第二章 -8
8
親愛なるティベリウス・ネロ
ああ、愛しき君。ひとまずぼくが今日も生きていることを知らせたくて手紙を書くよ。もしや前の手紙より先に到着するなんてことがあるのかもしれないね。
驚かせたならすまない。言い訳だけど、ぼくも今色々ありすぎて混乱している。
ここまでの事実をまとめると、まずぼくは総督コルネリウス・ガルスに投獄された。彼への暗殺未遂という濡れ衣で。
それから、ぼくは恋に落ちた。
い、いや、待って! 破らないで! いや、破り捨ててもいいけども、ぼくはいつものたわ言を書きたいわけじゃないんだ!
事実でしかないんだよ、我が友。
翌二十八日明け方、このような手紙を書いて、ルキリウスは格子窓にくくりつけた。我ながら馬鹿ではないかと思ったが、眠れないままの精神状態では仕方あるまい。こういう時、大人は葡萄酒でも飲んで無理矢理にでも眠るのだろうが、十五歳の少年で、おまけに囚人である場合には不可能事である。気晴らしに散歩にも行けない。
もしも手紙が無事に届いたとして、しかも前のものに続いて順番どおりに届いたとして、ティベリウスはどうするんだろうか。そんなことを考えながら、ルキリウスは目だけでも閉じておこうとする。するとやがてうっすら笑いがこみ上げてくる。
まずは血相変えて、アウグストゥスに頼んでくれるだろうか。ルキリウス・ロングスという、どこの馬の骨とも知れない友人の助命を。カエピオやムレナとの一件でさえ、あれほど動揺してくれたのだから。そして翌日、今書いた手紙を受け取って、大激怒した末にアウグストゥスに謝り倒す羽目になるんだろうか。
ごめんよ。ごめんよ、ティベリウス。
ああは書いたけどさ、ぼくの手紙なんてたわ言だと思ってくれていいんだ。いつもどおりにね。
ぼくはね、世界のどこかで君が元気にしているってだけで十分なんだ。だれの身代わりにもならず、幸福でね。
それで十分なんだよ。
十分だった、のに──。
「ねえ、ティベリウスってだれよ?」
ルキリウスは飛び起きた。光があふれ出る格子窓を見上げ、処刑命令が出されることの次に人生最悪の事態が起こっていることに気づいた。もういっそ殺してくれていいくらいだ。
否、必ずしもそうでもないかもしれない。
「ねえ、だれなのよぅ?」
顔は見えないが、間違いなくコルネリアで、手紙を手にむくれているらしかった。
「読めばわかるでしょ。ぼくの友だちだよ」
寝台もどきの上に座し、ルキリウスはさもうんざりと応じた。
「『愛しき君』って書いてあるわ。恋人なんじゃないの?」
「ティベリウス・ネロはどこをどう読んでも男の名前でしょ!」
「あら、男の子を好きになる男の子もいるわ」
コルネリアはさも物知りぶっていた。
「ギリシア人もローマ人も。海を挟んでちょっと行ったところのクレタ島なんて、法律でおすすめしてるんですってよ」
「クレタ島はどうだか知らんけどね、現実は良い年をしたオッサンがまだ世間知らずの子どもに嫌がらせをしている場合がほとんどだよ。おお、気持ち悪い。君も気をつけなよ」
「あたしは男の子じゃないわ」
「だったらなおさらでしょうが」
「ねえ、ティベリウスってどんな人なのよ? 年はいくつ? かっこいいの?」
格子の前で手紙をばさばさ振りながら、コルネリアの声はまだ怒っていた。彼女は手紙の最重要旨の一文を目に入れていないのだろうか。
「コルネリア……」
格子窓から目を逸らし、ルキリウスは声をかけることにした。そうしたくなかったのだが、気持ち悪い男の仲間入りをこれ以上するには気が咎めた。
「そのう……足の奥のほうが丸見えなんだけど」
「あら、やだ!」
コルネリアが引っ込み、ルキリウスはこの日の生きがいを失った。格子がなければ、たぶん引っぱたかれていたのだろう。それでも人生最後の僥倖であったかもしれない。
「それから、ぼくはこれから朝食諸々を済ませるからね、しばらく覗かないでいてくれるとありがたいんだけどね」
「覗いていたのはあなたじゃないの!」
言い返さなかったのは納得したからではないが、ルキリウスはそれから黙々と、本日も生きるために必要な諸事を済ませた。いつのまにか出されていた食事は、パンと水と小魚二匹のみで、木格子から手を伸ばして取らなければいけなかった。朝食なのだろうが、時間はおそらくもう昼なのだろう。その程度自分が眠った実感があるというよりは、コルネリアが相変わらず元気である様子から、そう当てをつける。
機嫌を損ねたはずではあるが、コルネリアは心根が優しい少女だった。ルキリウスが食事を終えるころ、格子の隙間から革袋を四つも押し入れて寄こした。水の入った二袋と、鶏肉の燻製とナツメヤシが入ったものを一袋ずつ。
「ありがとう」
「全部食べてしまってもいいわよ」コルネリアは請け合った。「今夜も持ってきてあげるから」
コルネリアの言葉は疑わないにしろ、人生には予定外の事がつきものであるから、ルキリウスはさして当てにしなかった。こんなことを口にしたら、また自信がないだの悲観的だのと言われてしまうのだろうが。
それからは特にすることがなかったが、コルネリアも同じであるらしかった。この昼下がりは、彼女自身の話をしてくれた。日除けを置いて、外の壁に背中を預けて座わっているようだ。顔は見えない。
父親の故郷である、ガリア・ナルボンヌの港町で生まれ育った。祖父の家から一歩外へ出れば、たくさんの海産物と農産物が集う市場が広がっていたという。
父ガルスは、祖父から受け継いだその家から、一代で名を上げた。詩人としても軍人としても。若き日にローマへ出て学び、ナポリに別荘を構えるほど成功した。けれども娘をそこに住まわせることはなかったという。コルネリアは短期間、ローマやナポリに遊びに行ったことがあるのみだ。
お父様はあたしがあまりに可愛いから、だれにも見せたくなかったんですって、とコルネリアは説明する。夜の帳の下ながらに見えた彼女の容姿を思えば、ルキリウスはその理由ももっともであると思う。だが別の理由もあるのだろう。実のところ詩人ガルスにとって、娘の存在は厄介だった。報われぬ恋とか秘めた愛を詠む説得力を失ってしまうのではないか。想像力の問題だ。詩人は、その愛好者のために、秘密と孤独を保持しなければならない。全員がそうしなければならないわけではないが、ヴェルギリウスやホラティウスも独り身ではないか。
しかしだからといって、ガルスは娘を愛していないわけではない。ただの町娘で終わらないように、一流の家庭教師をつけた。一般教養ほか、言葉遣いや女子としての振る舞いもしつけた。ルキリウスが見るに完全に成功したわけではなさそうではあったが、勉学嫌いにしなかっただけで一流だ。コルネリアは祖母とその家庭教師に養育された。午前は市場で手伝い、午後は勉学。ときどき父が帰ってきて、娘を褒め、たくさんの贈り物で喜ばせた。首都の貴婦人に負けないほどに着飾らせたこともあったそうだ。いつかお前にふさわしい男のところへ嫁がせねばならんが、今のところ世界のどこを歩いてもそんなやつはおらんのだよ、と娘の頭をなでながら、ガルスはたびたびうれしそうに愚痴をこぼしていたという。
ガルスはアウグストゥスの幕僚としてあちこちへ転戦していた。それでもなお年頃の愛娘に見合う男を見つけられなかったらしいが、実際アウグストゥスやアグリッパと同じように多忙な日々であったのだろう。祖母が亡くなり、家庭教師も老いたころ、ローマの内戦がようやく終結した。ガルスはエジプトに総督の地位で落ち着くことになり、娘を呼び寄せた。
ルキリウスは思う。およそ二年ぶりに再会した娘を前に、父はしばし惚けたに違いない。おそらく想像をはるかに超える美少女に、我が子は成長していた。呼び寄せてよかった。十五歳とは、すでにローマ婦人の初婚適齢期になる。コルネリアを見たならそこらじゅうの男が求婚してきても不思議ではない。父親の年齢を超える連中でさえだ。求婚ならまだ良いほうで、娘を守るためにも、これぞという男に嫁がせないのならば、親のそばに置いたほうがいい。
そして首都から離れた場所にいるかぎり、娘の存在は父の詩の評価に影響しない。ようやく父娘は長い時間を共に過ごせているところというわけだ。
もっともその父は、今なおテーベの反乱やら、エチオピアとの協定やら、ピラミッドへの落書きやら、エジプトじゅうに自身の石像を建ててまわることやらの仕事で忙しいらしい。しかもあまり幸せそうにも見えないのだから、コルネリウス・ガルスときたら、いったいどうしてしまったのだろう。
ルキリウスはそうした疑問を、まだ口にしないでおいた。代わりに、コルネリアの華奢な白い指が、格子を行き来してうずうずしているのを見とめ、煩悶を抱えた。可愛い指は、じれったそうに窓縁を打っていた。拍子を取って、踊っているようにも見えた。それで、余りの水でせめてもと清めてから、ルキリウスは自分の指を伸ばした。昨夜と同じように、コルネリアはぎゅっと握り返してきた。格子の向こうに限界まで引き寄せたり、爪を掻いたり、指先を押したりくすぐったり、そしてまたしかと握って熱を確かめるようにした。もう放すつもりがないかのようだった。
今はこの国に来てからの話に移っていた。父ガルスがナイル上流の遠征から戻ってきたのはよかったが、それから少しばかり娘への監視が厳しくなった。お姫様にしてやると言ったくらいだから、王宮内では好きにさせてくれるし、しつけや勉学にも口うるさくはしないが、とにかくできるかぎり異性の目に入れたくないらしい。それでコルネリアは、昼まで眠り、午後に勉学をするようになった。ムセイオンや市内のセラピス神殿付属の図書館から好きなだけ本を借りてこられるので、なんでも学べるという。そして夜こそが、肉体を開放する時間だ。家庭教師を見張りに置いて、以前に宴席で見た踊り子の真似をはじめた。それがとても楽しくなり、やめられなくなったという。頭の中の旋律に合わせ、自分の感情を思いきり表現するのだ。歓喜し、悲嘆し、憤慨し、哀れむ──。そう、詩を奏でるのだ。あたしもお父様と同じようにその才能があるんじゃないかしら、とコルネリアは言う。
「でも言葉が通じなくたって、踊りならどんな人にも伝わるわよね? だからあたし、これからは踊り子になって、世界じゅうを旅してね、たくさんの人に喜んでもらえたらなって、思うのよ。あたしの踊りで、みんなが元気になって、一緒に踊れたらね、もう喧嘩や戦争もなくなって、毎日が安らかで楽しみになるって、思うのよ」
「……」
ルキリウスは頭を抱えたい心地がした。申し訳なくも思うが、ガルスでなくても、コルネリアの未来の夢には反対せざるを得ない。
まず彼女は、宴席の踊り子がどういうものかわかっているのか。多くが奴隷か、それ同然の待遇だ。主人や客人からなめるような目で見られ、それ以上のことをされるのも日常茶飯事だろう。
コルネリウス・ガルスがマルクス・アントニウスと取り合ったという女人も、その類の生業をしていたと噂される。好ましい男と恋に落ちて、不幸ではない人生を送ったかもしれない。奴隷ではなく自由身分の女として、自身に向いた仕事ができた喜びもあっただろう。だが決して楽ではなかったはずだ。屈辱的な事態を何度も経験しただろう。
コルネリウス・ガルスは、娘の教育を成功し、失敗もした。いつかは現実をわからせなければならないのに、十五歳の、いつ嫁入りしてもおかしくない年頃まで、この無邪気で純粋な心持のままに育てた。嫁にやれるわけがない。どんな男であれ、コルネリアの純真を傷つけずにおれないのだから。そしてその傷ときたら、人生で二度と消えることはないのだから。
一方、ガルスが娘に踊り子になることなど許すわけもない。コルネリア本人は気づいていないが、案外彼女の人生はどん詰まりだ。
そんなことを考えてしまうのは、ルキリウス・ロングスの心が悲観に歪んでいるからなのだろうか。
人生で初めて恋をしている。そのはずであるのに──。
「ねえ、ルキリウス? どう思う?」
コルネリアの声は相変わらず楽しそうだった。つないだ指先もうきうきしていた。
「あたしの踊りを見たでしょ? どう思う?」
「宴席の踊り子の真似なんてね、ドルーススやアントニアとやってることが変わらないよ」
「だれよ、その二人?」
「ティベリウスの弟と、たぶんその未来の奥さんだよ。十一歳と九歳」
「でも、あたしのほうが上手でしょ?」
「空中でくるっと回転するだけなら、ぼくのほうが上手だと思うね」
「あらっ」
するとコルネリアがかがんで、ようやく格子越しに顔の一部を見せた。
「あなたも踊るの?」
「ああ、踊るよ。ぼくには才能があるって、バルバトゥス先生にもお墨付きをもらっているんだ」
それはだいぶ嘘だったが、ルキリウスは自棄の気分だった。自分がコルネリアの夢を打ち砕く役をどうして努めなければならないのか、と。ガルスもその他関係者も、仕事や詩にかまけて、大事な苦痛から逃げているのだ。
だがコルネリアはかえって目を輝かせる。
「だったら、一緒に旅ができるわね! 二人で世界じゅうを駆けまわりましょう! あたしたち、旅一座になるのよ!」
「いったい君はなにを言ってるのかな、昨日から!」
どうやら、ルキリウスはとてつもなく悪い男であるらしい。
「大丈夫よ! カエサルやお父様のおかげで世界が平和になってきているし、あなたがあたしを護衛してくれるし」
「君ね、この市に到着するなり、あっさり君のお父さんに投獄されたひ弱男に、なにが期待できると思うの? 未来どころか、人生終了の瀬戸際なんだけど」
「それはあたしがなんとかするから」絡めた指を強く握り、コルネリアが請け合う。「あなたはこれから強くなって、あたしを守ってくれればいいの。ねえ、守ってくれるわよね?」
「コルネリア……」ルキリウスはつないだ指を離そうとした。「ぼくには無理だ」
「えーっ、どうして?」
むくれ顔は無邪気だ。ルキリウスは空いた手で頭を押さえた。
「……だいたいね、どこの馬の骨ともわからない男に守ってくれとか言うもんじゃないよ」
「なによ、あたしのこと、ずうずうしいと思ってるの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、今度はあなたのことを教えて」コルネリアの口の端が上がる。「あなたがどんな人なのか話して」
格子越しのその容貌を見つめながら、ルキリウスは胸の苦しさに耐えていた。
「コルネリア」
自己紹介なんて、ティベリウスと初めて言葉を交わす前に、散々練習したはずだった。
「君とぼくは、ちょっと似ているね」
コルネリアと同じ年に、ポッツオーリで生まれた。父は首都へ名を上げに出た。忙しくて、あまり会えなかったが、会えたときにはそれこそ我が最愛の王子とばかりに、とても可愛がってくれた。長い日々は、祖父と母に育てられた。海運業を営んでいたので、家族でよく船に乗り、地中海のあちこちに寄港した。ここアレクサンドリアにも、ごく幼い頃に来たことがあった。
父は内戦のさなかに亡くなったが──と詳細を省いてから、ロングス家の野望の話をした。父に代わって、祖父たちはぼくを元老院議員にしたいと思っている、と。それで家業は叔父ガイウスに任せ、ローマに移り住んだ。なぜならローマ元老院議員とは、海運業で身を立ててはならないことが、法律で決まっているからだ。ローマ人たる者農耕で生計を立てるべしとは、昔からの伝統だ。ギリシア人やカルタゴ人とは違うと言いたいのだろう。
「だったらあの限られた土地で、どうやって稼いだらいいんだろうね」
と、ルキリウスはつい薄ら笑いで愚痴をこぼす。元老院議員とは無給であるのに、一定の財産も持っていることが資格条件になっている。こうなったら昔からの貴族様のような大地主や、軍人になって戦争で勝ち、敗者の土地をぶん取るでもしない限り、なれっこないよね、と。
「でもあなたのお祖父様は、まだ船でお仕事をしているでしょ」
「ああ、そうだよ。ついでに言えば、叔父貴のような親族が海運業をやっているのも、元老院議員としてはだめなんだよね」
「だったらあなた……あなたたちはどうするの?」
「祖父さんは、ぼくが元老院議員になるまで生きているつもりはないってさ。もう七十七歳だから、どんなに頑張ってもあと十年もすればお迎えが来るだろうって。あと叔父貴は、もうロングス家じゃない。婿養子になってる」
「……つまり、あなたを元老院議員にするために、ご家族は将来あなたとの縁を絶つっていうの? 建前にしろ?」
「そうなるね」
「それって……とても悲しい話よね」
ほとんど初めて、コルネリアの声が沈んだ。長い睫毛が伏せられた。
「祖父さんたちは、好きに生きているだけだよ」振り払うように、ルキリウスは首を振った。冷めた声音をしていたと思う。「ぼくの父さんとおんなじでさ。今回アレクサンドリアに来たのも、ぼくのこととは別の野望のためだから。インドに行くんだって。死ぬ前に」
どいつもこいつも──。どいつもこいつも──。
「祖父さんは昔従軍商人をやっていてさ、神君カエサルとも取引をしていて、それが人生最大の自慢なのさ。だからたとえインド行きの航路で死んだとしても、大冒険の末であるから未練はないって。むしろこのまま黙って退屈に生きているよりはずっといいって。これに叔父貴まで賛成して、ついて行くって言うんだからね。いい加減にしてほしいよね。長男だった父とぼくには、ローマ男の模範出世を求めておきながら」
「あなたもインドに行くの?」
「いや、ぼくは見送りに来ただけだ。行くわけないじゃないか、元老院議員にならないといけないのに。それでまさかこんなことになるなんて思ってもみなかったけど」
ああ、そうだ。ならばぼくにだって、好きに生きる権利があるはずだ。
けれども好きに生きることだって、決して簡単ではない。むしろ最難事なのかもしれない。そもそもなにを持って好きに生きるのか。なにを優先に、なにを信念に生きるのか。
コルネリアが眉を曇らせていた。「お父様は、なんであなたをいきなり捕まえるなんてことしたのかしら?」
「……知らないよ。たぶんぼくがティベリウスと友だちであることを、どこかで知ったんだろう。ティベリウス・ネロとはね、あのカエサル・アウグストゥスの継息子で、ぼくは出世するためのコネが欲しくて彼に近づいたんだけど──」
「嘘よ」
「え?」
「嘘ばっかり」
「……嘘じゃないよ」
「本当でもないでしょ」
コルネリアのまなざしは難しく、心配しているようにも見えた。
「わかるのよ、あの手紙の感じで。だいたいもう処刑されるかもしれない時に、『ぼくは恋に落ちた』ですって? 気持ちの通じ合った友だちだから、そんなことが書けるのよ。だからあたしは嫉妬しちゃうのよ」
ルキリウスは言葉を返すのをやめた。ティベリウスからのたびたびの非難を、代わりに思い返していた。
──いつだってお前は肝心なことを言わないのだ。
「ねえ」コルネリアがいちだんと格子に顔を近づける。すでに鼻先がそれを通り抜けている。「ルキリウス、あなた、どうしてこのアレクサンドリアに来たの?」
「言ったじゃないか。祖父さんと叔父貴を見送るためだよ」
「それだけ?」コルネリアが問いかける。「そのあとは……どうするつもりでいるの?」
「……そうだな」ルキリウスは笑ったが、自嘲していた。「好きに生きる手段を探そうかな」
「そう」
コルネリアはひとまず話すべきことが無くなったようだ。手指を離し、すっくと立ちあがった。細い足首を見せて、遠ざかっていく。
「手紙はちゃんと送っておくわ。ティベリウス・ネロに」
振り返ったのかもしれない。けれどもその姿はもう確認できない。
「夜にまた来るわ。そのときは一緒に踊りましょうね」
その夜に起こったことは、コルネリウス・ガルスの思惑どおりだったのだろう。夕食が出されると同時に、コルネリアが格子窓に現れた。約束を真面目に守り、追加の水と食料を差し入れてくれた。それから食後の楽しみとして、乾燥葡萄入りの焼き菓子を、囚人と分かち合った。
「お父様にあなたのことを話したわ」
この時点で、嫌な予感は十分に漂っていたが、ルキリウスはその先を聞くしかなかった。コルネリアは得々とした口ぶりだ。
「あなたの罪は誤解だって、わかってくれたと思うの。もう一度あなたに会って、どんな人だか見てほしいってお願いしたら、そうしようってうなずいてらしたわ」
それは、助命嘆願にしては妙なお願いに思われた。そうではなくてまるで紹介だ。恋人の。
気のせいだろうか。きっとそうだ。
「無罪を認めてもらいたいけど、それじゃ君のお父さんの体面に関わるんだろうね。だったら国外退去、本国送還あたりで手を打ってくれれば、ぼくとしては御の字と思うんだけど。祖父さんたちの見送りはあきらめるとして」
「だめよ」コルネリアが即座に言った。「あたしはまだあなたと一緒にいたいもの」
「ああ、もう!」ルキリウスは頭を抱える。「ぼくだって、できればこんな形でなく君に会いたかったよ」
「あたしたち、まだ会っていないわよ。ちゃんと」
格子を可愛い拳で小突きながら、コルネリアが指摘した。
「ちょっと待っていてね、ルキリウス。あたしたち、一緒に踊るんだからね」
「いや、ちょっと、コルネリア──」
ルキリウスの制止を聞くまいとしたのだろう。コルネリアは立ち去ってしまった。そして衛兵が夕食の皿を回収して去った隙をついて、牢獄棟に滑り込んできたのだ。恐れていたことであったので、ルキリウスは恐慌した。
「コルネリア? いったいなにをしてるんだ!」
「わかるでしょ」
乙女は木格子の向こう側に立った。格子のあいだからルキリウスが顔を出したなら、頭からつま先まで、ついに彼女の全身を目に収めることができただろう。
ルキリウスにはそんなことはできなかった。代わりに格子の横木に顎を乗せたのは、コルネリアのほうだった。にんまりと笑っている。
「やっと会えたわね、ルキリウス!」
こんなのは不公平だ。ルキリウスは消えてしまいたいと思った。昨夜に続き、顔から全身から熱が吹き出す。もうどちらが乙女かわからない。
けれども木格子の向こうから両腕を差し伸べているのは、首都ローマでも見たことがないほどの美しい少女である。魅惑の双眸を輝かせ、楽しそうに微笑んでいる。ルキリウスだけをひたと見つめて。
「こっちへ来て」
甘い声が呼ばわる。
「一緒に踊ってくれるでしょ。ねえ?」
それは無理だ。絶対に無理だ。すでに目も合わせてはいられない。一方で、この奇跡のような美を見つめておらずにはいられない。いったいどうしたらいいのか。とにかく死ぬほど熱くて沸騰して蒸発しそうだ。目から顔から全身が。
月明りに変わり、淡い橙色の灯火が乙女をそっと照らしていた。昼間の太陽にはかなわない。けれども今や、確かに生きている証の熱が発散されて届きそうなほど、コルネリア・ガッラはすぐ正面にいた。神々の調べを舞った、その肉身を現わして。
「ルキリウス」
コルネリアがせかす。
「だめだ」
ルキリウスは背後の壁に張りつく。
「コルネリア! 出ていかないとだめだ!」
「手をつないでくれてもいいでしょ?」
すらりとした、白く輝く腕が伸ばされる。
「だめだって」
「どうして?」
「どうしてもこうしても!」
「あっ」コルネリアがふと振り返るそぶりをする。「あそこに鍵の束があったわ。ちょっと待って──」
「だめ! だめ! 絶対にだめ!」
ルキリウスはコルネリアの両手に飛びついていた。策略にはまったに違いない。コルネリアはいちだんとにんまり顔になって、ルキリウスの手を握り返した。
「放して、ルキリウス」
ああ、ああ、もう、勘弁してくれ。こんなに可愛かったのか。嘘だろ……。
「鍵を取ってくるから。あなたを出してあげられるから」
「そんなことをしたらどうなるかわかってる?」
「どうなるのかしら?」
コルネリアがルキリウスを引き寄せる。ルキリウスは格子に額をぶつける。コルネリアの右手が、そっとルキリウスの首筋を伝い、後頭部を抱える。
ルキリウスももはや誘惑に勝てない。意地も恐怖も忘れる。永遠のように見ていたい──そんな慎みさえ吹き飛ぶ。右手をコルネリアの耳元に添える。伝わる人肌のあたたかさ、やわらかさ。月のかけらの乙女が、その凛とした唇をほんのり色づけている。
「ルキリウス」その唇が、くすりとささやいた。「あなたは悪くないわよ。ちょっぴり頼りなく見えるけどね」
そこで衛兵の大群が、奥の階段からどやどやとなだれ込んできたのだった。