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第二章 -9



 9



「これで暗殺未遂に加えて強姦未遂。実にまったくいい度胸だな」

 執務室の椅子でふんぞり返り、コルネリウス・ガルスが淡々と言った。

「あ、あんたねぇ……」

 ルキリウスはさすがに此度は縄を打たれた。それでも両膝をついて身を乗り出し、床に転がらないぎりぎりのところで持ちこたえていた。

「どれだけぼくを処罰したいの! 自分の娘まで利用して、卑劣だと思わないの!」

「卑劣だと? お前が娘をそそのかしたんだろうが」

「娘がぼくのところに来るまで、あえて放置していたんでしょうが!」

「馬鹿を言え。お前ごときが、娘を誘い出せるほどの男に見えると思うか? まったくいまいましい。その生意気な口を封じておくべきだった」

「あんたは自分の娘を侮辱しているんだ! わかってるのか!」

「侮辱したのはお前だろう。それともなんだ? 未遂ではないのか? ならばこの場で叩き斬るとしよう」

「自分がいちばんわかっているくせに!」ルキリウスはあらんかぎりの声でわめいた。「ぼくが無実だって、あんたはわかっているくせに!」

 かわいそうにコルネリアもまた、ここではないどこかからわめいていた。お父様! 違うの! ルキリウスはなにもしていない!

 声は遠いが、未だ絶えず聞こえていた。ガルスの耳にも届いているはずだ。それなのにこの男は、娘の訴えを無視しているばかりか、それより前に欺きさえしたのだった。ルキリウス・ロングスをさらに罪にまみれさせるために。

 最初の罪が、根拠薄弱であると気づいているからに違いなかった。

「あんた、いったいぼくになんの恨みがあるのさ?」

 ルキリウスは今や本気で激怒していたが、これは二年前に父の遺骨を持ってきたティベリウスに対して以来だった。

「父さんを殺したことが、そんなに後ろめたいのか? ぼくごときを理由つけて葬らないと、安心して眠れないのか? ああ、そうかい。だったらやってみろよ! あんたはコルネリアを傷つけることになるんだ。ぼくのうぬぼれじゃないぞ。彼女がぼくをどう思っていようと、あんたがぼくを殺せば、彼女は自分を責める羽目になるんだ!」

「卑劣なのはお前ではないか」

 ガルスはまた冷淡に指摘するのだった。

「娘の心を盾にしている」

「あんたがそうさせているんでしょうが!」

 ルキリウスだって自分に嫌気が差していた。本当にもううんざりだが、少なくとも今回に限っては、大部分がこの目の前の男のせいだ。

「言ってみろよ! なんの八つ当たりだ?」

 床に片足をついて、ルキリウスはガルスに飛びかかる寸前だった。机を飛び越えて、喉を食いちぎる算段だ。実現可能かはどうでもいい。

「可愛い娘が取られると思ったのか、大恋愛詩人様! それともこのごろ友人知人に去られてばかりだそうだから、人間不信にでもなっているのか! ああ、あんたの友だちは全員あんた不信にもなるよ! ヴェルギリウス殿以外──」

 ガルスが投げつけてきたカバの置物を、ルキリウスは顔面で受ける寸前でかわした。代わりに釣り合いを失い、床に倒れ込む。

 冷えた一対の目が、まばたきも見せずに見下ろしてきていた。ルキリウスはうなりながらにらみ返した。

「どうしたいんだよ、あんたは……」ルキリウスにはわからなかった。「友人たちと喧嘩して、娘まで巻き込んで、ぼくなんかを暗殺者と思い込むくらいカエサルに勝手な悪感情を募らせて……いったいどうしてしまってるんだよ?」

「勝手な悪感情だと?」無表情のまま、ガルスが鼻を鳴らす。

「会いに行けばいいのに」ルキリウスはつくづくと恨めしがった。「古い友人だったんだろ、カエサルと? 何年も顔を見ないで喧嘩しているくらいなら、さっさと会って、決着をつければいいのに」

「いい加減黙ったらどうだ、小僧め」

 ガルスが言った。つくづく大人の男とは、年を取れば取るほど人の言うことを聞かなくなるのだ。それどころか、言われたことほど選択肢から除けてしまうように見えるのは気のせいだろうか。ルキリウスだけではない。パウルス・ファビウスほか少なからぬ人間が、同じように考え、実際に忠言もしただろうに。そうして周りに散々迷惑をかけた挙句に、自分を追い詰めていくようだ。のっぴきならないところまで。

 こういう頑なな人の心を解かせる人などいるのだろうか? 彼の愛する人か? だが家族であるコルネリアでさえ、あのように利用されたのだ。彼の友人か? ただの友人では駄目だが、ヴェルギリウスにならできるのだろうか? 真の友情とか、対等の友情なるものが存在するならば。

 けれどもきっとだめなのではないか。ガルスの心がどこまでも固く閉じ、果てしなく高いところまで奢っていくかぎり、無理ではないのか。

 家族の情であれ、友情であれ、なんでもいい。この男が謳っていた恋情でもいいのだ。愛の奇跡は起こらないのだろうか。

 少なくともルキリウスにはできなかった。父はこのガルスに殺される運命を選んだのだ。そしてこれからも、きっとできないのだろう──。

 人間とはおのれにも愛にも期待しすぎるのか。しかしそうであるならば、いったいなんのために生きるのだ……?

「お前の処遇を考えた、ルキリウス・ロングス」

 ガルスの冷厳な声が言う。どうやらいよいよらしいと、ルキリウスは目を閉じる。

 けれどもガルスは、しばらくその先を言わなかった。転がるルキリウスをじっと眺めているようだ。

「……お前はまるでティベリウス・ネロの後追いをしているみたいだな。彼と同じ目に遭わなくては気が済まないので、ここへ来たと言わんばかりだ」

「だれがこんな事態になるなんて予想できるっていうのさ」ルキリウスはもう怒りもしぼんでいった。

「だが祖父と叔父の見送りに来た、本当にそれだけなのか?」

「少なくともあんたを殺しにきたんじゃない。わかってるはずだ。ぼくらの家系に暗殺者はいない」

「お前の父親は私に斬りかかってきたがな」

「父さんは……」閉じた瞼の端から、雫が一筋流れ落ちた。「あんたを殺す気なんてなかったよ。もうわかっているくせに……」

「お前は甘いな」だがガルスは言う。いく分冷淡さの和らいだような沈着な声で。「戦場に立つことの意味も、世界の中心で生きることの意味もわかっておらん」

 ああ、わからないよ、とルキリウスは胸中で言い返す。

 戦場に立つことの意味とやらを、ティベリウスはもうすぐ知るのだろうか。世界の中心どころかほとんど果てまで離れ、ルキリウス・ロングスはなにも知らないまま終わるのだろうか。

「だがバルバトゥスとかいう、お前の教師が言っていた」

 ところがガルスの言葉は、奇妙に話題を変えたようだ。

「お前は死なせるには惜しい男だとな。なぜなら自分の弟子だからと。二十年を剣闘士稼業で生きた男の、最後にして、最も才能のある弟子だからと。私に処刑させまいと、誇張しているのだろうがな」

 ルキリウスはぎょっと目を見開いた。感傷諸々は瞬く間に吹っ飛んだ。

「お前は確かにひ弱に見えるが、先程の回避はなかなかだったな。昨日、私に飛びかかった勢いも」

 なにを言ってるんだ? ルキリウスはひたすら我が耳を疑う。本当にこの男はなにを言っているんだか、わからないんだけど──。

「明日、体育場で剣闘士試合を行う」

 冷酷非情なガルスが言い渡した。

「お前が出場するのだ」





親愛なるティベリウス・ネロ

 これはぼくからの四度目の手紙になるんだけど、そろそろ飽きたかな? ぼくだって飽きたかったよ。退屈まぎれに長い手紙を書きたかったよ。

 それで今日なんだけど、ぼくは君が大嫌いな剣闘士試合に出場することになった。残念ながら、書き間違いじゃないから。

 暗殺未遂ほか諸々を償わせるため、ガルスはぼくを剣闘士にするんだってさ。よりにもよって、このぼくをだよ。

 これが最後とばかりに出された今朝の食事は、牢獄であるにしては豪勢だったな。






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