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第二章 -11



 11



「わかっているな、ルキリウス」

 バルバトゥスがそれだけ言った。ルキリウスはただうなずいて立ち上がった。

 釣り上げられていく木格子の柵は、ここ二晩の寝床のそれによく似ていた。ルキリウスは入場口をくぐった。待機場所の暗黒の終わりだ。光があふれ、まるであの世への入り口だ。

 実際には負けず劣らずの凄惨な人の世が続いていた。

 天頂に近づいているであろう太陽の強烈な光は、しばしルキリウスの目をくらませた。しかし耳は大音声を捉えた。ひどく空気を震わすので、肌でも感じ取れた。

 それでも素人同士の初戦である。待ちかねた人々はいよいよかと叫んでいるが、熱気が最高潮になるのは、本職の剣闘士が戦う終盤なのだろう。

 アレクサンドリアをにぎわす人種は様々だ。居住は土着のエジプト人ほか、ギリシア人、ユダヤ人が大部分を占めるそうだが、東方を中心に世界じゅうから来訪者が絶えない。なにしろ世界第二の規模を誇る、世界一豊かな都である。ガルスとその軍勢を除けば、ローマ人は多くない。

 ラッパの音も高らかに届いていた。それと巧みに合わせて、初めて聞く軽快な音色が複雑な旋律を奏でていた。あれが噂に聞く水オルガンだろうか。こんな血生臭いところでなく、コルネリアが踊るのに合わせたら素敵であろうに。

 目が陽光に慣れてくると、ルキリウスは自分の対戦相手に違いない男を見つけた。大柄で、四十歳手前くらいに見える。裸である上体のいく分たるんだ肉づきは年相応で、訓練されたようには見えない。だが四肢が長く、立ち向かう相手に脅威を与えるには十分だ。

 立ち向かわない相手にも脅威を与えてきたのだろうか。

 ルキリウスは観客の歓声を聞いていた。ひと際大声でがなっているラテン語は祖父と叔父から発せられていて、今や『孫は無実』と書かれた看板まで掲げていた。それよりも多勢を占めるギリシア語は、どうも名も知らぬルキリウスを応援しているらしかった。祖父たちの宣伝が急速に広まったのでなければ、たぶん目の前の相手の評判によるところであろう。外国語とはお上品な単語から学ぶので、あまり罵詈雑言の類を知らない。けれども男はガルスの言ったとおりの罪を犯したか、少なくともそう信じられているらしかった。

 ルキリウスも信じたくなってきた。彼は審判に促され、ひどく落ち着かないまま対峙し、苛立ちで恐怖を隠しているように見えた。しかしいざルキリウスの全貌を見て取ると、にやりと不敵な笑みを浮かべるのだった。

「俺の最初の貧弱息子が、生きていればお前と同じくらいの年だったな」

 それ以上聞きたくなかったが、男は細い声ながら得々と語り出し、結局審判に止められた。

 ガルスの言ったとおりだ。どんなに胸糞悪くなろうと、ルキリウスにこの男を裁く資格はない。彼のなにがわかるというのだ? 総督であれ法務官であれ、この男が現実になにをしたか本当のところは知りようがない。

 裁くのは神だ。ルキリウスはただ罪の意識を軽くしたい欲に駆られただけだ。どれほどの違いがあるのだ、この男と。もはや死ぬか、人殺しになるかの二択であろうに。

 親愛なるティベリウス、ぼくのほうが先に人殺しになりそうだよ。そうでなければ、もう二度と君に会えないよ。

 ガルスの言ったとおり処刑人の心持ちであるなら、ここを生き延びたとして、ティベリウスと共にいる資格はないのだろうと、ルキリウスは思う。ローマの処刑人とは、決して首都の中で暮らしてはいけないと定められるほど忌み嫌われているのだ。

 それとも、君はぼくを許してくれるんだろうか? 生き延びたらそんな手紙を書いてみることにするよ。

 人気上昇中であれ、剣闘士を生業にするとは自由市民にとって不名誉なことだ。まして将来元老院議員になりたがる男が試合に出るなど言語道断だ。

 ……だから看板なんてやめてくれないかな、祖父さん叔父さん。ばれたらあんたたちの悲願が水の泡だ。わかってないんだろうな。

 しかし、先のことを考える時間はもう終わりだ。

 審判が指揮棒を掲げた。対戦者二人の背後には係員もそれぞれ控えていて、逃避や怠慢行為を見たならば、鞭や熱した鉄を与えて良いことになっていた。

 ルキリウスは剣を抜いた。相手もまた自分の獲物を自慢げに掲げ、号令を待たずに今にも斬りかかってきそうだ。

 いつのまにか、辺りは静まりかえっていた。聞こえるのは自分の息遣い。そして相手のぶつぶつとした自白の続き。おびえひるませんとしているのだろう。

 しかしルキリウスにはもう言葉がわからなかった。

「──!」

 審判が叫び、まっすぐに指揮棒を振り下ろした。男がわめきながら剣を振りまわした。両眼を剥いて、大口を開けて、とたんに汗や唾を吹き出させて。剣刃がぎらぎらと光っていた。

 ルキリウスの一撃は、男の左肩の下を突いた。男がひっくり返ると、嘘のように鮮血が真上に飛んだ。まるで噴水だ。けれどもやがてそれは引いて、ただ伝い落ちるだけの流れになる。ひくひくと震える肉体を、それから土を。

 ルキリウスはそれを傍らで眺めていた。






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