分が強いだなんて、ルキリウスは思ってはいない。いつだって逃げ出したいし、怖くてたまらない。

 しかしガルスにたちまち看破されたように、驕りは常に心の隙を突き刺さして毒そうとするのだろう。

「でも確かに、ぼくは暗殺者になりたかったわけじゃないよ。ティベリウスの身辺警護要員になりたかったわけでもない」

 そして父のように、ただ死にゆく友の身代わりにしかなれなかった男にもなりたくない。なってはいけない。

「……でも、じゃあ、ぼくはどうなりたかったんだ? 勉強友だち? 戦友? 商売仲間? 元老院の同僚? 公務の相談役? カエサルとアグリッパみたいな? マエケナスみたいな? それとも、それとも……」

 コルネリアが聞いてくれてうれしかった。けれどもルキリウスは、結局自分との対話を再開していたのだ。彼女のおかげだ。

「こんなどうしようもないぼくだから、バルバトゥス先生は最も見込みありそうなところを引っ張ってくれた。それがよかったかどうかはまだわからないけど、なにもないよりはましだったと思う」

 ──父さんのようにはならない。

 ああ、なにがだよ。ティベリウスがブルートゥスよりもアントニウスよりも優れているなら、お前はどうだっていうんだ?

 友人の役に立つべからず? 聞いて呆れる。

「このままではいられないと思った。それは確かなんだよ。でも──」

 ルキリウスはずるずると座り込んだ。指先は固くコルネリアにつながれたままだった。空いたもう片方の手で、顔を覆う。

「もうどうしたらそばにいられるのかわからない……」

 それから、そばにいていいのかもわからない。

 あのままぶん殴ったきりにしておけばよかったんだろう。






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