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第二章 -10



 10



 十月二十九日朝、この手紙をしたためた後、ルキリウスは牢獄を出た。衛兵四人に囲まれていたが、もちろん護衛されているのではなく見張られているのだ。

 外へ出ると、アレクサンドリアの空は今日も憎たらしいほどに晴れ渡っていた。正門横のスフィンクスどもものんきにくつろいでいた。生まれながらの黄金像で、幸せなものだ。

「ルキリウス!」

 正門をくぐろうとしたところで、背後から叫び声がした。コルネリアだ。

「だめよ! 行っちゃだめ!」

 そう言われてもどうにもできないので、ルキリウスはただ振り返った。それからうつろであろうができるかぎりの笑顔を作り、軽く手を振ってあげた。

 コルネリアもまた衛兵二人に囲まれていた。飛び出さんとするところを力づくで止められているのだ。

「お父様!」コルネリアは傍らの建物に向かっても叫んでいた。「お父様! どうして? どうしてこんなことするの?」

 横の衛兵に小突かれたので、ルキリウスはまた歩き出した。

「ルキリウス!」かわいそうに、コルネリアは涙声だ。「死んじゃいやよ、ルキリウス!」

「こんなのはどうかしてるぞ、ルキリウス!」

「……やめてくれよ、叔父さん」

 結局すぐまた足を止める羽目になった。王宮港へのアーチの下で、もっと野太くてしわがれた声をした男どもが、同じように見張りに止められて暴れていた。

 ルキリウスは肩をすくめた。「邪魔してくれないでいいよ。女の子に応援されるなんて初めてのことなんだからさ。ぼくの短い十五年の人生で」

「縁起でもないこと言うな!」

 やはりそう聞こえてしまうらしい。叔父はますます暴れてくれた。またもや海に突き落とされる羽目になりそうだ。ルキリウスは衛兵の一人を一瞥した。

「身内とくらい話してもいいよね? 最後のお別れかもしれないんだから」

 そう断ってから、返事も聞かずアーチの下へ歩いて行った。

「結局お前は死刑囚扱いか!」衛兵の槍の柄を揺さぶりながら、叔父はわめいた。「俺たちはあのティベリウス・ネロからの手紙をガルスに見せさえしたんだぞ!」

 そういえばその手紙を、ルキリウスは船室に置いてきていた。けれどもガルスに言わせれば、それはティベリウスとの縁の証拠であっても、無実の証拠にはならないのだろう。

 罪の有無すらもうどうでもいいのだろうが。

「一応、死刑囚とは違うらしいよ」ルキリウスは説明する。「ただ磔とか火あぶりとか野獣の餌にするんじゃなくて、剣を持たせてくれるそうだから」

「剣を持っただけの死刑囚だろうが!」叔父の言い方はもっともだ。「お前はガルスの奴隷か? あいつにそんな権利はないぞ! お前は有罪にされてないんだからな!」

「ここでは彼が法律なんだろうさ」

「お前はローマ市民だ! どうして控訴できないなんてことがある!」

「ガイウス、もういいから下がっておれ」

 叔父を止めたのは、七十七歳のロングス家家父長のしおれた手だった。祖父のあきらめを知ったルキリウスは、ただ眉尻を下げただけだった。

「ルキリウス」祖父は孫を、それからその肩越しに正門を見つめた。「お前の父の霊に祈るとしよう。ここで死なせる運命にしてはならんと。それから儂らは、あるだけの酒と油に火種を置いて、船をこの港に乗り上げ、王宮を火の海に──」

 やはりあきらめるよりもっと悪かった。

「祖父さん……」ルキリウスはがくりと頭を下げる。「せめてそれはぼくが死んでからにしてくれ」

「あきらめるな、ルキリウス」

 衛兵を平然と押しのけ、祖父は孫の両肩をばんと叩く。

「この儂は、母なる海に海賊が白蟻ほどにはびこっていた時代から船乗りだった。エーゲ海からシチリア沖まで、いく度もやつらと渡り合い、こっぴどく蹴散らしてやったわい。お前の父親にこの才は受け継がれなかったが、もしやお前には残されておるかもしれん」

「そんなわけのわからないただの強運みたいなのを、こいつに期待するのかよ?」叔父は呆れ返っていた。「ルキリウスはまだ十五歳。海賊を見たこともなければ、だれかを斬ったこともない。唯一の武勇伝が、ティベリウス・ネロを殴りつけたことだけだ」

 ルキリウスはこの身内二人のために精神を逆撫でされる心地がした。いつものことではあるが、さすがに運命の瀬戸際にいるのだ。ルキリウスだけがそこ立たされているのだ。

 脱力しかけてはいたが、「ティベリウスに」と言って、書いたばかりの手紙を祖父の手のひらに押し込む。「ぼくが死んでも、気にせずインドでもどこでも行ってきてくれ。復讐なら、ティベリウスがしてくれるさ。知っているかわからないけど、彼のしつこさは並外れてるから。何年たっても恨みは忘れない型の男だから」

「お前が折れるまで、七日間も我が家の前に立ったな」

 祖父は、二年前の二人の絶交沙汰の後のことを言っていた。力強くうなずいた。

「わかった。これと共に、儂からもネロに事の次第を書いた手紙を送る。だがお前を見届けてからだ、ルキリウス。お前は儂の孫だ。こんなところで死ぬものか。向かってくる者全員を血祭りに上げてこい」

 こんな性格なので、祖父は温和だった亡き長男と反りが合わなかったのだろう。けれども愛していなかったわけではない。むしろ自分にはないと思う優しさを備えた息子を、内心誇りに思っていたようだ。月日を経るに従い、どうして我が子とは思いどおりに育たないのかと嘆くことが増えたが、生き方が違うだけで、芯の頑固さときたらそっくりの親子だった。

「残念ながら、一対一のひと試合だけだ」

 どこから現れたのか、まるで眼中にないかのように衛兵たちのあいだをとおり、ルキリウスの後ろに立ったのは教師バルバトゥスだった。背中に帯をまわし、布で厳重にくるんだ剣を負っていた。

「ベテランでもまずやらんのに、素人に多対一などさせん。見世物にならんからな。見物するなら急いで席を確保しておけ。素人の出番は早いぞ」

「バルバトゥス……」叔父は呆れからもう一度怒りを起こそうとして、苦労している様子だった。「お前もいったいなにを考えているんだ? お前の訴えを聞いて、ガルスがこいつを剣闘士にするのを思いついたらしいじゃないか!」

「それがこの若造が生き延びる、最も可能性のある策だったからだ」

 バルバトゥスはやけにきっぱりと言ってのけた。

「囚人としてすり減り、総督の気まぐれにおびえる日々を送るのか? さあ、ルキリウス、もう行くぞ」

 なんであなたがせかすんですか、と胸中で愚痴をこぼしながら、言葉にする気力もなく、ルキリウスは踵を返した。力なく下がった肩に、叔父とコルネリアからの悲痛な呼び声がかぶせられた。

 バルバトゥスは介添えとして同行の許可を得ているらしく、当たり前のように隣を歩くどころか先導していた。

 けれども正門をくぐり抜けたとき、ルキリウスはもはや肩を落とすのをやめていた。父のために置いて、すでにしおれきった花を足下に通り過ぎたが、胸中からにせよ、言葉もかけなかった。

 アレクサンドリアの名高き体育場は、ムセイオンの隣にあった。正門からは右に曲がればすぐだ。





 剣闘士試合とは、かつてエトルリア人が神々に戦争捕虜を犠牲に捧げたことが起源とされる。これをローマ人がいつしか武装させた奴隷同士を戦わせる競技とし、今や世界じゅうに広めている最中だ。ティベリウスは非難していたが、ローマ市民には大人気の見世物であり、時の執政官や造営官、あるいは富裕市民が、大金を投じてでも開催してきた。自身への人気を集め、同時に社会への不満を市民に抱かせないようにするという、統治上の方策になるのだという。ただ単に、ローマ人が好むという理由が大きいのかもしれないが。

 ほかにも体育競技、戦車競走、演劇等の娯楽があるが、いずれもギリシア人の文化に始まる。ローマ人はこれらも大いに楽しむが、だからといって剣闘士試合から離れはしない。ほかのどの娯楽よりも熱狂しているようだ。

 市民たちは、生死をかけた真剣勝負を間近で見る興奮に加え、剣闘士が戦争捕虜であるならば、戦での勝利に酔いしれることができたのだろう。半世紀足らず前、ローマ人はその剣闘士たちに大規模な反乱を起こされて戦慄した。しかし未だに人気は衰えない。ここ二十年は、ローマでは内乱のほうが多かったため、戦争捕虜が剣闘士になることは以前より少なくなった。そうであるのに、このごろは自由市民が望んで剣闘士になる道を選ぶ例が増えているという。戦いに血をたぎらせるのだろうか。やみつきになるような興奮を、剣闘士もまた感じるのだろうか。勝てば人気と名声と、主催者からの賞金を手にできる。死と苦痛の危険を冒しても、ある種の人々にとっては魅力ある職業であるのだろう。

 ルキリウス・ロングスは、そのある種の人々では全然ない。しかしもしかしたらほかの体育競技等よりも、名声を得る可能性は高いのかもしれない。体育競技者は、生まれ持っての才能を磨き続け、その種目で勝ち続けてだれよりも強くならなければいけない。オリュンピア競技祭では、優勝以外無意味とされているくらいだ。一方で、剣闘士はただひと試合を勝てばいいのだ。

 相手を殺すか傷つけるかすることを、絶対条件として。

 出場者の待機場所で、ルキリウスは頭を抱えてうずくまっていた。バルバトゥスに付き添われていたが、ここより居心地悪い場所が世界に存在しようかと思われた。まず臭いがひどい。人間の体臭に、獣臭までこもる。血と排泄物の臭いに、死臭や腐敗臭まで混ざっているのではなかろうか。

 主催者としてであれ、ティベリウスはこのような場所に頻繁に出入りしていたのだ。愚痴をこぼすのも当たり前だ。貴賓席でふんぞり返っていてもよかったのに、初めてでわからないことだらけだからと、なんでもその目で確かめたのだろう。

 ここに閉じ込めておくだけで極刑を執行できそうであるのに、実際に留め置かれているのだ。同居人ときたら筋肉隆々、しかも生傷の目立つ上半身を剥き出しにしている歴戦の剣闘士たち。すでにここまで何人も殺して勝ち上がり、今日も勝たねば待つのは死のみと殺気立っている。それに死刑囚たち。死刑になるほどの凶悪事件を起こしたか、冤罪かはわからないが、とにかく今日死ぬと決められている者たち。ルキリウスのように武器を持つことを許可され、生きる希望を与えられている者もいるが、身体を拘束され、あとは処刑台に立たされるだけという者もいる。とくに後者の発狂寸前の恐怖と絶望を、ルキリウスは直視しておれない。どうして別の部屋にでも置いてくれないのか。これらにさらに加わるのが、野獣だ。獅子にヒョウ、ワニ、カバ、サイ、大きなサルに大蛇までいる。当然檻に入れられてはいるのだが、ほとんどの個体が腹を空かせて荒れ狂っている。ローマでは、ただ珍しい生き物であるからと、市民に披露するためだけに競技場へ出される場合もあるのだが、ここアレクサンドリアには動物園もあるのでそうではないのだろう。わざわざ競技場に出すということは、剣闘士と闘わせるか、野獣同士で戦わせるか、死刑囚を餌にくれてやるかだろう。

 以前にティベリウスは、エジプト人の生きとし生ける者すべてに敬意を払う姿勢を讃えていた。聖牛アピスやスフィンクスに表れているが、大小の動物からフンコロガシのような虫に至るまで、エジプト人は世界に共にある命として生きる意味を見出すのだ。

 ローマは彼らの心を破壊してしまったのだろうか。

 いつか踏みにじられた命に復讐される日が来るのではないのか。腹を満たすでもない。犠牲に捧げるでもない。ただ楽しみのためにそれを奪うというのなら。

 今ルキリウスもまた、復讐される側への仲間入りをしようとしていた。言い訳をすれば、楽しみのためではなく生きるために手を汚すのだ。

 あるいは、ほかのなにかのためだろうか。自分が死ななかった場合に限るのだが。

 この顔ぶれが示すように、剣闘士試合という見世物はおおむね三部に分かれる。野獣狩り、死刑囚の公開処刑、それから最も盛り上がる剣闘士同士の戦いである。

 試合を前に午前から、競技場ではこの日の出場者の行進が始まる。

 ルキリウスはそんなものに加わりたくなかった。いよいよさらし者ではないか。しかし教師バルバトゥスは、黙って行進して来いと命じるのだった。自分が命を賭ける現場の下見であり、対戦相手の下調べになるのだと。

 ルキリウスはしぶしぶ立ち上がった。身なりは、バルバトゥスと過ごしたあいだの練習着そのままだ。目の粗いトゥニカに肩当て。剣闘士は上半身裸であるのが通例だから、着ておれるだけで幸いだ。武器は剣二振り。短剣と長剣。後者はローマ兵に支給されるグラディウスよりもやや長い。バルバトゥスが目利きして選んでくれたものだ。これでいつ海賊が現れても対処できよう、と祖父に話していた。

 剣闘士でも死刑囚でもない、半端な身なりでもあった。

 外に出ると、待機場所の極度の陰鬱が嘘であるかのような熱狂に迎えられた。ぐるりと囲む広大な客席。その七割がすでに埋まっている。新入りの自分に向けられたのではないとわかりつつも、ルキリウスはあっけにとられた。凱旋将軍にでもならないかぎり、人は生涯このような歓声を浴びることはないだろう。ベテランの剣闘士たちがいよいよとばかりに意気を高めるのが感じられる。ルキリウスの背筋がぞくりと震え、なおも皮膚のしびれが続くほどだ。野獣たちでさえ、檻の中でますます猛る。もうじき餌にありつけるのを知っているかのように。

 死刑囚たちは別だ。しかし武器の所持を許可された一部の者は興奮を覚えているようだ。ただ剣闘士らのそれとは違い、浮ついている。無理もない。人生最高の歓声を浴びているのだ。そしてもしも相手に勝ちさえすれば、生の栄光は我がものだ。今後も剣闘士として生き続けることができるかもしれない。

 この中には、戦争捕虜もいるのだろうか。

 観客の中に、祖父と叔父と家の奴隷たちがいた。しきりに名前を呼ばれたので、嫌でも気づいたのだ。ほかにルキリウスを知る者が客席にいなくてありがたいと思った。家族のみでも十分以上にひどいが。

 この行進のあいだは、コルネリアの姿を見つけなかった。ガルスは一人露台の奥に座していた。かつてはプトレマイオス朝の王族が晴れがましく現れた席だったのだろう。聞くところでは、女王クレオパトラはあの場所でアントニウスと並んでいた。そして息子カエサリオンを王の中の王と宣言し、ヘリオスとセレネとプトレマイオスをも東方各地の王とし、領地を勝手に与え、アレクサンドリア市民の歓呼を浴びながら、ローマ市民を激怒させたのだった。

 今は縁もゆかりもない男があそこにいる。行進の前、ルキリウスはガルスと話す時間を持てた。彼が上階から待機場所を見下ろしているのに気づき、バルバトゥスが要求したのだ。彼曰く、ほかの連中は前夜に豪勢な宴に招かれ、対戦相手とも顔を合わせ、心身と装備を整えることができたが、我が弟子はそうではない。せめてこれからなにが起こるのか情報を寄越すべきだ、と。

 剣闘士ではなくほぼ死刑囚であるという理由で、ルキリウスは断られると予想したが、思いがけずガルスはこれを受け入れた。ルキリウスはあの王族観覧席の裏手まで呼ばれたのだ。

 ガルスはすでに座していた。宮殿内に残る王座と同じ程度に贅を尽くした席だろう。衛兵の槍に押さえられながらルキリウスが現れると、ガルスは分厚そうな背もたれ越しに首だけまわしてきた。ルキリウスの顔を見て、笑うかと思えば、むしろなにか文句があると言わんばかりに鼻を鳴らしたのだった。

「なんですか。わざわざ呼ばなくたっていいのに」

 と、ルキリウスも悪態をついた。対戦相手ならば、さっき待機場所で指を差してくれるだけでよかったのだ。そのほうが周りの目もあるし、信用に値する。ガルスがここで嘘をついて、実のところは別の相手ないし処刑法を用意しているかもしれないではないか。

「お前は相変わらずだな」ガルスが言った。「そのへらず口といい、目つきといい、死ぬ気がない」

「おびえ狂って失禁してみせろとでも? あいにくとぼくは、占い師にわりと長生きすると言われてるんでね」

「待機場所はどうだ?」

「たぶん拷問現場の次にこの世の最悪だね」ルキリウスは吐き捨てた。「だれかが言っていたように、ぼくはローマ人が嫌いになりそうだよ」

「まるで他人事だ」

 そう言ったきり、ガルスは首を前に戻した。

「んで? ぼくの相手はだれなんですか?」仕方なくルキリウスは尋ねてみた。「お返事によってはここで平伏し、心ゆくまで命乞いしようという腹もあるんですが」

 剣闘士は多様であるが、観客の楽しみやすさが考慮された結果であろう、大きく五種が存在する。トラキア剣闘士、サムニウム剣闘士、網闘士に魚剣闘士、それに追撃闘士である。その類の専門戦士が相手であるならば、ルキリウスは自分の命運が尽きたと見なすのにやぶさかではない。

 だがガルスは、そうした本職の剣闘士を挙げなかった。素人と対戦させては彼らへの侮辱になるし、観客も楽しめないという理由だ。負けるはずのほうがあっさり負ける試合に観る価値はない、と。

 予想されたことではあったが、ルキリウスの相手は武器という希望を持たされた死刑囚だった。同じ境遇同士というわけだ。

「戦争捕虜じゃないでしょうね?」ルキリウスは衛兵の槍の柄から身を乗り出していた。「あんたがテーベやフィラエから連行してきた地元民」

 なぜならこの剣闘士試合の開催名目は、総督の遠征帰還から一年を記念することであるらしいからだ。その記憶を思い出させるならば、当時の捕虜を出場させるのが効果的だろう。

 だがガルスは言った。「テーベはもう一年前だ。捕虜は売り払うなりして、とっくに処分を済ませた。フィラエではエチオピアとの国境を定めただけだ。捕虜はいない。だいたい観客が地元民であるのに、同郷の捕虜を見世物にするのが好手と思うのか?」

 どいつもこいつも私をなんだと思っているのだろうな、とのつぶやきが、ため息とともに聞こえた気がした。ルキリウスは眉をしかめたが、ガルスは続けた。

「お前の相手は、本来なら野獣の餌にするつもりだった。火あぶりでもいいが、薪の無駄だ」

「強盗殺人でもしたのか?」

「いいや、この王宮の文官だった。地元登用のな。自宅の地下室で、妻子を何人もなぶり殺しにしていた」

 ルキリウスは、今度は思いきり顔をしかめた。

「……でもそれって、ローマの家父長制で考えると裁けることなの?」

 なぜなら家父長とは、妻子の生殺与奪の権利さえ握っているからだ。

 だがガルスはその疑問を一蹴した。「当たり前だ。社会的な限度というものがある。死んだ妻の父親も訴えている。これ以上野放しにしておけるものか」

 それが事実であれば、ルキリウスも完全に同意するのだが、問題はこのガルスを信用できるかという一事だ。

「だから安心して殺してこいと?」ルキリウスは小さく笑った。「どうかな? ぼくに二重の濡れ衣を着せているあんただから、その人も実は無実だなんてことがあり得る」

「どうしてそれを気にするのか」ガルスが頭を反らした。「お前が。相手が有罪であるかとか、どんな罪を犯して死刑囚になったかとか。戦争捕虜かどうかもそうだ。待機場所にいたどの男がその相手かさえ、お前は訊かない。安心して殺してこいなどと、だれが言った? お前が気にしているのは、相手の手強さではないのだ。殺してもいい相手かどうか。つまりお前は、すでに処刑人の心持ちでおるのだ」

 ルキリウスはぎょっとして固まった。

「それどころか、裁判官にまでなったような気でいるのではないか、若造? どれほどの高慢であるか、わかっているか? お前に相手の罪を裁く資格などない」

 ルキリウスはうめいた。だが言い返す口はまわらない。がくりと頭を下げる。

「……あんたと言うとおりだ」

 殺してもいい相手などいない。そのような反論も今は馬鹿げたものだろう。

「負うのは己の生死だけだ」念を押すように、ガルスは言った。「よほど自信があるようだが、せいぜい頑張ることだ。人一人その手で絶命させるのは、決して簡単なことではない。それに相手も、お前を殺せば金が手に入り、次の試合の日までは安穏と生き長らえると思っているから、必死に殺しにくる」

 それからガルスは、その相手の身体的特徴を教えてくれたが、殺し合いの場において弱点になりそうな情報はなかった。

 ルキリウスの試合は、この日の第三部初戦であるとのことだった。すなわち本職剣闘士たちの前振りというわけだ。

「その調子では遺言も書いていないのだろうな?」

 ガルスが皮肉な調子で訊いてくる。

「ティベリウスにはひと言書いたよ」

 肩を落としたまま、ルキリウスは力なく応じた。もうあのひどい待機場所に戻りたかった。

 するとガルスが座席から左手を掲げた。巻物を手にしているのが見えた。

「ネロの手紙にはこうあったな。『お前がなにを企んでいるのかは知らない。いつだってお前は肝心なことを言わないのだ』前後の文脈とも合わせると、お前が元剣闘士を雇い入れ、二ヶ月ほど訓練をし、計画的に暗殺を実行せんとしているように十分読めるがな」

「──ったく、もう」

 ルキリウスは天井を仰いだ。大詩人様には読解力もないのだろうか。

「ぼくが死んでみろ。ティベリウスが絶対にあんたを八つ裂きにするからな」

「かもしれんな」ガルスの声には、かすかに笑いが含まれているように聞こえた。「だがお前に死ぬ気はない。どうしてかな、ルキリウス・ロングス? 友情の第一人者の子よ。まるでお前は希望でいっぱいだ。そして、絶望のどん底だ」

「……」

 この大詩人様も大概だ。とんでもない誤解を押し通そうとしておいて、いったい本当はなにを見つめているんだろう。

 ガルスはさらに嘲るように続けた。顔を半分振り向け、もう一度ルキリウスを見やりさえした。「暗殺でなければ、どうしてここへ来たのか? ええ? どうして交渉もしない? この試合に勝ったならば、解放せよ、命を保証せよ、と。せめてこの国の自称持ち主のところへ送って判断を仰いでくれ、と」

「ここで死ぬならそれまでだ」衛兵たちを無視し、ルキリウスは踵を返した。「そのほうがいいと運命の女神が言うのなら、ぼくに異論はない」

「楽しみにしよう」ガルスの声だけが、あとを追ってきた。







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